はてなキーワード: 晩年とは
肉がお好きで、卒寿を超えてもステーキとフォアグラを一度に頼んでいたという。脚本家の倉本聰さんが「存在そのものがすでに演技」と惜しむ森繁久弥さん、96歳。後輩のために弔辞を読む役回りを退き、いよいよ聞く番となった▼人も芸も軽妙だった。TBSの生放送ドラマ「七人の孫」で、お手伝いさん役の新人女優をいたく気に入った森繁さん、放送当日、急坂のラーメン屋台という妙な場面を注文する。台本なしの本番。屋台の丸いすに座ったご隠居は、即興で横のお手伝いにすり寄った▼新人がうぶに押しのける。屋台は坂をずり始め、2人は抱き合って倒れ込んだ。このわるさ、配役を任された久世光彦(くぜ・てるひこ)さんが『今さらながら大遺言書』(新潮社)で明かしている。相手は後の樹木希林さんだ▼女性を愛し、映画でも尻や胸によく手が伸びた。パシッとやられて退散する流れがおちゃめで、いやらしさはない。座談の色話には軽(かろ)みが漂い、エロというより、小さな字で助平と書きたいおかしみがあった▼大阪人のサービス精神に、大御所の威厳がいい案配で重なる。銀幕の盛りはチョビひげ、晩年は白いあごひげの相を大衆の記憶に刻んだ。お座敷でのドジョウすくいと文化勲章。どちらもはまる自在の人だった▼勝新太郎さんや芦田伸介さんら、仲間に先立たれる思いを「朝寝坊でロケバスに乗り遅れた私だけがまごまごしている」と記している。「生きているやつはみんな哀れなんだ」と。久世さんも、最愛の妻子も待つ次の現場に向かって、悠然とバスに消えた。
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/iryou_news/20090618-OYT8T00349.htm
僕の父は、心臓病を長く患って、十年前に死んだ。父の晩年に、難病の少女が海外で臓器移植を受けたというニュースがたまたまテレビで流れたとき、ポロリと母が「お父さんも臓器移植手術ができたらいいのにね」といった。それに対して、当時反抗期まっさかりだった僕は、「そこまでしたい? たしかに不自由はあるかもしれないけど、今のままでも親父は生きてはいられるわけだしさ」みたいな言葉を返した。当然、母は激怒。父親の反応は「現実にありえない話で喧嘩すんな」みたいに冷静だったけど、内心は悲しかっただろうな、と今なら思える。当時の自分の無神経さは、思い出すと今でも腹が立つ。
……とはいえ、やっぱり、社会の側がどれだけ「生きたい」「生きていて欲しい」という個人の気持ちを許容するべきなのかはわからない、と今でも思ってしまう僕もいる。
うまく意見や疑問としてまとまらないけど、ちょっと吐露したかったので書いてみた。
http://anond.hatelabo.jp/20090414170900
何やらはてなで在日が話題になっているようなので、便乗してみる。
私も在日であった。そして、割と成長するまで自分が朝鮮人だという事を知らなかった口である。でも、通名を使用していなかったので自分が外国人だという事は知っていた。どういう事なのかというと、私は自分の事を中国人だと考えており、朝鮮人だとは思っていなかったのである。おそらく、友人も自分を中国人だと思っていたと思う。
何せ名字が「李」で(ちなみに、自分の名前は日本式だった。例だけど、李 一郎みたいな感じ)、周りで外国人と言えば中国人、朝鮮人は一人もいなかった。さらに、我が家の稼業はラーメン屋だった。これで中国人じゃないなんて、ギャグとしか思えない。
朝鮮人だと知ったのは、おそらく中学に入った頃だと思う。どうしてなのか、きっかけは忘れたが、親に「我が家は中国人なのか」と聞いて、帰ってきた答えが「いや、朝鮮だよ」だったのだけは覚えている。その時に思ったのは、驚きよりも「朝鮮ってどこ?」だった。
当時はまだ小泉純一郎も首相になっていない時代だったので、ニュースに興味もなく成績も学校で下の方だった中学生にとって、朝鮮というのは未知の国でしかなかった。韓国の北だよ、と言われてようやく分かった(当時はソウルオリンピックが開催されていたので、さすがに韓国くらいは知っていた。大韓航空機爆破事件も知らなかったほど、当時の自分はニュースに興味がなかった)
