はてなキーワード: にしんとは
就活生。
最近急に脚が臭くなって来た。
脇汗や顔汗がものすごいから、そこは自覚があったし、認めてた。
だけど、脚の裏だけはって思ってた。
大学の図書館で少しヒールを脱いでむくみ防止の為に脚を椅子に上げてみると、
今までの自分じゃないみたいで、本当にショック。
今は自分が志望している大手メーカーのエントリーシートラッシュ。
書かなきゃ行けない所が2社ある。
なのに、進まない。取り組めない。
先週は5社くらい出した。
どれも未だ結果が来ないので、身が入らない。
と、心の中の私がささやいている。
落とすならさっさと落としてこの自意識を殺して下さい。
そろそろ本当にしんどい。
全然終わらない、どうしたらいいんだろう。
シニテ〜
10+1 web site|アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い|テンプラスワン・ウェブサイト
千葉雅也のアンチ・エビデンス論について(最終版) | しんかい37(山川賢一) | note
最初のリンクを「アンチ・エビデンス論」、二つめを「アンチ・アンチ・エビデンス論」と呼ぶことにする。もちろん、この文章をアンチ・アンチ・アンチ・エビデンス論と呼ぶ必要はない。
千葉雅也の「アンチ・エビデンス論」が出たとき、個人的にはそれなりに楽しく読んだけれどその評価は別にして、まあ批判は出るところでは出るだろうなとは思っていた。と思っていたらしんかい37氏が「怪文書」なんて比喩まで出してけなし始め、氏がまとめた批判が二つめの「アンチ・アンチ・エビデンス論」。(最終版)となっているのは、この文章にはいくつかのバージョンが発表されたらしく、(完全版)を読んだつもりがまた新しいのに更新されたということのようだ。この調子で(究極版)とか(最終版・改)とか(帰ってきた完全版)とか出してみてはどうか。そんな正論はともかく、これから取り上げるのは後者の「アンチ・アンチ・エビデンス論」についての感想、とりわけその文体についての雑感である。
千葉は論考の冒頭で、些末なことや自明なことにも過剰なまでに論拠や説明責任を求める態度をエビデンシャリズムと呼び、こうした態度が現代には蔓延している、と述べました。さらに、インターネットの普及した現代では、人はさまざまな行動の痕跡をネット上に残してしまいます。そのため、人はエビデンシャリズムによる際限のないあら捜しにさらされてしまう。千葉によると、このエビデンシャリズムは、現代社会を窒息させるものなのです。
そして、その上で読者にこう問いかける――
まずこの主張、みなさんはどう思われますか。率直に言って、最近になってそんな過剰にエビデンスを求められる息苦しい社会に移行した、という気もしないのですが。
不思議なのは、ここで「そんな気がするかどうか」という「実感」についての話からこの論を始められる図太さ、というか、ふてぶてしさだ。過剰に説明責任を求める態度をエビデンシャリズムと呼び、それを批判する千葉の態度をアンチ・エビデンスと呼ぶなら、さらにそれを批判するしんかい氏の態度は、普通に連想すれば、説明責任の擁護、エビデンシャリズムの擁護となるだろう――そういう予感を持って、読者は、というか私は、読みはじめた。どのような根拠でもって(説明責任を果たして)氏が主張を正当化していくか、それが私がいちばん期待していたことだ。もちろん「アンチ・アンチ・エビデンス論」の議論の射程は鋭く、こうした「実感」に訴える論法を手厳しく批判している。この論の最後は
エビデンスを求めようとしなければ、人の思考は個人的な実感のまわりをくるくると回るだけですし、明晰さが求められないなら、言葉をつき混ぜて一貫性があるかに錯覚させるような議論がいくらでも可能になってしまいます。
という風にして終わるのだ。仮に、しんかい氏の主張が〈個人的な実感のまわりをくるくると回る〉だけに留まらないと仮定すれば、〈そんな過剰にエビデンスを求められる息苦しい社会に移行した、という気もしない〉と主張するに値するほどの、根拠が示されるはずである――そう期待して読む私は、またすぐに裏切られる。
たしかに、インターネット上の失言が多くの人に拡散され批判される、ウェブ炎上という現象は近年目立つようになって来ました。エビデンシャリズムという概念は、そうした事柄をさしてもいるらしい。
実感に則さなくても、当てはまる事例があることはすぐに認めている。いったい、しんかい氏の「実感」を裏づけする根拠は、いつになったら出てくるのだろう? (「落ち着いてください!」と隣にいた貴婦人が言う。「まだほんの初めの方の十数行を読んだばかりじゃありませんか。議論は始まったばかりです。これから先も慎重に読み進めていけば、きっと〈個人的な実感〉なんかとは無縁の、素晴らしきエビデンスとやらに出逢えるはずですよ! さあ、続きを読んでください!」)
さらに読み進めていくと、千葉の文章を引用したあと、しんかい氏はこのように述べている。
