はてなキーワード: 化石燃料とは
・有限な化石燃料を消費し
・その車体重量と速度と幅で池袋大量死傷のような惨事を全国で頻発させており運転手及び同乗者も年間1200人以上も死亡している
いくつかはオートバイにも当てはまるので世界的にガソリン等化石燃料を使用する車両は将来的に公道走行禁止が明言されている。
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/01/19/20180119biz00m010026000p/8.jpg?2
ちなみに警察庁の統計によると自動車運転手及び同乗者の年間死者数は1200人以上で、まだ自転車利用者のほうが長生き。オートバイは最悪。
https://i.imgur.com/lUl460S.png
https://i.imgur.com/FTVy7qe.png
そして自動車は40年間所有すると3396万円以上も無駄になる負債でもある。
ゆえに資産1億円以上を有する堀江貴文、西村博之、上念司など合理性を重視する実業家や経済評論家でさえも持たない負債がクルマ。
https://i.imgur.com/4P3rOjl.png
・有限な化石燃料を消費し
・その車体重量と速度と幅で池袋大量死傷のような惨事を全国で頻発させている
ちなみに警察庁の統計によると自動車運転手及び同乗者の年間死者数は1200人以上で、まだ自転車利用者のほうが長生き
https://i.imgur.com/lUl460S.png
https://i.imgur.com/FTVy7qe.png
そして自動車は40年間所有すると3396万円以上も無駄になる負債でもある。
ゆえに資産1億円以上を有する堀江貴文、西村博之、上念司など合理性を重視する実業家や経済評論家でさえも持たない負債がクルマ。
https://i.imgur.com/4P3rOjl.png
https://i.imgur.com/4Wx9q1o.png
そして交通刑務所懲役囚人のほぼ全員は自動車ドライバー。だから利口な資産家ほど自分では自動車の運転なんてしない。リスクが割に合わないからね。
安心してちょうだい元増田ちゃん。あなたは死ななくていいわ。誤解なのよ。
あなたがどういう道筋でその“正しいヴィーガン”にたどり着いたのかはわからないけれど、私の知る範囲で(倫理的)ヴィーガンの主張のなかにその結論を肯定するものは無いわ。早まらないで。
功利主義に基づく倫理的ヴィーガンの観点から、あなたの誤解についてお答えするわ。
功利主義的には「苦痛の総量を減らす、または苦痛と快楽の収支がプラス(快楽が苦痛を上回る)になる」のが倫理的に良いことなのね。最大多数の最大幸福。
細かく言えば「苦痛と快楽」とは別の指標を用いた功利主義もあるけれど、動物倫理の場合はもっぱらこれ。
したがって、畜産において“飼育、屠殺による動物の苦痛”が、人類の得る利益(快楽または苦痛の低減)を上回る場合、“畜肉を食すべきではない”と判断できるわ。
逆に、動物の苦痛が人類の利益に比して十分に小さい場合、それは倫理的に許容されうるわ。
同上
ただし、たまごや乳製品はそれ自身が苦痛を感じる能力を持たないため、畜肉と比べると倫理的ハードルは低いわ。
例えばジャイナ教は非暴力が重要な教義の一つなので必然的に菜食主義だけれど、苦痛を与えずに絞った乳は飲むわ(ラクト・ベジタリアン)。
同上
衣料品の場合、動物を苦しめずに済む代替品が豊富にあるならば、あえて動物性の衣服を着るのは倫理的に肯定しがたいわね。
医薬品の場合、主に動物実験に関する問題ね。この領域は動物倫理的にかなりホットよ。
功利主義的な動物倫理においては、動物実験は必ずしも否定されないのよね。まあ論者にもよるけど。
動物実験における動物の苦痛と、完成した医薬品による人間の苦痛の低減。これの比較で後者が十分に大きければ正当化され得るってわけ。
もたらされる苦痛や死が“意思に反して”いるかどうかは、功利主義的には必ずしも重要ではないわ。
“意思に反”することで、苦痛がより増えるのであれば考慮に値するといった程度かしら。
例えば、糧を得る唯一の方法が狩猟であり、それをしなければ(人が)死んでしまう場合、狩猟による動物の殺害は倫理的に正当化され得るわ。
