はてなキーワード: 発症とは
LGBコミュニティでは、昔っからそういう形で同性婚を批判する議論はあります。ぶっちゃけ50年以上前からあったし、今も同じ事を言ってる人たちはいます。
まずゲイ男性の同性婚批判について。ハッテン場とかをイメージしてもらうとわかるけど、ゲイ男性界隈というのはだいたい性的な交流・交渉に対してオープンで(享楽的ともいう)、短期間に多くのパートナーを持ったり、ワンナイトだけと割り切ってたりと、特定の相手との排他的な関係(モノガミーシップ)に拘束されたがらない人達が多かった(今でも多い)です。アクティヴィストも、基本的にはこういう行動パターンを自分たちが創り上げた独自のライフスタイル(ゲイ・ライフ)、異性愛主義から解き放たれたゲイ男性独自の文化的資産とみなし、肯定的に捉えてました。
もちろんそれは、同性との持続的関係を公にしつつ生きることが難しい時代背景ゆえの事情でもあったし、一方で60年代のヒッピー文化でもフラワーパワーとかと並んで性の解放が訴えられてたという事情もあったんですけど、まあ時代の空気だったんですね。で、そういうライフスタイルが主流だったゲイ男性の多くにとっては、「同性婚」というのはあんまりピンと来ないテーマだったんですよ。俺たちがヘテロの真似してどうすんの、という。米国でも欧州でも日本でもこういう言説は根強くありましたし、当事者自身がそう書いている書き物も多く残っています。
もう一方のレズビアン界隈での同性婚批判について。こっちはこっちで、結婚制度を「男女の性役割分業を究極的に固定化する差別的な制度」という風に見る人たちが多かったんです。今よりもレズビアン・フェミニスト的な立場の人達の影響も強かったし。家父長制と結婚制度こそが世の女性たちを抑圧しているシステムなんだから、それを自分たちが模倣するなんて…という抵抗感もありました。
そもそも当時は、「同性同士が結婚する」というアイディア自体、多くの当事者にとっても突飛な、想像を超える、およそ現実的でない絵空事だったんですよね。大半のゲイやレズビアンは、そんなことが本当に実現するとは思ってもいなかったから、それを目指して社会運動したりもしなかった。そもそも「昼間の世界」でカムアウトすること自体が自殺行為みたいな時代です。同性愛という性的指向を詳らかにして堂々と同性パートナーと暮らすことすら難しかったわけですから、さらにそこに法律婚の仕組みを適用するだなんて発想を持つ人はほとんどいなかったんですね。もちろん「同性のこの人と結婚できたらいいなあ」と夢想する人達は当時もいましたけど、それは多くの場合、ロマンティックなファンタジーとして語られていた。結婚制度を同性間に拡張することで、異性カップルに認められているさまざまな社会的権利を自分たちも獲得しよう、という発想はまだ乏しかったんです。
こういう流れを一変させたのが、80年代のAIDSパニックです。若い人は知らないと思いますけど、日本でも当時はプライバシー侵害なんかガン無視した、壮絶なパニック報道がありました(参考: https://www.janpplus.jp/topic/433 )。今でこそHIVとAIDSは、発症の抑制も症状の緩和も可能な、生活態度次第では余命を全うできる病気になりましたが、発見当初は本当に不治の病だったんです。震源地のひとつとなった米国のゲイ界隈はもう本当に凄惨な状況で、各都市のコミュニティ自体が壊滅し消え去ってしまうほどのパンデミックになりました。バスハウス(ハッテン場)で活動的だった人達を中心にゲイシーン全体に感染が広がり、次々に病み、衰え、死んでいったんです。その中にはもちろん、互いに大切に思っているパートナーと長期的関係を築いていたカップルもいました。その経緯を通して、パートナーの病と死に伴う課題、つまり「パートナーの医療・看取り・相続などについて、同性愛者は全く権利がなく、法的にとても脆弱な立場にある」ということがコミュニティに深く認識されることになりました。