そんな感じだったので、朝鮮人だと分かった後も、自分が朝鮮人だと気にする事は無かった。中国人だとの意識も抜けなかった。周りに朝鮮人が一人もいないのだから、朝鮮学校なんて物もなく、私は小学校から短大まで、日本の学校に通った。名字が珍しい事以外、差別をされた経験もなければ、在日だからと同情された事もなかったので、朝鮮人と強烈に意識する事は皆無だった。
家ではキムチが出た記憶が無く、おそらくは他の日本人と同様の食生活だったと思う。休日の昼は必ず餃子とラーメンだったのはご愛敬だけど。親からも、朝鮮人の誇りだとか、金日成の話なんて聞いた事はなかった。今思えば、不自然なくらい、朝鮮の匂いなんて物が無かった家だったと思う。親戚付き合いも皆無と言って良く、自分は祖父母以外に親戚に会った事がない。聞けば、祖父母には兄弟がいたらしいけど、朝鮮戦争のごたごたで亡くなったらしい。
朝鮮人だと強烈に意識したのは、拉致問題だったかな。社会人になっていたけど、相変わらず一部の人(例えば、勤め先の社長とか)以外、私を朝鮮人だと知る人はいなかった。私が、積極的に朝鮮人だと言う事がなかったからだ。何せ、朝鮮人だと言ったところで、朝鮮半島の事なんか、韓国の首都がソウル、北朝鮮の首都は平壌だという事くらいしか知らないのだ。
ただ、通名は使用してなかったので、周りは自分の事を中国人だと思っていた。自分自身、中国語も喋れないが、中国人だとは思う事はあっても、朝鮮人だと思う事はなかった(本気で中国人だと思ったわけではなく、中国人という単語を「外国の人間」という感じで使っていた)。だから、拉致の時も、私は何も言われなかったが、私自身が自分の国籍を気持ち悪いと思った。こんな野蛮な連中と、同一の民族に思われたらかなわない。そう思い、とっとと帰化してしまおうと思った。
こういうと、ひょっとしたら「日本は昔野蛮だっただろう」と言う人もいそうだけど、その時に私は生まれていないのだから、その辺の事は個人的に「どうでも良い」事だ。正直、六十年も前の事をいまさら蒸し返すのは、馬鹿馬鹿しいとしか思えない。
だいたい、親の代から日本に住んで、日本語をしゃべり、日本の会社に務めているのに、日本国籍を持っていないなんて、どうにも不自然で仕方がない。正直、日本が好きか嫌いか以前の問題だった。帰化に関しては、ぶっちゃけ拉致発覚以前から考えていた事だったけど、拉致問題で踏ん切りがついた。
書類が集まらなくてやたら時間がかかったけど、取り敢えず拉致発覚の1年半後くらいに日本に帰化した。名前はそのまま。苦労した割にあまり「日本人になった」という達成感も実感はなく、金がかかって損した気分にもなったが(だって、何も変わってないのにお金は数十万円もかかったんだぞ)、現在私は日本人である。
私の家は、通名を使用していなかったので、外国人だとは知っていたが、在日朝鮮人ではなく中国人だと思っていた事は先述した通りである。そして、以降も朝鮮人としての自我は、全く芽生えなかった。ひょっとしたら、差別をされたら、逆に朝鮮人としての意識も出てきただろう。だけど、幸運な事に、私はそういう機会がほとんどなかった。
ただ、自分が自分を朝鮮人だと思えなかった最大の理由は、それは、我が家に朝鮮との繋がりを示す物が殆ど無かったからだと思う。前にも書いたが、キムチをはじめ、朝鮮の料理すら殆ど食卓には無かったのである。せめて、誰か親戚でもいれば朝鮮人としての意識も育っていたかもしれないが、これも無かった。これは、以下のような理由らしい。
先にも言ったように、祖父母は命からがら朝鮮戦争から逃れてきたらしく、親戚一同は皆殺しになったらしい。
曲がりなりにも同胞に家族を殺されたせいなのか、祖父母は朝鮮に関係する物を意識して遠ざけるようになったらしい。我が家が妙に朝鮮の匂いがしなかったのは、祖父母の教育のせいらしい。殺された親や兄弟の為に、「李」という名字は残しつつ、子や孫(つまり、私や、私の父)には日本名を付けていた。祖父母の話では、日本では意外な事に差別らしい差別を受けなかったらしい。
