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2013-11-13

やりたいことやるってなんだろう

理系でしたが、大学を休学していてます

バイトもせず、ニートです。親の仕送り生活しています

批判がほしいのか、一握りの共感がほしいのかわかりませんが、こんな文章を知らない誰かが読んでどう思うのか気になって書いて見ました。


いつからボタンをかけちがっているような感覚がありました。些細な瞬間というよりは常にうっすらとありました。

自分人生を生きているという確かな実感が薄く、実年齢とその年齢で想定していた精神状態との乖離をすごく感じていました。精神は安定せず、2~3ヶ月に何日かすごく塞ぎこむ日が続いたと思えば、一週間ほど“ハイ”な日がきたりしました。

夜明けまで街なかを散歩たかと思えば、毎日ランニングに精を出したこともあります

2~3週間で興味や関心が移り、好きな時間に起きて、それをやり、好きな時間に寝ていました。

そんな生活をしていると一年という期間はあっという間に過ぎてしまます

この一年で得た些細なものと、この一年で失った大きなものとの、両方の大きさを実感できます

ニートになるのはやめろ、言いたいのではなく、結局なるようになったのだと思います

ボタンのかけちがったままいこうにも、すでにとめるものが無くなってしまったのですから

躁鬱病と言えばそれまでですが、病院に行ったこともなく正式な診断は受けていません。

自分で病的だということの自覚はありますが、それが自他ともに認めるのを怖がっているのです。

ですが自分が病的であるという自覚、又は仮定をすれば、では正常な判断とはなんだろう、という疑問が湧きます

もし1つ条件を置くことを許して頂ければ、誰しもこの疑問にすぐ答えることは難しいだろうと思います

常識普通」と「正常な判断」というのは必ずしも一致しない。

これは僕の経験則なので、あまり参考にならないかも知れませんが、常識普通で考えて、「良い」又は「ありえる」「良くない」と想定できる行為は、行為のすべての可能性の8割程度を構成していると思います

後の2割に「とてつもなく悪い」と「とてつもなく良い」が、混在しており、それは常識では判断できず、往々にして常識ではどちらも「とてつもなく悪い」と判断されてしまます

デカルト良識はすべての人に備わっているといいましたが、もし「とてつもなく良い」判断をする能力を須く人類が備えていれば、「とてつもなく良い」世界ができそうですが、僕にはそうなっているようには思えません。

まり8割を判断できる一般論では、2割を構成する極論は判断できないのです。

そしてその極論は、一般論では、否応なく悪い方に判断されてしまいがちだ、と思うのです。

というのも「とてつもなく悪い」と「とてつもなく良い」というのは何か、紙の裏と表のようなもので切り離して語ることはで

きないので、そのように思うのです。

例えば「食事」で考えてみます

「良い」食事というと常識で考えて、1日3食決まった時間バランスよく肉だけでなく魚や野菜も食べれば「良い」食事であると判断できるのではないでしょうか。

逆に「悪い」食事というのは、常識で考えて、好きな時間に、ファーストフードや揚げ物など偏ったものばかり食べれば、それは「悪い」食事であると判断できるのではないでしょうか。

では例えばスティーブジョブスのような偏執的とも言えるようなベジタリアンはどうなのでしょう。

本で見た程度なので、正確かどうかはわかりませんが、彼は体の毒を除くための絶食を1週間程したり、肉は全く食べず限られたものしか食べないというようなかなり偏ったベジタリアンだったようです。

晩年すい臓がんの闘病中に、医師から栄養価の高いものを勧められても頑なに自分の信念を曲げず、自分の決めたものしか食べなかったので、病気の進行を早めたといいます

これは「とてつもなく悪い」食事なのでしょうか。

多分そうなのでしょう。

食事という面を切り取れば、「とてつもなく悪い」ということになると思います。ではもう少し多面的に、考えてみましょう。

この偏執とも言える食事のおかげで、彼の頑なな意志が生まれ、僅かではあるが、皆さんがご存知の偉大なイノベーションにつながったとすればいかがでしょうか。

これでは、言い過ぎと言われるかもしれないので、彼の頑なな意志では、一度決めたことは、たとえそれが「とてつもなく悪い」ことでも貫き通すことにこそ意味があった、というのはいかがでしょう。

彼のパーソナリティを鑑みれば、「とてつもなく悪い」食事と「とてつもなく良い」イノベーションとは切っても切れない関係なのです。

これも言い過ぎかも知れませんが、僕が言いたいのはこのようなことです。

極論なので論ずるに値しないと思う人もいるかもしれませんが、僕は極論の話をしたいのです。

極論というとあまり響きがよくないので、ここで言い換えましょう。

一般相対性理論特殊相対性理論とあるように、一般の対義語は、特殊だと思いますが、特殊論というと、これも極論と響きが似てきます

そこで一般論の対義語を個別論というのはどうでしょう

例えば「彼のようなクリエィティブな人間人材を育成したい」と言うと、食習慣を真似するというのではなく、イノベーティブな製品発明することを指すと思います

ですが私は、それらは切り離せないウラとオモテのように思うのです。

常識的な判断で「よい」と思われる物事の一面だけを切り取って、それを一般化させて、一般論としても、個別論適応できないように思われるのです。

科学のように上手くはいかないのです。

僕達は個別論的に生きているので、一般論的に論じられても、意味を見出せないと思います

これは私の個別論的な主観を、一般化して世代を論じているので、自己矛盾じゃないか、と言われると思いますが、全くその通りです。

そしてただの自己弁護です。

こんな文章を一体誰が読んでくれるのでしょう。ああ、そういえばタイトルがありました。

「やりたいことをやるってなんだろう」です。これです。

結局僕はやりたいことが一般論で見つからなかったかニートになったんだと思います。そしてこの文章も推敲もせず途中で投げ出していまいました。こんな人間ニートになるのです。

2013-11-02

映画スティーブジョブズ感想

映画スティーブジョブズを観た

(※以下、ネタバレを含みます

全体的には、物語ジョブズ学校を退学したあたりからまり、友人たちと実家の小さなガレージからAppleを立ち上げ会社上場させ、解任などすったもんだありながらも前へ進んでいく物語だった。

個人的には楽しめた。

ただ、ジョブズ好きな人には物足りない内容だったと思う。

理由は、

(1)出生に関する情報が少なすぎた

映画自体が大学中退することろから始まるので、幼少期の情報がすくなすぎたと思う。

唯一、幼少期に関する内容が、ジョブズ彼女との会話の中で「親に捨てられた。。。」などと言っているシーンだけでだった。

(2)冒頭シーンでジョブズインドで何を感じ取ったのかがわからなかった。

若き日のジョブズが友人とインドに行って宗教的な価値観人生観に影響を受けたと思われるシーン(たぶんその後のジョブズにかなり影響のある部分)があるのだが、それがあまりにもあっさりで結局ジョブズインドで何を感じとったのか、そしてその後の人生のどんなところでこのシーンがどのように影響するかがイマイチよくわからなかった。