このくだりを読むと、今の企業ではどんどんマニュアル化(「機械的、事務的処理を行き渡らせることで、非定型的な判断の機会を限りなく排除」)が進んでいて、ロボットのようにふるまうだけで給料がもらえる状況になってきている、といっているように思えます。えっ、世の中そんな風になってますかね。フリーターならともかく、現在でも正社員ともなればみなさんいろいろな判断を要求されていると思いますけど。むしろ、日本では長い不況のせいで、高度な「ケース・バイ・ケースの判断」の判断を要求される仕事が、しばしばアルバイト待遇になっている気さえします。
「思えます」! 「思います」! 「気さえします」! 実感に訴える主張のオンパレード! 「フリーターならともかく」――どのような根拠でこの要素を除外したのか? 「長い不況のせいで」――いったいいつからいつまでのことなのか? こんなにも曖昧な表現で何が指し示せるというのか? 「高度な「ケース・バイ・ケースの判断」の判断を要求される仕事が、しばしばアルバイト待遇になっている」――さっき例から排除されたフリーターはこの例には含まれないのだろうか? 確かに最初の例のフリーターが、元からアルバイトなんかしていなかったのなら辻褄は通るけれど……ところで、引用されている千葉の文章は〈企業で、行政で、大学で。社会のいたるところで〉といった範囲の広いものであるのに、しんかい氏は勝手に企業だけの話にすり替えているし、しかも千葉の文章に〈給料〉という言葉はひとことも出ていない。
マニュアル化が仮に進んでいるとしても、それは効率化のためであって「個人の責任を回避」するためじゃないでしょう。企業に、各社員の責任をいちいち回避させてあげるインセンティヴなんてありませんから。
なぜ「効率化のため」という目的だけに話を限定できたのだろう? もし仮に、企業(そもそもなぜ企業だけの話になったのか? しんかい氏がそうすり替えたからの話でしかないのではないか?)が、しんかい氏の思いつきによる目的で動いているとしても、そうすれば、そもそも前段のマニュアル化が進んでいることを否定するような数々の圧倒的「実感」とはいったい何のために書かれたというのか? これらは全てただの思いつきで、論旨を整えずにただ手当たり次第に条件反射的に反発してみただけのことで、最初から根拠なんかなかったのだろうか? 〈千葉はその不明瞭な文体のせいで不評を浴びたわけですが〉と、その次の「不明瞭な文体について」の章で氏は書いているが、確かにしんかい氏の文体は千葉に比べればまったくもって明瞭ではある。場面ごとに言いたいことは分かる。ただ、自身の主張に対する根拠がほとんど書かれていなくて、全体を繋げると辻褄が合わないというだけのことだ。しかし、最初から〈言葉をつき混ぜて一貫性があるかに錯覚させるような議論〉がしたいのならともかく、アンチ・アンチ・エビデンス論としては、これは致命的なことではないのだろうか?
この後も、しんかい氏は「アンチ・エビデンス」的な、説明責任を果たさず、ただの思いつきで主張を言いっぱなしにするだけの批評を展開している。
ぼくもひどい評論ハンターとしていろいろひどい評論を読んできたわけですが、この手の文章を書く人って粘土細工作るみたいな思考回路で評論というものを考えてるんですよね。思考を論理によってつなげようとするのではなく、とにかくぐちゃぐちゃつき混ぜてれば一体になるにちがいない、という信念に導かれている。
この手の人は、どうやら混ざっている粘土の種類が多ければ多いほど強い、と錯覚している節もあって、批判されるとすぐ、もっと勉強してくださいとか文脈を読んでくださいと言い出す。見ろ!こんなに多くの粘土を混ぜているんだぞ!このすごさがわからないのは、お前が粘土の種類にくわしくないからだ!というわけ。一般社会には通じない理屈ですが、文壇やアカデミズムには粘土細工愛好家が一定数いて、ほう見事なマーブル模様ですのうと褒め称えたりするので、彼らの自信はますます高まっていくのです。
対象になる文章に「粘土細工」という比喩を与えて、その粘土細工のイメージを攻撃する。ありがちな比喩の乱用だが、このあとソーカルによって批判される「科学・数学」の乱用に比べれば、反証のしようがないために、確かに優れた方法ではある。
これなどはまだいい方で、一冊の参考文献が提示されている。そのピーター・バリーによる教科書の引用部分だけで、どうして「世界的」な思潮についてここまで断定的なことが言い切れるのかはさっぱり分からない。
バリーが述べていたように、いまや世界的に「詩的に書く自由」は認められなくなってきたわけですが、じつは、そうした変化を引き起こしたのは、一冊の本でした。二人の物理学者、アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの共著『知の欺瞞』。そしてこの本が刊行されたのは、九七年のことなのです。
