16歳で初めて東京へ遊学、初め漢学を次に哲学を志して遂に大学予備門に入学、東京帝国大学では国文科に入り、二ヵ年の修行で病気のために退学した。居士は大学で修める学科が居士の志す所と没交渉のものが多いからというのを退学の一理由としているけれども、勿論病気ということもその退学原因の重大なものであった。
退学が病気に因る如く、居士の事業また病気によるものが多い。その俳句研究を始めたのは喀血後明治21、2年頃からである。 「俳句を研究せねば、足利以来の日本文学とその思想は到底鮮明することは出来ない」 とは、その頃居士が他に語る口癖であったが、斯く考えることもまた病身ということが手伝って力あるものである。そうして24歳より俳句の復興革新に志し僅々5年29歳の頃には略ぼその大業を成就するに近くなったのである。
次に30歳頃から和歌の革新を思い立ち、「紀貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ歌集に有之候」という当時としては歌壇の反逆児としか思えない畏る可く宣戦の言葉を放って健闘すること3年有余、その34歳の頃には既に速くも歌壇一千年の永き惰眠を覚醒し、写生趣味による真実味と自然味とを和歌に注入して以て殿上文学たる和歌を地下の書生学徒の手に移したのであった。
次で文章の革新をも思い立ち、写生趣味を加えた言文一致の文を発表し、真実を自然のままに叙写するのでなければ、到底永遠の生命ある文章を得べからざることを称道し、所謂写生文なる一派の文を興すに至ったのが、明治32年頃からその晩年たる35年頃までの活動により成就せられたのであった。漱石の猫が生まれたのもまた実に子規居士の造った揺籃に於てしたのである。
かような明治文学史上に最大の意義ある事業を為す傍ら、明治24年頃から、俳句の分類だの、俳家全集などの編著にも精力を注がれた。
20歳喀血し、30歳脊髄を冒されて、腰は全く立たず、カリエスは開口して漏膿し、痛苦を伴った。30歳の頃以後は年百年中37度ないし39度くらいの体温を干満した。生まれて虚弱、13歳より5、6年僅かに小康を得、そうして盛年常に病魔に冒されて以て一生を終わった。居士は畢竟病を以て終始したものである。そうして享年僅かに36歳、明治35年9月19日示寂せられたのである。
寒川鼠骨「子規居士小伝」より