はてなキーワード: 韜晦とは
・エヴァを見る。ゴキゲンな音楽で良い。ちょっと古めのウッキウキな曲いいよね。僕も好きさ! 操演線が見えるロボの戦闘シーン、行け! あるるかん! となって燃える。
・突っ込み待ち感のすごい戦後バラック文学あるいは残されコロニーもの文学パロディ長すぎない? みんな真剣に見てるっぽい静謐な映画館で笑うの不味いよな、でも笑いをこらえ続けるのこらえつづけるの難しいんだけど! と思ってたら特に突っ込みも発生せず本筋だったのは、あー、マジ? そういう感じ? となる。ひぐらしあるいはうみねことエヴァ、みたいな話をちらちら見たことあったせいか、ケンスケが富竹さんに見えてしまって困る。ひぐらしのストーリーを知らないから見た目だけの話だ。
・あのー、あれさ。ジョジョネタを見続けた人が後でジョジョ読んで、ネタやん! ってなるかんじかもしれない。二次創作綾波たちのセルフパロディ。これは、おはよう?
・カオル君と綾波、ミサトさんの出るシーンがなんか無条件に面白く感じてしまうの、えるさんのモノマネでバカ笑いしてた記憶のせいという気がしてならない。アスカやマリはあまり面白モノマネ対象でなかった気がするし、シンジ君は映画内でしゃべり始めてからはパロディ対象となった演技をしてたころのシンジ君ではなくなってるし。
・テレビ&旧映画と新映画シリーズの話を切り分けられてないので、あー新しい方ではこっちだったけ、と頻繁になる。
・後半のバトルシーンもゴキゲンな絵面で良いよね。艦艇ミサイルとか脱出ミサイルとかの加速感。面白感が匂いたつゲンドウエヴァとシンジエヴァの1on1。言語化が加速する。韜晦ではない。言葉を額面通り受け入れろ。ユイさんが本当にシンジ君の中にいたよ。
野党はすでに国政で台頭できるだけの資金力も勢力も作れず。公認野党(維新)が勢力を伸ばす。
民衆はインターネットの台頭で、既存メディアに頼らない煽動ができるようになった。
自民党内に引き釣り下ろす仕組みが存在しないため、自浄作用はない。
民衆は、ただ腐っていくのを眺めるしか無い。増田やはてぶにコメントして、俺はわかってる感を出すことはできても。
腐りきってしまえば、もう一度立て直す勢力が台頭して来てひっくり返す余地があるが、まだ腐りきってないうちは手を出せない。
世界の中心が自分だという発想がない人間を見ると、無性にイラつくの。
自分がいることで他人を傷つけるんじゃないだろうかとか自分の行動が他人を不快にしてるとしたら耐えられない…みたいなの。
傷つけたら謝ればいいし、それでどうするかは相手が決めること。
謝るようなことでないならそういう自分を抱えて生きてくしかないので「申し訳ないと思うが変えられないし変えない」と真摯に生きればいい。
大体面と向かって他人に「キモい」とかいう人間は人間性に問題があるし、仲良いフリして裏で陰口を叩くのは単にクズである。
故に心を痛める必要は全くない。
それなのに、ここにいていいのか分からない…とか。いじめられて辛いという愚痴を吐くなら分かるけれど何で自分のせいでなの?