(3)Pixarでの活躍が全く描かれてない

ジョブズファンならここも描いてほしかったはず。

世界企業を2つも育て上げるなんてとんでもない功績(世界中を見渡してもジョブズぐらいなのではないか)なので、多少は触れる必要があったと思う。

(3)病気のシーンが一切なかった

ジョブズ人生を描くと言う意味では、晩年死に至までの過程、つまり病気との戦いはとても重要な部分だと思うが、映画内で病気のシーンは一切なかった

現実には、当初は周りからアドバイスを一切無視して手術や治療を拒否し続け、しだいに病状が悪くなっていく中で、息子の「父(ジョブズ)のために医者になりたい」と言う言葉を聞いてまた病院へ通い始め手術を受けるようになる、と言う物語的にはとても感動的なエピソードがある(テレビ番組世界仰天ニュース」でこのエピソードを放送していた)のだがそれは是非とも映画化すべきだったと思う。

特に手術を拒否するところでは、おそらく(1)の出生に関する部分や(2)のインドで感じ取ったものが大きく影響する部分だと思うので、病気のシーンを描かないなら、インドのシーンは必要なかったのではないだろうか。

いざ書き上げてみると、足りない部分しか思い当たらなかった。。。。

自分で言うのもなんだが、足りない部分の指摘は誰だって出来るし、

今回私が足りないと思って挙げた部分を全部盛り込もうとすると、通常の映画の尺では全然まらないだろうから

これはこれでありなのかなぁと思った。

そうゆう意味では、ジョブズ映画内でのセリフシンプルに」というのがこの映画自身にも当てはまっている

2013-10-16

スヌーピー展に行ってきた。

http://www.snoopy-exhibition.jp/

まあ、日本ではキャッチ―なのでスヌーピー名前を付けたんだろうけど実際は作者であるシュルツ展。原画たっぷり堪能できて、ペンタッチベタ塗の筆遣いがダイレクトに伝わる美術展だった。僕にとって一番の驚きは初期の作品だ。1950年代のものが初期にあたるっぽい。この初期のピーナッツの良さに気付いたのは実はつい数か月前。まさにこのスヌーピー展の告知がきっかけだった。

チャーリーブラウンしろスヌーピーしろ晩年スタイルとはまったく異なる初期のデザインは、かわいらしさが前面に押し出されつつもところどころ写実的で、バランスがちょうどいい。この一連のスタイルを目の当たりにして思い出したのは鳥山明。もちろんシュルツが先だけど。家に戻ってからシュルツと鳥山明の関連性に言及したものはないかと調べてみたものの見当たらなかった。デフォルメと写実の丁度良い塩梅パースは明らかに歪んでいるにもかかわらず、この世界にはしっくりきている。ロゴデザイン。手書きのフォントタッチ。背景の書き込み。そして子供の表情。僕にはすべてが共通しているように思えた。

展示の初めのコーナーにはピーナッツ以外の作品の原画がいくつかあり、子供ばかりを描くピーナッツとは違い、大人が登場している作品もあった。おそらくこれも初期の作品。頭の禿げた太っちょのおじさんは2.5頭身くらいなのに、着ているシャツや背景の小物がしっかり書き込まれてる。薄い影の描写はできるだけ避けているようで無駄のない線とベタコントラストが余計に写実的な印象を与える。

雨の表現もすごかった。子供がでたらめに書くような斜めの線だけでどしゃぶりの雨を表現してて、キャラクターにもその雨の線はかかってる。でも、その表情はしっかり読み手が受け取れるように配慮されてる。これは百聞は一見にしかず。実際に見て唸ってもらう以外はないように思う。

展示を進んでいくと1960年ごろから僕らが記憶しまっているいつものチャーリーブラウンスヌーピーに落ち着いてゆくのがわかる。本音を言わせてもらうとすでに初期のピーナッツに魅了されてしまっている身としては正直面白みにかけるものだった。あの1952年チャーリーブラウンもっと見せて!と思ってしまう。

ただ、シュルツが鉛筆キャラクターを書いてゆく動画の展示には時間を忘れて見入ってしまった。あれだけキャラクターを書き続けているだけあって、まっさらな紙にさらさらと命を吹き込んでいく様は線一本一本に無駄がなく所作すべてが美しい。動画自体が一つの作品のようだった。

http://www.youtube.com/watch?v=dS0vUbWdNxg 

http://www.youtube.com/watch?v=ZFbVrzl69dM

そして晩年のコーナーで楽しめたのはくしゃくしゃのメモパッドに描かれたらくがき。シュルツはウォーミングアップとしていたずら書きをしてから作品制作に入る人で、描いてはゴミ箱に捨てていたらしい。それを秘書お手伝いさんか誰かが捨てずに保管していた。とてもリラックスした状態で描かれたスヌーピーは今までみたことのないタッチで、ピーナッツテーマとなっているハピネスが一番伝わるコーナーだったように思う。

最後に、このスヌーピー展に足を運ばないと楽しめない作品があったので紹介。それはあまりにも小さく、鉛筆で書かれている地味な作品。でも強烈なインパクトを僕に与えてくれた。それは初期のコーナーに展示されている「高校時代に描いた3つ1組のデッサン」。いろいろなものが3つずつ描かれていて箱、帽子、顔、支離滅裂に思うがまま描かれている。その中にヒゲをはやしたかわいらしいキャラクターの顔と添えられたハーケンクロイツがあるのに気付く。

ヒトラーだ。

なのにかわいい

こんなにかわいいヒトラーはみたことがない。このシュルツという人のデフォルメセンスが好きだ。入ってすぐのコーナーにもかかわらず、このヒトラーを見つけた時この展示会は自分にとって特別なものになることがわかった。

もしこれから行こうと思ってる人はこのデッサンをチェックしてほしい。

今回の鑑賞はあくまで美術としてのアプローチチャーリーブラウン台詞谷川俊太郎絶妙翻訳を味わうためにもう一回行かなきゃ。

ライナス「What's the cure for disillusionment, Charlie Brown?」悲しみを癒してくれる薬ってどんなものかなぁ

チャーリー・ブラウン「A chocolate-cream and a friendly pat on the back」一粒のチョコレートと、背中友達がポンと叩いてくれることだよ



じゃあね!

2013-07-09

http://anond.hatelabo.jp/20130709000509

この世は快楽苦痛の海ですぜ。酒、美、性、食、金、景色、娯楽、叡智etcetc、何でも揃っている黄金世界なのに楽しまない方が損だ。

そして楽しくなれば未練ができ、比例して死への恐怖も増す。始皇帝藤原道長晩年は恐怖で半ば狂気に迫る物があったらしいけど。

死ぬのなんぞ真っ平だ。中々キツい世の中だがそこそこ楽しめる。

それ以前に死への恐怖は本能だけどな。

2013-06-11

http://anond.hatelabo.jp/20070424004309

思いつくままに

・誰にも頼らず自分一人の考えで、人々が要求する形になっていない想いを、恐らく誰よりも明瞭化しフォームを与えたこと。それも全くの無私で。

低俗で愚かな人間という小さな自分から決して離れずに、現代のあらゆる通念や趨勢に抗い、枠に囚われず普遍的な考えをしたこと。本質を見抜く心眼など。

最初に掴んだある大きな意味なり価値なりに対する直感情熱晩年になっても変わらず一貫していること。年を経るごとに純化し深化した豊かな精神が現れている。

彼の著作についていくのは大変だが、それが嬉しかったりする。

2013-05-10

僕の頃の手塚治虫

 オッス!おら第二次ベビーブーマーだぞ。

 1974年生まれぐらいの人から見て、手塚治虫ってこんな感じに見られてたなあっていう話。

 僕が子供の時は各界に権威者つーか、記号みたいな人がいたのね。

 美空ひばり=歌うまい、みたいな。石原裕次郎とかさ、リアルタイムじゃ「太陽にほえろしか知らんけど、あの固太りのおっさんのどこが恰好いいの?とか思ってても、裕次郎二枚目、みたいな記号権威をもってたんですよ。

