はてなキーワード: 性的嗜好とは
最近の「あなたを傷つける人間をあなたは助ける必要がない」という論理について、私のインナーチャイルドが泣き喚いてうるさいので、宥めるためにここに書き捨てます。
内面のざわつきに耳を傾けるとだいたいこんな感じの話があるようでした。
学生時代、あまりいい思い出の中で生きてきたわけではなかったが、とりわけ印象に残っていた出来事に「病原菌扱い」というものがあった。
つまるところ私は『汚い』し、『気持ち悪い』し、『いるだけで迷惑』なので、触れられただけでもヒトを汚染する、特に異性に取っては罪ある存在そのものだった。
その実態に理由があったかどうかという点については記憶していないが、まぁ身ぎれいにする能力もなかったので、実際汚かったのではないか。
これとは別の話として、私は生まれつき性的嗜好に異常があり、他者に性的興奮が出来ないということも合わさって性嫌悪が悍ましいレベルで跳ね上がったりし
ダラダラと煩く、無駄な話が多いです。まとめればマシになるのかも知れませんが聞く気がないです。
これを今回の話題に合わせて並べ替えるのであれば、だいたいこのようなことになるのでしょう。
私という存在は生きている、そこにいるだけで他人を傷つけ、更には何の寄与もできていないというとき、その存在を許されることはあるのかどうかという観念がずっと付き纏っていた。
私自身の一つの回答として、他人がまた別の他人を助けるために敷いたルールの隙間を縫い、そのおこぼれを預かることでしか生き延びることはきっと出来ないだろうと想っている。
しかしそれは要するに、「他人を傷つけるが助けてもらいたい」という理屈に他ならず、今回の件によって私の生存は他ならぬ悪であり許されざる罪であるという結論に至ることについて、他人である皆様方が話し合っている。
私は生きる価値がないとこれから皆が言うことになるんじゃないか。それこそが正しい結論なんじゃないか。私は今生きていることが間違っているんじゃないか。
単純に被害妄想と自己嫌悪をないまぜにしたよくあるタイプの取るに足らない言説ですね。どうでもいいです。
こういう場所に書きなぐりたいという衝動がうるさいですが、それも結局自分を援護してくれるような存在がいるのではないかと期待して、牽強付会の理屈をこねくり回しているだけで、何の推敲もせず書き散らした悪筆ですね。
今日はセントジョーンズワートを飲んで寝ます。おやすみなさい。
相変わらずブコメには最初の5行しか読んでないコメントが並んでるけど、増田の主張は普通にここだよね
二次元オタク趣味って本当は反グレ風俗スカウトになって女性を搾取して生活したかったのに逮捕されるリスクやヤクザに殴られるリスクが嫌で仕方なくカタギやってる人が内なる願望を叶えるための代替行動だったの?
口より先に手が出る手合を蛇蝎のごとく嫌い、ヤクザや半グレの話題となれば「一生刑務所から出さないで欲しいと言ってはばからないオタクが、ことエロ方面に限ればヤクザの真似事したがるの、気持ち悪くない?ということ。
たださあ。
そういう自己矛盾抱えてるの、オタクだけじゃないよね。むしろ非オタクの方が白々しいと言うか、無頓着だよね。
もっと言えばさ、そう言う歪みを受け止める無害な器としてフィクションというのは、ある訳ですよ。
人間、感情や性的嗜好と、自分として考える人格が完全に一貫できれば苦労はないけど、そんな簡単にはできてなくてさ、ふつうに欲望と希望には矛盾があるもんじゃん。
キモいのはそういう自分の矛盾を平然と無視して好きな事をほざいてるtwitterやブクマカ連中の心性であって、フィクション自体では無いと思うんだよね。
まあそれを商売にしてる側が都合良すぎるのどうなの?みたいなのはあるけど、矛盾を意識しながらもコンテンツを摂取せざるを得ない我々オタクは決して特別異常でもないし、卑下される存在とは思わないんだ。
レズゲー売る場合も男子とはえっちなイベントは起こらないのでとても安全って書いてくれると助かるし
マジレスすると『とても危険』なのは男性同士の性行為そのものではなくて、ターゲティング層のユーザー(この場合異性愛者)が自分とは違う性的嗜好のエロシーンを見せつけられるという事態だろ。
逆にゲイをターゲットとしたエロゲーで異性間のエロシーンを延々と見せつけられたら「同性愛者に異性愛を強要した! 差別だ!」って騒ぎ立てるだろ。
トランスジェンダーがそれがMtFにしろFtMにしろ、肉体的性とは異なる性を選択した際、ジェンダー議論の中で定義されるステレオタイプ的な振る舞いを好む/忌避し自らの社会的性を確立しようとしたとして、それは性別二元論批判と対立するか?
例えばMtFが化粧をし、ハイヒールを履き、スカートを好み、それが社会的に女性として扱われるためだとしたら?
トランス(やX・Qジェンダー)の幼少の体験としても、男の子のおもちゃ、女の子のアニメといった言葉は見られる。社会的性の選択と社会に構築された性観念は密接で、それに則り社会的性を構築するのは当然のことでもある。しかしてそれは既存の性観念(性規範と言っても良いかもしれない)を積極的に肯定することになるのか?