本気で分からん。
結局相手が悪いと思っているのかそうでないのか。
相手が悪いと思っているなら「私が我慢すればいいんですね…よよよ」みたいな悲劇のヒロインぶるなという感じ。
自分が悪いと思っているのなら、冒頭のそれに行き着く。
文系学問って、ちょっとかじったくらいでは、いい加減なものとまともな物の区別がなかなか付けづらい。理系学問なら、全体が分からなくても、明らかにこれはおかしいという説明は初学者にも区別付くだろうけど、文系学問では質の悪い新書レベルの読むだけ無駄な学問モドキな情報が世の中に溢れてる(たとえば、真面目な歴史学者が匿名で書いた歴史学のわかりやすい考え方や新情報も、いい加減でオカルティなおもしろおかしい自称「郷土史家」みたいな連中の感想日記うんちく韜晦ブログとかに埋もれて消えてしまう)から、あまり意味がない。理系の学問知は共有によって磨かれるが、文系の学問知はどちらかと言えば手垢がついてどんどんゴミにまみれる印象。一言で言って、文系学問は集合知と相性が悪い。
それより、もし学ぶ気があるなら、まともな学者が良心的に書き、まともな出版社から出版されたまともな哲学入門とか、法学入門とか、経済学史の簡単な解説とか、文学研究本とか、教育学の解説本とか……図書館行ってそういうのを一冊でも読むべきである。ネット上でその代替物を探す行為には、コストに見合ったメリットがない。
お久しぶりです。福山哲郎さんの質疑は明日の与党のストーリーから考えて重要なものですが、あまり注目されていなかったように思ったのでちょっとだけ興味のある人はさらっておくといいかも。
いよいよ明日の佐川氏証人喚問を控えて、26日の質疑も熱がこもったものとなりました。自民党もさすがに和田、青山、西田の幇間トリオは封印し、武見敬三、山本一太が最低限のロジックを備えて、現実的な防衛ラインを再設定しようとしていたり、辰巳孝太郎議員が財務省が官邸、総理、大臣の関与がない根拠を問うと、「本人がないと言っていたから」というイノセントな答弁を引き出したり、安倍総理が「名誉校長というのは信用力を上げるために要請するもの」という今までの自分の答弁を全部ひっくり返すかのようなアレっぷりを晒したりと見所はたっぷりでしたが、白眉は福山哲郎議員の質疑でした。明日の証人喚問では、おそらく与党側は、佐川氏が2月24日に行った面会記録などの文書は事案終了に伴い廃棄した、という答弁以降に改竄を始めた、というストーリーで、まともに答えられるはずのない佐川氏を追い詰める格好をつける算段だと思われるが、前日にこの質疑を行った福山哲郎の性格の悪さはなかなかのものだと思う。
「太田局長、あなたはこの数日間、国会の審議におきまして、佐川局長の昨年2月から3月の答弁につきまして、基本的には改竄前の決裁文書に基づいて答弁を作るのが基本だと基本的には趣旨の範囲内じゃないか。書き換え前の文書、つまり改竄前の文書ですが、あるいはその事実を前提として議論がなされた、となんども委員会で答弁されていますが、それでよろしいですか。」(佐川の答弁は改竄される前の決裁文書の内容に沿って作られているから、改竄は大きな趣旨の変更はないというガースー理論ね)
太田(この人は一生懸命答えようというそぶりは天才的にうまいが韜晦術もなかなかのもの。)
「お答えをいたします。委員、あの引いていただいのでありがたいんですが、基本的にはと申していたつもりです。一言一句どこまでもというふうにはできないからという意味で申し上げております。そのもう一つは、決裁文書ということを強調されておりましたが、決裁文書は重要でございます。ただ国会答弁を作る際に、実際に担当していたものに聞きますと、決裁文書ももちろんですが、近畿財務局に事実を確認して答弁を作る、ということでございます」
