はてなキーワード: コンマとは
なんか知り合いが、↓を読んで、全く判らんが何だこれって言ってたんで解説したのメモっとく
英語が読めるようになるには英語を読むしかないが『日本人の英語』シリーズは読む価値あると思う - しいたげられたしいたけ
ぶっちゃけ、「the」って言ってんのにそれが自明以外で説明がなかったらキレて良い。
「オレの言ってる姉は、例のアレよアレ、あのアネよ」って制限するって意味がまずある。
そのまんま引用するけど、ここで「older sister(姉)」って言ったあとに、
なんかシカゴとか言ったな、姉の説明ねって、英語話者はボーっと聞いてたら思う。
これを聞いた日本人は、どう思う?
『そんなん、聞いてる相手によって違うに決まってんじゃねーか』が正解。
この状況だと、父は「ああ、2人の姉のうち、シカゴの方だってのを伝えようと制限したんだな」って考えるわけだ。
まあ、考えないけど。どっちの姉ってああシカゴの方のねって理解するだけで。
この状況だと、友達は「ほーん、姉ちゃんシカゴに住んでんだ」と素直に思うだろう。
おいおい、前提条件で制限用法か非制限用法か違うってナニソレ、とか思うだろ?
(厳密に言うと、『日本人の英語』での説明にも『前提条件無しで短文を読むなら』ってのが常についてると思って読まないといけないハズ)
そうすっと、「どういう姉」かを伝えるやり方があって、
って書いてあったら、日本人は「ほーん、じゃあシカゴに住んでない姉も居るのね」って考えるから、
って意味である、ってのが「I visit my older sister who live in Chicago.(コンマなし)」の解説なワケよ。
このまんまだと判り難いだろ?
疑似C言語あたりにすると、こんな感じ。
#define CHICAGO 1 int sister[3] = {45, 43, 41}; int who; who = CHICAGO; printf("%d", sister[who]);
まあ結果は43が出てほしいよね。
シスター配列を、CHICAGOで指定してんのね。sisterを指定するのに使う変数がwho。
ならこんな感じ
#define CHICAGO 1 int sister = 43; int who; printf("%d", sister); who = CHICAGO; printf("%d", who);
で、その後、どこ住んでるかの番号が出力される感じ。シカゴだ。
英語のカンマは、「そこで一回出力してくれ」って命令だと思うのがコツ。
カンマが入っていないwhoは、ワザワザそれを伝えて限定しようとしてると読むべき。
遅れて鑑賞。若い子も多かったがカップル以外の客も増えていて、結構年齢層も公開初週よりは上がって来たのではないだろうか。以下、長い。
年間とかではなく今までの興行収入ランキングみたいなものを見たら分かると思う。
何故売れたのか?と疑問に思うものまでさまざまだ。
少なくとも「スカスカ」映画ではなかったし「何故売れたのか」という点でも完璧ではないが、ある程度説明つくのではないか。
ステマだけではなく本当に評判が良い映画が自分に響かないと、ただ普通につまらない映画を見たとき以上にガックリくる。
この映画を見る今日まで、映画通やら映画通という名のアニメファンやら映画通という名のやり○ん騒動男やらの、いろんな批判を見た。
映画が好きな自分からすると、「そうか。食いつける映画なんだな」ということで、自分にとっては逆宣伝になった。
(まぁ信頼する映画通たちは結構試写時点で絶賛してたんだけど)
映画が好きだと書いたが、アニメ映画に関してはもっぱら円盤待ちの人間なので、その自分を映画館に行かせたという効果は絶大だ。
まず自称新海ファン評の「新海らしくない映画」だが、しっくりこない。
むしろ新海監督のファンサービスがちりばめられていて、過去作好きこそ振り回される映画ではないだろうか。
キャラ、ストーリー構成から唐突感だったり、詩的な部分だったり、感覚的な部分。とても「新海らしい映画」だと感じた。
むしろ新海らしくないというのなら、何らしいのか。
思いつかないので、やっぱり新海らしい映画だった。
隣りで見てた50オーバーが号泣し、終わった後感想を熱弁していた。50オーバーを若い世代という世界には住んでいない。
しかし確かに今まで見てきたアニメ映画とは、一味もふた味も違うのかもしれない。
ニュージェネレーションに対するギャップが、ある人にとっては大きかったのかもしれない。
例えば主役が高校生だから高校生しか感動しない。というのは馬鹿な話である。