言い忘れていたけど、ここでいう祖父母は父方の方である。母方の祖父母は、私が生まれる前に亡くなったので、会ったことがない。ただ、聞いた話では、母方の祖父母は父方の方と違って、かなり差別を受けたらしく、意識して日本人と同化しようとしていた家のようだ(母は、例え話として太平洋戦争の時、日系アメリカ人が自分達への差別を無くそうと積極的に米軍に志願したり、アメリカ文化に同化しようとしたのと同じだと言っている)。そのため、親戚からは白い目で見られるようになってしまった。母方の親戚は父方と違って何人か日本にいるらしいのだけど、全く付き合いが無くなってしまった。そして、母親も普通の日本人と殆ど変わらない人間となったのである。ちなみに、母の家は日本に同化しようとしたのに日本国籍ではないのだけど、単純に金がなかったかららしい。母方の祖父母は、晩年かなり身体を壊しており、治療費がかなりかかっていたらしく、帰化費用も惜しかったのだとか。
まあ、こうして、我が家は朝鮮人の家系でありながら、私は朝鮮人としての意識が皆無の人間として育った訳である。
今でも日本人かと問われたら、何となく違和感があるけど(子供の頃は、中国人だと思っていたわけだし)、少なくとも朝鮮人だと聞かれたら、はっきりと首を横に振れる。
ここまで長い文章書いて、何か意味があるのかなとも自分で思ってしまったけど、まあこういう朝鮮人としての意識を最近まで全く持っていなかった在日もいるということで。
http://anond.hatelabo.jp/20090305003946
アイアム元増田。わては真の非モテかと言われると知らねー。けど今まで彼女なんて居なかったのは事実なんだぜ。
文章が気持ち悪いのは仕様な。というか、はてなid を特定されたくないからあんな感じにゃの。ほら、増田に張り付いて視てて特定できる人達が居るのよ。ばれるのが恐いのよ。「あ、実は○○さんってそんなこと悩んでたりするんだ。それも増田に書くとかぷぎゃー」とかってなったら恥ずかしいじゃろ?あんな文章を書いてる時点で恥ずかしいと思ったら負けだっ!
ふぅ、という事で、例の彼女でオナニーしてきたので、もうどうでもよいです…ってのは大嘘で未だに気になってるような気がする…いやオナニーもしてないですよ?
ほら、あのね、もし自分が性欲全快だとしたら、彼女に迫ったら、彼女が傷つくカモ知れないじゃに?「酷い!体が目的だったのね!もう男なんて信用できない!」ってなって、彼女は一生独身となり、研究に実を費やすこととなった。彼女の研究は男性の性欲を減退させる電波の研究であり、彼女の晩年、その研究は完成し、彼女は東京タワーをハイジャックし全世界の男に向けその電波を発信させた。これが後のDNA保管再製計画のきっかけとなった事件である。
いや、単に体だけが目的だった自分に自己嫌悪するだけなんですけども。あっ、これ、なんか重要っぽいけど、掘り下げたらツラそう!だから逃げる!か・ん・が・え・な・い!
そういやね、アレですよ、いきなりね強烈に迫ったりしませんよ。いくら女に植えている自分だからって。例えば「葛原さん、おっぱいをもませてください」なんてやったら只のセクハラおやじになっちゃうわけじゃないですか。
だから最初は、やっぱり飯?とか?食う?とか?一緒に?とかって感じを考えて、
「坂上さん、今度一緒に飯でも食いに行きませんか?神保町にですね、ちょっと有名なお店がありましてね、その手の人には大人気の食べ物がありまして、結構行列が並ぶらしいんですが、それだけまあ人気があるってことなんですよ。確か三田あたりに本店があるらしいのですが、とりあえず近場の神保町あたりも人気らしいんですわ。どうでしょう?行きませんか?行かない?じゃあ、おっぱいをもませてください」
とかこんな感じ?すごく自然。まあ、これでほらお友達みたいな気分を演出してだ。今度は池袋とか荻窪とかの店に行ってみようとか回数を重ねて仲良くなっていくってのがまあ理想的?かもしれないかなーとか妄想でドン!
