はてなキーワード: あまつさえとは
結局さ、90%の精度のものと99%の精度のものは9%しか違いがないから価格は1割増しでいいよね。
と思っている人が大量にいて、普通に言ってくる人がいる。
あまつさえ、サービス側で連続運用99%保証(出なかったら金返す=>つまり出ない)なんてのもザラ。
それをやられると、本当に99%の精度出している人たちが盛ってると思われるから困るんだよね。
もっといえば、99.9%とか99.99%とかな。このへんになってくるとプロしか買わないからどうでもいいだろうけど。
僕ら技術者がリア充嫌いなのも同じ。デフォルトで盛ってる人間には勝てない。嘘には上限がない。
それをおかしいと言うつもりはないけれど、盛ってるのがデフォルトとか思ってる人がいるのは、どうもね。あきらかに、あんたらのせいもあるんじゃね?
モテないのはそればっかが理由じゃないから、そらいいんだけどね。
論破すればって、比較広告みたいなのは日本じゃ流行らないし、第3者にあからさまに他人(当事者)の嘘や欠点を指摘するのはタブーだしな。
猫を拾った時に人は自ら忠誠を誓う奴隷になる、とはよく言われている事だ。
その心の底から湧き上がる可愛さと愛らしさ、内に秘めたしなやかさ、双眸に澄んだ水のような瞳、風を引き連れて練り歩く凛々しさ。
成る程、確かに頭を垂れながら脇腹をスリスリしてしまうのは必然と言えるかもしれない。
だがそれは、どの動物に対しても同じと言えよう。ハムスター、犬、鳥、蛾、蛇etcetc
それが多大な出費を伴う事にわかっていながら、己の自由を束縛する事を理解していながら、何故人は動物を飼ってしまうのか。
近隣の住民に迷惑をかけるかもしれないというのに、奴隷達はあまつさえ自由を放棄する事に喜びを感じ、己らの主君に愛と心酔、なにより銀のスプーンを献上して至極の悦に入っているというのだ。
何故だかわかるか!? 何故我々は可愛いものに対しいわゆる「萌え」を感じながら崇拝し、自らその首に見えざる首輪を嵌めて喜ぶのか!?
そうだ!人は支配されたがっているのだよ!とりわけ己がそれ程美しくないと自覚しているものは!己より美しい物に対し・・・羨望と、崇拝の念を抱かずには済ませられないのだ!己より優れた物を敬わずにはいられないのだ・・・。
人との間でも感じた事があるはずだ。人と人との助け合い。責任ある者の決死の判断。その心をほっこりさせるような、嬉しくさせるような物はその者達だけの主観的経験であり、我々がその時その場面で体験できる物ではない。手に入らないのだ!特に、それらに類する物を持っていない者達には。
「己が持っていない物をあらかた併せ持つ動物」、ならばこれに崇拝と愛情を抱くのは当然ではないのか。
その凛々しい凱旋に心ときめかずにいられる者が、何人この世にいるというのだ。誰がその美しさに、決して手に入らぬ美しさに、唾をつけて放り上げる事ができるというのだ!「猫」に対しては出来るかもしれない。その美しさに興味のない物ならば。
だが、例えば聖女と世に謳われる少女達、荘厳な大自然の営み、あの森林のなかに静謐と共に佇む古城、漫画やアニメの中で活躍し回る女の子達、これらならば全くの別だろう。どれも手に入り難き、真に迫った美麗のみ。ケースの中に入った高価な宝石でもいいぞ。金の浴槽でもいい!
つまりは、だ。人は己の持っていない美に対して愛情と崇拝を抱き、その前に拝して自ら首枷をつける事を望んでいるのだ。それは知性ある生命体としての、己の経験を彩る為の屈従に他ならぬ。人は!ホモ・オモヒアなのだ!
崇めよ!その真に迫った美麗達を!
それで全てが統治され、全人類が頭を垂れる時が来るだろう。耳無き物に美麗の福音を知らせねばならんのだ。盲目の物に、音楽の流麗なる水の如き美を、見せてやらねばならんのだ! 美なき所に崇拝と羨望は訪れないのだ!