また「世界的」なことを一冊の本だけで理解している。しんかい氏は〈千葉が、九〇年代をエビデンシャリズムからいまだ自由な時代だったと称えている〉ことと、ソーカルの影響によってポストモダニストの難解な記述スタイルに〈致命傷を与えた〉話を、そのまま繋げている。〈それを踏まえると、〇〇年代以降エビデンシャリズムが強まっていったという千葉の主張と、見事に合致します〉。……。時系列ごとに並べると、受験生に嬉しい真っ白な年表ができそうだ。これも千葉の世代論に比べると、中身をスカスカに抜いたからとはいえ(ほとんど粘土は混ざっていない)、確かに言いたいことは分かりやすい世代論ではある。そこにエビデンスがあるかはともかく。
だいたい、千葉がポストモダニスト的なよく分からない文体を使っている(これもしんかい氏の主観であり、論の後半にはある部分の引用について〈率直に言ってぼくにはほとんど意味が取れません。おそらく全人類にとってそうなのではないかという気がします〉などと豪快なことを言う。論の冒頭で〈発表直後はネットで賞賛の声に包まれました〉という例示と「批判の声」を対比させたのは何だったのか、賞賛の声を上げた人たちは最初からしんかい氏にとっての人類には含まれていなかったのだろうか?)ことと、過去に著名なポストモダニストが問題と論争を巻き起こしたことには、いったい何の関わりがあるのか? ただの連想ゲームでしかないのではないか? こうしたカテゴリーを混同した主張と、「ジャック・ラカンは、虚数と無理数を混同している」といった事実に、どのような違いがあるのだろう?
しんかい氏はなぜ、ソーカル事件と千葉雅也を結びつけて論じようと思ったのだろうか。「おそらく……」などと仮定を挙げてエビデンスのない主張をする気は今のところない。それよりも、根本的な疑問がある。「アンチ・アンチ・エビデンス論」において、しんかい氏は、アンチ・エビデンスを批判するどころか、むしろそれに則った、説明責任なんてお構いなしの自由闊達な批評をしている。それはそれでいいことじゃないかと思うし、それとは逆にエビデンシャリズムを徹底させた批評の道もあるのではないかと思う。しかし、今回のように、ある種の世代論や、ある人物をどのように評価するかなど、すでにある程度の文脈が与えられた人文学的なテーマの場合、科学や数学におけるような厳密な方法論などないし、徹底して証拠を走査することは(この私の文章のように)不毛なものになりがちなのではないだろうか。そもそも戦う土俵を間違えているんじゃないか、という疑問がある。「アンチ・アンチ・エビデンス論」において批判されている(かのように見えるが、どういう理屈でかははっきりしない)「実感の正当化」だって、たとえば何らかの世代論であれば、いくつかの本から有益そうなところを引用して、それなりに理解が深まれば、反事実的条件と現実世界の関係に関する考察などといった面倒そうなところから論を始めなくても、それで充分なのではないか、という気はする。これは純然たる思いつきである。
貴婦人はとっくに寝てしまったので無駄話を続けると、だいたい意味が分からないかどうかで評価するのなら、数学や科学やプログラミングなどの高度な専門書だって(〈一般社会には通じない理屈〉とまで表現するかはともかく)私個人にはまったく意味不明なものだし、別に大陸系哲学だけの話ではなく分析哲学の本でさえ、少し高度になるといまの私にはさっぱり分からない。意味不明なことを言っているのと意味がないのは(いわゆる「説明と理解」といった哲学的テーマになるのだろうか)まったく異なるはずだし、ここを突き詰めて考えると分析哲学的にも絶対にややこしい問題に直面すると思うのだが、しんかい氏はその辺りをどうも曖昧に片づけている気がする。
ところで、「形骸化したエビデンシャリズム」それ自体は、いつから・どの程度顕在化したかはともかく、いかにもありそうな話ではあると思っている。最近某所で話題になっている広島大学のモニタリングの話とか分かりやすいんじゃないだろうか。
朝、歯磨きをし、終わったら口をすすぐ。このタイミングで、ひどい吐き気に襲われることがある。
歯磨きの行為が手にタコをつくる行為と似ているかなのだろうか。日々の仕事のストレスだからなのか。
わからないが、出勤前に2、3回えづいてから家を出るのが日課のようになっている。
一瞬だった。歯磨きをして口をすすいでいたら突然吐き気に襲われて、胃の中のものを洗面台のなかにぶちまけた。
コーヒーしか口にしなかったから、戻したものはコーヒーだけで、水を流しっぱなしにしていたので、後片付けをする必要がなかったのが不幸中の幸いだったのかもしれない。
戻した時に、一瞬会社を休むかどうか悩んだけど、仕事が立て込んでいたので、そのまま出勤した。
吐いた瞬間はそんなにしんどくなかったけど、駅のホーム、電車の中、仕事中、帰宅中、全体的に吐き気がつきまとった。
昼食や夕食も、「これは食べたら戻すんじゃないだろうか」と思いながら食べていたけど、なんとか戻さずに一日を終えることが出来そうだ。
これから、どうなるのだろうか。
記憶力はいいけど疑問を持たずに覚えるのはよくないみたいに言われた。
残念だけど自分でもわかる。
目の前のことをそのまま受け入れるのは得意なんだけど、新しいことを考えるのが苦手なんだよな。
