というのは、まあ正しくて、要するに価値観が共有できないということでしょう^^。
自分の価値観と相容れない価値観をもってきて、無理に共感しようとしたり比較したり、あまつさえすりあわせたりしようとすると、ひどい違和感を感じるのは当然で、むしろ「女である」という一点だけで、そこを越えられるはずだと思っていたとしたら、それはまた随分と不用意な、と思います。そこでは、科学者が対象を分析するような手つきで「相手と適切に距離を置きながら、事実として理解すること」が求められます。
別な方が、ツリーの中で、晶さんを「普通だ」と言ってるのがどういう意味でなのかは、私には分かりませんが、私が晶さんのブログを読んで思うのも、やはり「普通だな」という感じです。むしろ好感をもてる部類に入ると思います。
それは、要するにこの人が「普通に教養があって(色々な本とかを自分の楽しみや仕事の必要で読んで)」「普通に仕事を離れても友だちがいて交流したりしていて(blogからその様子が伝わってきます)」「普通に豊かな感性があって(マニキュアをすると人に会いたくなりますね、とか、素直にそうでしょうね、という感じ)」「普通に仕事熱心で」……要するに「価値観は異なっても、人間としては普通」であり「話をしたり友だちになれそう」と感じられるからです。
「価値観」は、人それぞれに異なるものですから、普通であるとかそうでないとか、そんな判断を下すのはおこがましいと思いますし、それは宗教論争と同じですから、社会的な関係を育む上では余り触れないのがマナーだろうと思います。その意味で、どんな価値観をもっていようと、社会生活に適応できる/できている人間というのは、おおむね「普通」と呼んで構わないと思いますよ。