一応皆様の回答を見る限り、「行け」って意見が多いみたいね。迷うなら行くなってのもあったけども。サイレントマジョリティはどっちかな?やっぱり「氏ね」が多いかな。
俺はついていると思う。
同級生はみんな子金持ち。おかげで今になってお金に対してハングリーになった。
大学で入ったサークルのつながりでいろいろな人と知り合うことができた。
そのおかげで今の会社に入れた。
数年前母が会社を建てた。
まだ全然利益が出ていないが、息子である俺が技術面でのお手伝いやら
そして、田舎だが土地があり、某大手メーカーに1500坪もの土地を貸して定期的に不動産収入があるようだ。
こんなにチャンスがあるんだから、これらを利用して何かをしない手はない。
最近一瞬で一日が終わる。
人生も一瞬で、気がついたら死んでいるのかと思う。たびたび背筋がぞっとする。
やれるうちにやりたいことをやるのだ。
「悪くなかったな」
と思いながら死んでいきたい。
俺はツイている。
旅行から帰ってきて、山で遭難が相次いでいるニュースを見てびっくりしている。
そういえば、2008年は自分が名前を知っている山ヤが相次いで山で亡くなった年だった。
これまで何度も修羅場をくぐり抜けてきたのを見ていただけに「まさか」という感じだった。
晩年はますます過激な嗜好に走っていたから
「いつかあいつは死ぬ」と、白馬に通うスキーヤーの間ではささやかれていたみたいだけど。
二人とも、スキーを使って長い間山に入る、ってことをされていて
「あそこまではいけなくても、いつかは」とひそかに意識していた人たちだ。
記録を読んで(こちらが一方的にではあるけれど)憧れている人が
山に呑まれてしまうのをニュース越しに見ていると
続きはどうなっているんだ、と気になって浮き足立つ気持ちを抑えられず
自分ってやつはどうしようもない野次馬なのだ、と卑下したくなってくる。
そして山に入ってアクシデントに見舞われ身体の一部を動かせなくなったけど
自力で病院にたどり着いて
運がよかったのかもしれないな、と思う。
少なくとも、山に行けずに静養している間
知り合いのブログで山の記録がアップされるのを読んで
自分を「不運」だと嘆くのは、そろそろやめにしたい。
私の祖父は晩年(本当に最期に近い頃)になって少しだけ話してくれた
スマトラ島で工兵をやっていたこと、終戦後自分以外の多くの者が現地に残りインドネシア独立戦争に協力したこと、数十年の後に彼の地を訪れたが友は誰も生きておらず現地で英雄となっていたこと、ウシガエルは美味しいこと等々・・・
最期が近いと悟ったら何か話してくれるのではないかと思いますが、まだその時ではないのかもしれません
「生きていては申し訳ない」という対外的なものが理由としては強い
僕が例に挙げた大友柳太朗も、役者ゆえに常々滑舌が悪いことを気にしていたし、更に晩年は台詞覚えが悪くなってきたことから、自分で「老人性痴呆症」だと勝手に思い込み、挙句は不眠症となり自殺への衝動が一気に沸き起こったそうだ。大友の師匠である辰巳柳太郎は「大友は『(自分がこんな状態では)皆に迷惑をかける』と言って死んだそうだが、関係者や親族は誰も迷惑になんて思っていなかった。何を勘違いしたのだろうか」と振り返っている。
僕の同級生も自殺した。妻子ある男との不倫関係の末、相手の家族に申し訳がないからという理由だったそうだ。彼女はあまりに純情過ぎたんだと思う。周囲からしてみれば「そんな事で…」と思うかもしれないが、本人はやはり「生きていては(相手の家族や周りの人たちに)申し訳ない」という気持ちに強く苛まれていたのかもしれない。強く愛しすぎたのかもしれない。
自分を追い込んでいくタイプに多いのかな。例えそれが誰かのせいであったとしても、自分が原因だと思い込んで自分で追い込んでいくのだから、雁字搦めになって余計に抜け出すのが難しいのかもしれない。
俺、自分で自分を追い込むタイプだから恐いな。