結婚というのは、恋・愛から始まる親密な関係に確固とした法的枠組を与えてくれるものであると同時に、人が生きていればいずれ来る病・苦・死のリスクに対して、信頼できるパートナーと共に備え、支え合うことを可能にしてくれる枠組でもあります。AIDSという歴史的な苦難は、そのことへの経験と想像をゲイ/レズビアンコミュニティ全体に与える決定的な機会になりました。「ゲイの老後」という、それまであまり語られなかったトピックが海外でも日本でも注目され始めたのこがこの頃です。多くのゲイ男性が「自由で享楽的なゲイ・ライフ」という夢の先にある、生活者としての現実をシリアスに捉えるようになった…といってもいいかもしれません。これを保守化と取るか、成熟と取るかは人によって違うでしょうが、自分は後者だと思います。
AIDSパニック以後、ゲイ/レズビアン・アクティヴィズムが一気に同性婚推進路線に舵を切ったわけではありませんが、パートナーシップに対する法的保護のニーズを求める声はじわじわと広がっていきました。そして、米国各州で一部当事者と法曹支援者が同性婚訴訟を起こして、そのうちいくつかで良い結果が出続けたことで、同性婚に対して微妙な葛藤を持っていたアクティヴィズム界隈でも「これは行けるかもしれない」という手応えがでてきて、徐々に同性婚をめぐる権利運動が主流化していきました。このあたりの経緯は、ぜひジョージ・チョーンシーの『同性婚 ゲイの権利をめぐるアメリカ現代史』をお読みください。
というわけで、実は元増田の意見は割と真っ当というか、問題の芯をとらえてます。というのは、元増田が書いてることは、かつてのレズビアン/ゲイコミュニティでの典型的な同性婚批判のロジックとしっかり符合してるからです。
これは上でも書いた「異性愛前提の制度を模倣・従属すべきでない」という声。
それよりも新しく同性パートナーと生きていくのに必要なことを自分たちで決めてそれを法律に落とし込んでいく方がいい
それが多様性だろ
これは「既存の結婚制度に縛られない、よりフラットな意味合いの法律関係(シビルユニオンやPACSやパートナーシップ制度など)」を求める声。これについては、保護される権利が同等でない「まがいもの」で満足すべきではない、という批判もあったりして、結局それぞれにニーズのある人達がそれぞれの路線で運動して、結果的に両方が実現していくという流れがあります。
「恋愛のゴールとしての結婚」も、やはり異性愛主義やロマンティック・ラブ・イデオロギーの模倣とみなす批判はあります。一方で、先のチョーンシーはゲイの歴史学者で「自分は同性婚が法律化されても利用しないと思う」という立場ですが、それでも同性婚をめぐる運動が当事者を強くエンパワーしていることははっきり認めています。やっぱり法律婚って、そのパートナー関係に対する社会的承認の象徴なんですよね。その関係を行政が公的に認め、社会も追認する。そういう承認を得ることが当事者にとってどれほど心強く、報われる、喜ばしいことなのかは、想像していただければわかるのではないかと思います。
元増田のような問いを受け止めつつ、それでも諸々の紆余曲折を経て、同性婚の実現による法的権利と社会的承認の獲得に向かって前進してきたのが、今のレズビアン/ゲイコミュニティだと思います。
親が発達障害の傾向がある場合、子どもにも遺伝的に引き継がれる要素はあるらしい。一方で、先天的に要素を内包していても「生活に支障を来すレベル」で発症するかどうかは環境的要因(後天的要素)が大きく影響するという。
我が子どもが小さかったときに親しくなったママ友・パパ友たち。付き合いが密で、お互いのことをよく知っている家庭の子どもたちの約80%が、「10歳前後」になって不登校・ノイローゼ・社会不適合といった、発達障害のように思える症状が一斉に出はじめた。我が家も突然に発症した。
これは…偶然なのか…? ママ友・パパ友同士は、発達的な特性を察知して「お互いにひかれ合って」仲良くなっていたのだろうかのか…?不思議でならない。
コロナ禍で環境的(後天的)要因が強まったのか、先天的な要因が支配的なのか?