思いやりのふりして単に自分が悪者になりたくないために嘘をついてるだけのくせに、その嘘を正しく看破してもらえないことに苛立ちを覚え、あまつさえ被害者面をしている。
なんという自分勝手で醜い図式か。
「ゆっくりと殺され」たくなかったら、最初から正直に「あんたの言葉に傷ついたから別れたい」と言えばいいだけなのに。
そしたら即死させてもらえるよ、「なんだよそれ、今まで不満を隠すだけ隠していきなり最後通告とか卑怯だろ、話し合いで改善する意思もなかったってことかよ。ああそうかいそんな奴はこっちから願い下げだよふざけんな」って。
それがイヤだからヘタな嘘ついてごまかして、何とかイイ人のまま終わろうとしてるんでしょ。
http://anond.hatelabo.jp/20130402215709
この記事について。
私はただ一つ「この記事には論理的誤謬があり、なおかつその誤謬によって害が引き起こされる可能性が大いにある」という話をしたいと思います。健常者がどうのアスペルガーがどうのという話ではありません。まあ書きながら考えるので変なところに着地するかもしれませんがとりあえず目指すのはその辺です。以下本文。
まず、「健常者にも色々いる」とご自分で述べておられますね。
それにも関わらず、「だからアスペルガーは嫌がられるんだよ」という主張の論拠として使われているのは知人のアスペルガー男性のエピソードのみ。アレかな、「アスペルガー症候群にも色々いるんですよ^^」っていうツッコミ待ちの記事なのかな。
「私の知り合いのアスペルガーが嫌がられる本当の理由」という題名でもないしそのように解釈できる文言が本文中に書かれてもいない以上、「こういうわけなのでアスペルガー(の人間は普通皆)嫌がられるんだよ」という意味にしか解釈できませんよね(論拠は筆者の会ったことのある「アスペ男性たち」の印象と、たった二人の人間のエピソードだけだけど)。すくなくとも筆者の方はそのような意味をこめて書かれたと解釈したんだけど、違ってたら申し訳ありません。
まあ自分で「自分は医者でもないしアスペルガー100人に会ったわけでもない」と丁寧に注をつけておられるし、「アスペを全否定はしない」とまで書いていらっしゃるので、この題名はどちらかというと人を釣るために極端な題名をつける技法の一種ではあるのでしょう。
しかし、「アスペを全否定はしない」のくだりの直前まで「アスペルガーは~」「アスペは~」と相も変わらず「普通アスペルガーはこうなんだよ^^」とでも言わんばかりの叙述が頻出していますよね。というか全編そうなんだけど、「健常者はこうなのにアスペってほんと迷惑だよね、困るよね^^;」という記述、論調になっています。実際に読み取れるのは「私はこうなのに知り合いのこいつらはこんなやつらなんだよね、困るよね^^;」という内容だけであるにも関わらず、一般論に見せかけようとしています。
つまり、この筆者は、「自分VS自分の知り合いのアスペルガー」の構図を「健常者一般VSアスペルガー一般」という構図に敷衍しようとしているんです。
自分は「自分VS自分の知り合いのアスペルガー」という例しか知らないにも関わらず、「健常者一般VSアスペルガー一般」として、あまつさえ「アスペルガー一般」を悪であるかのように語ることは紛れもなく邪悪な錬金術です。比喩を使わずに言うと、詭弁です。自分の「知り合いの困ったアスペルガー」という個別事例を「アスペルガー症候群の人間全般は困る」という大きな空想に仕立て上げる言葉の錬金術は、意図的にやったならば紛れもない邪悪です。この「自分は医者でもない~」や「アスペを全否定は~」のくだりは、この邪悪な錬金術をごまかそうとする、実の伴わない、卑劣なエクスキューズであると言わざるをえません。
……とここまでかなり過激な言葉を使ってきましたが、これは「アスペルガーが嫌がられる本当の理由」が書かれた意図をまあ悪いほうに解釈した場合の話です。よりマシなほうに解釈するなら、この筆者さんは<早まった一般化>の罠にうっかりはまってしまったものとも考えられます。<早まった一般化>とは、要するに「X高校の生徒Aは不良だった。X高校の生徒Bも不良だった。したがって、X高校の生徒は全て不良である」とやってしまう論法のことです。当然ながら論理的に妥当ではありません。しかしよくやっちゃう誤謬だからこそ名前までついているのであって、うっかりやってしまうことがあるのは仕方ないともいえます。
しかし、これを「仕方ないねー、次から気をつけてねー」で済ませてしまうことはできないと考えます。
なぜなら、意図的であれうっかりであれ、「アスペルガーが嫌がられる本当の理由」が「ある特定のグループの人間を妥当な根拠なくdisり、彼らの悪印象を植え付ける」ものになっているからです。
「妥当な根拠なく」というのは上段に述べたとおりです。
筆者は「自分の会ったことのある男性アスペルガー達」の話を「実際の、正しいアスペは~」と、何故かアスペルガー全般の話としかとれないような言い方で敷衍しています。そして、「だからアスペは嫌がられるんだよ!」とdisっています。筆者の方もうっすらマズいと思ってはいるのか「アスペを全否定はしませんが~」とか書いてはいますが、そもそも「アスペが/アスペを」と書いた時点で「アスペ(ルガーの人全般)が」という意味になってしまっていませんか。
