はてなキーワード: コレラとは
神前藩は江戸初期に消滅してしまった藩なので、あまり名が知られていない。
神前藩の産業は、筆と墨の生産で、台湾との貿易もさかんに行われており、港はいつでも喧騒に包まれていた。
ところが藩の奉行たちが強欲だった
貿易には輸出租庸調がかかるうえ、年貢額も毎年割高になり、職人たちの扶持は下がる一方だった
毎年、年貢の申告日が近づくと、職人たちは親戚の通夜にきたかのようにしんみりしており、いまにも泣き出しそうな顔もあった。
一方、藩奉行たちの扶持は、事実上、毎年上がってゆき、そのことで越後藩の呉服屋が、毎年着物販売祭りを開催するほどになった
これには、巧妙な絡繰りがあった
藩奉行たちは、奉行所の一部を徐々に民営化してゆき、そこに天下れば、同じ仕事でも奉行所よりも扶持が多く貰えるのである
もちろんその民営奉行所には、奉行所の補助扶持が、たっぷり降りるのである
こうした偉い奉行たちの顔ぶれと政策がずっと変わらないので、毎年、奉行志願者が増えていった
あまりに筆墨の生徒が減ったので、お白洲の御沙汰文書には、筆墨技術科講習が、刑罰として書かれるようになった
職業の自由はこのように強引に奪われたが、それでも職人たちの人口減少は止めることができなかった
職人たちは少ない人数でもしばしば一揆をおこしたので、斬首、晒し首もしばしば行われた。
これは人から馬にも感染するコレラだったため、商人たちは物資を運ぶのに、隣藩から運送屋を借りなければならなかったが、
隣藩も貸し渋るのももっともで、運送料の高騰による物価高も起きた。
幕府は藩主家を摂り潰し、幕府直轄領とし、疫病に感染していないと思われる者は藩外に転居させた。
食料不足はときどき幕府によって補われたものの、餓死する者も多かった
馬コレラ対策がようやく出来たのは、藩主家のお取り潰しから10年後だった
追記:
誤字等訂正追加したよ
これ、ちょっと前まで私も他人事ではなかったので、誰かの参考に私の体験をシェアします。
身バレしそうで怖いんですが、私の妻の姉夫婦がまさにお子さんにワクチン接種しておらず、その様な思想に影響を受けていたのが私の妻でした。
なお、我が家は子供がいないので問題の大きさが異なると思いますのでその点割り引いて下さい。
今は考え方が変わっているのですが、妻に当時の心境を教えてもらいました。
あんまり勉強ができないし、難しい事がわからない自分にコンプレックスがあった様です。なので体の感覚など、自分が知覚できる現象をそれらしく説明されると納得してしまう&身近な人が一番信用できる。との事。
分からんでもないと思いました。だってウィルスや細菌を私が直接見た事があるわけでもないですし、歴史を学ぶと実際に大規模な薬害訴訟もあったわけじゃないですか。
そもそもですが、世界的に正しいとされても、その根拠となる研究に本当に不正がないかどうかは自分で確認する事はできないじゃないですよね。
だから、私もワクチンを反対する人もあんまり変わらないと気づきました。自分で完全に理解しておらず何かを信じるしかない。その信頼の基準が異なるだけだと。
こんな事を考えてから妻との話し合いに臨む事にしました。私が妻に伝えようとしたのは主に次の3つです。
1.妻の事をとにかく大切に思っている事。
2.私も絶対の自信はないこと。
1番が最も重要だと考えていたので、まずは私が妻に対して馬鹿にしていた気持ちがないかを内省する事にしましたが、正直言って結構馬鹿にしていたと思います。今振り返っても私が馬鹿にしていた事で反ワク的思想を助長させていた様に思います。
謝りました。
そして、妻と話す前に3の話を自分が納得できて、かつロジックではなくストーリーで語れる様な歴史上の出来事をいくつか勉強してみる事にしました。
個人的には野口英世、日本住血吸虫、ロンドンのコレラ(ジョンスノー医師)あたりがおすすめです。