植物は(少なくとも痛みが神経系によって発生するという生物学的知見を踏まえれば)苦痛を感じないため、功利主義的には道徳的考慮の対象ではないのよ。
ちなみに、倫理的な考慮の対象となる立場を「道徳的地位(Moral standing)」と言うわ。
「何が道徳的地位を持つのか」というテーマは分野や論者によって異なっているわ。功利主義の場合、「苦痛を感じる能力を持つ」ことが道徳的地位を持つ条件ね。
厳密に言えば動物でも苦痛を感じない、例えば海綿動物(きわめて原始的な動物群。神経を持たない)、も功利主義的には道徳的地位を持たないと言えるのね。
また、道徳的地位は持つ/持たないの2択ではなく、強弱も存在しているわ。功利主義なら苦痛を感じる能力の程度ね。
例えばエビ1匹を殺すより、ヒト1人を殺した方が倫理的に悪いと判断できるわけ。
これは個々の人間にも適用でき、健常な成人を殺すより新生児や重度の知的障碍者を殺す方が倫理的に悪くない(もちろん両方悪いが、比較すればそうなる)。
功利主義者がリベラリスト(の一部)、特に障碍者支援者などから嫌われるのことが多いはこれが理由ね。
同上
命を奪うかどうかにこだわってるようだけれど、功利主義的に重要なのは苦痛よ。死は苦痛の一形態たり得る資格を持つというだけ。
自然破壊につながる水道水やミネラルウォーターを飲むべきではない わかる
んー?ここら辺は倫理的ヴィーガンよりも環境主義的ヴィーガンの主張に似てるかしら。
でも環境主義的ヴィーガンの場合、畜産や養殖(の一部)による環境負荷を語ることが多いから、ヴィーガンの主張としてはあまり見ないわねこれ。
水資源の利用による環境破壊はあるにせよ、この書き方だと曖昧過ぎるのよねえ。元増田ちゃんもうちょっと具体的にお願い。
なお、功利主義的に答えるなら、その営為で発生する苦痛が人間の快楽(または苦痛の低減)を上回らない限りOKってことになるわ。
地球温暖化に寄与している二酸化炭素は化石燃料などの地下資源由来で、地上で吸って吐いてした分はほぼ無関係よ。
陸上の炭素循環は(長期的に見れば)収支が釣り合っていたのだけれど、地下に封印されていた(炭素循環の外側にいた)分の炭素が放出されたことで、プラスに傾いちゃったわけ。
家計で言うなら年収200万円(手取り)で年間支出が200万のご家庭に、月々1万円の副収入が加わって年12万円の余裕ができましたって話よ。呼吸は年収に含まれ、支出は炭素固定(主として光合成による)で、化石燃料が副収入。
ちなみに、畜産による温室効果ガス放出(主としてメタン)への寄与はけっこうな割合(確かCO2換算で全体の約14~18%くらい)。あなたが牛ならゲップをやめるのは倫理的かもしれない。
全部わかる
あら?もしかして徳倫理学の方だった?功利主義は結果主義の一分野なので“気持ち”なんてほとんど関係ないもの。
徳倫理主義は、雑に言うと「動機が善ならば善」というもので、良かれと思ってやれば善であるっていう素朴な倫理なのよね。
最近は見直しが進んでるって話だけど、あまり勉強してないから詳しくないのよ。この分野。
呼吸し、水を飲み、命ある動植物を自然から奪い、貪る者は悪魔だ
みんな死のう
死なない者は悪魔だ
功利主義からはまず導かれない結論なので、やっぱり徳倫理主義なのかしら。
でも、良かれと思って“呼吸し、水を飲み、命ある動植物を自然から奪い、貪る”なら、徳倫理主義的には善なのよね。
ここまでは功利主義の観点から答えてきたけれど、やっぱり本人の倫理的観点も考慮しなきゃ片手落ちよね。
でも困った。元増田ちゃんがどんな倫理的基盤でヴィーガンになったのか、わからないわ。
最初の方の考えは倫理的ヴィーガンに対するよくある誤解またはジャイナ教当たりの非暴力主義とPlant thoを混ぜこぜにした感じ。中盤は環境主義っぽいけど問題視する部分がズレてるし不明瞭、後半はさっきも言ったけど徳倫理学っぽいけどなんか違う。
うーん、ネットからいろんな主張(誤解や曲解を含む)を集めてきてパッチワークした感じなのかしら。
ヴィーガンへのバッシング目的で書かれたなら「藁人形乙」で済むけれど、真剣に悩んでいるなら誠意ある回答が必要よねえ。
けっきょく“正しいヴィーガン”が何なのかはわからなかったけど、変な結論から脱却するための私的おすすめ方法を3つほど挙げてみたわ。
良ければ死ぬ前に試してみてちょうだい。チャオ!