これを「うっかり」やってしまったのならば、筆者の方には思慮が足りません。言葉は悪いですが、言い方が悪くて周囲と軋轢を起こしまくりなおかつ自覚できない反省もしない、コミュ障(の一種)と同レベルです。言葉の使い方が悪く、主張の論理的妥当性を吟味していないばかりに「X高校のやつらってマジ不良だわーサイアクー」という誹謗中傷になってしまっています。ご自身のためにもお気をつけになるべきだと思います。
これを「意図的に」やったのならば、ただの根性曲がった悪人ですね。社会のためにも大人しくしててください。
ここまで書いてきたのは、「自分が知っている個別事例のみを根拠に何故か一般論として特定の人々をdisり彼らへの悪印象を植えつけようとする」のはどうかという話であって、本質的に健常者(というか定型発達)がどうのこうの、アスペルガーがどうのこうの、という話ではありません。ただ<早まった一般化>にはお気をつけを。邪悪な意図があろうがなかろうが、あなたが「結果的に」悪人と同じことをしている可能性は大いにあります。
おわり。
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おまけ
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↑では「アスペルガーが嫌がられる本当の理由」について、個別事例を一般化してdisるの
はよくないとおもいます!という話に(最終的に)なっていましたが、それとは別の視点
でこの記事につっこんでみようと思います。特に主張の芯もなく(というか主題から外れた枝葉の話で)論理の組み立てが甘いので本文からは省いた話です。二つぐらい書きます。
1、
上でも言いましたが、アスペルガーの症状をまとめたサイトには、
「空気が読めない」「裏表が無い」
「一つのことに夢中になる」
「アスペは、我々がきちんと説明すればわかってくれる」
頑張れば楽しくつきあっていけそうな気がします。
思わない。思わないから。その説明読んで天然ボケのかわいい人と思うのはあなただけ。
まああなただけというのは言いすぎですね。人によってこの説明文から受ける印象は分かれるだろうということです。で、人によって印象の分かれる説明文に関して自分の感じた印象を述べるところまでは何の問題もありません。が、この後にこう続くんですよね。
でも、実際はそういう単純なことではなく、
・健常者がアスペに状況を一生懸命わかりやすく説明しても、アスペは理解できないし、
意見を曲げずに屁理屈を返す。口が達者。こっちが強く言えば逆ギレし、怒鳴って癇癪を起こす。
これが、正しいアスペルガーの症状の説明であり、
以下アスペルガーdis。この辺の記述が個別事例なのにアスペルガー一般の話として語られている以下略という話は上段を読んでいただくこととして、この一連のくだり、実はこんな構造になってるんですよね。
ここ、2. 以降の内容(「でも、実際にはそう単純なことではなく~」以降)をより悪い印象にするために、本当は印象の分かれる説明文について、わざと「こういういい感じに見えますよね?」と持ち上げているんです。まあよくあるレトリックとはいえ根拠レスなdisを効果的に演出するために使われるとつっこみたくもなるし筆者に悪意が感じられそうになるので困ります。
別に悪意とかなくても無意識に使われがちなレトリックなので上段でこの筆者に悪意があると断定するのは避けたんですが、私最初は「ドーモ、元増田=サン。悪の増田滅ぶべし」って感じで書いてたんですよね。それはこの辺が原因でした。
でもこれ2回もやってるんだよなーこの人。
2、「価値観が違う」ことが分かってなければ「価値観が違う人に説明」などできない
この筆者の方は、アスペルガーのお知り合いとコミュニケーションするに際して、かなり「惜しい」感があります。すなわち、
と「感じて」はいるようなのですが、「分かって」はいないということです。
このアスペルガーのお知り合いの方たちは、被害者、もしくは自分が庇った加害者の気持ちでさえ、他人の気持ちがまったく斟酌できなかったようですね。それは私も記事から読み取れました。心中お察しします。
しかし、このアスペルガーの方たちが、筆者の方の説明に納得せず暴走し続けていたのは何故なのか?これも筆者の方が仰っているとおり、「価値観が違う」からなんでしょう。(このアスペルガーの方の価値観が「根本的に」「健常者と」違うかどうかは断然議論の余地がありそうですが、それはまた別の話しになるのでさて置きます。)
では、「価値観が違う」ってどういうことなんですか?
「価値観が違う」ということは、この場合「筆者の価値観に基づく説明では、アスペルガーの知り合いを納得させることはできない」とういうことです。なんだ当たり前じゃんと思いますか?ですが、これを元にすると、先に筆者の方も挙げていた「アスペルガーの特徴」の解釈が違ってきます。
「アスペは、我々がきちんと説明すればわかってくれる」
これです。
この「きちんと」が曲者だったということです。
筆者の方は、「きちんと」説明できていません。
筆者さんのエピソードに出てくる「アスペルガーの知り合い」、すなわち「価値観の違う相手」に説明し納得してもらうには、「相手の価値観に基づいて納得できるように説明」する必要があります。これは相手がそのアスペルガーのお知り合いでなくとも一緒です。自分で善悪の判断ができない子供に「あなたのお母さんが、それはダメって言ってるよ」とさとしたり、宗教が違う人間、住んでいる文化圏の違う人間にどうにかこちらの事情を分かってもらおうと四苦八苦したりするでしょう。そんなときにひたすら大人の価値観、自分の宗教、文化圏の価値観に基づいた主張、説明のみで分かってもらえるでしょうか?