 いまさ、例えば歌姫って言っても、こーだくみも歌姫なら、浜崎だって歌姫でしょ。僕が子供頃だったら歌謡曲女王ってたら美空ひばりミスタープロ野球ってたら長嶋茂雄、いや島倉千代子はどうなの、とか王貞治の方が記録を残してるよとか、そういう異論は通用しなかった時代なのね。

 で、そういう時に、手塚さんは漫画神様

 今だって神様だけどさ、もう当時はカテゴリー的には昭和天皇と同じカテゴリーなのよ。美空ひばりとか長嶋茂雄とか、石原裕次郎とかは皇室と同じポジションにいたわけ。

 そういう意識を共有して、日本人共同幻想体をシェアしてたのね。

 タクシーに乗ってさ、いきなり運転手が「いやー昨日は巨人が負けて残念でしたね」って話しかけるみたいな、共同幻想ね。そこにはスワローズファンなんて存在しないの。いや、俺はホエールズファンだからなんてのはあってはならないの。石原裕次郎二枚目ってのを受け入れるのはさ、天気の話をして場をつなぐ友好的な社交を受け入れるってのと同じことだったわけよ。

 そういう仲でさ、手塚治虫神様天才=善人=医者、っていうさ、そういう受け入れられ方をしてたわけ。世間アトムジャングル大帝しか知らんから

 手塚場合は、まあ、実際に天才だったわけだしさ、裕次郎二枚目っていうのよりは実態があったけど、僕らの世代は実際には手塚漫画を読んでないのね。アニメは見たよ。

 子供が多い時代だったから、しょっちゅうアニメ再放送されてて、「ジャングル大帝」「ふしぎなメルモ」「悟空の大冒険」「鉄腕アトムリメイク版ね、♪ボクの腕と脚はジェットで空をとーべるー、の方)」「ジェッターマルス」とか観ていた。僕が一番好きだったのは「悟空の大冒険」だけどさ、まあ正直言って、藤子不二雄とか赤塚不二夫アニメの方が面白かったなあ。

「近頃の漫画権威っぽくてどうもいかん」

 みたいなことを80年代手塚は言ったらしいんだけど、晩年手塚権威を利用して、また新しいチャレンジをしてたね。

 僕がリアルタイムで、手塚の「連載」を読んだのは「アドルフに告ぐ」なんだけど、これ、週刊文春に連載されてたんだよ。一般週刊誌だよね。週刊文春読んでる中学生もやな感じだけど、漫画が一般雑誌に掲載されたのは大昔にはあるかも知れないけど80年代の文脈で言えば手塚だけだったね。で、「火の鳥」と「ブラックジャック」がハードカヴァー版で刊行されたんだけど、漫画ハードカヴァー版も多分、手塚最初

 権威を利用してたけどさ、最晩年の頃の手塚むちゃくちゃ現役作家でさ、現役作家として再ブレイクしてたんだよ。ま、あの人、現役じゃなかった時代はないんだけど、藤子F先生が「ドラえもん」に専念して、赤塚先生がかろうじてコロコロとかに細々と連載してる中でさ、手塚社会のど真ん中で新作でブレイクしたんだよ。

 その最中に亡くなったんだけど、「アトム期」「レオ期」「どろろ期」「ブラックジャック期」って連続してるけど、それぞれ別の顔、別の座標軸でブレイクしてるんだよ。で80年代にもブレイクの山をもひとつこしらえたっていうかさ、死んだとき神様じゃなくて現役作家だったんだよ。

 「ブラックジャック」とか「火の鳥」の名声で食ってたんじゃなくてさ、多くの読者に早く来週の掲載作品を読みたいって思われる作家だったんだよ。

 まあ、おっさんのむかしばなしなんだけどね。

2013-03-20

飯野賢治の持ち上げ方が気持ち悪い

亡くなった途端、一斉に彼を持ち上げる空気がとても気持ち悪い。

マイケルの時だってすごい掌返しだったから、亡くなるってことはそういうことなんだろうけどね。

スーパーワープ以降、世間的には消えた人で晩年はちょこちょこ見える活動が増えて来てたけど

終わった人扱いだった癖にここぞとばかりにゲーム大好きでした、天才クリエイターだったとかさー。

はっきりいって今まで彼の作品の中に目新しさはあっても、圧倒的に面白い物はなかった。多分ゼロエネミーゼロ

反面、トークイベント自伝本の面白さは凄かった。

人を巻き込むその力はクリエイターよりプロデューサー向きだったと思う。

今思えば本人のクリエイタープレイヤー指向が、生み出す物を色々邪魔してたようにも感じる。

彼のカリスマ性は創作ではなく行動にあった。作る物より本人が面白いタイプだったのは明白だ。

何かやってくれそうな期待をたっぷり抱えたまま居なくなってしまった。

300万本RPGはともかく、星海社太田氏が絶賛した小説は読みたかったなー。完成もしてないんだろうなーきっと。

2012-07-27

IT業界って勝者がいなくてヤバいんじゃね?

業界若い。変化が激しい。常に勉強必要

10年前までは天下取ってたMicrosoft赤字10年後にはGoogleAppleも多分そうなってる。

若い奴は常に勉強して新しいものに頑張ってついていくこともできるが、歳取ったらやる気があっても努力しても物理的に無理。老化に勝てる人はいない。

まり40代ぐらいまでのうちに一財産築いて引退するつもりでないと、晩年ナマポとかコンビニバイトまで落ち得る。

恐ろしい業界じゃないか…?常に勉強必要業界ってやばいよ。若いうちは気付かないかもだけど、お前も例外なく衰えるんだぜ?

2012-03-24

http://anond.hatelabo.jp/20120323221914

父は思いやりがない。86歳になった今、気にかけてくれる人はいない。

ところが「理性が無くなるタイプ」の認知症になった。

余計なことを考えなくなって、思ったことを素直に言うようになったら、他人の心配をけっこうしてた。

今更、そんなことがわかっても、人気は回復しない。

寂しい晩年を過ごすことになりそうだ。

他人を心配しているときは、素直に心配しようと思った。

元増田のお母さんの言葉、当たってると思うぞ。

201203301442追記

父に人徳がないせいで、母はストレスで狂っちゃったし、兄貴たちは寄りつかないし、雇った人は辞めちゃうし、唯一免疫を獲得している私だけが介護の日々を過ごしてるわけで。思いやりはすり減って無くなりそうだけど、まだゼロじゃないんで補給したい。

