いつぞやの増田が書いてたような、前髪の長さにまで踏み込む校則や、掛け算の順序問題を見てると
学校というものが守りたいものが。どういうものか見えてくる気がする
意味不明なレベルにまで暴走した校則は、生真面目で、何にも染まっていない子どもというものを守りたいのかなって思うし
掛け算からは、掛け算の意味と式の意味っていうものを子どもに理解して欲しい、それを守りたいのかなって思う。
大人が作った子ども像、子どもはこうあるべきで、こう考えているのが望ましい、みたいなものを刷り込むのが教育だけど
長年の学校教育の歴史の中で、あまりにも世間から隔離培養された結果、あさっての方向にねじれた保守文化ができてしまったように思う。
学校はねじまがったそれを刷り込むことこそ教育だと疑ってやまない。
それを教えることに誇りすら覚えてるだろう。
だから、前髪の長さやかけ算の順序が日本の学校以外で何ら意味のないものだと知っていても、それを廃止しよう、変えようという気が起こらない。
最悪、日本の学校以外で何ら意味のないガラパゴスなものだと認めても、それが教育現場では必要なのだと開き直るようになると思う。
いじめ自殺者を前に、いじめが「あった」「なかった」で議論が始まるのも、長年にわたって形成されたあるべき学校、あるべき子どもを守りたいからだと思う。
大きく報道されて社会問題になってさんざんバッシングされて、やっと、学校にいじめや暴力や学力低下やが存在することを、学校が認めてもよくなるんだろうなあ。
まあ印象論だけど。