という様々な準備を経て妻と時間をとって話しました。突然考え方が変わったわけではありませんが、少なくとも会話が成立する様になり、その後徐々に受け入れて行った様な感じです。
書いていて疲れてきた。なんかもう少し書こうと思ったけど疲れたのでここまで。
なんかの参考になれば嬉しいです。
サマセット=モーム全集で『月と六ペンス』の次の作品だったので、この作品から続けて読んだ。結果、興味深い点もあったが、全体としてはいまいちだった。
1925年に発表された、中国の英国植民地になっている仮想の町を舞台とした作品で、その設定は面白く、簡潔で要領を得た人物描写も巧みで興味深く読んだが、人物の書き込みが足りない。またプロットが性急すぎる(展開が早すぎる)。このせいで全体としてやや散漫な印象を受け、作者が連載小説を書くために書いているだけの印象を受けて、全80章を最後まで読むのがだるく感じた。
全編を通してKittyの揺れ動く心理描写がテーマになっているといえばいえるが、読後感としては、何だこりゃという感じである。サマセット=モームは人間の多様さを書くのだが、それ以外に何もない。中国を題材に取っているため、タオを人生観として提示してこの小説は終わるのだが、どうもとってつけたような結末だという印象がぬぐえない。
この小説を読んで、もうしばらくサマセット=モームはいいやと思った。
主人公のKittyは植民地官僚のCharlieと不倫をしている。夫で細菌学者のWalterは典型的な理系の人として描かれている。非常に真面目で、抑制的で、冷徹な印象を与える。不倫が露見すると、WalterはCharlieを訴えるかわりにKittyをMei-tan-fuという街に連れて転任するよう提案する。この町はコレラが蔓延していて、Walterは医者として派遣される。Kittyは自暴自棄でMei-tan-fu行きを承諾する。転任しても二人の間には冷たいものが流れる。仮面夫婦だ。ある日Kittyは街の修道院を何の期待もなく訪問し、そこで働く修道女たちの姿に感銘を受ける。また修道女たちはWalterの献身的な努力を褒めたたえる。Kittyは自分が無価値な人間であることを悟り、修道院で働き始め、修道院長のMother Superioの人格にも感化されつつ、少しずつ変わっていく。そんな折、Kittyの妊娠が発覚する。身体に宿っているのがWalterの子か、Charlieの子か、はっきりしない。そのことをKittyはWalterに正直に言う。Walterはその直後にコレラにかかって死ぬ。検視によれば、彼は事故でコレラに感染したのか、実験中に故意にコレラに感染したのか、判別がつかない。KittyはWalterの死に衝撃を受ける。修道院長に諭されて帰国を決意する。もとの植民地都市に戻った時にCharlieの妻の発案でCharlieの家に寄宿して、憎んでいたはずのこの男に結局再び身体を許してしまい、激しい自己嫌悪に駆られ、英国に帰ることを決意する。帰途、マルセイユでKittyは母の病死を知る。ロンドンの家に戻ると、父はバハマの植民地総督として赴任が決まったところであり、Kittyはロンドンでの生活を選ばず、父に着いていくことを決める。
なぜ、正露丸は効くのですか。
(前ページより) 木クレオソートの安全性と有効性を明確にしない限り、日本でも正露丸は消えゆく薬になってしまいます。そこで、当時社長であった父に作用メカニズムを明確にすることを提案し、私の研究仲間でもあった緒方規男先生に大幸薬品の顧問になっていただいて、木クレオソートの作用メカニズム解明のプロジェクトを立ち上げていただきました。
柴田:薬理効果としては、身体の中の塩を外に出さないというものがあります。コレラや赤痢にかかって下痢の原因となる物質や病原体が身体の中に入ると、過剰反応が起こり、身体から塩が出て、脱水になって死に至ります。木クレオソートには、その排出のバルブを閉める作用があります。下痢に効くというのは、腸の中の水分をよく吸収するからです。それで、便が硬くなる。