じいさんが主役でも、子供が主役でも、感動するものは感動するだろう。無理なら想像力が欠如している、と言っているようなもんである。
RADWIMPSは嗜む程度だが、あまりRADWIMPSらしくもなかったので、激烈RADファンからすると絶賛はしにくいんじゃないか。
自分のような嗜む程度のやつに、ちょうどよかった。
歌もしっかりはまっていたし、劇判にも仄かにRADらしさがあった。しかしやっぱりそんなにRADらしさは無かったかもね。
つまりファン以外も満足しているということだ。(ファンもある種の初期RAD感が出ていて嬉しいのかもしれないが)
ここはとても「邦画」感が溢れていた。秒速~以外に、自称映画通なら何作品か思い浮かべたいところだ。
昨今の邦画は設定を詰め込み、それを全て説明しようとしてくる。故に物語に勢いが無くなったりする。
しかしそこまで説明されずとも作りこまれている映画に傑作が多い。本家アカデミー賞受賞作などを見ると、設定をしっかりした上でとにかく勢いが凄くて、設定なんてどうでもよくなる。
その部分がエンタメ邦画には足りないなぁと常々思っている。(無いとは言わないし、説明カットし過ぎてダメなのも邦画あるある)
結局作りこみすぎると、ヲタクは解説したくなってしまうのだ。(ヲタク=脚本家・監督)
君の名は。はその絶妙なバランスにたどり着いた。日本人が受け入れられる塩梅での。勢いと説明の狭間だ。
例えば、見てない人には分からないだろうネタバレだが、三つ葉が父を説得するシーンが今作には無い。しかし説得した、と分かる。
でも後々…もしかしたら見終わった後で、もしかしたら2回見た後で「あ、そういえば説得してたな」と気付く仕組みになっている。
見ても無い自分が「フィクションだからさぁ…」と突っ込みたくなるような批判だったが、見た今なら「あれはこういう意味があったんじゃないかな?」と推測できる部分がしっかりある。むしろちりばめられている。突っ込んだ人はもっとストーリーをみるべきだった。
きっとリピーターは血眼で探しているだろうし、他のそういう手品のトリックみたいな演出も、多分2回見たいと思わせる構成だ。
男女入れ変わりと聞いたら、転校生を始めいろんな作品が頭をよぎるだろう。使い古された設定に見えるかもしれない。ボーイミーツガールは王道だし。
その設定を使ったこういう構成の脚本を、薄っぺらいと言うのか。本当にそう思ったのなら絶望的な感覚である。とまで言っちゃう。
「薄っぺらい」ではなく「説明なさすぎ」の言い間違いじゃないのかなあ。
これくらいで良いと思うけどね。商業映画は。(もう一度見て理解したいと思わせる技は必須)
おっぱい揉んだりパンツが見えたりしただけでヲタク向けになるのか。
パンチラは角度的にどうしても見えてるだけであって、逆に見えないのはあの画の中では大きすぎる嘘になってしまう。
パンツが見えないのはギャグだ。リアリティがない。むしろ日常萌えアニメはミニスカで絶対見えるパンツを描かないことで、フィクション感をだしている。
ていうかパンツ一瞬しか見えない。コンマ何秒とかしか見えない。騙された。
この理屈と同じで、実際あの状況なら胸は揉むだろ。
そんなわけであがっている批判を見ても、「え?なんでそんな批判があがるの?」というものばかり。
(例えば漫画原作のように<漫画という神>と違うからという批判は、心情的に良く分かる。調理した方と見た方の問題は根深い。)
是非まだ見てない人に、見てから判断してほしいと頼みたい。別に批判をする人がわるいわけではない。的外れな批判が溢れているだけだ。
どうも売れすぎて、色んな雑音が耳に飛び込んでくる状況になっている。
これを読んでる人は、君の名は。のことが気になっているはずだ。素直に、自分がどう感じどう思うか?と映画で考える良いチャンスなのだ。
そういう空気が付きまとう世界情勢で、映画界、とくに邦画界にもある時点から閉塞感があった。
いつだって現実が向かってきたし、夢物語は無い。そう示してくる話が多く、心の片隅が窮屈な想いをしていた。
若者たちは経済が少し上向いても無駄遣いをしない世代になった。夢を見るやつは、馬鹿だと思っていた。
でも「君の名は。」は希望のある夢を見せた。ここまでの大きな夢は、もしかしたらあの時の自粛ムードと共にタブーになっていたたのではないかと思う。
フィクションだから、アニメだから、一つの大きな嘘を内包することができた。
なにかの穴を埋めてくれたのかもしれない。
根本的に痛みの種類が違うのだ。
心臓が痛むときの痛みとかアッチ系の訴えかけてくる神経がまず違う痛みだ。