なんで疑問に思わないのって言われても、それがそういうもんだって思ってたからとしか言い様がないし。
むしろ当たり前のことにいちいち疑問を持ってたら生きていけなくなるだろ。
なんて思うのは極論だってのもわかってるつもりだけど。
日常の業務で必要ない、この業界の基礎知識みたいなのを突然クイズ出されて、答えられなかったらこんなのもわからないの教えたはずなのにみたいに言われたり。
普段使わないことを覚えていないことがそんなに悪いことなのか。
普段使わないことでも別の仕事をするときに役に立つかもしれないかもしれないけど、かもしれない程度で抽象的な理論を覚えるには幅が広すぎるし。
むしろ全部知らなくても知ってる人を知っておけばそれでいいんじゃないのと思うんだけど。
もちろんみんながみんなスーパーマンだったらそれは一番素晴らしいとは思うけど。
プライベートでまで勉強する必要がある仕事が怠惰な自分には向いてないってだけかな。
薄給まったりを抜けだしたとは言え、それでも年収少し上がっただけだし、残業代だって全部出ないし。
思ってた以上に楽しくない。
自分は中小勤めであり、友人達はそれぞれ別の大手のグループ企業ということもあって、それなりに格差があることは認識していた。
けれども実際に数字で聞いて、自分の認識の甘さを思い知らされた。
こんなにも違うものなのか。
たしかにその友人達とは「金銭感覚が違うなぁ」と感じたことはあった。
一緒に旅行に行くにしても、友人達は「せっかくの旅行なんだからいいところに泊まっていいご飯を食べよう」と提案し、自分がランクを下げようとしても「社会人なんだからお金あるでしょ?」と返されるパターンが何回かあった。
今まで友人達に合わせて、食費を削ったりして無理に出費してきたけど、差を明確に認識してから一気にしんどくなった。
勤務時間も多分圧倒的に自分の方が多いのに、収入は下。どうしてこうなった。
生涯付き合っていきたい友人達と思っているので、お金が理由で疎遠になりたくない。
つらい。
(追記)
ほとぼりもさめたころなので追記。
というかブクマつきすぎ怖い。
(ちょっと補足すると、友人達とは毎月の給与とかボーナスといった”収入”の話をしただけで、”年収”の話をしたわけではないから直接的な比較はできていない)
「正直すまんかった」とも言ってもらえてる。
だから、ブクマでも言及してた人がいるけどどっちかっていうと自分の意識の問題。
自分のせいで友人達の行きたいところへ行けなくなる、やりたいことができなくなる、という負い目引け目もあるし、何より自分が惨めに思えてくる。
ちっちゃいプライド、見栄っぱりと言えばその通り。
限られた時間、交通手段のもと、ひとりで遊んでいるので、ポータルをただハックする事以上のことを考えると途端にしんどくなって、私にとってはつまらなくなります。
今まで何km歩いたのか、(ユニークな)いくつのポータルをハックした(訪れた)のか、それをただ積み上げていくだけの遊び。でも、自分にとってはそれが楽しいわけです。
もしリンクを張れたら、CFを作れたら、自分に都合の良いポータル群(ファーム)が生活圏内にあったら、とか考えた時期はあったのですが(そしてそれを実現しようと地元のそれっぽいポイントの申請を頑張っていた時期があったのですが)、ちょうどはやり始めた時期に参加したニワカなので、そこらへんは色々無理があるなぁ(すでに存在するポータルで頑張った方が早いなぁ)と思ったわけです。
そういえばcommのfactionを眺めたとき、enl.tokyoへどうぞみたいな話を眺めて、Google+のEnlightened Tokyo Communityあたり入ってみようかと思った事もあったのですが、申請にあたってレゾネータ、またはModsを良く設置しているポータルが必要と書いてあって、そのハードルの高さにも心が折れたと言うか。生活圏内のポータルは大体1日と経たずに青に戻されちゃう。
それと、キャプチャしたポータルやら作ったCFはすぐに崩れる、みたいな経験が積み重なって、最終的に信じられるのは総移動距離とUPVくらいしか残らなかった、とも言う。
性格的に大して合わないなと思いつつも、
ただ、最近少々キツク感じるようになってきた。
正直、話がくだらない。
「部署のいけてないおじさんの私服がチェック柄でダサい。オタクはみんなチェック柄着るのはなぜ?」
「交際相手と自分の親の職業が釣り合わない。結婚は難しいかな?」
みたいなことを大真面目に言うので適当な相槌を打っては、「話聞いてる?」とよく怒らせていた。
つまらないやつらだと思っていた。
向こうも向こうで、こちらのことを「空気読めない感じ悪いやつ」「お高くとまってる」と思っているようだった。
意を決して、先週から一人で食べるようにしてからは、そんな話からも解放されて安らかなお昼がやってきたと思っていた。
だが、距離を置いたら置いたで、その行為がケンカを売られたととられて不快に思われていると人づてに聞いた。
つくづくめんどくさい人たちだ。
入社直後からなれ合いを拒否して一人でさばさばやっとけばこんなにしんどい思いしなくてよかったんだろうか?
