はてなキーワード: インバネスとは
そういうことを語るならば、その前に幸せという言葉の定義を論じるべきかもしれない。
それをわかった上で、個人の価値観に基づいているということを踏まえた上でいうならば、斉木楠雄は非常に超能力者らしい不幸を、そして歪みを抱えているといえるだろう。
それは普通人が支配しているこの世に生まれ落ちてしまったところから始まっている。
このような超能力者は度々書に現れているが、おおよそどのような能力をもつにしろもたぬにしろ、普通人よりも一つ飛び抜けているはずの彼らは常に陰の存在として描かれている。基準が普通人として書かれるのであるから当然ではある。また、頭抜けたる者は何かを失うものなのだろうか。もしかすると平世、人というものは器の大きさが決まっており、入れられる才の数は限られているということかもしれない。
相容れぬ者どうしが隣辺に存在するとき、間隙には必ず軋轢が生じる。その摩擦を持ってストーリーたると人はいうが、それが痛快無比、快刀乱麻の人情喜劇ならいざ知らず、歪曲無惨の悲劇をわざわざ生み出す者の心など知りたくもない。
しかし古今東西奔走せずも、違うということただそれだけで忌むべき要素である類例は枚挙に暇がない。現実にしろ虚構にしろ、古典にしろ現代文にしろ、歌劇にしろ漫画にしろ、真剣味と剣呑さを演出するにはそれがもっとも効果的で、むしろ出過ぎるのだろう。
ただしそれが人間というものの本質基盤であるということなぞ認めたくはない。
人間が何者であるか、定義するのは己自身である。だまされてはいけない。
深淵夢幻をのぞき込むならば、その前に襟を正して山高帽をかぶり、インバネスを羽織って紳士然とするのが最前の友好策であろう。他者の瞳には常に己が映っている。
一切合切をまとめるわけではないが、彼ら非普通人が描かれるとき、一般書では特に不幸な立場に置かれることが多く、比較的空想人に易しいライトノベルや漫画類ですらも、こと彼らが主体になって真剣味を帯びた物語が進むとき、大抵その結末は自身の悲劇を伴って幕を閉じる。有り体に言ってしまえば、不幸である。大方の者は自身の不幸を声高に叫びはしないが、右手でつかみ取るものは冷徹なまでの現実でしかない。
寡聞にして多くは知らぬまでも、超能力者には何人か心当たりがある。もっとも超能力という力の定義をどの程度の物まで含めるかで大いに人数が違ってくるのだが、たとえば超能力者の中でもっとも長生な者の一人は超人ロックという名で知られている。名字はない。ただのロックだ。都合上波瀾万丈な面ばかりが取り沙汰されるのは仕方ないが、彼の世界でもやはり超能力者は特別な存在であった。少なくとも数千年の昔は。多くの超能力者が彼我の区別の狭間で悶え苦しむのをみてきた。現在でもそれに変わりはなく、ただ時の流れとでもいうべきものが普通人の意識を変容させ、超能力者の存在にゆっくりと順応しようとしている。
他人の思考を一方的に受けることしかできぬという、現在においては甚だ不完全なテレパシー能力しか持たぬ七瀬という少女がいた。少女期には他の能力者を知らず、ただ自身の存在を押し隠して息を潜めるように生き流れていた。気づけば世界は彼女に敵対し、理解できぬうちに絶望の刃がその身を襲った。彼らは自意識を普通人と区別し一段上に置いていたが、その使命感を達せぬうちに終世を迎える。
青木淳子というパイロキネシストがいた。正義と自我を混同し、能力と共に肥大させ、運命の糸を自らに縛り付けて燃え尽きる。
機械に見いだされ、人生を狂わされた少年がいた。名を浩一という日本人は、数多の超能力を獲得し、代わりに数多の敵を見いだし、当て擦られ、削り切れた末に孤独で寂しい余生を予言される。
幸福な人生とは何か。ドラッグで手に入れた身を滅ぼしかねない力でメトロポリスを壊滅せしめるほどの欠落を抱え、脳に埋め込まれた機械により生まれ落ちた直後からその身を9人の1人として世界の危機への奮闘に晒し、それでも彼らは幸福を求めていたのだろう。たとえ能力の有無で有象無象を仕分けることになったとしても、そうならざるを得ない世界の事情とでもいうべきものが彼らに働きかけているのだとするならば、これを作り出している元凶がいったいどこに起源を持つのかを問いかけることをやめてはいけない。
神はいない。ただ想う人がいるだけだ。
翻って斉木楠雄を見てみれば、独白は独断と過剰な自意識で満ちあふれ、他者を容認せざる態度は著しく哀愁を誘う。一人相撲の悲嘆さを嘲笑う者もいるだろう。
超能力者と名乗り数多くの力を有しはするものの、そのどれもが欠陥製品であり実用の域に達しない。にも関わらず全能感に溢れ、あまつさえ努力を知らず何事にも積極的に関わろうとしない。殊に超能力者らしいと言ってしまえばみもふたもないが、類例にぴたりと符合するわかりやすさが彼にはある。いっそ清々しいまでに超能力者である。
ところが彼の場合、人生の不幸な結末というものはおよそ想像がつかない。彼にはどこか超能力者としての運命に徹し切れぬ、殉じてしまえぬところがある。
普通人として救いの証を挙げるならば、彼のモノローグは一部下手くそな言い訳のように捉えることができるということ。これが大きく雰囲気を変えている。あまつさえ、彼の命運すらも変える力があるだろう。これは高校生という幼さ故か、無意識の人恋しさの表出か、いずれにしろ本人に指摘すると真っ向から否定されるものではあろう。ただ、彼は普通人を下に見て孤独に立っている現状を内心深くでは決して快く思ってはおらず、それ故に欄外へ投げかける語りが随分と螺旋くれて受け取れる、そういう表現として態度に、言葉になってしまうのだろう。
人間失格で超人としても失格の欠陥製品、はて彼は何者ぞと鑑みるに、もとより超越者として外れ者としては在るものの、故に他者なる世界への恋慕があるために、そこに不思議と人間くささが現れてくる。論理矛盾するようではある。だがしかし、この破綻こそがなにがしかの真理の一端を捉えているものと信じたい。
かわいそうな斉木楠雄はどのような終幕を迎えるのか。肌触れ合える少年誌的大団円を迎えるには過ぎたる能力存在ではあるものの、散々たる憂愁のうちに有終することは無いものと願いたい。