アスペルガーのお知り合いの価値観のもとでも分かってもらえるように説明した、と取れる文章は残念ながら記事のどこにもありませんでした。ならばわかってくれなくても当然ではないでしょうか。
分かりやすく説明した、というのはあなたの価値観にもとづいた主観であって、相手に何かを納得させたいのであれば、あなたの価値観だけにもとづいた説明などゴミも同然です。相手に理解できる論理になっていないのであればそもそも説明になっていません。あなたの説明が普段普通に通じているように思えるのは、あなたが多数派の価値観の中にいるからであってあなたが正しいからではありません。
ただ、定型発達の方もとい「健常者」がアスペルガーの方の価値観、アスペルガーの方に通用する論理を理解するのは難しい場合が多いと思います。お互い論理的に正しくてもその論理の使いどころがそもそもずれている場合が多いですし、論理ではなく感情に拠るところが増えればお手上げでしょう。筆者の方はアスペルガーのお知り合いを「お世話」しているようですが、それがアスペルガーのお知り合いが円滑に社会生活できるように周囲との人間関係をとりもっている、という意味なのであれば、筆者のかたはそもそもその「お世話」に必要な理解の試み、もしくは努力、もしくは能力そのものが足りていないのだと思われます。価値観の違う相手とうまく付き合おうとする試みに疲れる、もしくはそれができないのであれば、無理に「お世話」しようなどと思わずできるだけ相手と付き合わないようにするのが最善ではないでしょうか。
http://anond.hatelabo.jp/20121127021313
自衛隊がパレードをするだけで「市民を威圧する」という理由で反対。しかし北朝鮮のロケット実験や中国の領海侵犯には「冷静に(キリ」だの擁護する。同国人の軍人は恐れても良いが、侵略意思をむき出しにしている外国の軍隊は恐れてはならないらしい。
朝鮮人のデモで日の丸が燃やされて、それに怒りを表明する人間を「ネトウヨ」呼ばわり。twitterで国旗を表示しているだけで「ネトウヨ」呼ばわり。そして右翼が韓国や中国の国旗を踏んづけただけで狂ったように喚き散らす。お前たちにとって国旗ってのは何の価値もないんじゃなかったの?
反日暴動デモについて、日本の歴史認識や政治家の言動が原因と話題そらし。一方でフジテレビ前デモや反韓流デモでは盛大に批判。韓国や中国の批判は絶対にしない。
60年前の南京虐殺や、それ以上前の関東大震災での朝鮮人虐殺も「解決」を望むくせに、現在進行形で未解決の拉致問題やチベット人虐殺問題については、だんまり。あまつさえ、これらの問題に取り組んでる中に保守・右翼団体がいるという理由で批判。しかし自分たちが強力に乗り出すことは決して無い。
支那という単語には敏感に反応して突っ掛かるが、日王という単語には突っかからない。保守・右翼言動を行う他人をファシストだのナチだのレッテル貼りするが、朝鮮人の犯罪者に罵声を浴びせたら差別主義者呼ばわり。
日本の歴史教科書には慰安婦などの問題を載せるべきと主張するくせに、朝鮮学校の生徒に拉致問題の教育をきちんと実施しろという日本人に批判を食らわす。
尖閣国有化は中国を刺激するだけだと批判し、反日暴動も擁護しながら、韓国大統領の竹島上陸については批判せず、日本人が怒り狂う様を冷笑する。
そういうことを語るならば、その前に幸せという言葉の定義を論じるべきかもしれない。
それをわかった上で、個人の価値観に基づいているということを踏まえた上でいうならば、斉木楠雄は非常に超能力者らしい不幸を、そして歪みを抱えているといえるだろう。
それは普通人が支配しているこの世に生まれ落ちてしまったところから始まっている。
このような超能力者は度々書に現れているが、おおよそどのような能力をもつにしろもたぬにしろ、普通人よりも一つ飛び抜けているはずの彼らは常に陰の存在として描かれている。基準が普通人として書かれるのであるから当然ではある。また、頭抜けたる者は何かを失うものなのだろうか。もしかすると平世、人というものは器の大きさが決まっており、入れられる才の数は限られているということかもしれない。
相容れぬ者どうしが隣辺に存在するとき、間隙には必ず軋轢が生じる。その摩擦を持ってストーリーたると人はいうが、それが痛快無比、快刀乱麻の人情喜劇ならいざ知らず、歪曲無惨の悲劇をわざわざ生み出す者の心など知りたくもない。
しかし古今東西奔走せずも、違うということただそれだけで忌むべき要素である類例は枚挙に暇がない。現実にしろ虚構にしろ、古典にしろ現代文にしろ、歌劇にしろ漫画にしろ、真剣味と剣呑さを演出するにはそれがもっとも効果的で、むしろ出過ぎるのだろう。
ただしそれが人間というものの本質基盤であるということなぞ認めたくはない。
人間が何者であるか、定義するのは己自身である。だまされてはいけない。
深淵夢幻をのぞき込むならば、その前に襟を正して山高帽をかぶり、インバネスを羽織って紳士然とするのが最前の友好策であろう。他者の瞳には常に己が映っている。
一切合切をまとめるわけではないが、彼ら非普通人が描かれるとき、一般書では特に不幸な立場に置かれることが多く、比較的空想人に易しいライトノベルや漫画類ですらも、こと彼らが主体になって真剣味を帯びた物語が進むとき、大抵その結末は自身の悲劇を伴って幕を閉じる。有り体に言ってしまえば、不幸である。大方の者は自身の不幸を声高に叫びはしないが、右手でつかみ取るものは冷徹なまでの現実でしかない。