あーめんどくさ。
薬も飲んでるけど意識飛ぶ。
帰って来てなんとか夕飯だけは食べて気を抜いた瞬間には夢の中。
(正確には即ノンレム睡眠(深い眠りの方)なので、夢はほとんど見ない)
なんだこれ。
なんだこれ…
今通常業務とは別に頼まれた仕事があって帰宅してからやらなければならないのに全く進まない。
お金もらってるし当たり前だが今回は勿論きっちりやり切る。
ただひたすらしんどい。
ここ最近で突然やたらと酷くなったからあれだけど、こんなにしんどいと思わなかった。
休みの日も意識飛んだまま18時間ほどは寝てるから、話にならない。一日24時間だぞ。気付いたら意識吹っ飛んで寝てる。叶うことなら睡眠時間6時間ぐらいで生活して出掛けたい。なんなんだよ。なんでこんなことになってるんだよ。
不眠症は割としんどさが健康な人にも伝わりやすいイメージあるけど(不眠症も大変なのはわかってる。この眠気分けてあげたい)、過眠とか通じないし。寝てるなら幸せじゃんみたいな。寝てるのは甘えとか。気合いで起きればいいじゃんとか。お前毎日3徹後みたいな疲労感も伴った睡魔に襲われてみてくれよ。17時間睡眠とった翌日に道歩いて、眠すぎて倒れると痛いからあの電柱の陰か草むらの方でしゃがんで寝ようかなとか思うんだよ。なんなんだよこれ。頭おかしいじゃねーか。
しかも治療法ねえんだよ。車のんなボケも分かるし免許返せオラも分かるけどじゃあバス代割引とかなんかそういうのやってくれよ国が。頼むから障害者手帳とらせてくれ(過眠症だけじゃとれないらしい(笑)鬱も併発して鬱病であと過眠症もありますとかにすれば取れるとか(笑))。そういうのなんもないのに免許だけぶんどって勝手に生きてろってもうこれ無理だよ。一応言うと免許は持ってるけど(とった時期に自分が睡眠障害とか知らなかった)普段は運転してません。
健康は最高。
健康は最高。
健康は最高だ。
三十路、既婚、女。
どんどん疲れやすくなっている。
ババアになったのだから仕方ないとはいえ、大したことしていないはずなのにつかれている。
朝六半に起きて、七時に家を出て、仕事して、夜九時くらいに帰ってくる。
内勤事務だし、そんなに疲れるようなことはない。
でも疲れる。体がダルい。疲れが抜けない。
体がとにかく疲れている。
昔は職場の人たちと食べていたけど、職場の人たちと気を使って会話するのが疲れるから、
一人で食べて、残りの時間は寝ている。それでなんとか午後も働ける。
人付き合いがめんどくさい。そこに使う体力がない。
それでも中学時代からの親友たちと会うのはこれまで大事にしていて、
いつも楽しみだった。
けれども、ついにこの友達と会って話す体力すらなくなってきた。
職場の人たちと時間を過ごすのに体力を使いたくない、はわかるんだけど
正直仕事に行くのも疲れる。会社につく頃にはすでにフラフラで、出社するだけで体力を使い果たしている。
これ以上体力がなくなったらどうしよう。
人付き合いするにも体力って必要なんだなぁ。
と、思うことが常々ある。
サービス業の企業で正社員をしているが、「お客様のため」で大抵いろんなことが許されてしまう。
例を挙げてみる。
・上司「〆切近づいてきたからとりあえず投げるね。納期は三週間後ね。よろしく」
私「え、これいつもは少なくとも一ヶ月かかる仕事ですし、間にお盆挟みますから実質二週間ですよね」
上司「えー?でもお客様に関わるものだから〆切は絶対。お盆休みあるしなんとかなるでしょ」
・上司「お客様が一番来る時期!対応は大事!ということで10連勤よろぴく」
私「えっ・・・・しかもこの日22時あがりで次の日7時なんですけど・・・・」
上司「あ、ほんとだー。でもまーあれでしょ、みんな忙しいし」
私「」
先輩「あ、じゃあ次の月に繰り越しちゃいなよー。それでどんどん繰り越しして、繁忙期じゃない時期に二週間くらい休みなよ☆」
私(そんな時期ねえ)
基本的に「オキャクサマガー」でなんでも通ってしまうので、私が10連勤しようが、お盆休み潰されようが、
本社の思いつきで休みを潰されようが、皆お客様という大義名分のもとでなくなってしまう。
どんなにしんどくても「お客様がお待ちだよ?まさか来てくれたのに穴開けるの?」という無言のプレッシャーから休めない。
最初はやりたくて始めた仕事だけれど、そろそろ仕事の無茶ぶりとオキャクサマガーに辟易してしまって、