卒論の題材を宮澤賢治にした。うさんくさくて嫌いな人も多いと思うけど、永遠の童貞って呼ばれるくらいだし、自分には合ってると思う。
経歴を一通り追って感じたのは「やさしくて、よわっちくて、人を大切にしたいくせに理解してもらえないと周囲を憎んだりして、ほんとに一生ぐるぐるしてた人」なんだなーってこと。
前に歩いて後ろを振り返って、悩んで苦しんで文字通り血を吐き続ける姿は、決して美しいものじゃない。でもその愚直さに惹かれるって人も多いはず。(自分もそう。)
「雨ニモマケズ」から超出来た人っていうイメージ持たれることもあるけど、決してそんなことはなくて、自分の中の醜いものや汚いものを持ちながら、こんなんじゃだめだ、もっと良く生きたいっていうのをそりゃもう必死に求めていたんだよね。
賢治は死ぬまで親のスネかじり続けて、仕事もころころ変えたりして、晩年に「今までの生き方は理想主義にすぎた」みたいなことを言ってる。
自分も積極的に「賢治みたいに生きたい」とは言えない。禁欲して粗食で我慢して最愛の人を失って自分も若死にするなんてしんどすぎるもん。
でもどうだろう。賢治の童話は教科書に載って子供に親しまれているし、賢治の詩は多くの人の支えにもなっている。(自分もそう。)
一生ぐるぐるし続けたからこそ、賢治の言葉には説得力がある。真に迫ってくる。賢治先生のぐるぐるから学び、いつか自分のぐるぐるを解消したいなーとか思う。まぁ一生ぐるぐるかもしれないけど。
学歴は観念ではなくて現実なんだけどな。ほとんどの人間はもう取り返しがつかないから、自己保存本能で、頭から消しているんだよ。そして社会もそれを許してくれる。でも、そのことによって、低学歴者は社会で勝つことはできないし、学歴がない者に相応しい社会的地位を占めているのだけれども。最低限のものだけ与えられ、面白みもない人生を送るだけだ。
高学歴の政治家や経営者が満面の笑みでブラウン管に映るのは、同年齢の男に対する当てつけ。俺らは美味しい人生を送っているのでこんな笑顔になれるんだぞみたいな。一方、学歴のない男は、憔悴した表情で愚痴を言いながら晩年をすごす。
もっともそうすると低脳たちが暴動を起こして高学歴が美味しい思いできないので、テレビやネットといったもので感情を調整しておくわけだよ。低学歴でもおまんま食ってるときは幸せだろ?みたいなリップサービスして。馬鹿だからそれで納得して暴動にいたらないわけだ。
亡くなった祖母の話を書きたい。俺にとってとても大切な祖母だった。でも、晩年があまりに不幸すぎた。祖母のことを思い出すことを避けてしまいたいくらい。だから書きたい。
祖母には4人の子供がいた。男男女男。ただし長男は亡くなった先妻の息子だ。家を継いだのはその長男で、結婚して三人の子供(祖母の孫)がいた。他の子供もそれぞれ家庭を持ち、唯一の娘はすぐそばに家を建て、婿をとった。他の子供はそれぞれ独立した。
この一族はとても仲がよく、年に何度も集まるし、一緒に旅行にも行っていた。
それにひびが入ったのは俺が小学生にあがったばかりのこと。長男が離婚し家を出て行ったのだ。長男の嫁は実家に戻ることも考えたようだが、祖母と嫁は従姉妹でもあり、嫁の実家の勧めで残ることになった。出て行った長男は、家も土地も全て渡すから、祖母の面倒を見てほしいと言い残したようだ。
その後、細かいトラブルが起きたことはあっても、表面的には何もなかった。長男の子供も結婚し家庭を持って、残された土地と家の主となった。嫁も健在だった。
祖母は嫁と喧嘩して俺の母親に泣きついたり、体を壊すことはあったが、基本的に元気だった。でも年には勝てなかった。やがて認知症の兆候がでて、それが原因で骨折、入院することになった。そこから一気に関係が崩れていった。
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。(「葉」)
だからそういう扱いは今すぐやめろ。