寡聞にして多くは知らぬまでも、超能力者には何人か心当たりがある。もっとも超能力という力の定義をどの程度の物まで含めるかで大いに人数が違ってくるのだが、たとえば超能力者の中でもっとも長生な者の一人は超人ロックという名で知られている。名字はない。ただのロックだ。都合上波瀾万丈な面ばかりが取り沙汰されるのは仕方ないが、彼の世界でもやはり超能力者は特別な存在であった。少なくとも数千年の昔は。多くの超能力者が彼我の区別の狭間で悶え苦しむのをみてきた。現在でもそれに変わりはなく、ただ時の流れとでもいうべきものが普通人の意識を変容させ、超能力者の存在にゆっくりと順応しようとしている。
他人の思考を一方的に受けることしかできぬという、現在においては甚だ不完全なテレパシー能力しか持たぬ七瀬という少女がいた。少女期には他の能力者を知らず、ただ自身の存在を押し隠して息を潜めるように生き流れていた。気づけば世界は彼女に敵対し、理解できぬうちに絶望の刃がその身を襲った。彼らは自意識を普通人と区別し一段上に置いていたが、その使命感を達せぬうちに終世を迎える。
青木淳子というパイロキネシストがいた。正義と自我を混同し、能力と共に肥大させ、運命の糸を自らに縛り付けて燃え尽きる。
機械に見いだされ、人生を狂わされた少年がいた。名を浩一という日本人は、数多の超能力を獲得し、代わりに数多の敵を見いだし、当て擦られ、削り切れた末に孤独で寂しい余生を予言される。
幸福な人生とは何か。ドラッグで手に入れた身を滅ぼしかねない力でメトロポリスを壊滅せしめるほどの欠落を抱え、脳に埋め込まれた機械により生まれ落ちた直後からその身を9人の1人として世界の危機への奮闘に晒し、それでも彼らは幸福を求めていたのだろう。たとえ能力の有無で有象無象を仕分けることになったとしても、そうならざるを得ない世界の事情とでもいうべきものが彼らに働きかけているのだとするならば、これを作り出している元凶がいったいどこに起源を持つのかを問いかけることをやめてはいけない。
神はいない。ただ想う人がいるだけだ。
翻って斉木楠雄を見てみれば、独白は独断と過剰な自意識で満ちあふれ、他者を容認せざる態度は著しく哀愁を誘う。一人相撲の悲嘆さを嘲笑う者もいるだろう。
超能力者と名乗り数多くの力を有しはするものの、そのどれもが欠陥製品であり実用の域に達しない。にも関わらず全能感に溢れ、あまつさえ努力を知らず何事にも積極的に関わろうとしない。殊に超能力者らしいと言ってしまえばみもふたもないが、類例にぴたりと符合するわかりやすさが彼にはある。いっそ清々しいまでに超能力者である。
ところが彼の場合、人生の不幸な結末というものはおよそ想像がつかない。彼にはどこか超能力者としての運命に徹し切れぬ、殉じてしまえぬところがある。
普通人として救いの証を挙げるならば、彼のモノローグは一部下手くそな言い訳のように捉えることができるということ。これが大きく雰囲気を変えている。あまつさえ、彼の命運すらも変える力があるだろう。これは高校生という幼さ故か、無意識の人恋しさの表出か、いずれにしろ本人に指摘すると真っ向から否定されるものではあろう。ただ、彼は普通人を下に見て孤独に立っている現状を内心深くでは決して快く思ってはおらず、それ故に欄外へ投げかける語りが随分と螺旋くれて受け取れる、そういう表現として態度に、言葉になってしまうのだろう。
人間失格で超人としても失格の欠陥製品、はて彼は何者ぞと鑑みるに、もとより超越者として外れ者としては在るものの、故に他者なる世界への恋慕があるために、そこに不思議と人間くささが現れてくる。論理矛盾するようではある。だがしかし、この破綻こそがなにがしかの真理の一端を捉えているものと信じたい。
かわいそうな斉木楠雄はどのような終幕を迎えるのか。肌触れ合える少年誌的大団円を迎えるには過ぎたる能力存在ではあるものの、散々たる憂愁のうちに有終することは無いものと願いたい。
というのは、まあ正しくて、要するに価値観が共有できないということでしょう^^。
自分の価値観と相容れない価値観をもってきて、無理に共感しようとしたり比較したり、あまつさえすりあわせたりしようとすると、ひどい違和感を感じるのは当然で、むしろ「女である」という一点だけで、そこを越えられるはずだと思っていたとしたら、それはまた随分と不用意な、と思います。そこでは、科学者が対象を分析するような手つきで「相手と適切に距離を置きながら、事実として理解すること」が求められます。
別な方が、ツリーの中で、晶さんを「普通だ」と言ってるのがどういう意味でなのかは、私には分かりませんが、私が晶さんのブログを読んで思うのも、やはり「普通だな」という感じです。むしろ好感をもてる部類に入ると思います。
それは、要するにこの人が「普通に教養があって(色々な本とかを自分の楽しみや仕事の必要で読んで)」「普通に仕事を離れても友だちがいて交流したりしていて(blogからその様子が伝わってきます)」「普通に豊かな感性があって(マニキュアをすると人に会いたくなりますね、とか、素直にそうでしょうね、という感じ)」「普通に仕事熱心で」……要するに「価値観は異なっても、人間としては普通」であり「話をしたり友だちになれそう」と感じられるからです。