辞めることも検討している。
しかしこのご時世、正社員という立場はとてもとてもとても貴重なものなので、こんなことで辞めたくない気持ちもある。
だけど、このままでいたら、いつか死ぬ気がする。だから辞めたい。でも辞められない。
世間の皆様はこういう無茶な仕事とか無茶な上司とかとどのように付き合っているのでしょうか。
あるいはこの会社を見限るべきなんでしょうか。
20代女性の知人、この状況下における電車の「運転見合わせ」の意味がわからんらしい
おっかけているアマチュアミュージシャンのために暴風雨の中30分かけて駅まで出てきて駅で1時間以上待機してた
そのことをつぶやいていたので連絡を取り帰るように促したので恐らく無事だろうが
以前は彼女に近いくらいの体型だったこともあるしその手のことでネタにされていることは少なくなく
かつてそうだった自分から見ると言い様のないしんどさがつきまとう
チャーリー・ゴードンの心持ちはきっとこんなふうだったんだろうと思うとさらにしんどい
彼女の側に立たされる可能性について考えてもみないのとどっちが酷いのだろう
どっちがどっちというわけでもないような気もするが
法事の度に、向こうの実家のしきたりがどうやとかお供えがどうやとかで揉めて、
ほんとうにうっとうしくて死にたくなる。
死にたいっつうか故人を偲ぶとかそんなんが全部ぶっとんで悲しくなるしもう勝手にせいやと思う。
お葬式が終わってから、幾日も経たないうちに私をそんなこと(香典の額の折り合いなど)で何時間も罵倒した夫を
わたしはいっしょうゆるさん。
世間体とか自分が嘗められたくないとか立場とかそんなことばっかで私の気持ちなんか知らんくせによう言うたな
ほんとによう言うたな。
この場合はいくら包むのがいいのか、多すぎても少なすぎても駄目、こんなんで疲弊するのは間違ってる。
もういや!!!
治療に入ったとの事で、一番最初の一番大きな壁は乗り越えたようなので、ほっとしました。
焦る気持ちはわかる気がします。僕もうつになったときは半端じゃなく焦りました。
でも、病気のときは、病気を直す事を一番に考えたらいいんじゃないかと今は思います。
うつ状態で考えても、つらいばかりで、不安になるばかりで、なにも前には進まないので。
一番大事なのは、ブコメにもあったとおり、利己的になることだと思います。
これまで支払ってきた社会保障費や保険を有効活用して、治ってからまた払う。ぐらいの気持ちでいいんじゃないのかな。
職場への復帰に関しては、治ってから考えたらいいんじゃないでしょうか。
主治医と相談しながら、治療のためにベストな選択肢を選ぶ(それが難しい病気なんだけど)のが一番だと思います。
短時間勤務の打診があった旨は、主治医に報告して、治療のためにそれがベストなら選ぶような感じがいいんじゃないかな。
生計に関して大事なのは、もらえる手当は全てもらうつもりでいることだと思います。途中で治ったらキャンセルできるので。
休職→傷病手当→失業保険、生命保険等→障害厚生年金→生活保護 と最悪のケースでも生きて行けます。
治ったら最悪ルートから抜けて、働き出せばいいんじゃないかな。
その時にどこで働くかを考えるといいかと、今決められない事は今考えてもしんどいだけだと、僕は思います。
治療にあたっては、主治医とタッグを組む気持ちでいるのががいいのではと思います。
主治医が信用できなくなる時期が来たとしても、主治医に嘘をつかないことが大事です。
(僕は、こんな簡単な事ができなくてと恥ずかしくて、主治医にうその報告をしてた時期があり、治るのが遅れました)
不安になったら、主治医と率直に治療方針を話し合うといいと思います。
どうしても主治医と相性が合わないようなら、主治医に伝えてセカンドオピニオンを受けるといいと思います。
自己流やネットなどで仕入れた情報に振り回されない事が大事だと僕は思います。僕のこれも含めて。
くれぐれも、お大事に。
私は酔っ払いが嫌いだ。
酔っぱらって、大声を出して、騒いで、道端で寝て、ゲロをはき、くだをまく。
見ていて、本当に情けなくなる。恥ずかしくなる。
一番腹が立つのは、酔っ払いが「酔っぱらっているから仕方ない」オーラを出していることだ。
酔っぱらってるからって、何してもいいと思ってんのか。思ってんだろな。だから凝りもせず酔っぱらって醜態晒すんだろな。