辛いならヴィーガンなんてやめちゃっていいと思うの。割に合わないわ。もし心苦しいなら減肉食主義(Reducetarian)くらいから始めてみたら?
私も環境主義的観点(スパイスとして功利主義も一振り)からSemi-vegetarianやってるけど、あまり縛り無いから楽よ?
ヴィーガンからは偽善だなんだ言われるかもしれないけど、まあいいじゃない。自分が納得すればいいのよ。
(2) 勉強する
ヴィーガンやるなとは言わないけれど、何かしらの倫理的または論理的支柱がないと厳しいと思うの。
元増田ちゃんの考えを見るに、あまり一貫した基盤を持っていなさそうだし、環境問題についても詳しくなさそう。体系立てて学ばないと混乱して変な結論にたどり着いちゃうものよ。
いろんな視点、論者ごとに調べてみて、自分に合う立場のものを探してみるといいわ。まずは模倣からよ。
おすすめはピーター・シンガー。「すごいなあ。ぼくにはとてもできない」ってなるわ。
(3) 食生活的ヴィーガン(Dietary vegan)になっちゃう
食事だけヴィーガン。健康目的が多い。一番気楽なタイプのヴィーガン。動物倫理とかうっちゃってる(またはつまみ食い)。毛皮のコートも着ちゃうかも。時たまニセ科学に両足突っ込んでるから注意。
やめたいときにやめられるし、始めたいときに始められる。亜種として一時的ヴィーガン(Part-time vegan)なんかもあるわ。
「ちょっと一週間くらいヴィーガンになるかー」とかできちゃう。「それヴィーガンなの?」という気持ちに蓋ができるならおすすめ。
アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンはインディアンに対する差別や黒人奴隷プランテーションを大々的に行ったから、建国の父として讃えられることは間違っていると主張するニュース記事を見た。
個人的にはアメリカにもワシントンにも思い入れはないので、別に彼を擁護するわけではないのだが、このような考え方には違和感を覚える。あなたが彼だったとして、あの時代に生きて、奴隷制に反対という立場を取るだけの勇気があったのか?と偉そうなことをいってみたくなるのである。よく言う、時代性を考えれば妥当じゃないかというやつである。
どうして時代性という考えが生まれるのか。我々の倫理観はどうして進歩するのか。
人は、環境によってその生き方を変える。アイヒマンという有名なナチ高官がいた。彼はもともとは穏健派でマジメな公務員タイプの人間で、ユダヤ人はアーリア(ドイツ)人と隔離して生活させるべきという思想こそ持っていたが、虐殺することはやりすぎだと当初は考えていた。しかし、他のカリスマある過激派幹部党員たちと討論を重ねた結果、ユダヤ人はやはり根絶やしにするべきだと意見を翻す。
結果としてユダヤ人を虐殺する命令書にサインした彼は、当然のことながら裁判にて死刑を言い渡されるが、のちに、彼と同じような圧迫状態に置かれたときに人間が倫理にもとる行動を取るかを調べた、いわゆるミルグラム実験において、人間の多くは道徳より権威・安全・保身を優先することがわかった。
人を、倫理を、道徳を規定するのは環境だ。では環境を規定するのは何か?一体何が奴隷という怖ろしい制度を肯定する道徳を生むに至ったのか?