「価値観」は、人それぞれに異なるものですから、普通であるとかそうでないとか、そんな判断を下すのはおこがましいと思いますし、それは宗教論争と同じですから、社会的な関係を育む上では余り触れないのがマナーだろうと思います。その意味で、どんな価値観をもっていようと、社会生活に適応できる/できている人間というのは、おおむね「普通」と呼んで構わないと思いますよ。
http://anond.hatelabo.jp/20120803173843
中学校1年のときの英語教師が、増田の言うような授業スタイルで、一切日本語を喋ってくれなかった。
私のころは当然公立の小学校では英語教育などなく(ローマ字は教えられたから、アルファベットだけは書けたが)、
塾に通っていて英語を習っている子も、1年生の最初も最初"This is a pen."レベルだから、まだ少なかった。
授業方法は、まったく文法などを解説せず、教師にバシバシ訂正されながら教科書を音読させられたり、
テンプレートのやり取りを隣同士で行なったり、というのが主だった。
私たちはまったく文章が構成されるルールを知らないまま例文を暗記するだけでテストを受けていたが、平均点は高かった。
扱われている教材のテキストレベルはおそらく指導要領からは外れていなかったと思う。何せ中1だ。
それにしたって、あの1年間はなんだったのだろう。
翌年、英語担当教師が変わり、塾に通っていなかった、英語の勉強方法はそういうものだと思っていた愚かな私たちは、
一般的なスタイルの授業の前に撃沈した。
なにせ「be動詞」というものが何を指すかすら知らなかった(is、are、などは知っていたが、それらをbe動詞と呼ぶとは知らなかった)。
もちろん、それらがどういった条件で変化するのかもあやふやだった。
今考えると、恐ろしい。
こういう勉強法はせめて高校卒業時…いや、中学卒業時レベルでもいい、
とにかく、基本的な文型やifや関係代名詞やそういうの知ってからすべきだったのに。
あるいは日本語も話せないような幼児教育としてやるべきだったのに。
その後、塾に通い、学年相応の英語力はついたし、折りしもハリポタブーム()で初めて洋書を買って、
英語と米語の違いや各地方の訛り、綴り、韻、ジョークなど、「娯楽的英語」の楽しさから英語好きになって、
進路を決め、1年だけだが留学も出来た。
仕事は英語関係ないけど、洋ドラや映画やアメコミやナショジオは大好きだ。
遅れは取り戻せたが、あの1年がなければ、私にとっとと塾に駆け込むべきだと考える判断力があれば、
まあ、それはともかく、基本的な英語を覚えてなくても習ったことがある人が、
再学習として自習で英語を勉強するなら、英語は英語、という考え方をしたほうが良いとは思う。
日本語話者同士の日本語でのやり取りでさえ、齟齬が起きたり、気持ちが伝わらなかったりするのに、
…の感覚と言うのが正直、理解しがたい。
もちろんのこと、好きと公言したり、その種の類の作品に親しんだり自分で作って発表したりする女性(=腐女子)は多数派だとして、そういう嗜好を生理的に受け付けないとか、心底嫌いという女性はそう少なくは無いはず、とごく最近になるまで思っていられる神経が分からない。
「ホモが嫌いな女なんていません」
この台詞にどんだけBLに興味がない女性(特に女性オタク)が迷惑したことか。
私は漫画が好きだし、小説もラノベも大好きだし、そのキャラクターが物語の終わったあとどうしているか想像するのは大好きだ。
救われなかったキャラクターの「もし」を考えるのも好きだし、それを小説や漫画にして発表するのも好きだ。
だけど、どうしても、原作で同性愛者じゃないキャラを同性愛者にしなくちゃならないのかわからないし、
それがなぜか多数派っぽかったり、
あまつさえキャラや原作を冒涜している!と言われるのは本気で分からない。ましてや×の前後が違うだけでいがみ合うのも理解できない。
ポルノなら普通に男性向けやエロゲで事足りる。ていうか自分の体に置き換えられる方が気持ちよくないか。陵辱とか痛い系はいやだけど作品選べばいい。
だいたい痔を患って以来そっちは痛くて駄目だ。
率直に言うと、健康な若い女性が女としてのセックスを本気で忌避したり、本気で受け付けないというのと似たような違和感を感じる。
・妄想癖がある所、「自分は迷惑な事していないだろうか、嫌われている事してないだろうか」という加害妄想と「馬鹿にしやがって。どうせお前も馬鹿にしてるんだろう」という被害妄想の二つともある。
・極端に絶望視しやすい。可能性や展望があるかもしれないに、それを信じようとするのが辛くなってしまう。
・他人には無関心でありたいのに人間関係の構築に潔癖な所。矛盾している。
・今現在恋愛してなくて、したくもないのに、世の中恋愛至上主義だと思い、出来ない自分を底辺だとみなしてしまう事。割り切り方がなんだかみっともない。これもなんだか矛盾している。
これはもう志になっているのかもしれない。何故なら、俺や舐められポジションにいた奴らを侮って、ダシにして、笑いをとってた奴らは皆彼女がいたから
人の事をコケにしたり、セックスを自慢げに話したり、あまつさえ、DVする男にだって彼女がいたから、信頼を得ていたから。
「ろくでなし」はそれをギャップにして、女にしか魅せない顔を作って、それに彼女たちが釣られていたため。
そんなろくでなしでさえ出来ている恋愛が出来ない自分はなんとダメな奴なのだろうと思ってしまう。
・女性と関わることは苦手ではないが、女性自体が大嫌いだという事。これも矛盾かな。