みなさんのおかげで、満タンです。

2012-01-19

フランダースの犬にまつわる救われない話

オチが救われない話」というまとめサイトを読んでいたら、こんな救われない話を知った。

フランダースの犬』は、アニメとして日本人によく知られている。

しかヨーロッパではほとんど知られていなかった。

もとは1872年発表のイギリス童話だが、原作者女性ベルギー風俗イギリス人の目で偏見的に描いている。

なにしろ、帝国同士の争いが激しかった19世紀。

イギリス人の心の奥底には、ヨーロッパに対するかすかな敵意が潜んでいる。

「この地方は荒れ果て、人々は不親切で、しかも愛すべき犬を何代にもわたって、激しい労働に不当にこき使っている」

こんなことをずらずらと書いているのだ。

ベルギーを始めとするヨーロッパで人気が出るわけがない。

その上、本家イギリスでは、運命に抗わず教会で死ぬという内容がアングロ・サクソン的に受け付けられなかったようだ。

結局欧米では、誰も見向きもしなくなったというわけだ。

ところが日本では、1975年に感動的なアニメが作られたために爆発的な人気を獲得する。

80年代から海外旅行ブームでは、ベルギーフランドル地方観光が定番コースの一つとなったほど。

もっとも、ルーベンスの絵を観ることはできても、『フランダースの犬』にまつわるものがそこには何一つない。

地元人間すら誰も知らないのだから当然か。

日本人がガッカリして帰国するのが、当時のツアーのお決まりパターンだったとか。

ところが、1982年、大きな転機がやってくる。

ベルギーアントワープ観光局で働いていたヤン・コルテールという男性が、運命を変えた。

日本人観光客からフランダースの犬』という物語存在を聞いたことが発端である

生真面目な性格で、面白みのない変わり者と思われていた彼には浮いた噂もなく、恋人はおらず、友達も少なかった。

地元を愛し、それが故に地元観光局に勤めた彼。

そんなオタク青年の彼は、地元に関係する噂話を聞き逃さなかった。

だが日本人観光客に詳しいことを尋ねても、

アニメをやってたんだけど、もしかしたら原作があったのかもなぁ」

というだけで『フランダースの犬』について、はっきりとしたことが分からない。

今と違ってインターネットがない時代

日本語情報はそう簡単に手に入らない。

街の誰に尋ねても、何もわからなかった。

しかし彼はあきらめない。

「この地方舞台にしているのなら、図書館にヒントがあるかもしれない」

そう考えた彼は、地元郷土史などを調べ始める。

図書館であらゆる資料をあさり、……そしてとうとう、60年の間、二、三度しか借りられていなかった原作を見つけたのだ。

欣喜雀躍たる、彼の喜びが想像できるだろう。

……だが、読み終えた彼はがっかりした。

感動するほどの物語ではないからだった。

実は原作には、最後ネロ天使に救われて天国へと召される……というシーンはない。

ただただ暗いだけの作品なのだ

原作者は夫に捨てられた後、犬の保護に尽力していたが周囲に相手にされなくなり、晩年は30匹の犬に見守られて亡くなっていた。

そんな原作者厭世観が反映された作品でしかなかった。

(この原作日本人の感動との間の乖離は、いったいなんなのだろう?)

日本人からアニメの素晴らしさを聞いていた。

しかしたら、それがヒントになるのかも?

彼は、日本語を学び、日本人観光客の友だちを作り、帰国した彼らからアニメビデオ童話集を取り寄せてみた。

その結果……感動したのだった。

彼は、今のジャパニメーションギークの先駆けだったのだろう。

情熱は、いよいよ膨らむ。

一年半かけて調査を行ない、原作舞台が近くのホボケン村だと突き止めた。

原作に描かれた運河がスケルト川だったことも分かった。

ついには風車の跡も発見する。

変わり者のコルテールのその姿は、周囲から嘲笑を受けていた。

当時の日本なんて、極東の島国で、ドイツに加担して負けた挙句に少々景気を持ち直しただけの国、というイメージだったから、仕方ないだろう。

だが、彼の熱意は次第に周囲を突き動かしはじめた。

ルーベンス以外にこれといって観光資源のないこの街に、もう一つの観光シンボルが生まれるかも知れない。

そういった周囲の思惑も重なり、ついには1985年ネロパトラッシュの小さな像が、ホボケ情報センターの前に立てられた。

除幕式にはアントワープ州知事市長、在ベルギー日本大使らも参席、盛大なパーティーが開かれたという。

風車観光客向けに作り直された。

ネロパトラッシュが共に埋められた(ことになっている)街の教会は、観光コースとなった。

ルーベンスの作品を観るためにアントワープを訪れていた日本人観光客がホボケン村にも立ち寄るようになった。

その地域観光収入でおおいにうるおい、観光局勤めの彼の名声も次第に上がった。

フランダースの犬ベルギーで放送され、80%近い視聴率をとったという。

ヤン・コルテールは『フランダースの犬研究家として知られるようになる。

その地域では日本通として知られ、日本との橋渡し役としても活躍するようになった。

研究のために日本へ何十回となく訪れるようになり、大の親日家となった彼は、日本人女性石井ヨシエと結婚した。

彼は妻と共に、今でも地元でつつましやかに幸せ暮らしている。







……はずだった。

2008年、彼が妻を殺害した容疑で逮捕されるまでは。

なぜなのか?