レバーフックなどを綺麗にもらうと人間はまず呼吸もまともにできなくなる。
その痛みに対して「いたい」等とも言えない、痛みではなくもはや「苦しみ」と表現してもいいくらいだ。
とにかく行動不能に陥る。
金的も同じような状態で、なおかつレバーフックを同時に10発は打ち込まれた痛みだ。
文字通り何もできなくなる。
ただコンマ1秒間隔で襲ってくる吐き気と苦痛にひたすら無限とも思える時間を孤独に耐え続けなければいけない。
自分の視界だけが暗くなった状態でとにかく絶望の味が過ぎ去るのをひたすらに祈りにも似た思いで耐える。
そして、その間痛みは「波」ではなく「常に最高潮」を維持し続ける。
悲鳴が出ない代わりに体の皮膚からは耐えられない苦しみから脂汗がにじみ出てくる。
力すら入れることもできずにただ赤子のように横に倒れて顔の筋肉だけ痛みのために運動する。
痛みで何もすることができないのだ。
呼吸も危ういため泡を吹く、ヒッヒッフーなどできるわけもないのだ。これは出産か。
それに比べれば叫んでわめいて力むことのできる出産の痛みの何と慈悲深いことか!
赤子を出産することができる程度の力を使うことができる痛み!
金的に比べて、何と慈悲深いことか…。
もし赤子をひねり出す際の痛みが金的と同じならば誰も無事生まれてはこなかっただろうし、
金的並みの痛みを味わいたい女性は今すぐボクシングジムにいき、
そうすれば晴れて金的の理解者として男性ひいては物知らずの女性にマウンティングできるはずだ。
そう!出産の痛みは体験できなくとも金的の痛みは体験可能なのだ!
なんだ、こんな痛みで転げ回ってたのか、男は大げさだなあ!と大笑いしてみせてくれたまえ。
いつも増田でやってるような感じでガッハッハと腰に手を当てて笑って見せてくれたまえ。
強い女性であるならば貧弱な男のように顔面決壊に涎を垂れ流しながら
「オゥ…オゥ…」などと芋虫のように寝そべったりしないはず。
ぜひ試して来てほしい。
「付き合ってる人に、風俗行かれたんだけどさ……」と話すと、大体コンマ二秒くらいで「別れなよ!!!!!」と即答される。
そう、私の最近起きた出来事のなかで最も辛いのは、「彼氏に風俗に行かれた事」であった。
風俗ありえない!最低!派と、男だから仕方がないでしょうと言い切れる派、意見が様々なことはわかるよ。そこのあたり、重々承知で言わせていただきますが、正直、微妙なラインの問題だと思う。
と、知り合いから聞いたときはもうとにかく、やりとりをしていたラインの文章みながら、ひたすら泣くしか出来なくて、別れるとかそういうレベルの話をできる状態ではなかった。
周りが配慮していてくれたお陰で、半年くらいの間バレずに今になってバレた事に感謝していいのか悪いのやら……。
会社の付き合いでいかれるならまだしも、酒とノリで、さらには、自分の稼ぎではなく、親からの仕送りを使って風俗に行かれる厳しさ。
どこに突っ込めばいいのか全くわからん。
事実が判明した直後に、『風俗 ピンサロ』で動画検索かけて出て来た動画を見て、悲鳴をあげて、スマホを投げた。
私がこうして取り乱している間にも、金で、″突っ込み所″が満載になっている夜の町を歩いているのかと思うと、また泣いちゃいそうだよ。
面白くねえよ、クソ
このスレを見たって、コンマを使っている人はほんの一部だけで、圧倒的多数は読点・句点だろ。
それが現実。
なお、「どれがフォーマルか」という点で言うなら、「フォーマルなんてものは存在しない」というのが正解。
しいて言うなら、「かなは平仮名でなくカタカナを使うのが昔のフォーマル」と言える。(今は違う。)
例の文書では、「欧文との混在では、コンマ・ピリオドに統一した方がいい」と書いてあるだけ。
欧文との混在でなければ、コンマ・ピリオドにするメリットは何もない。
一方で、コンマ・ピリオドにするデメリットは明白にある。それは半角のコンマ・ピリオドを使ってしまうことだ。
半角と全角が混在するのはまずい。特に、半角のコンマ・ピリオドは最悪で、文書で後述の「二分アキ」が消えてしまう。
あなた(上記増田)もまた、半角のコンマ・ピリオドを使うという大チョンボをやっている。
こういう失敗をなくすためには、読点・句点の方がいいんだよ。半角の読点・句点なんて、普通は使いたくても出てこないんだから。
The sacrifices that the two countries have been told they must make ARE to restore stability to the world economy
are