とにかく嘘が多いし、二行上に書いたように結局、顔判断で性格なんてそっちのけで、流行りの体型に顔立ちがよくアスリートなら無問題なところとか
集団攻撃が得意で女は女の味方しかしないところとか、あと男はセックスしか考えてないんでしょみたいな、自分は大人です思考とか(お前もなとか言われそうだけど)
とにかく、俺のありとあらゆる女性への期待値はゼロで容姿がいくらよかれ、性格がよかれ、両方持っていたにしても、好きになることはないし、正直になることもない。
もう正直、女性に対して謙虚である必要もないし、リスペクトも献身的である必要もないとも思っている。それぐらい、嫌いだ。
正直、彼の7割ぐらいのダジャレは無理やりすぎてあまり面白くない。
が、そんなことは問題ではない。
常にハードルは上がり続けて、いつしか面白いと思えたダジャレも面白く感じなくなるだろう。
7割のつまらないダジャレがあるから、3割の面白いダジャレが輝くのだ。
実際「お、今日のjt_noSkeさんはキレてるな!」とコメントの☆を見ると、大量なことが多い。
また、つまらなかろうが面白かろうが、一番の彼の武器は「継続」であり
ダジャレを継続しているからこそ、それを武器にして突然の変化球で相手を翻弄できることにある。
http://anond.hatelabo.jp/20120421113438
この記事で、jt_noSkeさんと喧嘩で勝つには、彼のやりそうなダジャレを先に書くこととあるが
jt_noSkeさんがこれをやられた場合、いつも行うコメントが
(場合によっては、上記のコメントにさらにアクセントとして別のダジャレを添える上級技もある)
先にダジャレを言った人間より☆を貰っている現場を目撃したこともある。
っていうかぶっちゃけ先にダジャレを書いたのは私であり、かなり衝撃を受けた。
これはjt_noSkeさんが「いつもダジャレばかり書いている人」という認識が
はてなブックマーク内のそれなりの数の人間になければ、とてもではないが成り立たない現象である。
かつ彼より早く記事をブクマしダジャレを言うことができるなら、対抗できたかもしれない。
しかし、私はダジャレ以外にも記事に対して言いたいことは多々あるし、
より評価されそうなコメントがあるなら、そちらの方になびいてしまうのも確かである。
jt_noSkeさんがbotでないなら、そういう誘惑はおそらくあるだろう。
それでもダジャレのみを書き続けてきたというのは、尋常ではない精神力と言えるのではないだろうか。
また、非常にレアだがそんな彼も「うーむ」以外に
普通に記事に関するコメントを、ダジャレ以外ですることがある。
そのときの注目度と言ったら、もはや並大抵のことではない。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.itmedia.co.jp/news/articles/1205/18/news091.html
上のブクマを見て欲しい。
あの冷徹ダジャレマシーンのjt_noSkeさんが、ダジャレ以外の、あまつさえ自分の過去について語っているのだ。
記事内容と厳密に関わるコメントはいくつもあるのに、☆の数は圧倒的な一位である。
続く☆の数が多いコメントも、jt_noSkeさんに関係するものばかりである。
(彼を知らないはてなーやそもそもはてなー以外には、内輪ネタうぜぇ感は否めない現象ではあるのだが)
仮に有名なはてなーでも、「UOで留年した」程度のコメントでここまで☆が貰えるかは疑問である。
もはや人間の身体は存在せず、脳のダジャレを生み出す部分とPCが直接繋がったような存在だと思っていた彼が、
ここまで人間味のある自分の失敗談を語ったことが、彼を知ってるはてなー間では衝撃だったのだろう。
実際、私の記憶では彼が自分語りしたコメントは、このコメントより前に一度も見た記憶はない。
確かに彼の武器はダジャレだが、ダジャレばかり言ってるからこそ、
ダジャレ以外のコメントが高い威力を発揮するということがわかったと思う。
ここで味をしめて何度も普通のコメントをするようなら、それはダジャレの継続性を捨てること他ならない。
結局は中途半端な存在となり、「たまにダジャレを言う人」程度の認識まで堕ちてしまう可能性もある。
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/coconutsfine/20090309/1236611519
コンテンツ自体の価値は微妙、20人に1人くらいは「よいね」と言ってくれる人がいるかもね、
これまたとあるブログランキングに参加した。読者がブログ内のボタンを押すと
そのブログにポイントが入って、いっぱいポイント入ったブログがランキング上位にくる、
というもの。
このランキングは、おんなじ人が何回も投票ボタン押しても効果ないような仕組みがしてあったが、
ルータのIP解放するたびに別のIP掴んでくるタイプのプロバイダでは不正ができた。
一回自分で投票して、んでルータのIP解放してクッキー消して、また投票すると、
きちんとポイントになる。
これを利用して、そんなに価値も高くないブログにせっせと自作自演で投票して行った。
まあ当然あっというまにランキング上位。
そうなると不思議なもので、それまでたいした価値のなかったコンテンツに価値が付いた(ように見えちゃったらしい)、