コルテールが日本人の妻をもらい、日本ベルギーの架け橋として活躍していることまでは、いろいろなサイトで詳しく取り上げられていた。

ところが、彼が犯した殺人についての続報をいくら調べても、日本語サイトでは何一つその理由が分からないのだ。

英語サイトで調べても、アメリカ人などが『フランダースの犬』に関心がないためか、まったくヒットしない。


仕方ないのでグーグル先生の力を借りて、オランダ語サイト日本語に訳したり英語に訳したりしながら調べた。

その結果、驚くべきことがわかった。

コルテールが妻を殺したのは、妻の浮気のせいだった。

コルテールとヨシエが結婚して数年は、大変幸せそうだったそうだ。

だが、次第にヨシエは旦那の拘束がうとましくなってきたらしい。

彼女帰宅する時には、職場にまで迎えに来る。

もっと自由にさせて欲しい、自由にいろいろな場所に行きたい、というのがヨシエの欲求だったそうだが、コルテールはそれを許さない。

異国の地にやってきて、海外しか味わえない自由を満喫したい日本人女性

彼女を大切にするあまりに、彼女の全てを管理したいと願うベルギー男性

だんだんと、二人の間には溝が生まれるようになった。

二人の間はギクシャクし始める。

その時に彼女の前に現れたのが、口が堅いという噂のピエールだった。

「夫とは長いこと話してないの。夫は頑固でさ」

秘密を守れるピエールへの心安さからか、ヨシエは彼へ愚痴をこぼすようになった。

「彼は変わり者だからね。我慢さ」

愚痴を聞いてもらううちに、ヨシエがピエールに親しみを感じ、やがて二人が愛しあうようになるまでに時間はかからなかった。

ピエールの口は固かったが、ヨシエの下の口はゆるかった。

ところが二人の仲は、コルテールに最悪の形でばれてしまう。

二人がバスルームで愛し合っているところを、コルテールが発見してしまったのだ。

口がゆるい上に、脇も甘かったというわけだ。

だが、そのときヨシエは豹変した。

日本女性のおしとやかさはどこへやら、情事発見したコルテールを怒鳴りつけたという。

「あんたさぁ、男としての魅力がないんだよ!!」

彼女の口は、悪かった。

その時に、コルテールは、彼女のことを深く深く愛していたことに改めて気づく。

何があろうと、彼女の気持ちが戻ってくればそれでいい、というのがコルテールの偽らざる気持ちだった。

彼は、離婚を迫るヨシエに対して、仲を修復したいと取りすがった。

しかし、彼と別れてピエールと一緒になりたい、というヨシエの気持ちは変わらない。

コルテールは、一つの提案をする。

それは、最後のお願いとして、彼女日本を一緒に旅行することだった。

二人が出会った日本で過ごせば、彼女の気持ちも戻ると思ったからだ。

……これ、男にありがち。

男の浮気は「名前をつけて保存」だが、女の浮気は「上書きして保存」

他の男に気持ちが移った以上、振り向くわけなんてないのだ。

日本でヨシエは、両親にコルテールを引きあわせたという(この辺りは女性特有の図太さといえよう)。

それでいながら、彼女の気持ちが変わることはついぞなかった。

ベルギーに帰国後「自分を自由にして欲しい」と迫るヨシエ。

それを拒むコルテールを、ヨシエは罵った。

そして、決して犯してはならないラインを越えてしまった。

彼女は、職場ベルギー人の同僚達と彼とを一人ひとり比較して、いかコルテールが劣ったオタク野郎なのか、痛罵したのだ。

……こと、ここにいたっては、どうしようもない。

この時のコルテールの失望は、いかばかりであったのだろうか。

その時の衝撃は、彼の行動が示している。

コルテールは逆上し、ヨシエをナイフで22ヶ所切りつけて、殺害したのだ。

リアルは、『フランダースの犬』以上に救いようのない話だった。


※プライヴァシー保護のため、一部を仮名にしています

2011-04-24

http://anond.hatelabo.jp/20110423130901

マルクス政権をとった後のことはあまり具体的なビジョンを示していないが、歴史をみれば、確実に暴力のツケがやってくることがわかる。

プロレタリアート権力を奪取する手段として暴力は便利この上ないのだがポルノ並みの中毒性がある諸刃の剣でもある。暴力革命を成し遂げた政権がその後に示す暴力性は凄まじいし反動勢力も含めて人民全体に暴力癖がしみついてしまう。中国を例にとると、偉大なマルクス主義者の毛沢東晩年文化大革命などで大荒れだったし、鄧小平も結局戦車でカタをつけた。最近では反政府側のチベット暴動なんかも然り。(中国についてはもともと暴力革命伝統があるので、鶏が先か卵が先かの論かもしれないが。)まさに「剣をとる者は剣によって滅ぶ」ということであろう。元増田のいう「誤り」がどういうことを指すかはわからないが、臨床的観点から副作用がきつ過ぎる故まず採用しないのが賢明であろうとは言えると思う。

P.S. 話は別だが労働者一般人に置き換えてはならない。マルクス主義が骨抜きになってしまう。

2011-03-07

これからの「正義」の話をしよう の話をしよう (読書感想文

日本始球式をすることも決まっている、話題のサンデル教授の本『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ。

シリアスゲーム的な考え方だと思った。押し付けがましくなく、それでいて熱意がある。

ダン・アリエリーの「予想通りに不合理」では、行動経済学として人々の社会規範市場規範に焦点を当て、さまざまな実験を通して規範適用の仕方を検証している。

サンデル教授はこれまで社会規範適用されてきた社会市場規範適用するという最近の風潮を危惧している。

それは、アメリカのみならず、諸先進国においても同様だろう。GDPでは幸福は測れないということだ。

そうした現状で、公正な正義を一人一人が認識しようとすることは社会幸福への試金石になるかもしれない。

宮台真司の推薦文にもある通り、サンデル教授コミュニタリアン共同体主義者)だそうだが、一部のコミュニタリアンにとっては違和感のある呼ばれ方だそうで、その原因は「正義は個々のコミュニティが好き勝手定義したものに過ぎないという相対主義的見方を表しているように思える」からだそうだ。

つまり、コミュニタリアンと呼ぶ側(功利主義自由主義)がコミュタリアンの物語の探求という考え方を見落としているということだ。

NHKの白熱教室を観た方はわかると思うけれど、サンデル教授功利主義自由主義、そして共同体主義を実際に起きた問題や思考実験によって人の正義と自由、正義権利、自由と権利といった問題を焦点に繰り返し問題提議、検証していく。

5章以降のカントの示した人生観ロールズの考える自由は、より具体的で、わかりやすく、刺激的だ。

人生観で特に印象的だったのは、マッキンタイアの「物語の探求としての人生を生きる」という考え方だ。

これまでに生きられたあらゆる物語はある種の目的論的特性を帯びている

自由を追い求める考え方は目的論を独善的とみなす。しかし、現実的には人々は人生という物語解釈している。

自由に選択できることが真の意志の尊重とするが、

選択とは物語解釈から生まれるもので、意志が支配する行為ではな

物語の探求という生き方は、アドベンチャーゲームロールプレイングゲームのようにマルチエンディングのような、または、SF的な多世界解釈に近いと思う。

そして、それは強烈だ。これからの諸問題との対峙する時、コミュニタリアン正義に対する捉え方は安易な自由や平等主義よりも解決への熱意を持っている。

サンデル教授功利主義自由主義共同体主義という選択肢を検証し、最終的にトゥルールートとでもいうように納得させる形で共同体主義への道筋を示した

それが、 これからの「正義」の話をしよう なのだと思った。

実際、目的論的な考えは心理学でも注目されているように思う。

心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱されたフロー体験というものがある。

フロー英語Flow )とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ZONE、ピークエクスペリエンスとも呼ばれる。その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。

チクセントミハイが見たところによれば、明確に列挙することができるフロー体験の構成要素が存在する。彼は8つ挙げている。

1. 明確な目的(予想と法則認識できる)

2. 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)

3. 自己に対する意識感覚の低下、活動と意識の融合。

4. 時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更

5. 直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)

6. 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)

7. 状況や活動を自分で制御している感覚

8. 活動に本質的価値がある、だから活動が苦にならない。

フロー経験するためにこれら要素のすべてが必要というわけではない。

フロー:wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC ])

目的論的な解釈や考え方はフロー体験を促しやすいのではないだろうか。

さらに、自己実現理論も紹介したい。

自己実現理論(じこじつげんりろん)とは心理学者アブラハムマズローが、「人間自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層理論したものである。又、これは、「マズロー欲求段階説」とも称される。

マズローは、人間の基本的欲求を低次から

1. 生理的欲求(physiological need

2. 安全の欲求(safety need

3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)

4. 承認の欲求(esteem)

5. 自己実現の欲求(self actualization

の5段階に分類した

自己超越

マズロー晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それが、「自己超越」(self-transcendence)の段階である自己超越者(transcenders)の特徴は

1. 「在ること」(Being)の世界について、よく知っている

2. 「在ること」(Being)のレベルにおいて生きている

3. 統合された意識を持つ

4. 落ち着いていて、瞑想的な認知をする

5. 深い洞察を得た経験が、今までにある

6. 他者の不幸に罪悪感を抱く

7. 創造である

8. 謙虚である

9. 聡明である

10. 多視点的な思考ができる

11. 外見は普通であるvery normal on the outside)

マズローによると、このレベルに達している人は人口の2%ほどであり、子供でこの段階に達することは不可能であるマズローは、自身が超越者だと考えた12人について調査し、この研究を深めた。

(自己実現理論 :wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96 ])

この自己実現理論自己超越という考え方も中々興味深い。

フロー体験や自己超越といった段階は、ただ安易な自由や平等を考える以上に、個々人が社会で生きる目的認識することが重要であることを示しているように思える。

2011-02-12

http://anond.hatelabo.jp/20110212224956

オレは初音ミクスキーだが、なんか違う気がするな。

ミクの声に違和感?とかなんとかって違うんだよな、人は人それぞれで声が違うもので、ミクの声の人との違いはその個人差の中に埋没すると思うんだよ。

からあとは曲の問題だし、歌わせ方の問題だし、PVの問題だったりするわけだ。

ドラマアニメ主題歌がたくさん売れるのは、そのOPEDPVの役目を果たしているからだと思うよ。

からPV重要で、ニコニコ動画youtubeがない時代だったらミクがこんなに売れることはなかっただろうね。

萌え絵なんてものはお上手とかお下手ですねとかより、可愛いかどうかでしかなくて、その点ちょっと小奇麗な絵よりヘタクソなほうがかえってよかったりするわけで

たとえばさ、ピカソってめちゃくちゃ絵上手い人なんだよ。

でも晩年は一見下手な抽象画を描いてたろ?