私がこんなに酔っ払いを憎んでいる理由は、父にある。
私の父は、酒ばっか飲んでいた。
家族に注意されるとまたあてつけのように飲み、
少し治まったかな、と思えば隠れて飲んでいた。
年が経つにつれ、暴れたり、怒りっぽくなったり、といういやな傾向も増えた。
料理酒まで飲んでいたのを発見した時は、情けなくて、何も言えなかった。
私は酔っぱらった父が嫌いだった。
しつこくて、目がうつろで、ろれつが回らず、急にしんみりとした話をし出すのも、
気持ちが悪くて気持ちが悪くて仕方がなかった。
わたしは酒を憎んだ。
なんで酒が、この世にあるんだろう、何のためにあるんだろう。
なんでこんなふうに、人を、してしまうんだろう。
それで、なんで父はこの液体に、憑りつかれているんだろう。
今考えれば、父はアルコール中毒だったんだろう。
飲まずにはいられない、そんな感じだった。
そんな父は、今年死んだ。
私は、悲しかったけれど、心底ほっとした。
もう、酔っ払いの父を見なくて済む。そう思った。
これで、もう父の酒に振り回されなくて済む。
それでも、私の周りには酒を飲みたがる連中がまだたくさんいて、
私はそいつらの酒飲みたい欲求に付き合って、車の運転をしたり、後片付けをしなければならない。
酒飲みに振り回される人生…
本当に、疲れたなあ。
※これは頭のネジがゆるいビッチのたわ言です。世の大多数の女性はもっと真面目に誠実に生きていると思います
2014/07/18 お礼を書きました。http://anond.hatelabo.jp/20140718205540
【結論】
【経緯】
彼は謝罪し、ちゃんと時間をかけて誠意を見せてくれた。人間だれしも過ちを犯す。一夜の火遊びぐらい寛大な心で許してやろうとその時の私は思ったのだ。
数年後、その彼と結婚した。
結婚するとき、少しだけ浮気の件を思い出し、本当にこれでいいのか?と迷った。
浮気は繰り返すと聞く。彼はもう浮気をせず、私だけを大事にしてくれるのだろうか?と。
悶々と悩んでいたが、客観的に見ると高学歴で大企業に勤め、身長も高く思いやりのある優しいイケメンが、薹の立った顔面偏差値20を切るほどの私を嫁にしてくれると言っているのだ。
こんな美味しい話が、今後の人生において降ってくることがあるだろうか。いやない。絶対ない。そう考えたら答えは簡単だった。
結婚後、3年間は何事もなく過ぎた。
子供は出来なかったけど、旦那は変わらず優しいままだったし、いまだに私のことを「世界で一番可愛い。愛してる」と言って憚らない。
こんなブスを相手に何を言ってるんだ。頭おかしいんじゃないか、と思わなくもないがブタもおだてりゃ木に登る。多少身なりに気を使うようになったことで容姿に対する劣等感は昔よりほんの少しだけ薄れたような気がした。
それでもふとした時、例えば旦那の帰りが遅い日とかは、やっぱり浮気の件を思い出しては一人でハラハラすることが度々あった。
大学生の男の子が私の職場にアルバイトとして来たのはそんな時期だった。
私の職場は学生バイトがそこそこいるところで、私はそこで一応管理職をやっている人間だ。
女子大生ばかりの中で久しぶりに入ってきた男の子に、周囲は浮き足立っていたが私は特に気にも留めず普通に仕事をしていた。
私は既婚者だし、年下は好みじゃなかったのでスルーしていたのだ。
ここまで読んでいる人ならもうお分かりだろう。何故かその男子大学生は私に懸想してしまったのだ。
今時の草食系っぽい外見でありながら意外にもガンガン押してくる子だった。
最初のアタックは職場の飲み会。私の隣にちゃっかり座り、帰り道は「途中まで送ります」とか言って気付いたときには二人っきりだった。
「うん」
「旦那さん、どんな人ですか?」
「すっごく優しい人」
「今でも好きですか?」
「うん、好きだよ。良い旦那様だと思う」
嘘は言っていない。だが、見栄を張っていたと思う。”私は幸せなんだ”と自分に言い聞かせていたと思う。
その返事で彼が何を思ったのかは知らない。だけどその次に私をしっかり見据えてこう言ったのだ。
「俺、増田さんのことが好きなんです」と。
ほろ酔い気分も一瞬でさめた。はぁ?というのが正直な感想だった。
「えっと、私既婚です」
「知ってます」
「なので無理」
「どうしてですか?俺のこと嫌いですか?」