「(太田さんへの嫌味兼牽制、省略)実際に太田局長のいうように、昨年2月から3月にかけての答弁が、改竄前の決裁文書に基づいて作られているか、というと疑わざるをえません。一枚目のパネルを見てください。3月2日です。予算委員会。”平成27年1月9日、近畿財務局とかごいけ理事長が面談した事実をお答えください”と私は聞きました。佐川氏は"1月9日と言われましても、そこの記録があるわけではございません"、実際は書き換え前の文書(貸付決議書)には、当局が森友学園を訪問し、国の貸付料の概算額を伝える、と書いてあります。書き換え前の文書に基づいて答弁しているならば、実際に訪問しました、と答えればいいのに、あえて、記録がない、と答弁をしています。これ3月2日ですよ。それで、この答弁に対して、改竄後はこの1月9日が削除されています。これ改竄前の文書前提としているのに、なんでこの時に佐川局長はこのように答弁したんでしょうか」
「お答えを申し上げます。今委員が御指摘なさったその答弁、答弁そのものをそこだけ読ませていただきます。(福山:いいよ)いやそのあとがあるんです。読ませてください。1月9日と言われましても、そこに記録があるわけではございませんが、一連の中で、近畿財務局と、先方学校法人の間でのやり取りはあったというふうに考えております、というのが議事録に載っておる答弁でございます。その上で、今委員が御指摘になられた、前段の部分に関しては、実際に訪問いたしておりますので、事実と違うという御指摘はその通りでございます。お詫びいたします。」
「あなたがそう言うと思って、僕も用意してるんですよ、1月9日につきましては記録もありませんし、コメントできませんってそのあと言ってるんですよ。ま、記録と違うこと言ったというのは今認めたので、まいいですけど、本当余計なこと言わないでください。じゃあなんでこういうふうに答えたのか、答えてないから答えてください」
(冗長部略)
「応接記録、面談記録があるかという議論の中で、やらせていますので、その時に彼は応接録、面談記録がないと答えておって、その上で、なんでそういうふうに答えたのかというご質問でしたが、その理由は、応接録、面談記録がないというふうに答えておったので、そういうふうに答えたのではないかと申し上げております」
「決裁書、書き換え前の決裁書、それは承知をしておりました。そのことも当然踏まえて、基本的には、と私は御答弁申し上げてるつもりでございます。その上で先ほども御答弁申し上げましたけども、書き換え前の決裁文書、それはもちろん作成者、答弁を作成するものも踏まえておりますが、その上で、近畿財務局にも事実を確認したしております。その上で、委員は答えてないとのご指摘でございますけども、答弁は一つ一つ、決裁文書だけで答弁をしているわけではなくて、様々なものを踏まえてその中の議論の中で、ということを申し上げております。議論の焦点が文書があるかないかということでございましたので、そういうことを答弁申し上げてるということこでございます。」
「お答えいたします。基本的には改竄前の決裁文書に基づいて答弁を作成しておりますとなんども申し上げております。ただ、これもなんども繰り返しておりますが、決裁文書だけではなくて現地の近畿財務局にも(先ほどの繰り返し・・・)」(要は、佐川がないと言ったのは応接記録、面談記録という意味であって、決裁文書にまとめられた経緯の記録がないという意味では言っていないという理屈をなんとか成り立たせようとしている、頑張ったけどそれは通らんでしょう・・・)
「先ほど委員引かれた、記録がございませんが、というのは応接録のことだと思いますが、申し訳ありません、これ以上のことは私ではお答えいたしかねます」
「じゃあ次、同じ3月2日。国の貸付料の概算額を伝える、と書いてありますが、私”1月9日、籠池理事長に近畿の財務局から(予定価格等を)伝える可能性は否定できませんか”、佐川氏"私共が具体的なそういう予定価格とか賃料とかを提示することは一切ございません"。なぜ彼は私の質問にこのように答えたのでしょうか、同じ質問ですがお答えください。」