まず彼はどこにでも居るような平凡な人間です。強いて言えば、ほとんど一生くだらない仕事をし、くだらない安アパートで過ごした非常に可哀相な人です。周りの対応は彼に対してもう少し何とかならなかったのでしょうか。非常に残念です。
勿論そういう貧相な生活だったので、つまらない仕事の後は独りで部屋に引きこもって安い紙に自分の空想に基づいた絵を描いたり写真をポトペタしたりしてました。それくらいしか術がなかったんです。
で、重要なのは貧相な下に置かれて、自分の趣味だと胸を張って言える様なまともな生産的活動を見出す事が誰にでもできるかどうかです。普通はできませんよね(そういう意味では、ヘンリー・ダーガーは非常に優れた手段模索才能を持っていたと考える事ができます)。
彼の作品は、彼の晩年、学校で美術を教えている人間が部屋を引き取るまで知られる事はありませんでしたが、彼はどうやらそのまま自身の生涯が消えうせると共に自分の残した作品も誰にも知られる事なく消滅してしまう事を望んでいたようです。
部屋を引き取った教師が彼の作品を評価した事について、彼は非常に残念がっていました。そりゃそうです、人並みの生活ができればこんな人様に見せられない様な自己満足の塊に時間を費やしたりはせず、もっと他人に認められる様なものを作ったに違いありませんから。
つまり彼の作った異質(といわれている)世界観や作風の裏には常に貧相で平坦で人間味のない苦の側面があったに違いないんです。誰でも苦の原動力から何かをつくろうと思えば何らかの形で倒錯したものが表現されて然るべきです。だから彼はこんな自分専用のまともでない作品を他人の目に晒される事を恐れたんです。恥ずかしいですからね。至極当然の事です。
量的に多少違っても、これは誰にでもあることなんです。彼だけを特別扱いしては彼が可哀相です。
でも結婚願望はない。
って言うか、家庭に収まるような女じゃないからね、私の場合。
毎日毎日、家事して、子育てして、だんなの帰りを待って年老いてくなんてイヤ。
結局、普通に大学出て、就職して、OLしてたような女が結婚結婚って
容姿ソコソコだけど男に簡単に媚び売れるようなプライドのないセックス脳女って事。
大学入って夢持って勉強して、みんなが遊んでる時に努力と根性貫いてきた人間だけが
後、普通にこだわりすぎてツマンナ女もだめだと思うわよ。
「多分これからも」に見受けられる並々ならぬ自信がいつまでも続くといいですね。
考えると「ブックオフ」なんかのシビアな買取システムは興味深いですね。
一部を除いて完全に発行日で金額が決まっているじゃないですか。
新しいものは高く買い取り、古いものは安くなる。しかも、一律の値段で買い叩かれる。
それどころか、
「恐れ入ります。こちらの商品には値がつかないのですが?」
となってしまう。こうなると、持って帰るか捨ててもらうかの2択ですよ。
背の焼けたものとかはキレイに削れますが、発行日を削るのは難しいですよ?
これを書いた方がいつまでも買い取り不可にならない魅力的な女性でいられますように祈りたいと思います。
子供4人
正確には5人。次男の森不律(Fritz)は生後半年で亡くなっている。彼を除いた簡易家系図を書くと
読みの後ろに「*」が付いてるのが鴎外自身の命名。そうですねー。鴎外はいま流行の「姫空梓(ぴくしー)」とかDQN命名の元祖なんですねー。Jaquesとか、もはや字自体がヤバいしw 自身の本名「林太郎」がドイツ人に正しく発音されなかったことがコンプレックスだったとか。
しかしまぁ。みなさんDQNネームに負けず、旧帝大、早慶出ばっか。孫の代まで見てみても、まず8割方著作がある。偉大な家系ですわ。
「歴史…青年期あらゆる希望を胸に、いきりたって人にケンカ(論争)をふっかけた鴎外。
以後官僚として栄達をのぞみ、ドロドロした権力闘争にも身を置いた鴎外。
歴史…それは男の当然の生き様であるが、晩年のわずか五年間、鴎外、
栄達がのぞめなくなると急に肩の荷が降りたのだろうか?