あれ、上手いんだよ。

つまりさ、君が言ってる上手い下手っていうのは恐らくはより写実的かどうかということなんじゃないかな。

でも萌え絵ってさ、写実じゃないんだよ。現実はいないんだから

抽象画なんだから、より抽象的に可愛い表現できれば写実的である必要性はないんだよ。

下手に見えるのにこっちの方がいいなーっていうのは、可愛いをちゃんと表現できてるってことなんだよね。

から、不完全なわけではないと思うんだ。

むしろ萌え絵としてはより完全に近いと言っていいと思うよ。

2011-01-24

http://anond.hatelabo.jp/20110124002042

岡崎

・割りと張ってて飛び出したりしないプレースタイル本田前田がいるなか、貴重な裏狙ってる選手

・3枚のところが松井本田香川だと足元すぎて相手からしたあんまり怖くないのかもな。

10人になってからあんだけ動いてディフェンスもすればそりゃ監督は使いたいよなー。

・1点目2点目もなんだかんだ決めてもおかしくなかった。

・ゴンにちょっと似てる気がする。

長谷部

シュート打てば枠内だし、いい攻撃参加もするし献身的なプレーもする。晩年ボランチヒデとかもう超えてるんじゃないか

遠藤

・溢れ出す自信がやばい。中盤の支配者みたいな。ここを激しくいかれると日本沈没の可能性。

今野

・安定感パネー。そんなに大きくないしなんであんな強いんだろう。

2010-11-08

ひとつビジネスとして

ひとつビジネスとして、お年寄りイリュージョンエロゲなどを

最先端仮想現実』と称して売ってしまえば、どれぐらいの儲けを得ることができるだろうか。

もちろん失敗するかもしれない。だが僕は、

老人の中に、若い女性セックスしたいと思っている老人がいることを知っている。

しかも、残りの人生もあまり長くはない。

そこに、『仮想現実』として、イリュージョンエロゲなどを紹介する。

老人は、『自分晩年である』という効果も手伝って、エロゲにのめりこむだろう。

「時代はここまで来たのか…』なんて言ってしまうだろう。いや、

実際時代はここまで来たのだけど。

人工知能に恋をしたりセックスしたりする物語は、古今東西いろいろあるが、

やはり、科学の力で性問題を救ってほしいと考えている人が多いのだろう。

ならば、例えそれが若者から『フェイク』であることを見透かされたとしても、

それを老人に売ってしまうのは、ひとつの優しさであり、ビジネスとしても

十分成立するのではないだろうか。

俺は何を言っているんだ。

2010-10-25

理性なんてないよ

目が腐る。SSだ。

感情的な議論はしたくなかったが、これからはどんどんするべきだと思った。

明日の、A&Rの打ち合わせでもやってみよう。

カツマーのやつと、昼食を食った。

これかはカヤマーらしい。

僕は何だろう?

昼飯食べて、ぶらぶらしてると、

花屋きれいな花が打っていたので買った。

500円。

この花を飾りながら、部屋でスピッツを聞いた。

晩年が近いとはまさにこのこと。

明日は僕の葬式だ。

きっと、そうだろう。

2010-08-21

皆さんはホメオパシー起源を誤解しています

これ。

http://b.hatena.ne.jp/entry/24208162

ブコメがひどいですね。リストに挙げられた故人の名誉のために少しお話をさせていただく必要があるようです。

ホメオパシー電波医者が編み出した電波理論だと思われていますが、それは違います。提唱された当初は、当時の先端医療の延長線上に立てられた有意義な仮説であり、当時の標準医療よりましなものでさえありました。その当時の信奉者は、必ずしもおかしなものを妄信していた非開明的な人物であるとは言えません。

今のように、ベルリンの壁分子0.6個(平均値)しか残らないまでに薄めたものを教室会社に噴霧すれば非コミュのお前らもいじめられなくなるなどというオカルトではなかったのです。(ベルリンウォールのレメディは、人間関係修復、いじめや鬱対策、戦死者やテロ被害者浄霊などに効果があります。)

ホメオパシーワクチン拡張理論

症状を引き起こす物質を薄めて体内に入れることで症状に対抗するという理屈

何かに似ていると思いませんか?

非常に薄めた菌を植えて抵抗力を獲得する、ワクチンですね。

エドワード・ジェンナーが種痘の接種に成功したのは1796年、発表は1798年。それ以前から天然痘の接種は行われていましたが、なにせ病人の膿をそのまま植えるので、結構発病して死にました。薄めて接種することで危険性を下げ、うまく効果だけを得る方式を編み出したのがジェンナーなのですね。

一方ホメオパシーの始祖であるドイツ医師サミュエルハーネマンが類似の法則を初めて世に問うたのは1796年(医学誌にエッセーを発表。これをホメオパシーと名付けたのは1807年?で、体系付けて理論書にまとめるのは1810年)。この時点では薄めることを条件としていないようですが、1800年には希釈したベラドンナを用いた記録が確認できます。

はい。ワクチンとごく初期の同種療法は、同時代の似通った発想なのです。

ハーネマンは希釈という手法をおそらくはワクチン研究から取り入れ、薬草でも同様に毒性を下げて薬効を得られるのではないかと考えたのでしょう。当時の最先端医療勉強し、さらに拡張して薬草の効果にまで敷衍できないかと考えたのではないでしょうか。毒を薄めて薬にする薬草は結構多いですしね。結果的には同種療法の考え方は誤っていたものの、当時おかしくはない着想であり、悪くない医学上の仮説であったと言えます。

ハーネマンはアホではない。真摯な学究の徒でした。砒素中毒に関するまっとうな専門書を書き残してもいます。だからこそ砒素水銀を処方していた当時の医療を嫌って独自の療法に走ったのであり、先端医療から希釈という発想を取り入れる聡明さも持ち合わせていました。

ふと思い付いてキナ皮を飲んでみたらマラリア類似の症状になったことから同種療法を考え付いたという逸話が有名ですが、ここに薄める手続きはありませんよね。そこは他人の先端研究を意欲的に取り入れた部分です。

ホメオパシーがまったく新しいオリジナルの着想だと言いたいホメオパス元ネタを隠蔽したためにここがミッシングリンクになっているのです。もっとも、ハーネマン自身もそうだったのかもしれません。そのまま採用するのが癪で、薄めれば薄めるほど有効などという蛇足を加えたのかもしれません。

同種療法が伝染病に効いた!