ワシントンの時代、奴隷労働による大規模なプランテーションなしにはアメリカの工業化は支えられなかっただろう。リンカンによる奴隷解放だって、北部の工業化が十分に進んだ結果、奴隷の需要が薄くなったのが原因のひとつだとされている。
彼らは、奴隷労働なしには生きられなかったのだ。少なくとも、奴隷労働なしにはアメリカは今日のような巨大工業国に育つことはなく、このグローバルな科学社会もいまほど繁栄することはなかったであろう。
環境を規定するのは科学技術だ。人類の知恵だ。我々の需要を、その時代の科学技術が満たしきれないとき、我々は一部の社会的弱者に負担を押し付けてやり過ごそうとする。これは時代を超えて起こってきたことだ。日本国内を見ても穢多・非人・部落など枚挙に暇はない。
奴隷労働という『悪徳』の恩恵を享受した我々が、そのことによって得た新たな道徳観で彼らを批判するとはなんだか皮肉だ。回顧主義によって昔の人の悪徳を批判するのもいいが、むしろ未来の人間に批判されるべき悪徳が自らに備わっていないか、我々はもっと考えるべきではないか。
非正規雇用労働者、医学部の不正入試問題、保育士や看護師と言った一部の職業の常軌を逸した低賃金労働、過密環境下での畜養エトセトラエトセトラ……これらは、数十年後科学技術が進歩したときにはおそらくほぼ解決されるだろうと私は考えているし、その暁には未来の運動家たちの回顧的な批判にさらされるだろうとも、私は考えている。
貧困にあえぐ非正規雇用労働者が労働者全体の数十パーセントまでをも占めるのはなぜか。会社に正規雇用者を雇って保険料その他の経費を払うだけの経営的体力がないからだ。会社が流動性の高い人手を求めているからだ。正社員がその要件を満たすようにするための仕組みがないからだ。それらの問題を解決し、全ての雇用者たちに十分な生活物資を与えるだけの生産技術を我々が持っていないからだ。
犬や猫といった一部の哺乳類が動物愛護法で手厚く守られているにも拘らず、同じ哺乳類でも豚や牛は毎日おびただしい数が動物愛護という概念につばを吐きかけるような環境で肥育され屠畜され死んでいくのはなぜか。そうしないと我々は良質かつ大量の動物性蛋白質を手に入れることができず、そして動物性蛋白質を手に入れなければ人は健全に成長することが難しいからだ。
女性が医者になることが嫌われるのはなぜか。女性が妊娠したときに、医療という絶対に穴を開けてはならない業務にできる巨大な穴を埋める方法が現在見つかっていないからだ。そもそも、女性が妊娠したときに長期に渡って休職しなければならないほど、医療技術やリモートワークが進歩していないからだ。
話はそれるが、医学部不正入試の際に、この問題を提起した人が炎上していた。女性が多くなると、その分医療従事者に負担が増えることになり、システム全体が崩れかねないと。日本に生きている以上、誰しもこの構造的な問題の恩恵を受けているはずなのだが、これを一方的に叩いていた人は一体何様のつもりなのか。さぞ時代を先行きする高い道徳心をお持ちなんだろうな、と思いながら見ていた。
もっと直接的な話をしよう。石油資源を燃やさないため、トウモロコシなんかの生物資源から取り出した燃料を使おうという動きはかなり昔からある。だが、もし今すべての車がバイオエタノールを使いだしたら何が起こるか。全ての森林をトウモロコシ畑にしたとしても、我々の消費しているエネルギーを生産するにはとうてい足りないのだ。つまり、バイオエタノール、生物燃料という考え方は(少なくとも現行の技術では)人類を支えるだけの力を持っていない。現在の我々は自らの使うエネルギーを自己生産することすらできないのである。そして、そのつけを払わされる社会的弱者とは、未来人たちだ。彼らは、化石燃料は燃やし尽くされ、大気の汚染され尽くした地球という大きな負担を押し付けられるのだ。
この我々の巨大な『悪徳』に対して、我々は未来人になんと言われるのだろうか。呪詛を投げつけられるのだろうか。それとも、時代性という言葉とともに、やんちゃをしてしまった子供を見るような目で許してくれるのだろうか。いずれにせよ、今のところは物言わぬ存在である彼らからは批判されないのを良いことに、彼らに莫大な負債を押し付けていることは間違いない。
我々は皆、生きていくために必死だということを言い訳に、平気で他者を踏みにじる、巨大な業を背負った罪人なのだ。そして、そうである以上批判されることはあるし、完全に正しく生きてかつみんな幸せにしようなどという幻想は捨てねばならない。様々な意見を取り入れ、熟慮し苦悩した末の自らの選択は批判されないと思ったら大間違いである。皆あなたと同じように苦しんで、罪を背負って生きているのだ。むしろ、我々の権利とは、自由とは、選択とは、もらった批判を受け入れるか、心の中でくさすか、そこにこそあるのだ。
理想論を語るにしろ、現実論を語るにしろ、それを受け入れるところから始めなくては、現代の社会問題に関する議論は的外れなものになってしまうだろう。
(執筆途中の作品であり、今後内容を変更する可能性があります。)
熱したフライパンに、ネギ油。鮭のマリネ、鳥のもも肉。菜箸で砕いて、転がす。色と香りが美味しそうになるのを待ってから、生姜、生卵、一晩置いたご飯。杓文字で崩して、よく混ぜながら炒める。仕上げに、塩、レタス、ニラ。全体がパラパラになったら、完成。
Me: Hey, dinner's ready. Are you coming soon? (ねえ、夕飯できたよ。もうすぐ来れる?)