コメントは絶賛の嵐、いろんな人が顔見世にやってきて、「これは新しい表現だ」とか
「今後は彼のようなブログが天下を取る」とまで言われる有様。
まあこの時点では、「高い数値的評価が、実際のコンテンツの価値を見誤ることを促す」というオチで
はい終了、という感じ。
ところがここから、なぜか「人気ブログライタア様宛」に、今をときめくサイバーなんちゃらという会社から
お誘いが来た。行ってみると、あんたらのブログでステマをやってくれ、謝礼はするぜ、的な内容だった。
まあたいした謝礼ではなかったがステマした。
こうして、人気を得て成立した価値観の上に人がなびき、あまつさえ扇動役まで
おおせつかるに至った過程が、すべてイカサマな投票ポイントによるものでした、というお話。
多数は多くを騙す。偽りの多数ですら。
最終回でもうそれは確定したと思う。少なくとも「漫画家漫画」でありえないのは確か。
それが顕著になったのは間違いなく小豆騒動のあたり。まあ中井さん絡みでのジェンダー・ステロタイプな認識垂れ流しは本当に辟易したというかよくもまあこんなミソジニーを丸出しにできるよなあと思ったけれど、何のことはない、作者が度を越した処女厨だっただけだ。小豆騒動の中で、交際の事実に怒り狂ったり抗議したりする声優ファンたちをさも人間としての節度を知らない動物のように描いていたわけだけど、それが許されるロジックが「ピュアな付き合いだったから」って。おいおいそりゃないだろうよ。あれか。ピュアじゃなきゃ人と人は付き合っちゃいけないのか。というかピュアじゃないと恋愛は許されちゃいけないんですか。ピュア(笑)。完全にオッサンの感覚、しかもだめな方。ミソジニーこじらせ系童貞。自分がセックスできないから、セックスを神聖視しすぎて汚い物だって認識して嫌悪して、それをしている人間を蛇蝎のごとく憎むような浅ましさしか感じない。
処女厨であること自体は、俺は別にいいとも悪いとも思わない。性癖くらい誰だって自由に持てばいいじゃんね。直せとも思わないし。ただ、それを人前で公言すること、あまつさえそれを根拠に他人を攻撃することとは話が別で。処女が好きです処女じゃない人は嫌いですなんて声高に主張して、処女でない女性を汚物のように扱って、お前、自分はいいのか。毎日ひとりでちんちんしごいてるお前は「きれい」なのか。そういうことを少しでも鑑みることができれば火種を起こしたりなんかしないとは思うんだけど。
けれどバクマンが小豆編でやったことはそれよりもひどい。たちの悪い処女厨である作者が、有象無象の処女厨である声優ファン(という意図で作中で描かれている人間)に対して「お前らは馬鹿な処女じゃないとそうやってすぐキレるけど俺は違うんだよ。男の子と付き合うことくらい許せるよ」という優秀アピールをしてこきおろし、了見の狭いおろかな処女厨共を導いてやろう、といった意図だあれは。じゃなきゃ「昔から約束をしたイマドキ珍しいピュアな恋愛だから受け入れよう」なんて考え出てこない。「きれい」であることに根拠を見出すってのは、潔癖さの行き過ぎた童貞特有だしね。大体イマドキの恋愛がピュアじゃないとかなんだそれ。ピュア(大爆笑)。
結局バクマンは、漫画の描ける男が漫画を描いてセックスにたどり着くだけの話だった。しかも作者の、露骨な自慰であることを読者に見せつけながら。終わってよかった。
ネット上の連中は成功者を見つけるとすぐに褒めそやし、誰にでもそういう人生が送れると勘違いする。ロールモデルだなんだといったところで、そんなものは所詮他人の人生にすぎないのに、
なんでそんなことがわからないんだろうか。そうやって他人の人生を勝手に消費して、うまくいかなければ才能のせいにして、はい次。クソみたいだ。
かつては俺もそうだった。
あの人のようになりたいと、そこら辺のバカと同じように安易な憧れを持って、せっかく持っていたものを放り出し、バカな挑戦をしようとした。周囲は止めたが、あらゆるシミュレーションの結果大けがはしないと踏んで、強引に推し進めた。結果は持っていたものを失っただけ。五体満足だし、一人でいる分にはまあ死にはしないだろうが、お世話になった人にも迷惑をかけてしまった。
努力?努力も確かにしたが、そんなことは大した問題ではない。1日のうち24時間丸々を使ったところで、俺は彼にはなれない。彼のようにもなれない。所詮俺は凡夫にすぎず、大成功も、自分を満足させるだけの成功もしなかったというだけのことだ。才能の問題でもない。才能は確かになかったかもしれないが、才能がなくてもそれなりに成功した人間は山のようにいる。
間違ったのはスタート地点だ。「あの人のようになりたい」、そう思ったのが間違いだった。彼らの力の根源は、「自分はこうしたい」という強い気持ちだった。俺にはそれがなかった。小手先で捏ねくり回した理屈で、どれほどの成果が得られるというのか。そんなものは組織の中でやっておけばいい話だ。
凡夫は凡夫なりに組織の中でそれなりのことをやっておけばいい。間違っても夢を見るな。あまつさえ他人の人生を生きようとするな。そうした瞬間、あらゆるものを手放すことになる。生きるには、自分の手で触れられる範囲をどうにかすることだけ考えたほうがいい。なんでそれだけのことがわからないんだろうか。いや、わからなかったんだろうか。後悔先に立たずと言うが、近頃見る夢はいいときのことばかりで、どうにもつらい。いつかは忘れるのか、また欲に駆られて挑戦するのかはわからないが、今は狭い範囲のことを考えていたい。