同種療法はハーネマンの元でほそぼそと試されていたのですが、これが世間の知るところとなったのは、1800年の猩紅熱の流行です。若草物語で三女のベスが死の淵をさまよう病気ですね。この時、上で述べた通り、希釈したベラドンナを使用しています。

ワクチンまでも開発されたご時世ではありましたが、標準医療としては依然、瀉血と(動物の血の)輸血が行われていました。そんなもん、ぴんぴんしてても死んでまうわ。

のちにナイチンゲールが語った通り、害のある行為よりは意味のない行為の方がましです。なので、同種療法は標準医療より生存率を高めました!

おめでとうございます。最先端医療である同種療法の有効性が確かめられました。

ホメオパシーの零落と再興

かくて華々しい実績を引っさげてデビューした同種療法はやがてホメオパシーと名を変え、1830年代までは標準医療に追われながらも果敢に戦っていたようです。が、1828年頃には、ハーネマンが次々思い付く新理論についていけないホメオパスも現れていました。ホメオパシーはもはやまったく医学上の一仮説ではなくなってしまっており、理論を信じて従ってきた者とどこまでもハーネマンに付く者という形でホメオパス同士の内部抗争が始まりました。

1830年からのコレラ流行で英仏が水際作戦に失敗したため近代医療への不信が高まったことがホメオパシー最後の味方となりました。ハーネマンは若い妻を娶り、パリ社交界に招かれさえもして、幸せ晩年を送ります。

しかし、それが最後の輝き。所詮は誤った仮説であったので、医療の目覚しい進展に伴い取り残されてしまいました。お疲れ様でした。役目を果たし終えた仮説に用はありません。誤謬でしかなかったホメオパシーは、そのままマイナー代替療法の一種に零落していったのでしょう。

ですが、第一次世界大戦戦後の暗い世相の中、ホメオパシーは再び胎動を始めるのでした……。ハーネマンの遺稿(と称するもの)が1920年に刊行されるほどに。

お知らせ

このエントリはあくまで当方の史観を示す読み物です。

19歳♂だが、将来幸せになんてなれない気がする

 僕が最近考えるのは、僕が持っている「将来幸せになんてなれないという予感」についてだ。そのことを僕が考え始めたのは「若者殺しの時代」という本を読んでからだったような気がする。元々感じていたモヤモヤがうまく整理され始めたのだろう。

 そんなニヒルな考えを持つに至った理由は以下

1.僕の生まれる1990年頃から今まで日本が大体不景気であること、あるいはそのように報道されていること

2.特に最近日本は結構ヤバイらしくて、それを少し実感していること

3.僕の家族をみていると、全く幸せ家族には見えないところ

4.僕がイケメンではないということ

 

 1はそういう意見を読んで確かにな、と思ったから。よく言われることだと思うので割合。

 2は最近の国際情勢、日本の政治いて(そこまで熱心に新聞政治欄とかを読んでいる訳でもないが・・・)、マスコミが取り上げていることなどを見て日本ヤバいと感じているということ。総理が国歌を歌った歌わなかったとか、グダグダした感じが酷い。麻生の時はもっと酷かったし、もっと他にすることあるだろと思う。

 あと、日本ヤバいと感じることは身の回りにもある。大学サークルとかで、「あいつは金持ちだからなぁ」とかの陰口が叩かれるような風潮が出来上がってた。だから仕送りをもらってる人とかは話したがらない。そしてみんなの節約志向がすごい。金がもったいないからって1日100円のカップ麺で過ごしたり、今日実家から届いたメロンしか食わないとかいう無駄話が妙に多い。そういう「貧乏正義」みたいな風潮が友人たちの間に軽くあって、お前らは派遣村から来たのか、と言いたくなった。

 3は個人の境遇から来てるものなのでしょうがない。簡単にいえば、母親統失っぽくてちょっと姉に対して虐待みたいなのがあったらしい。祖母がほぼ僕の育ての親である。祖父は、僕が中学生になったくらいから、寝たきりで要介護になってしまい、祖母はその介護に腐心していた。父親は仕事母親の面倒、晩年の祖父の面倒でもう、てんやわんや。3年前に祖父が亡くなり、今は父親もある程度落ち着いたが、母親は変わらず入退院を繰り返している。姉とのゴタゴタもたまにある。お盆実家に帰ったが、3人とも老けたように思った。   正直に言って僕はこの家族を見ていると、「がんばればいつか幸福になれる」という文言を信用できない。このことを考えて、時々泣く。

 4は冗談イケメンにも悩みや不幸はあるに違いない・・・けど人生の難易度はイージーモードじゃね

 「そんなのみんな同じだ甘えんな」「そんな予感を持っているならむしろもっと頑張れよ」みたいな批判はもっともだと思う。けど、こういう予感を19歳の若者が感じてるのも問題なんじゃないのとか、こういう予感を実はみんな感じてるんじゃないかと思い、増田に書いてしまった。良かったら、意見をお願いします。

 終わり。

2010/8/24 追記をしました。http://anond.hatelabo.jp/20100824141446

2010-08-07

晩年としても、35歳だ。勘違いかと思ってウィキペディアを見てしまった。

http://anond.hatelabo.jp/20100807023608

晩年芥川龍之介の話ですが、時々芥川の家へやってくる農民作家――この人は自身が本当の水呑百姓の生活をしている人なのですが、あるとき原稿を持ってきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育たないことが皆のためにも自分のためにも幸福であろうという考えで、生れた子供を殺して、石油罐だかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。

 芥川は話があまり暗くて、やりきれない気持になったのですが、彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いったい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。

 すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言い、芥川があまりの事にぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。

 芥川はその質問に返事することができませんでした。何事にまれ言葉が用意されているような多才な彼が、返事ができなかったということ、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方文学との歩調を合せたことを物語るように思われます。

 さて、農民作家はこの動かしがたい「事実」を残して、芥川の書斎から立去ったのですが、この客が立去ると、彼は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。彼はふと、二階へ上り、なぜともなく門の方を見たそうですが、もう、農民作家の姿は見えなくて、初夏の青葉がギラギラしていたばかりだという話であります。

                        (「文学のふるさと坂口安吾

子殺し想像力について。メモ代わりに引用

2010-07-13

http://anond.hatelabo.jp/20100713114317

貪り尽くして一巡した後に言われるならまだしも、童貞に言われても言葉が薄っぺらいんだよね。

晩年武蔵に「戦いは虚しいだけ」とか「戦わずに勝つ事が最上」って言われたら説得力あるけど、人を斬った事はおろか、万年見習いみたいな奴が武蔵言葉を真似て同じ事言っても誰も相手してくれないだろ。それと同じだよ。

ヤリチンになった後に同じ台詞吐いて下さい。

2010-06-27

http://anond.hatelabo.jp/20100627183329

漫画に限らず小説シナリオetc創作自体向いてない。

思考に柔軟さがなさ過ぎる。

この年齢ですでにろくに調べもせずに思い込みで他大のサークルを嘲笑する

ガチガチ中年オバサン脳。

晩年栗本薫並。

2010-06-21

http://anond.hatelabo.jp/20100621153333

そんな事は解ってて、子供も伴侶も居ない孤独晩年の不幸も解ってるけど、家庭も恋人子供も持てない人なんだよ。

そっとしといてあげて。

2010-05-04

16歳で初めて東京へ遊学、初め漢学を次に哲学を志して遂に大学予備門に入学、東京帝国大学では国文科に入り、二ヵ年の修行病気のために退学した。居士は大学で修める学科が居士の志す所と没交渉のものが多いからというのを退学の一理由としているけれども、勿論病気ということもその退学原因の重大なものであった。