「今ほど委員が御指摘の点は、我々が気付けなかったのが申し訳ないんですが、25の法律相談の文書を提示した時にこの経緯の部分ございまして、昨年の三月の参院財務金融委員会だったと思いますが、委員長からのご指示で、27年1月初旬に学園から森友学園側に賃料について問われ、その時、評価額と利回りから算定することになるが、国有財産地方新議会の開催前であり、具体的な金額を提示したことはなかったと説明してきているところでありますが、先ほどと同じとおっしゃいましたが、私が説明できるのはそこまでだということでございます」
「その説明はわかったようでわからないんです。評価額と利回りがわかれば賃料は計算できるんですよ。そんなの当たり前の話なんです。概算額を伝える、と書いてありますが、佐川さんは、国から提示することはありませんと否定をしました(略)、さらに佐川さんは私に改竄前の文書と違う答弁をしました。これは、軟弱地盤であるか、当時の佐川理財局長は、軟弱地盤であることが判明してございます、と言っていますが、改竄前は、特別に軟弱であるとは思えない、としています。これ改竄ですよね、なおかつ真逆の答弁をしている。なんで?」
「外部の調査、それは委員書いてらっしゃる地質調査会社ですが、そこは特別に軟弱であるとは思えない、とした上で、通常と比べて軟弱かというと、通常地盤の定義が困難であるため、回答は困難としてございます。その上で法律相談部門と、法曹部門と相談をして、賃料は、一回目より二回目と変えています。この決裁は一回目の賃料、二回目の賃料を踏まえて最終的に記述したというものでございます」
「特別に軟弱だとは思えない。太田さん言ったように回答不能なんです。なんで軟弱地盤であることが判明した、と言い切れたのか。全く答えてないんです。僕ね、映像で見直したんです。全部佐川局長は、持ってる答弁(書)を確認しながら答弁してるんです。これ改竄前の文書でしょ、この時の答弁作ってるのは。ということは、実は3月2日の時に、すでに改竄を前提に答弁をしていたか、改竄がすでに行われていたか、改竄を意思決定して、改竄前の文書とまったく違う答弁をしていたかしか考えられないんですが太田さん私の認識間違ってますか。」
「今の委員の御指摘は、まさにいつ書き換えが行われたか、ということの一定の仮定を置いて、ですから、そのこと、その質問については、誰がいつどういう目的で、と調査しておりますので、私にはお答えできません。」
「このときすでに、改竄後(の文書)を前提に答弁を作っていたということはじゃあお認めいただけますね。誰がとは言ってませんよ、いつとも指示がとも言ってません。改竄を前提に答弁が作られているということはお認めいただけますか」
「それは先ほど申し上げた通り、今の委員の御指摘は、まさにいつ、ということが決まっているという前提でのことでございますので、それは今まさに調査をしておりますので、お答えいたしかねるということです」
「3月の2日の時点で、改竄されているという御指摘であったと思いますが、今の私には答えられない、わからないというのが正直な答えでございます。」
「太田理財局長は、この数日間、改竄前の文書をもとに答弁は作られている、趣旨は変わっていないと答弁をしてきているんですが、3月2日の時点ではすでに改竄後の前提で作られているんです。申し訳ないですが、太田さんの答弁はもう破綻しているんです。フェイク答弁にフェイク答弁を重ねても真実にはなりません。
続きはトラバで
「しゃーない」とは「しかたない(仕方ない)」であって、「しょうがない(仕様がない)」は「しょーない」。
…というわけで、残念だけど少し違うと思います。時代が下るに従って混用は起こるので、同じように用いる事例がないとは言いませんが。
そして、この「しょーない」は、現在それ単独で使用される例は日常ではあまり見かけない気がします。「ドーしょーモない」などの有名な連語は使用頻度高いですけど。ちなみにそこから更に生まれた派生語が、あの有名な「ショーモナイ(=「詰まらない」の意。ツッコミ等でよく使われる)」であるのはご存知の通り。