almost if not completely the opposite of each other.
不要語は、make ARE to restore~ のARE.
The sacrifices that the two countries have been told they must make to restore stability to the world economy
are
almost if not completely the opposite of each other.
構造は、
S The sacrifices that the two countries have been told they must make
不定詞 to restore stability to the world economy
V are
C almost if not completely the opposite of each other.
if not completelyがコンマで挟まれてたら、almost(ほとんど)とcompletely(完全に)の対比に気付けたかもしれない。
almost, if not completely, the opposite of each other.
名詞】【可算名詞】 [the opposite は 【不可算名詞】]
(正)反対のもの[人,事,語] 〔of〕.
用例
He thought quite the opposite. 彼は正反対に考えた.
http://ejje.weblio.jp/content/opposite
if notはイディオムになってるけど、あえて省略されてるとこを書き出すと、
if it is not completely
itはこの例文だとThe sacrificesになる。
if not のifは、「~ではなかったとしても」っていう逆接の意味が含まれてるんだろう。
追記;
メモ用
入り数:12巻 60m \309
1mあたり: 0.42円
入り数:96巻 60m \2392
1mあたり: 0.415円
入り数:18巻 100m \1620
1mあたり: 0.9円
入り数:60巻 100m \3340
1mあたり: 0.55円
入り数:18巻 60m \471
1mあたり: 0.43円
入り数:540巻 60m ¥11240
1mあたり: 0.346円
入り数:18巻 60m \378
1mあたり: 0.35円
入り数:18巻 60m \397
1mあたり: 0.367円
入り数:18巻 60m ¥397
1mあたり: 0.367円
我が家(単身、良くお腹を壊す)だと、年間でシングル18巻を2パック買うので単純計算で36巻。シングル60mなので36*60=2160mが家庭での使用量。
1m0.5円 = 年間支出1080円
1m0.4円 = 年間支出864円
差額: 216円
なので、単純計算で4人家族なら800円になる。あくまで単純計算。
世の中のトイレットペーパーはだいたい1mあたり0.5~0.6円なので中間を取って0.55円として、上の一番安いカ○ンズの0.35円と比較すると
1m0.35円 = 756円
1m0.55円 = 1188円
差額:432円(1人あたり)
この差額をこんなもんと考えるかどうかは人次第だけど、トイレットペーパーって使い続けるものだし…もし特に家族住まいなら…って考えると節約に価値はありそう…貧乏性なもので。
そんな僕がめでたくこの度の異動で光回線の使えないところ(建物)に住むことになった
(追記:言葉足らずでした。地域的にはフレッツ光隼なんかもあります。ただ社員寮で工事して回線を通すということができないのです)
ネットを生きがいに生きてきた僕にはそんなところでの生活なんて想像がつかない
なので、同じところに住んでいたことがある,もしくは今住んでいる同僚等に
「ネットはどうしていたんだ?」と聞くと
たいてい「WiMax」やらスマートフォンを使って「テザリング」を利用していた
と言う
そう、大学生協で買った詐欺同然のオンボロノートPCでツイッターやフェイスブックやユーチューブ見るくらいしかPCを使わない…というかPCなんて仕事で使うくらいでプライベートはスマフォで充分
みたいな人ばかりの職場で聞いたのが間違いだった
でも僕はプライベートの時間は全てミドルタワーの自作ゲーミングPCの前にいるような人間なのだ
なんてのは無理だ
でも待てよ…
2015年現在、いくらオタク系の人間が少ない職場といっても、ネットにこだわりがない人ばかりなんてことはないだろう?