彼は負けたのだろうか? 男の生涯、ただの男になって死に様を見つけた。」
エレファントカシマシ / 歴史
やってみた。しかし名付けならば考え直すことをおすすめします、とか言い切っちゃうとこがすごい。
主運
21画:独立権威、頭領の霊位を示す大吉祥数
独立心が旺盛で、一歩一歩と地位と名誉を築く強運数で、人の長としての信頼を集め、前途洋々と開ける強運数だけに、若年から人を見下す欠点があり、和を欠いて敵も作ります。これを慎んでいけば弱冠にして才覚を発揮できます。
女性のあなたは、キャリアウーマンとしては大成功しますが、霊位が強すぎ、孤独相か、夫との生死別または一家を背負う運命の暗示があります。また、この数を持ていますと、夫の運勢を伸長させない暗示がありますから、安穏に夫を補佐し協調の精神を養うように心掛けてください。(「名付け」には避けたい数です。)
若年より人を??のあたりが身に覚えがあるだけにどきっとするところ。しかしキャリアウーマンとしては大成功か。まあ今のままいけば大成功はともかく普通に成功くらいはいくかな。
対人運・社交運
16画:頭領の才象望運の霊位を示す吉祥数
大器晩成、良い友達が多く、リーダ格で社交上手な才があり、多くの人に人気があって共に栄える博愛精神を有し、不遇な環境にあっても協力者により盛運に転ずる強運数。裏面には親分肌的な所があって、ひとの面倒を良く見ますが、逆に利用されて損をしないように注意が必要です。
どうも↑と矛盾しているような気がするのだけど。
性格
健全発達型 表面は大人しく何事も漸進的で物事に筋道を立てて理性的です。温和に見えるが内心は不屈の精神と、嫉みや疑いの気持があり、余り活動的でないが人の上に立つ素養あり。裏面は剛情でワンマンなため、これが出ますと遊び好き・けじめが無くなります。
同じく↑と矛盾s(ry 強情&ワンマンは当たってるかな。しっかし全体的に一貫してないな。
基礎運
9画:悲運薄幸な霊位を示す凶運数
智力に優れ頭の回転が速いのですが、病弱薄幸で肉親の縁も薄く幼少にて親との生死別による孤独な生活や甚だしい時は短命の暗示がある大凶数です。他の数との組み合わせにもよりますが、多くは人のために損をしがちな苦労の多い人生をたどります。ただし才略優秀なる人は大成功者となります。
家族には恵まれていると自負しているのでこれは当たってないかな。不幸といえば弟を亡くしたくらいか。
晩年運
37画:篤実単行、繁栄の霊位を示す吉祥運
独立単行、智力胆力に優れ大業成就の強運で万難突破、独立権威の数だけに、反面、行き過ぎますと孤立する危険性があります。人との和合に心掛ける事が安泰発展の秘訣です。
女性のあなたは、過剛になりますと、孤立しますから分をわきまえたいものです。
健康運が極悪なことを除けば特に大過なし。才に溺れるな!みたいな感じなんで身を慎もうと思う。
生活保護を受けたいのに受けられない――。高齢化や雇用の不安定化などで全国的に生活保護受給者が増えるなか、かつて全国トップだった保護率(人口あたりの生活保護受給者)が、厳正な審査で全国平均並みになった北九州市で、生活苦にあえぐ独居老人の叫びを聞いた。
◆所持金319円、かつお節がおかず
「苦労を積み重ねてきたあげく、この有り様です」
小さながま口から、うちわの上にぱらぱらと小銭が落ちた。郵便ポスト型の貯金箱から取り出した小銭と合わせると手持ちの現金は、319円。
八幡東区の古びた平屋で独り、年金生活を送る女性(79)は、丸めたティッシュで目頭を押さえた。
食事は、「小さなパックのかつお節を2回に分けてご飯にかけるだけ。これに大根おろしがあればいい方」という。米びつを見ると、底をつきかけていた。
ガスはすでに止まった。女性は、手で口元を覆いながらつぶやいた。
「銭湯に行けても月に1度。家で携帯用ガスコンロで湯をわかし体をふいている」
暦の6月15日の欄には、青ペンで「電気代」と振込期日が記されている。これを過ぎると、電気が止められるのだという。
月2万円の家賃は2か月分滞納している。
「大家の奥様は、大目に見てくれる。でも、大家からは『女房がおとなしいからといって調子に乗るな』と言われた」
女性は歩くとき、左手を背に回す。自宅前の土手で5月11日、草むしりをしていて転倒し、背中を強打した。「薬が買えないから、こらえている」
◆家賃などを除くと月1万円の生活
鹿児島県霧島市出身。女性が30歳の時に、会社員の夫が病死した。小学生の息子2人は、牛乳・新聞配達をしながら通学したが、高卒後に独立すると、生活の不安はいったん消えた。