なお「ショーモナイ」と「ショーナイ」は相当語感が違っていて、前者には愛があるけれど後者にはあまり愛がない。「ショーモナイ」という批評は笑いながら言うのがふさわしいですが、「ショーナイヤッチャ」といった言葉は吐き捨てるように言うのがふさわしいですね。「モ」が入るだけでずいぶん違います。
というわけで、事例が少なく特殊なため、この「しょーない」を丁寧語化するのはちょっと難しいです。「どうしようもない」という状況を強いて丁寧に言う場面を想定したら、まず出てくる言葉は「コレアキマセンネ(=「これはダメですね」の意」)」でしょうか。丁寧でなければ「コラアカンワ」です。関西人はあきらめが早いです。あと、デスマスだけでなく、コレとコラでもちょっと違うのです(※1)。ホンマオモロイナ。
というわけで、補足講座を終わります。 マアソンナカンジヤ。ヨケーナオマケ。
座興としてお楽しみいただければ幸いです。 コンナン読マント寝テタホーガマシヤロw
ありがとうございました。さようなら。 アンタモヒマヤナー。ホナナー。
(※2)
https://anond.hatelabo.jp/20180115174412
※1 「コラ」は「コレハ」から来た略語なので、これを使うと俗語っぽくなるのです。
※2 最後に付録として、ネイティブ関西人による本当の意味での「翻訳」を少し試みてみました。自虐と相手へのイジリと配慮を等分に混沌とさせながら、相手も自分も「アホ」の坩堝に投げ込んで韜晦させ最終的に和の一座を創造するところに関西弁の妙味があります。「方言」というのは、決してイントネーションだけで成立しているのではなく異文化そのものである、というメッセージを少しでも感じていただければ幸いです。
そんな話題がでてたので、ファンタジーの中でもハヤカワFTのなかで印象深いものをメモしてみる。
ハヤカワFT031。ユーモアファンタジー魔法の国ザンスシリーズの1。ユーモアっていうか、ダジャレファンタジー。全編ダジャレ。好きな人と嫌いな人がかなり別れる。とはいえ、ダジャレと韜晦で煙に巻きながら、少年少女の自立とか誠意式の芽生えと思いやりとか、結構ちゃんとしたテーマはそれはそれでそれなりにやっているのが偉い。
ハヤカワFT文庫は、文庫設立当時は、あちらで有名な基本的名作をポチポチ紹介してたんだけど(マキリップ、フィニィ、ダンセイニあたり)このザンスシリーズ辺りから、複数巻にまたがるシリーズを紹介し始めて、おそらく収益的にも安定し始めたんじゃないかと思う。
ハヤカワFT055。妖魔(他作品で言うところの精霊的存在)の真の名を掴んで指輪に封じることで魔法を使う青年クレイを主人公とした上下巻。魔法の不可思議さや、おとぎ話的な雰囲気がどこまでも魅力的な作品。寓話的なストーリーとあいまって、「ファンタジーモノの原点ってそういえばこんなだったなあ」感ある。ネバーエンディングストーリー的な意味で、読者はその世界の脅威に魅了されながら読むという今では廃れきったスタイルの佳作。
ハヤカワFT055。やったー! みんな大好き俺TUEEE。序盤は地に足の着いた泥臭いファンタジーなのだが、異次元世界の魔術先進帝国から侵略をきっかけに主人公の少年が段々と魔術の才能を開花させて、無数の次元の秘密に迫る大魔術師に成長する話です。能力的なインフレもするんだけど、世界観や物語の構築がしっかりしているせいでご都合主義的な匂いはなくて、古代の英雄譚な味わいになっていくのが面白い。
FT106。大傑作大名作。指輪物語と同じような「グループが使命を果たすために旅をする物語」なのですが、読みやすさといい感情移入といい、こちらの方を押したい。メンバーが皆魅力的です。ウルフおじいさんとこそ泥王子のシルクはファンになっちゃいますね。ぶっちゃけこのシリーズがあるだけでハヤカワFT黄金時代だったと思う。