もしかするとWiMAXやらLTEテザリングは僕が思っている以上に快適で、オンラインゲームも楽々できるのではないか?
そう思い調べ始めてみると最近はWiMAX2+なるものがあって、それでオンラインゲームを楽しんでいる人もいるようだ
やった!救われた!
しかし良く見ると、超重要にも関わらず目を凝らさないと気づかないくらい小さい文字で注意書きが
ええええええええええええええ
そりゃ、普通にネトゲしてるだけなら3日で3Gも使わないと思うよ?でも例えば金曜日に大型パッチがきたり、Steam欲しいゲームがでたり、セールしたりしたらどうするの?
で、さらに調べるとどうやらソフトバンクAirなる、制限皆無の似たようなものがあるらしい
でもソフトバンクかー…いい思い出ないんだよなあ
というところで本題です
WiMAX(2+)やソフトバンクAir、あるいはLTEテザリングなどを使ってオンラインゲームをプレイしている人、していた人
使用感はどうなのでしょうか
僕の状況は
・都道府県単位ならクソ田舎だが県内で言えば都市部住みの為WiMAXだろうがソフトバンクAirだろうがLTEだろうが対応エリア
・コンマ何秒のラグが勝敗を分けるようなFPSなどのゲームはほとんどしない。たまにするけれど下手糞なのでその程度のラグなら誤差の範囲
・1日のプレイ時間は平日ならだいたい3~4時間程度 休日は1日中 ようは仕事と寝る時間以外全部
・利用期間は1年ほどの予定(延びる可能性もあり)
自分の中ではとりあえずLTEテザリングはないなーと思っているので
モバイルルーターなので有線の光回線を利用できるようになっても、外出先などで使えるので2年縛りでも無駄にならない
(まったくあてにならないと思うが)一応ソフトバンクAirより倍の速度(200M)が出るということになっている。またWiMAXの電波がイマイチでも有料でLTEも使える
モバイルルーターなので受信感度や安定性に不安、ホームルータータイプもあるが、どうせWiMAXならモバイルルータータイプがいい
3GB制限なので大型パッチやゲームのDL、動画などをたくさん見るとあっという間に3GB超えてしまう そもそも通信量を気にしながらネットをするのは精神衛生上つらい
自宅利用前提のものなので、AC電源のホームルータータイプしかなく、おそらくWiMAXより安定している(と思う…)
おそらく2年とたたず光回線のある場所に移り住むので、モバイルルーターとして利用できないこいつは完全に無駄になる(違約金払うor無駄に月額料金払うのが癪)
そもそもいい思い出がないのでソフトバンクの回線というのが不安。調べてみると不安定で切断されることもあるとかなんとか
一応下り20M未満のところは契約すらできないとのことだが、昼間に測った数値らしくそんなものは当てにならない
同じような状況、過去に同じような状況だった、あるいは知り合いに同じような状況の人がいたという方
私は句点が嫌いだって増田があったけど、それとはまた別の話で、句点の代わりにピリオドを使う人はなんなの? 常々不思議に思ってたんだけど。
http://anond.hatelabo.jp/20070917212014
論文ならわかる。俺も6年間数学をやったし論文はもちろん「, 」「. 」で書いた。でもそれを日常生活にまで持ち込んでいる意図がわからない。俺の想像力が足りないのかもしれない。理系っぽさアカデミックさのアピールなのかなくらいにしか思えない。
PC の設定を直すのが面倒ってそれほどか? 他の人と違う記号を使うことが気持ち悪くないのか。気持ち悪くないにしても「おめぇここは大学の論文書く場所じゃねえよ気取ってんじゃねえよ正しい記号使え」とか思われてないかなと気になったりしないのか。俺は何よりもこういう想像をしてきちんと使い分けるようにしたけど。