Satoshi is typing... (サトシが入力中……)
やった。即レス。
Satoshi: I’m on the bus and will be there in a few minutes (いまバス。もうすぐそっち行くよ)
画面にそう表示されたのを見て、私は炒飯をフライパンから二枚のお皿に盛り付けて、テーブルに並べた。
調理台の引き出しから、日本で買ったステンレス製のレンゲと箸のセット二組を、炒飯皿の手前にセット。
Satoshi: I’m here (着いたよ)
「いま開けるね!」
私は急いで玄関に行くと、ドアの覗き穴からサトシの姿を確認して、ロックを解除、ドアを開けて彼を迎え入れた。
「やあ、いつもありがとう」
変わらぬ笑顔でそう言う彼の息が白くなった。
「寒かったでしょう。いまお茶入れるね」
「助かるよ」
そう言う彼の背中から上着を剥がし、ドアの脇の壁のフックに掛け、私はそそくさとダイニング・キッチンに戻った。
「美味しそうだな」
「美味しいよ。早く食べよ」
私はそう言いながら、ポーレイ茶のティーバッグをカップに落とし、電気ポットのお湯を注いだ。サトシがプーアル茶と呼んで憚らないこれは、彼のお気に入り。そして、私のお気に入りでもある。
「いただきます」
「いただきます」
食事の前に『いただきます』と唱える日本の習慣が私は好きで、サトシと一緒に食べるときはいつもこうして唱えることにしている。この素敵な言葉は、『I will eat (私は食べます)』と『I will receive (私は受け取ります)』のダブルミーニングになってるのだと、いつかサトシが教えてくれた。『Receive what?』(なにを受け取るの?)といえば、『The blessings of Nature』(大自然の恵み)だと言うから、いっそう素敵。彼は普段は唱えないで黙って食べるそうだけど、私といっしょのときは合わせて唱えてくれる。
私が律儀に「いただきます」と唱えるのが、女性らしくて可愛いと、いつか彼は言ってくれた。
「どう? 美味しい?」
一口食べて、我ながら上出来だ、と私は思った。サトシの口にもきっと合う。
「すごく美味しいよ。いつも美味しいけど、いつも以上に」
良かった。サトシはいつも、美味しい、美味しい、と、私の作るものならなんでも食べてくれる。それも、本当に美味しそうに食べるのだから、こんなに嬉しいことはない。
「ねえ、研究はどう? うまく行ってる?」
「順調だよ」
サトシは私が原子力のことはわからないって知ってるから、詳しい話はしてくれない。でも、ちょっとくらいは聞いてみたいと、その時思った。
「そうだね。今の原発よりも、高効率で、安全で、扱いやすい原発を作ってる」
「そう言うわけじゃないけどさ……」
まるで揚げ足取りみたいな返事をしてしまったことを、少し後悔したけど、私が言いなおす間も無く、サトシは続けた。
「原子核が分裂するときの熱エネルギーで水を沸騰させて、水蒸気でタービンを回転させて発電する」
このくらいは私だって知ってる。原子力発電というと何かものすごい、サイエンス・フィクションみたいな技術で電力を生成しているように聞こえるけど、結局は水蒸気でタービンを回して発電してる。火力発電といっしょ。
「そのとおり。現在の原子力発電では、ウラン235の連鎖的な核分裂で熱エネルギーを取り出し、タービンを回転させて電力を取り出している。この方法は、火力発電に比べても、格段に効率がいい」
まるで、『火力といっしょ』と思った私の心を見透かされたようで、ムカつくような、恥ずかしいような気持ちになった。
「効率が良いって、どのくらい?」
「約200万倍」
「そんなに!?」
200万……? 想像していたのと桁が違った。200倍じゃなくて、200『万』倍。
「アメリカの一般家庭で一年間に消費される電力は、約10,000キロワット・アワー。これだけの電力を作り出すのに必要な化石燃料は、約800キログラム。これがウラン235だと、たったの0.4グラムで済む」
炒飯にひとつまみの塩を振りかけるところを想像した。ウランだったら、たったあれだけの量で、一年分の電力はゆうに確保できるということ……?