「いやいや、そういう問題じゃないでしょう」
「じゃあ嫌いではないんですね?」
そういうことじゃないだろう!と思いつつその後も進展のない話しを少しして、結局「私、不倫するつもりないから」とバッサリ切り捨てた。
10歳近く離れていたし、若さゆえの気の迷いだろうと結論付けてその後は努めてビジネスライクに振舞うようにした。
しかし、彼は諦めなかった。若さゆえの行動力というか、なんとかタイミングを見つけては二人きりになり「増田さん、好きです」と繰り返した。
職場にそういうことを持ち込むな!と叱ったこともあった。メールアドレスも電話番号も絶対に教えなかった。
そんなまま2年が過ぎた。2年もそんなことを繰り返すと誰しも情が湧くのではなかろうか。自分のことを好きだと言ってくれる人を嫌いになるのは難しい。(ストーカーは除く)
なのでその頃には個人的な付き合いは全くなかったが「増田さん、好きです!」「はいはい、ありがとねー。気持ちだけ受け取るー」と返すぐらいの関係にはなっていた。
自分を好きだと言ってくれる人がいる、という状況を楽しんでいたのだ。
状況が変わったのはその年の冬だった。
「うん、知ってる」
「うん、そうだね」
「へー、そうなんだ」
「寂しくなりますか?」
「そうだね、みんな寂しがると思うよ」
こちらがあえて曖昧な返事をしたことに気付いたのか彼は悲しさと諦めが混ざったような薄い笑みを浮かべて、すぐに真面目な顔になった。
「一生のお願いです!最後の思い出に一度だけ増田さんを抱かせてください!」
そう言ってすごい勢いで90度に頭を下げた。
意味を理解した瞬間、それ女子の台詞じゃない?と思った。「最後の思い出に抱いてください」とか、三文小説とかにありそうだなって。
でも目の前の男の子は、一生懸命でものすごく緊張しているように見えて。ああ、マジでそう思ってんだろうなぁと思った。
これがもし演技でも、だまされてやっていいかなって思った。それ以上に、これは旦那への素敵な復讐になるってどこかで冷静に計算していた。
「いいよ。最初で最後だからね」って言って驚いている彼の手を引いてホテルに行った。
正直、セックスは気持ちよくなかった。下手だし、勢いばっかりで。でも若さゆえのがっつき方がある意味楽しかった。
家に帰ったら旦那様はもう寝ていた。その寝顔を見ても自分でも驚くぐらい罪悪感は感じなかった。自分が旦那より最低の人間に落ちたんだと思って面白かった。
次の日が土曜だったので、寝ている旦那の布団にもぐりこんでセックスをせがんだ。旦那は喜んで優しく私を抱いてくれた。最高に感じた。今までで一番気持ちよかった。
あっという間に春が来て大学生の彼はバイトを辞めていった。約束どおり彼はあの夜以来、私にちょっかいをかけなくなった。
最後の送別会の日、彼は「増田さんを好きになってよかったです」と言ってくれた。なんだか気恥ずかしくて「そっか」とだけ答えた。
夫婦仲は更に良好になったと思う。彼が不倫をしてるんじゃないかって心配を全くしなくなった。したいならすればいい。私にばれないようにやる分には全く問題ない、とまで思うようになった。
もし、大学生の彼が将来、旦那にばらしたらどうしよう、ということも考えたことがあったが、その時は大人しく旦那に慰謝料を払って離婚しようと思った。
子供はいないし、仕事はある。捨てられても別にいいや、と今でも思っている。
あの後、わずかに芽生えた罪悪感から私は今、旦那にとても優しくなれる。大抵のことは笑って許せるようになった。
旦那は今でも相変わらず私を「可愛い」、「愛している」と言ってくれるし、お願いはだいたい聞いてもらえる。
私も毎日旦那に「愛している」と言うし、彼の望みなら何でも叶えてあげたいと本気で思っている。
周囲には「増田さんちはいつまでたっても新婚さんみたいでうらやましい」と言われる。
子供がいないのがちょっと残念だけど、まぁ、できなかったものは仕方ない。
先日、数年ぶりに職場に大学生の彼が遊びにきた。話を聞くと結婚するので彼女を親に紹介するため地元に帰ってきたらしい。
職場の皆と「立派になったね」、「男前になったね」と彼の成長を喜んだ。
彼女はどんな子かと誰かが尋ねると恥ずかしそうに皆に写真を見せてくれた。
つやつやとしたロングの髪が綺麗で上品そうな女の子が写っていた。青いワンピースがよく似合っている。