こういったことを示すデータを提出できていなかったので、日本薬局方でも化学物質扱いされて、誤解されていました。それは海外での販売の大きな障壁にもなっていたので、医薬品医療機器総合機構(PDMA)に出向いて、これは天然の木から採った生薬に近いものだとお話をして、書類を提出して、2年前の2014年に正式に生薬となりました。
なぜ効くのかを説明できない製品は消えていく (2ページ目):日経ビジネス電子版
https://business.nikkei.com/atcl/interview/15/269473/111000057/?P=2
「ただの風邪」こと旧型コロナも、恐らく出始めは老人を殺しまくり若者にもエグい後遺症を残す、covid-19並のヤバさのウイルスだったのだろう。
それが感染を重ねて集団免疫を獲得し、ただの風邪と呼ばれるまでになったと。それでも弱った年寄りなら肺炎で殺せる程度の牙は残ってるけど。
まあ江戸時代ぐらいまでなら、天然痘・コレラ・風疹・新型インフルエンザ、海外なら加えてペストと、更にヤバい感染症がゴロゴロあったから、旧型コロナは流行っても意識されてなかったろうなあ。そもそも人生50年ってぐらいで老人自体も少なかったろうし。
上記の感染症が軒並み封じ込め可能になった現代だからこそ、毒性は「比較的」低いが感染拡大に特化した嫌らしい性質を持つコロナが目立つようになったのだろう。高齢化や人流の活発化グローバル化、人口密集などコロナに有利な条件が現代社会に揃いすぎたのもあるか。
というとこまで踏まえて考えると、covid-19もまた過去の「ただの風邪」と同様、免疫を積み重ねていくしか人類に抗う術はないのだろうなあ。
「映画というかドラマなんだけど、最近は『不夜城の女』とか観てるのん。ウチにくるお客さん韓流とか観る人が多くて、私も話題作りのためにねん」
水商売といっても色々あるのだが、具体的に何の仕事をしているのか、その人はハッキリとは言わなかった。
ナリからして、たぶんティーンエイジャーの俺には縁のない職種だと思う。
それを客側も知ってか知らずか、随分と勿体つけた言い回しで冷やかしてくる。
「チャージって知ってる?」
「何かを貯めるんですか」
「あらやだ、“タメる”だなんて」
こんな調子に尋ねてきては、こちらが何を言ってきても笑ってくる。
若い女性を「箸が転んでもおかしい年頃」なんていうこともあったらしいが、この客もそんな感じなんだろうか。
いや、どちらかというと“意図的にそう振舞っている”ように見える。
「このテの映画やドラマとか見てると、欲望系のビジネスは反社会的に思えるかもねん。だけどコンプラにはメチャ厳しいのよん。下手な上場企業よりマトモなのん」
「そうなんですか。どうも不勉強で……」
「はあ……」
この人はなんというか、『若い女性』というパッケージに『水商売』という香水をふりかけているようだった。
その人工的な匂いは、俺が未成年ということを差し引いてもキツい。
この人は多分、こちらがそう感じることを分かった上でやってきている気がする。
「ホホホ、ウッフンアッハン」
“ウッフンアッハン”って。
実際に言ってる人間、初めて見たぞ。
13人の客、その6人目は紺色のスーツを着ていた。
正確には“スーツを着ていた”というより、“スーツに着られている”感じだ。
もしかしたらスーツ買いたての就活生か、新入社員とかかもしれない。
「今さらながら『トラック企業に勤めてるんだが、もうコレラ厳戒かもしれない』観たんだ」
「トラック企業とかが話題になってた頃ですね、その映画が出たの」
「あんまり評判が良くないこともあって当時は観なかったんだ。結末にモヤモヤするとかで」
その客は映画について感想を語っていくが、それと同時に自分の仕事に対する価値観も吐露していた。
「一週周って、この映画にはリアリティがあるように感じたんだ」