このシリーズは「ベルガリアード物語」が全5巻、続編となる「マロリオン物語」が全10巻あるので、シリーズ好きな人にはたっぷり楽しめる。。
FT137。シリーズじゃなくて一冊読み切り。現代(というか、今現在からするとちょい前?)くらいのロンドンを舞台としたファンタジー。高層ビルの屋根や屋根裏をすみかとして、ワイヤーとリールで空中を移動しながら生きている一族という、「現実世界にもファンタジーはひそんでいるんだぞ」設定がまず魅力的。子供の夢想みたいなのを実力ある作家が物語にしちゃったケースなので、読後の「もしそうだったらなー」というファンタジー特有の酩酊みたいなのが味わえます。
FT308。全五部作予定だったシリーズの最初の一巻。いろいろあって三巻までしかでなかったのだけど、話自体は一巻完結なので特に問題はない感じ。架空の中国唐代を舞台にしたチャイナファンタジーに、古典中国のアレヤコレヤを詰め込んだ、最高級の「ほら話」。文章には癖があり、何より密度がめちゃくちゃ高いので活字を読み慣れない人は体力を消耗しちゃいかねないんだけど、皮肉とブラックジョークの影に描かれた物語はびっくりするほど美しい。主人公コンビ、力持ちだけが特技の農村の垢抜けない青年十牛と、老賢者(というかイカサマ師)の李高老師は、ちっともヒーローらしくないデコボココンビなのだけど、迷宮、幽霊、過去の因縁話、宮廷につきもののスキャンダルをくぐり抜けていくと愛すべき人物だと気づく。ラストシーンは本当に素晴らしい。
今日、貸してもらった本を返す。
だけで返せたらいいなと思う。
年下の友人が先週貸してくれた。それはもう、ありきたりなぐらいにありきたりな軽い小説で、映画化されて流行っているからという、おそらくただそれだけの理由で彼女はそれを読んでいた。本をあまり読まない人が持っているのを見たこともあるぐらいだから、乱読気味の彼女が読んでいて、それで、「面白いから読んでみ」と貸してくれたのは、まったく不自然じゃない。
けれど、本を貸すのはむずかしい。彼女はまだそれを知らない。知らないままにしておいてあげるほうがいいのかなと思う。まだそれでいい。
なぜなら、読書は人の心をかき乱す。たとえそれが安っぽいお涙頂戴式の小説であっても、思いもかけないところで心の平安に波風をたてる。
「貸して欲しい」と言われて貸す本ならかまわない。本屋で手に取っていくのと同じで、いくら取り乱そうが、それは借りていった者の責任だ。そこで完結する。しかし、「ぜひ読んで」と貸した場合、ダメージを受けた側はやはり相手に責任を求めたくなる。それを求めることをまた、求められているのではないかと思う。つまりは、なにか気の利いた感想でも言わねばならないような気になる。
だが、いかにも仕組まれたクライマックスでボロボロ涙を流した者にとって、気の利いた感想などいえるはずがない。こんなご都合主義で泣くなんて、恥以外の何物でもない。その恥を否定するために、あえてその物語をくさすのか。不治難病モノは定期的に流行するキッシュだと、知ったかぶりの韜晦に逃げこむのか。それとも、涙もろい自分を素直に認めてしまうのか。だが、それはとてつもなくややこしい。
なぜなら、年下のきみが感動した理由と、もう長いこと生きてきたぼくがやられてしまった理由は、たぶんちがうからだ。ぼくにとっては、舞台設定そのものが痛かった。その感覚は、きみにはわかるまい。
きみは信じないだろうが、こんなぼくにだって高校生だったときはあった。きみはよく「青春」なんて言葉を口にしてぼくを笑わせるけれど(たぶん意識してカギカッコ付きで使っているんだというのはわかるけど)、どんな意味においてさえ、ぼくにとって高校時代は青春なんかじゃなかった。ひたすらしんどい時代だった。そして、この小説の舞台設定は、まさにその果てしなくしんどい時代を思い出させる。
美化してしまえば、ぼくにだって「青春の思い出」みたいなものがないわけじゃない。だけど、時間のレタッチと自己正当化を取っ払ってしまったら、そこに残るのはただただめんどくさくておもしろみのない屈辱の日々だ。