女性は、1978??79年当時のアルバムを開いた。金融会社の社長秘書をしていたといい、ドライブ先の熊本県・阿蘇で、乗用車をバックにしゃれたワンピース姿でほほえんでいる。
生活基盤が揺らいだのは10年前。友人が約350万円を借金したまま姿を消し、保証人になっていた女性の職場に借金取りが押しかけてきたという。
2か月に1度振り込まれる14万9000円の年金を担保に、銀行から140万円借りて返済に充てた。生活に困ったが、この時は、生活保護を受給できた。
ところが一昨年、台風で壊れた家の修理費と高血圧を抑える漢方薬代がかさみ、再び年金を担保に95万円借りた。
返済のため、手にできる年金は、2か月あたり7万9000円にダウン。6月15日にそれが振り込まれたが、「たまった家賃などを差し引くと手元に残るのは2万円足らず。これで2か月耐えるのです」。
「市内に3人の妹が住むが、うち2人が生活保護を受け、自分の生活で精いっぱい」。2人の息子も余裕がないという。
長男は、声を震わせ弁明した。
「息子は大学に通い、長女は失業中。自分も職場を移ったばかりで薄給だ。妻も含めて4人で狭い市営住宅に暮らしていて、母を引き取れないんです」
女性は糖尿病と高血圧で働けない。昨年11月と今年3月、区役所保護課に生活保護を申請したが、いずれも却下された。
年金担保貸し付けを利用しながら保護を受ける行為は、1度に限るという規定に触れた。「現状は急迫していない」と判断されたことも理由という。
女性は、「貸し付け利用は不注意だった。でも、この暮らしのどこが急迫していないというの」と訴えかけた。
◆生きる自信失い
八幡東区役所の保護課を訪ねた。保護課長は、生活保護の規約集を片手に、保護申請者のためのブースに姿を現すと、「個別のケースは言えないのであくまで一般論を話す」と強調した。
課長はまず、年金担保貸し付けと生活保護を繰り返し併用できない原則を説明した。
「貸付金をギャンブルや借金返済などに使い、困窮して保護を受けたら、保護費は実質的に借金返済にあてられたことになる」
借り入れの利用が、社会通念上、真にやむを得ないか、申請者が急迫状態でない限り保護できないという。
課長は、確信に満ちた口調で続けた。
「家族が近くにいて援助するとか、民生委員などが見守るとか、急迫していないと判断する理由があったはず。ただ、状況が変われば保護することもある」
確かに、女性宅の台所には、民生委員が差し入れたというジャガイモやニンジンがあり、女性は、「これで1週間は食べていける」と話していた。
だが女性は、「自殺を図ろうと右手首を切ったことがある」と明かしていた。10針縫った跡は生々しかった。「周囲に迷惑をかけずに生きられない自分は価値がないと思い込んだ」
女性は、ただ食べて命をつなぐことはできるかもしれないが、孤独と自信喪失で心理的には急迫している。そんな晩年を送る人々に、行政は手を差し伸べられないのか。疑問が消えないまま区役所を後にした。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rupo/0706/ru_706_070628.htm
もしこれがエントリーシートか何かなら、ペレは学生時代に遊びほうけていたようにしか見えないし、ポクは自らの学歴を盾に兄弟を見下しているところもウケル。
この兄弟が対決するならペレが圧倒的不利だろう。仲間と一緒に居るのが得意なようだが、本人にさしたる実力は無いわ、これといってカリスマ性があるわけでもなさろうだわ。ペレの友は一体どれだけペレを助けるのかがはなはだ疑問でならない。
それに対して、ペレが旅先で再開したポクはいろいろな国で家作りや木の実集めをしているのだろうから、ペレ以上に多くのリスから感謝されているだろうし、ペレに負けないくらい外国へ出張しているとも考えられるので、もはやペレに勝ち目はない。
まあ、あれだ。
少年漫画で例えてみるなら、皆から感謝されているポクは道場を開いている、人づきあいが多少不器用な男(純粋一途)で、ペレは男の嫁の兄(半遊び人)みたいな存在か。(元ネタ:サムライウサギ:週間少年ジャンプ)
どっちも幸せかどうかを論じるにはまだ早いとしか言いようがないな。まだまだこれからって感じで。もし元増田の後半が、ポクとペレが晩年に異国の地で再開した、という意味なら、どっちも志半ばで倒れて不幸だと思う。