社会人一年目の夏、三日眠れず、気が付いたら深夜に車を走らせて事故って(単独)警察を呼んだら病院送りになった。
はじめのうちは病気の正体がわからず、向精神薬とか飲んでたのだけど、不眠は治らなくて、イライラして癇癪を起こして閉鎖病棟行きになった。
病院にはいろんな人がいて(アムカまみれの女の子とか、認知症の人とか)みんな優しくしてくれた。
三か月くらいで退院して、月一で心療内科かかって二年。わたしは22歳を終えようとしている。
そろそろ働きに出たいのだけども、車の運転がネックなのである。
双極性に運転は鬼に金棒なのである。(どこまでも行ける気がするため)
わたしは学生時代にも事故ったことがあるため、運転がガチで危ないのだ(ちなみに車は大破し、おしゃかになった)。
双極性障害で不眠症の方、どんな職種がおすすめとかがあればコメントしていただきたい。
どうすればいいのかわからない。ハロワに行くにも運転のために親がついてくる。恥ずかしい。
「ヤングケアラー」という言葉が世間に広く浸透してきている。小学生〜高校生という自己の人格の形成にとって大切な時期に、病気や障害をもつ親の世話をすることを余儀なくされている子どもたちのことを指す言葉だ。
私もそのうちの1人だった。
母親が躁鬱病(双極性障害)を発症したのは私が10歳頃のことだった。
最初の父親と離婚し、新しい父親との間に妹が生まれてすぐのことだった。
小学校から帰ってきたら、生まれて間もない妹の面倒を毎日見ていた。友達と遊ぶことはほとんどできなくなった。家にいる間暇だったので勉強に明け暮れた。家にある本は全部読んだ。ほとんどが医学や看護の本だったけど、娯楽には十分だった。
中学に入り、家にいる時間が少なくなった。この頃から母親の病状が悪化した。土曜日も学校があったから毎月の母親の通院について行けなくなった。
母親がリストカットをしているの見たり、首吊りを試みているのを見たり、無理心中されそうになった。私が必死に「ママ死なないで」といえば、母親は涙を流し次第に落ち着きを取り戻す。そんなやりとりを何度もした。
高校に入り、将来のことを真剣に考えた。限界だった。幼い妹の負担にならないよう、父親の仕事の邪魔にならないよう、母親の世話はほとんど1人でやっていた。このままでは自分は一生この家を離れられないと思った。
だから、家を出た。全部どうでもいいと思った。
家を出て半年後、母親は首をコンセントで吊って自殺した。父親から電話で聞いた。
今でも母親が死んだのは私のせいだと思う。
「ヤングケアラー」という言葉が世間に広く浸透してきている。小学生〜高校生という自己の人格の形成にとって大切な時期に、病気や障害をもつ親の世話をすることを余儀なくされている子どもたちのことを指す言葉だ。
私もそのうちの1人だった。
母親が躁鬱病(双極性障害)を発症したのは私が10歳頃のことだった。
最初の父親と離婚し、新しい父親との間に妹が生まれてすぐのことだった。
小学校から帰ってきたら、生まれて間もない妹の面倒を毎日見ていた。友達と遊ぶことはほとんどできなくなった。家にいる間暇だったので勉強に明け暮れた。家にある本は全部読んだ。ほとんどが医学や看護の本だったけど、娯楽には十分だった。
中学に入り、家にいる時間が少なくなった。この頃から母親の病状が悪化した。土曜日も学校があったから毎月の母親の通院について行けなくなった。
母親がリストカットをしているの見たり、首吊りを試みているのを見たり、無理心中されそうになった。私が必死に「ママ死なないで」といえば、母親は涙を流し次第に落ち着きを取り戻す。そんなやりとりを何度もした。
高校に入り、将来のことを真剣に考えた。限界だった。幼い妹の負担にならないよう、父親の仕事の邪魔にならないよう、母親の世話はほとんど1人でやっていた。このままでは自分は一生この家を離れられないと思った。
だから、家を出た。全部どうでもいいと思った。
家を出て半年後、母親は首をコンセントで吊って自殺した。父親から電話で聞いた。
今でも母親が死んだのは私のせいだと思う。
10年前以上にAIDSを発症させずHIVの段階で止めておく方法がだいぶ発達したのを知って驚いた事がある。
そっから10年経った今になってAIDS発症するのってセルフネグレクトとしてもかなりの激しい部類だよ。
オカマのおじさんというのも変な呼び名だが、友達に話すときはいつも「オカマのおじさんがさぁ」と言っていたのでそのまま書いてみる。