「じゃあ、サトシのやってる新型原発は、それよりももっとすごいの?」
「いまの原子力発電ではウラン235が使われるけど、自然界に存在するウランの大部分はウラン238。これはいままで、なんの役にも立たない、処分にも困る廃棄物だった。うちのラボでやってる原発は、これを燃料にするんだ」
「つまり、今までよりもウランを効率よく使うことができるということ?」
「そう。天然のウランに含まれるウラン235の割合は、たったの0.7パーセント。99パーセント以上は、ゴミなんだ。そのゴミが、エネルギー源になる」
「逆に言うと、いままでは1パーセントも活用できてなかったんだ?」
「うん。だから、ウラン238は世界各国にゴミとして貯蔵されている。ゴミなんだから、埋めてしまえばいいんだけど、『Not In My Backyard (私の裏庭には捨てないで)』、誰も放射性廃棄物を自分の近くに捨てることを許可しない。実際には、地中深くに埋めるから、危険性なんてないも同然なのにね」
「そう言うこと。いまの電力消費量なら、あと1,000年は全世界の需要を賄える量のウラン238が、すでに各国に貯蔵されている」
「1,000年も?」
「まあ、電力消費も増えるだろうから、実際は何百年かわからないけどね」
彼は満足そうにそう言うと、お皿に残っている炒飯を頬張り始めた。
200年でも300年でもじゅうぶんすごい。思えば、彼はいまのポストに就いて以来、ラボとアパートの往復、空き時間は私といっしょのときを除けばずっと勉強。そんな単調な生活の中で、彼は人類の夢を追っていたんだと、やっとわかった。もっと早く訊いてあげていればよかったな。
「ねえ」
「なに?」
『The Big Chill - Ice & Snow Festival』(ザ・ビッグ・チル:雪と氷のフェスティバル)
「ああ、残念だけど……」
そっか、ダメか。
20XX年、透過力の強い特殊な素粒子ビームを放射性元素に当てると
一瞬で核崩壊が進行して無害な元素に変化する…現象が発見されて、
チェルノブイリやフクシマはもとより、劣化ウラン弾で汚染された地域も一気に清浄化された。
ビームのおかげで、半減期数万年間を待つ必要もなくなったことに、人々は安堵した。
このビームを核兵器に当てれば、遠隔から核兵器を無力化できるのでは?
そう考えた学者が核兵器にビームを照射したところ、核兵器は爆発した。
濃縮されたウランやプルトニウムを一瞬で核崩壊させたのだから当然の結果である。
やがて、核兵器は敵を攻撃する兵器ではなく、敵がリモートから爆破できる危険な地雷という認識が広まり、
北大の売店のカフェみたいな所で、ディスプレイに流れていて見ていたんですが、非常に眠かった。そんなにCO2の排出が駄目な事で地球温暖化を進行させるといわれているのなら、事故の対策を可能な限り万全にして万が一の事故も覚悟で化石燃料を燃すのを止めて原発だけにしましょうというなら同意出来るかどうかはともかく、理屈としては通っていると思いますが。「再生可能エネルギー活用していきたいね(今はコスト割れだけどね…)」みたいな腰砕けの結論を大学で見せられるとは。
地球が悲鳴をあげています!皆さんの問題です!日本のCO2排出量は非常に多いです。生活を見直しましょう!みたいな勇ましい事を言うんだけど、みんなで考えるべきです!みたいのって、現実の前で無力過ぎる結論だと思うんですよ。別にこれ見た人が何する訳でもないですし。その割にイベントやら広報をもっとやる!っていうエネルギーが空費されそうな事には妙に積極的なのも変な感じを受けます。