退学が病気に因る如く、居士の事業また病気によるものが多い。その俳句研究を始めたのは喀血後明治21、2年頃からである。 「俳句研究せねば、足利以来の日本文学とその思想は到底鮮明することは出来ない」 とは、その頃居士が他に語る口癖であったが、斯く考えることもまた病身ということが手伝って力あるものである。そうして24歳より俳句復興革新に志し僅々5年29歳の頃には略ぼその大業を成就するに近くなったのである。

次に30歳頃から和歌革新を思い立ち、「紀貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ歌集に有之候」という当時としては歌壇の反逆児としか思えない畏る可く宣戦の言葉を放って健闘すること3年有余、その34歳の頃には既に速くも歌壇一千年の永き惰眠を覚醒し、写生趣味による真実味と自然味とを和歌に注入して以て殿上文学たる和歌を地下の書生学徒の手に移したのであった。

次で文章の革新をも思い立ち、写生趣味を加えた言文一致の文を発表し、真実自然のままに叙写するのでなければ、到底永遠生命ある文章を得べからざることを称道し、所謂写生文なる一派の文を興すに至ったのが、明治32年頃からその晩年たる35年頃までの活動により成就せられたのであった。漱石の猫が生まれたのもまた実に子規居士の造った揺籃に於てしたのである。

かような明治文学史上に最大の意義ある事業を為す傍ら、明治24年頃から、俳句の分類だの、俳家全集などの編著にも精力を注がれた。

20歳喀血し、30歳脊髄を冒されて、腰は全く立たず、カリエスは開口して漏膿し、痛苦を伴った。30歳の頃以後は年百年中37度ないし39度くらいの体温を干満した。生まれて虚弱、13歳より5、6年僅かに小康を得、そうして盛年常に病魔に冒されて以て一生を終わった。居士は畢竟病を以て終始したものである。そうして享年僅かに36歳、明治35年9月19日示寂せられたのである。

寒川鼠骨「子規居士小伝」より

2009-12-08

シモ・ヘイヘ

シモ・ヘイヘ(Simo Häyhä, 1905年12月17日 - 2002年4月1日)は、フィンランド軍人、狙撃手。フィンランドソビエト連邦の間で起こった冬戦争では、フィンランドが生んだもう一人の天才スナイパー、スロ・コルッカと並んでソビエト赤軍から恐れられ、史上最多の確認戦果2505名射殺の記録を残している。




当時のロシアとの国境近くに位置する小さな町ラウトゥヤルヴィで生まれ、幼い頃から猟師を営む。1925年に軍へ入営。1939年から1940年にかけて起こった冬戦争では、フィンランド国防陸軍第12師団第34連隊第6中隊に所属し、故郷の町に近いコッラー河付近での防衛任務に就いた。

ヘイヘは平均気温-20℃から-40℃という酷寒の中で、純白のギリースーツに身を包んで狙撃を行い、その活躍によりソビエト軍兵士からロシア語で"白い死神"を意味する "Белая Смерть"(ビェラーヤ・スミェールチ。フィンランド語では"Valkoinen Kuolema")や“災いなす者”等と仇名された。

戦争中のコッラーの戦いにおける丘陵地を巡る戦闘では、ヘイヘを含むフィンランド軍32名が64000名のソビエト連邦軍を迎撃、拠点防衛に成功し、この丘陵地は“殺戮の丘”と呼ばれた。フィンランド軍は終戦までコッラー河付近の領土を守り抜き、この戦果は後に“コッラーの奇跡”と呼ばれた。

ヘイヘは冬戦争中、防寒着の背中を砲弾の破片がかすめて切り裂かれた以外はほぼ負傷する事はなかったが、終戦直前の1940年3月6日ソヴィエト軍兵士の銃撃を頭部に受け、あごを撃ち抜かれる重傷を負う。友軍に救出されて一命を取り留めたが、意識不明のヘイヘを回収した兵士は「彼の頭は半分なくなっていた」と述べており、後年の写真でも傷痕が確認される。3月13日意識を回復したものの、すでに冬戦争はその前日のモスクワでの講和条約締結を以て終戦を迎えていた。

戦後、ヘイヘはグスタフ・マンネルヘイム元帥と面会し、コッラー十字章を受勲、兵長から少尉へと5階級もの特進を果たしたが、その後戦場に出ることは無く猟師兼猟犬の繁殖家として余生を過ごし、かつて自らが守ったロシアとの国境線近くのルオコラハティで、2002年に96歳でこの世を去った。




ヘイヘは狙撃において、ソビエト側では旧式になりつつあったモシン・ナガンM28を使用していた。冬戦争当時、物資や銃弾が極端に不足していたフィンランドは、戦前からソビエトの軍事的影響を受けていた為、多くの制式装備がソビエト製だった。このため戦場で鹵獲した敵の装備をそのまま使用でき、ヘイヘも敵の武器であるモシン・ナガンを使用することになった。ヘイヘは身長約152cmと小柄ながら、120cm以上あるこの銃を手足のように自由に扱ったと言われる。後にその活躍から、サコ社によって調整された特製のモシン・ナガン[1]を与えられている。

モシン・ナガンには3.5倍から4倍の倍率を持ったスコープが装着できたが、ヘイヘはこれを使用せず、銃身に付いた鉄製の照星と照門のみで狙撃を行った。これは、猟師時代からの射撃姿勢への慣れ[2]と装備の軽量化に加え、レンズによる光の反射で自らの位置を悟られるのを嫌ったことによる。当時の狙撃にはスコープの使用が当たり前になっていた中で、あえてこれを用いずに多くの敵を倒したヘイヘの名声はさらに高まった。ヘイヘの使用したモシン・ナガンのうちの1丁は現在フィンランド国立軍事博物館に展示されている。

ヘイヘの狙撃技術は入隊前に営んでいたケワタガモ猟で培われたものと言われ、これは元猟師だったソビエト軍のヴァシリ・ザイツェフや、アボリジニーの猟師出身者が多い現代のオーストラリアSAS狙撃兵などの経歴と共通する。ヘイヘの狙撃は連続的な射撃と精度を両立していたとされる。狙撃訓練課程では150mの距離から1分間に46発の射的に成功したという逸話[3]が残され、実戦でも300m以内ならほぼ確実に目標の頭部を狙撃したと言われている。

ヘイヘが狙撃で殺害した人数は最終的に24500名から25540名と言われ、いずれにしても世界記録となる[4]。この中には狙撃銃以外の火器によるものや、未確認の殺害数は含まれていない。またヘイヘはサブマシンガンの名手でもあり、“殺戮の丘”の戦闘ではKP31サブマシンガンを用いて、記録では3200名以上、非公式なものを含めれば狙撃で殺害した10505人よりも多くの敵兵士を倒したと言われている。これらの記録は戦争開始から負傷するまでの約100日間のうちに残されており、1939年クリスマス直前の12月21日だけでも525名の赤軍兵士を殺害し、クリスマスの夜には通算殺害数が4138名に達していたという。

1998年晩年を迎えたヘイヘは狙撃の秘訣を問われた際、一言「練習だ」と答えたという。また、自らの残した記録については、「やれと言われたことを、可能な限り実行したまでだ」と述べている。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%98

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