22くらいの時に、路上で泣いてる私を気に留めて話しかけてくれ、あったかい飲み物をくれたのがきっかけで知り合った。
お金もなく仕事もうまくできず、適応障害っぽくなっていろんなことがうまくできなくて、繁華街の隅っこで静かに嗚咽してた時にパーっと寄ってきて世話焼いてくれた。今考えてもちょっとウケる。歌舞伎町やぞ。ただの酔っ払いの可能性もあるのに、私が泣いてる感じがしたから声をかけてくれたんだそうだ。
おじさんはオカマだが(ゲイ)、その時たまたま女装していただけで普段は男の格好をしていた。缶に入ったお茶かなんかをもらってそれで手をあっためて、感情失禁みたいになってた私は自分の置かれた状況を聞かれてもないのにただ話した。おじさんは聞いてくれた。なんかいい人そうだったので連絡先を交換した。
別に魔法みたいなことは何も起きなくて、おじさんの知り合いがやってる工場の仕事を紹介してもらって(一人で黙々とできるから人に気使わなくて疲れないんじゃない?とのことでやってみたら自分的にとても良かった)時どきLINEしたり飯に行ったりした。
おじさんは酒がほぼ飲めない。一杯飲んだら真っ赤になるタイプだからと酒を飲んでるところを見たことがない。バー勤務なのに働いてる時も基本はお茶しか飲んでいなかった。
何ヶ月かに一回おじさんに話を聞いてもらいにおじさんが働いていたゲイバーに遊びに行った。
そしてその店で知り合った別のゲイの人に、おじさんが亡くなったことを教えてもらい葬式に出た。
コロナでほとんどおじさんに会えず(2回くらい新宿ですれ違って少し離れたところから近況を叫び合った)、体調がちょっとね〜なんて話を聞いていたのだがおじさんはエイズだったのだそうだ。
ここで私が言いたいのは「会いたい人には会える時にあっておいてね」みたいな綺麗事ではなく、頼むからみんな性病の検査に行ってくれよなということです。
おじさんは人の世話は散々焼いていたが、自分の体調には無頓着で、しっかりエイズを発症するまで病院に行くことがなかった。
おじさんが昔は普通に結婚していて、でもやっぱりゲイである自分を偽れなくて離婚して、ゲイとして新しい人生を歩んで、そして私におせっかいを焼いて、エイズになって塵みたいに消えてしまった。
消えちゃったよ。もうどこにもいないよ。
めっちゃ優しい人ってわけでもなく結構女嫌いなのかな?って思うくらい口悪い時もあったし、100パーいい人って感じでもなかったが、おじさんがいなかったら今の私はいなかったよ。
病気が憎いよ
コロナで死んだ20代以下は2年で10人ちょい
(先進国の富裕層ほど医療アクセスしやすく発症が補足されやすいじゃん、
乳幼児期を過度な清潔環境で育てるのがどうもよろしくないってのがわかってきた
潔癖環境が癌以外にもアトピー、アレルギー、アルツハイマーを誘発していることがわかってきた
推測されるメカニズムは
乳幼児期に適度に病原体に曝露し免疫学習することで正常な免疫力が育つが、
T細胞B細胞が適切に学習できていないため、その後癌化細胞が発生しても攻撃できない
母親の母乳から免疫、IgAを受け継ぎ一年程度病原体から守られる
その後適宜体内に侵入する異物、病原体と接触し自力での免疫学習を始める。
異物の中には攻撃してはいけないものもある、常在菌の多くは有益で共生している
免疫細胞は一歩ずつ学習する、発熱下痢嘔吐があるときに体内にたくさんいる異物を「ヤバイ奴」と
判定できる仕組みがある。
免疫細胞は鎖で縛られており38.5度の体温で解けて活性する。
せっかく巡り会えた学びのチャンス。
熱でうなされている子供が医者の薬でみるみる快方すれば、そりゃね。
ともかく、そうやって成人するまで数百の異物と出会い敵味方を振り分ける
この二年間多くの親は子供を清潔に保った、公園での砂場遊びを禁じた。
発熱があれば、医者の「39度くらいまでは我慢させてね」を無視して
グリッととケツ穴に座薬をぶっこむ
子供を愛してのことだろう。
子供同士の遊びを避けコミュニケーション能力を奪い
幼い子供に、世界は見えない汚物にまみれていると刷り込み怯えさせた
精神的影響は10年20年、一生続くぜ、覚悟してる?してないよね。
皆が同じ行動を取ったおかげで消費低迷し経済がシュリンクしせっかくの貯蓄はインフレで消えた
なんのこっちゃ
自分さえ良ければの大失敗
悪いものを一つづつつまんで捨てる
そうすればいずれパラダイスが訪れるだろう。
経済や社会、人体は複雑でそんな単純ではないよね、人類が何度も繰り返してきた失敗
その後のことは今後考えりゃいい
免疫学習?