ですがそれは例えば句点と読点とそれに付随する改行たちとの織り成す三角関係であり地道な:とか;とか/にとってははなはだ迷惑な作業なので骨董品が日に日に人生を増していくことが我々人間の果たすべき責務であると考えた放送倫理協会会長の皇木渥州(すめるぎあくしゅう)はしかしながら爆死という凄惨な最期をとげたので皇木の遺志を継いだネス・カンボルダリュの痔頭割草(ぢあたまわるそう)やバイ・セクシャルの異名を持つ迎礼図夫(げいれずお)ならびに両性具有の金玉子(きんたまんこ)らによる政界をも巻き込む派閥争いが繰り広げられることを予想していたものは少なくあるいは併設された霊園のその不自由な濁点とレスポンスをピアノの流麗な喧騒により等式と為しそうだ何故気づかなかったのかと思えば隣に住む幼馴染の浩太郎は昨日ギロチンで首を切られ死んでいるのを山太子が見つけたのでG7の登場音楽と共に物騒を堅実に潜る現実感の無い様に人知れず拍手を送ろうと思いましたがトップランナーを破り捨てた平日の芸術は軽く流す程度に瑞々しく大量の激情を甚だ神戸和牛によって育てられたもののけ姫は乳房が膨らみきらぬ内にアイスクリームのへらでまんこをまんこまんコンマ37秒の世界に唐突に実際が現れその程度の時間で何もかもが青春の中に消えてしまった人間を幾人も見てきたが配当金を捨てることが最も不確かな正解であることをおぼろげながらでも知っていたのではないかあるいはですがしかしかつてともするとなぜかなのでもしも副詞節が半濁点とクエスチョンマークの間にあったならこのような争いは闘争は不自由は差別は贔屓は殺せと親父が言ったがおれにはとてもじゃないが出来る気が違っているのはアルバムを温泉に漬かった猿のみならず縄に封じられたアイスクリームとその添加算装置換気球に乗って空を飛ぶことが平生の夢であったのは間違いなく時として不自由な選択こそがそうお気づきのとおり話題はループザループを決めた澤野はエロ漫画をくすねたことにするとほらあの複雑な等式が一気に明朗快活なX=12という式に向かって痰を吐きつけた犬を食い散らかすカラスをひき殺したダンプの運転手の背中に張り付くヤモリのDNAに渦巻く3点リーダこそがこの世界のひとつの平和のあり方なのであった……
【総選挙2014】みな勝手に投票すればいい http://politas.jp/articles/282
を読んだ。あずまんが、「白票投じる」とかいうゲロ吐きそうな意見を取り下げたことは喜びたい。そして、小選挙区、自民。比例区、社民だそうだ。結構なことだ。彼の本はそれなりに愛読していたので彼に失望しなくて済んだ。
それにしても、今回のタイトル(=結論)を見るに、あずまんは選挙がもともと「みな勝手に投票すればいい」ものだということをよく分かっていなかったらしいということに驚いた。どんだけ自意識過剰だったのか。また、ブクマで共感を表す人が多いことにも驚いた。みんな、自分の投票行動で世界が大きく変わるとでも思っていたのか? そして、「よりよい未来を選択するために、戦略的にベストの行動を全員がとる必要がある」とでも思っていたのか?……とんでもない勘違いで、それこそ危険極まりない思想だ。大体、みんなが熟考して最適解が本当に出るなら、全員同じところに投票することになるではないか。そんな政治判断、危険極まりないではないか。そんな危険な状況を回避するための「民主主義」なのではないか。