典型的な場面を思い出す。それは、昼休み、グラウンドに面した廊下、ぼくはグラウンドを見て退屈している。なぜ退屈する場所にそこを選ぶのかというと、グラウンドの木陰はリア充たちが(「リア充」なんて言葉はその時代にはもちろんなかったのだけれど)占拠しているし、教室内にはまだ弁当を食っている人や早速にお勉強をしている優秀な生徒たちがいる。そういう人たちの邪魔はしたくないし、だいたい教室内の席なんて飽きるほど座っている。友だちの少ない、話題の乏しいぼくにとって、いられる場所は限られていた。そして、人の邪魔にならないわずかな隙間のようないくつかの場所の中でも、グラウンドの見える廊下は特等席だった。なぜなら、そこからはクラスでいちばんのお気に入りの女の子と、クラスでいちばんの美人と評判の女の子が眺められたからだ。親友である二人は、たいていつもグラウンドの向こうの特別教室の日陰でおしゃべりをしている。もちろんぼくは、ただ鑑賞するだけ。それだけ遠いと見ていることもあんまりわからないだろうから、まあ人畜無害な楽しみだ。
そうやってしばらくすると、ぼくと同じぐらい冴えない女子が弁当を食い終わって廊下に出てくる。いつも凄まじい寝癖のついた髪をしている。彼女もまた、昼休みにどこに行くアテもないのだろう。ぼくと彼女は少し言葉をかわす。話題のないぼくと同じくらい、彼女も話題がない。だから食い物のことばかりしゃべっている。カレーの玉ねぎは具であるべきなのか、ペーストの一部であるべきなのかみたいなことを、特に目的もなくしゃべっている。
そうこうするうちに、学級委員長が廊下に出てくる。いや、彼は正確には学級委員長ではない。彼がその役にいたのは一年生のときだから、「元」をつけるべきなんだろう。彼はぼくの数少ない友だちの一人で、というよりもぼくにとってはその高校で唯一の友だちで、だからぼくは少しホッとする。ただ、彼が加わってからの話はちょっとぎこちなくなる。彼にとっては食い物のことは重要ではない。いや、ぼくにとってもそうだよ。だけど、他に話すこともない。彼はちがう。なにか、他に話すべきことがある。けれど、ぼくにはそれが見えない。そのうちにチャイムが鳴って、ぼくらは教室に戻る。
そういうことを思い出してしまう。だから、ぼくは泣いてしまう。
なぜなら、シチューをご飯にかけるのは有りか無しか、ナポリタンスパゲッティの麺は柔らかいほうがいいのかどうかなんてどうでもいい話をする過程で、ぼくはとんでもなく人を傷つけていたからだ。
後になって、ぼくはその寝癖の女の子から聞いた。学級委員長と彼女はそのとき付き合っていた。だというのに、彼女はぼくとばかり話しているものだから、最後に学級委員長は傷ついて、そして、結局別れ話につながった。そういう展開が愉快な人はいないだろう。親友の失恋を喜ぶような奴はいないし、自分がその原因だったら焼きそばノドにつめて死んでしまったほうがマシだと思っても仕方ないんじゃないだろうか。
だから、ぼくはもう、そこから先の筋書きがどうであれ、泣く準備はできていた。そして、ヒロインが死ぬところでやっぱり泣いてしまった。
それでもあのとき、おにぎりノドにつめて死ななくてよかったなあと、いま、そんなふうに思う。
なぜなら、いま、こうやって気軽に本を貸してくれる友人がここにいる。それを感じることができる。そして、ぼくはいま、ちくわに詰めるのはキュウリがいいのかチーズがいいのか、ナスは田楽と揚げびたしのどちらを奨めるのか、寿司屋で卵焼きを食べるべきなのか否か、そんなことを熱くもなく語ることができることの嬉しさを知っている。
だからぼくは、うっかりと誰かを傷つけてしまうようなことをしたくない。気づかないうちに自分の力を超えることをしてしまいたくない。
そんなわけで、ぼくは何も感想とかいわずに、この本を返そうと思う。こんなことを喋らないために、ちょっとだけ皮肉っぽい表情も見せるかもしれない。