二年遅れで再開すりゃいいじゃない。
ま、ね。
でもそうはならんのだわ。
先進国で小児がん謎の急増、なんて新聞記事が出るのが2,3年後だろう。
原因は清潔にし過ぎだけではないのが厄介で、解明は不可能。
正確な答え合わせは数十年後
でもでも、なにもしないよりもなにかをして後悔したほうがいい
俺は5人を見殺しにするね、
世界的ベストセラーのスポック博士の育児書が出版以来どれほどちゃぶ台ひっくり返されてきたか
先日俺はPMBOK第7版を読んで腰を抜かした。
我々が信じていたものはなんだったのか。
だが、脆弱な我々庶民はそれでもなにかを信じ基準を設けて生きていかなきゃならない。
それを批判するつもりは無い。
タバコが健康に影響があるなら女性より男性の寿命伸び率が高くないと計算が合わない。
だけどここ半世紀の男女の寿命差はまったく変化がない。まったくだ、ゼロ
あれ?
答えあわせできてるのに、ヒステリックなタバコ排除が改まる気配は無い。
むしろ加速
タバコは肺気腫の原因になる、そりゃなるだろう、こんなもの体に良いはずがない。
そうやって悪いものをつまんで捨てて、良い結果が出るか?
アメリカは自由の国つぅけどね、ありゃ自由がないから自由を標榜するんやで
実際のアメリカ社会は自由がないねん。がんじがらめや。ストレス社会
ニューヨーク、ロサンゼルスは歯科医よりも精神科医の方が多い。
だが、俺はオマエが無害で他人に迷惑をかけていないと信じているオマエの趣味を
俺にとっては不要なものだから難癖つけて取り上げてやるぜ、が連鎖する。
誰がそんな社会を作った?
おめぇだぜ
まず
逆境サバイバー、性暴力被害者、DV被害者、家出人などは、容易に関係性の依存を発症します。発達障害、ASD、ADHD、LD、境界知能、知的障害のある人なども、悪意を察知することが苦手です。契約を適切に理解できない人と契約してはならないという規制が必要です。
という主張があるというのは理解している?
皮膚が弱く、ときどきたちの悪い炎症を起こしてかゆくてしかたなくなる。発症してから二週間ぐらい、我慢しつつも我慢できずに赤くなったところをかきむしる、というのを繰り返し、最後の方は患部が子どもの手のひら大にタラコを浴びたような惨状になってしかたなく医者に行って、ステロイドを処方してもらう。治ることは治るのだが、痕はどうしても残ってしまい、体のあちこちにそういうシミがある。
かゆい、治りにくい、というイメージが先行しているような気がするが、俺の場合もう、そういう不快というレベルを超えてしまい、病院に行かないまま自然な回復を神仏に祈っていた結果どんどん悪化させ、一番ひどいときはボロボロになった肌がまるで風化した靴下をはいたような惨状になって、しかたなく医者に行ってステロイドと抗真菌薬を処方してもらう。ちなみに、水虫に対してステロイドの使用は、薬効で皮膚が薄くなるので要注意だと医者が言っていた。それでもトータル的に使った方がいい、という判断だったらしい。
しつこい炎症や水虫を食らって思うのだけど、現代だから「困った」で済むが、100年ぐらい前だったらシャレにならない大ごとなのではないか。
特に水虫は、あのままだとたぶん、崩れた肌から何かしらの感染症を起こしていた可能性が高く、リアルに死んでいるのではないかと思う。炎症も、少なくとも生涯付き合うことになっただろう。えらいことだ。医学で言うと抗生物質の発明はマジすごいブレークスルーだったとたまに聞くが、俺的には人工的な副腎皮質ホルモンの抽出もマジ感謝というか、皮膚病怖い、という感じだ。
あと、身体的な苦痛とは少し違うが、水虫が足に出てしばらくして、ふと手の指先を見たら同じような水疱が爪のわきあたりの肌にできているのを見たときは本気で戦慄した。あらためて指を一本一本見ていったら、親指を除いた四本に症状が出ていて血の気が引いたのを覚えている。
こうなると、もう他の人間にもうつす可能性が出てくるし、なんというか、もはや「人類、よく生き残ったな」ぐらいに思ったが、というか普通に死んでいたのか、そういうやつは。
西洋の薬が登場して、肌質がそんなに強くないやつでも生きていける時代になったのか。わからん。茶殻をどうこうする、的な民間療法があったとは聞くけれど…