その様子は達観しているというよりは諦念に近く、どこか物憂げな雰囲気を醸し出していた。
だが、それよりも気になるのは、この客のジェスチャーだ。
「企業をホワイトだとかブラックとかっていうけれど、仕事の在り方ってそんなに白黒はっきりしていないというか、マーブル調だと思うんだよ。そう思わない?」
「つまりケースバイケースとか、人によって感じ方が違うとか、そういうことでしょうか」
「う、う~ん、まあ、そうともいうかな」
こちらの顔をやたらと窺っては、こちらの受け答えによらず歯切れが悪そうに返してくる。
何の意図があってやってるのか、こちらを試すような真似をしてくる。
「映画とか、こういう腰を据えて時間を使う趣味はコスパが悪いかもしれないね~。最近そう思うんだ」
「そうかもしれませんね」
「うん……」
「……」
どうやら、この客は俺に何かを期待しているようだ。
それが何なのかは、ついぞ分からなかったが。
よくメディアで「コロナ禍」っていうものの言い方を見かけるけど、今起こってることって、ようするに「疫病」だよね。
この時代だからこそちゃんと「疫病」っていう言葉を使ったほうがいいと思うんだ。
戦争、飢饉、疫病に人類はもう何千年も苦しんで、対策をしまくってきたわけじゃない?
今起こってることって、歴史の大きな流れから見れば、繰り返していることじゃない?
なんらかの感染症が大爆発して、グローバル化のせいで世界全体が疫病の大流行になることは、予測していた人がいたわけじゃない?
でも人類の大部分がその人の話は聞かなかった。
どんなウイルスが流行するかはそのときになってみないとわからないかもしれないけど、「疫病」にいつかまた人類は苦しむと自覚して、そのときの備えをもっとすることはできたと思うんだ。もちろん、「たられば」だけどね。
で、その備えが足りなかったから、政治経済医療の制度が「疫病」に対応できてなくて、みんなバタバタして、先が見えなくて自殺してしまう人も出てくる。
「コロナ禍」という言葉遣いをメディアがするとき、それは「一過性の稀有な出来事」を指している気が、なんとなくするんだよな。
喉元過ぎれば熱さを忘れるってこと。
危機を煽るだけ煽っておいて、過ぎ去ったら何事もなかったかのように忘れる、いつものやりかただってこと。
そうじゃなくて、今起こってることは、人類がずっと苦しんできた典型的な苦しみのひとつ、「疫病」だってこと。
この苦しみはこれからもなくならないし、各自が死なないようにずっと備えていかなくてはならないってこと。
そういうことをちゃんと認めて、「疫病」っていう言葉を正面から使っていったほうがいいと思うんだ。
明治時代の統計を見ると、赤痢とかコレラとか結核で、コロナウイルスとは比較にならないくらい毎年人が数千人、数万人単位でバタバタ死んでる。
そのときにくらべると、その手の「疫病」はずいぶん克服されたわけだ。
でもそれは、新しい「疫病」に今後自分は絶対にかからないということではないよね。
だから、『「疫病」にかかったら、おれもおまえもけっこうあっさり死ぬかもよ?』てことをお互い忘れないように、「疫病」というちょっと禍々しい言葉を積極的に使っていったほうがいいと思うんだ。
なぜコロナはアフリカで「意外」に広まらないのか?|アフリカビジネスパートナーズ
なぜアフリカは、世界の危惧とは裏腹に、ここまで新型コロナの感染者数を抑え込めているのか。その理由は、これまでアフリカ各国が体験してきた、感染症対応の経験にある。
アフリカは、2014年に西アフリカ3カ国で、2018年からはコンゴ民主共和国で、エボラ出血熱のパンデミックを経験している。
この経験を通じて、感染症の拡大を水際で防ぐためのオペレーションや、患者の隔離や取り扱いの方法についてのプロトコルが存在している。
常日頃から結核やコレラ、ポリオといった他の疫病にも対応しているため、感染の流行に即時に対応し、限られた物資で拡大を抑えるという点では、アフリカはむしろ準備が整っている。