「民主主義」が、事実として最低の政治体制であるにも関わらず、我々に他の選択肢がないのは、「愚者でも政治に参加できる」という方法が現状このほかにないからだ。つまり、民主主義とは愚者の集団が国家を運営するための唯一最善のシステムなのだ。あずまんが言うことはごく当たり前のことであって、国政に対しては、国民一人一人はどれだけ熟考しようと事実上愚者同然であることは明白だ。だから、一人一人の投票行動が最適であることなど、民主主義は期待していないし前提もしていない。むしろ、一人一人の投票行動は最低であってもいい、情や直観は大歓迎だ、そんなことは、最初から織り込み済みだから……というのが、当然のものの考え方だ。馬鹿でも集まればそれなりの判断ができる、そして、判断はいずれ下さなきゃいけない、だから、自己の判断に最低限の責任さえもつなら(あとで「俺は投票しなかった」なんて言い訳さえしなければ)、馬鹿は馬鹿なりに投票してよい。当たり前の話だ。それが民主主義だ。最初から分かっていることだ。だから、白票も棄権もダメなんだ。
そんな話を、大の大人が(しかも相当程度教育水準が高いはずの人々が)分かっていなかった、ということに今回衝撃を受けた。教育の問題か、哲学の問題か、文化の問題か。おそらくその全部だろう。とりあえず、「民主主義ってなんなの」ってことは、最低限、学校でもう少しちゃんと教えた方がよいと思う。「多数決」という最悪中の最悪な方法が許容される根拠も含め。
今回、あずまんは小選挙区で自民の候補者を選んだ。支持政党ではないが人間を見て選んだという。なるほどそれなりに合理性があり賢明な判断だ。その人を選んだことの責任だけは、今後数年間自分の中でかみしめればいいと思う。結果として、自民の興隆に手を貸すことになって後悔するとしても、「選ばなかったもんね」とか「白票を投じたから知らないもんね」という人間の偉そうな物言いより、ずっとずっとマシで評価できる。そして、比例区では社民を選ぶという。これも、少数派の選択ということで、大変結構なことだ。自分の主張に一番近い政党を選んだということなのだろう。社民に入れたことで果たして彼の主張が実現される可能性はコンマ1パーセントでもあがったのか否か、いろいろ葛藤もあるかもしれないが、それでも選んだということだけを忘れなければそれでいい。主権者としての責任を果たしたと言える。
ちなみに、かく言う自分は、たぶんあずまんとはいずれも違う選択をするだろう。それでも、あずまんが一人の大人として選挙に臨んだことは本当に嬉しく思っている。この文章は、ブックマークを見つつ、あずまんと同じような葛藤を抱えている人が一人でも多く投票に足を運んでくれればいいと思って書いた。この文章を読んで、「俺は投票しねえ」と思ってる人の心に、それでも少しでも何かが残れば、満足だ。
数学がやや得意だった者だが、だいたい合ってる。
私のスペック:早慶。東大ほどではないが、何もしないでクラス1~5位ぐらいをたまにとったりする気まぐれ屋。
で、アドバイスしておくと、高校数学まではいくつかのパターンに反射しているだけで、ぶっちゃけ何も考えなくてよい。
下手に本格的な思考をする必要はないし、考え過ぎるのは場合によっては逆効果。
何故なら、本格的なことを考え過ぎると時間が足りなくなるから。
むしろ考えることを停止して最小限のパターンに順応するだけなんだよ。
これらも特定の場所のみに注目するもの(=抽象化するもの)で、いちいち全ては考えていない。
というかそんなことをしていたら時間がいくらあっても終わらない。
だから何処が急所なのかを考え、局面を単純化し、限定的な思考をする。
実際、羽生さんなどの将棋のプロ棋士は、目線を調べると、アマチュアに比べ、その目線がほとんど動かないらしい。
つまり頭のよい人は、全て読んでいるわけではなく、大事なところだけを深く見ているわけ。
なおかつ、何処が大事なのかを無意識に取捨選択している。そういうのに慣れているだけだと思う。
これも(サッカーなら)そろそろこのへんにボールが来るという抽象的なパターン認識をして、
体がそれに反応しているだけだと思う。
自転車に一度乗れるようになると、ずっと乗れるのに近い。
しかもスポーツの場合、コンマ何秒で決まる世界なんだから、深読みし過ぎると間に合わないという事情もある。
※ただし、いつまでもこの考え方で通用すると思っていると、大学院や社会で詰む可能性がある。