そもそも、選択をする時点で社会的性差を一定以上認めているのではないか?性差がないと考えるのであれば、性規範のみを批判すれば事足りるのではないか?
自身を内的に肉体的性と異なる性を持つと思うだけでは満たされず、社会的承認を以って初めて社会的性の構築と捉えるのであれば、何らかの見本が必要であり、それがジェンダーステレオタイプであり、社会的な性差なのではないか?例えば#kutooのようなジェンダーステレオタイプの押し付けを批判する概念と折り合いをつけることはできるのか?
ステレオタイプが完全に破壊され、誰しもが自分のしたいように自由に振る舞える時、個々人の肉体的性との不和は本当に解消されるのか?誰もが社会的に認められるとして、そこに各社会的性の承認はあるのか?そもそも不和が生じるのか?
そこにあるのはMaleでもFemaleでもなくただの個人で、それ以上でもそれ以下にもならず、究極的には社会的性が失われるのではないか?これは男女共同参画に対するバックラッシュの中で論じられた「中性人間」と通じるかもしれないが、ミソジニーに基づく政治的な主張などではなく、社会的性の存在に関する純粋な疑問であると自負している。
性的嗜好とも関連する。男性という性自認(=ジェンダーアイデンティティ)の下、男性という性自認をする人を嗜好することと、オス(=セックス)がオスを嗜好することは異なることである。
性自認が男性でも肉体的にはメスで、性転換手術を受けていないかもしれないし、そのオスの性自認は女性かもしれない。これらもやはり社会的性に関わるが、社会的性無しに線引きできるのか?
ステレオタイプ的に振る舞う個人が悪なのではなくそれが肉体的性を理由に押し付けられ、個人の自己実現が抑制されることが問題と見做すとしても、ではステレオタイプから大きく逸脱する振る舞いを採る人間は承認されるのか?外見上オスに見え、性転換手術も行っていないが性自認は女性のレズビアンと主張する人物を我々はどこまで信じられるのか?
フェミニズムも一枚岩じゃない。出発は政治・社会における男女の力の不均衡であるが、その後の歴史展開の中でホモフォビアや性別二元論への考え方などにおいて分類ができる。上述した#kutooも決して全体の思想ではない。「ジェンダー」というフレーズはフェミニズムの中でも用いられる語句だが、その多義性から一部のフェミニズムと一部のジェンダー概念って場合によってはとんでもなく対立しうるのではないか?
何でこの人達誰にでも閲覧出来る場所で堂々とエロ話が出来るんだろう?
わざわざ自分達の呟きのやり取りを纏めて記事にするって事は誰かに読んでもらいたいんだろうし
togetterってちょっと検索しただけですぐにヒットするから本当に誰でも読める開かれた場所だよね、あそこ
「受け攻めのセックスポジションはどっちが上か」とか「尻にぶち込む」とか「挿入させてえ」とか正直下品な感じは否めない
受けとか攻めってBL用語自体性行為の際に挿入する側・される側って意味だから
「Aは攻めだと思う」「Bは絶対受け」みたいな短い独り言ややりとりでも用語を理解出来る人にはかなり下の話に聞こえると思う
でもこうやって「堂々とエロ話するのはやめろよ」みたいな事を思ったり吐き出すのも女性に対する性的抑圧になってしまうんだろうか?
関係ないけど男性が似たようなノリで性的嗜好について語ったやりとりをtogetterでまとめて記事にしたら滅茶苦茶叩かれて嫌悪されそうだなと思った
・多目的トイレを不適切に使ったこと(利用者・公共への迷惑、適切に利用できなくなる恐れ)
・関係女性も共犯とはいえ、女性の好意を利用して安い金で性処理に使ったこと(性の買い叩き)
・実態がアレにも関わらず、わざわざクリーンなセルフイメージを作って仕事したこと(企業への迷惑、金銭の問題)
くらいだと思うんだけど、会見なんだったんだろう。
渡部だけの問題でないこと(出演番組)にも突っ込んでて、ちょっとズレてんじゃないのって印象の方が強かった。
公開処刑みたいなことして溜飲下げたかったのか? って気持ちになってしまう。渡部の罪の話に集中できない(それが狙いか?)
あと、何言っても否定されてボロクソ言われるの分かってて正直なこと言える人もいない(それひっくるめて誠実であれというのは分からなくもないが暴力的ではある)と思うから、何でそのやり方なの?って感じ。
渡部に石を投げていいのは被害者であって、関係者でもない取材陣や我々ではない。
メディアがこれやったら、関係者でなくても石投げていいんだなって思っちゃうし、人間の教育にもよくない気がする。何回暴力を誘導して再生産するんだろう。本当に不思議だ。
我々がやっていいことは渡部を裁くことではなく、
彼の出る番組を見るか否か決めること
彼に関連するものを消費するか否か決めること
くらいなのに、どこまで自分達に裁量があると思ってるんだろう。
倫理観ない奴が渡部に倫理観の話しても……って気になっちゃうな。
とても残念だった。
最悪の気分だ。
追記しとく
渡部のやったことをメディアが発信することで、その使い方を知らなかった人まで知ってしまう。
そうなると、適切に使ってた人もそういう目で見られる可能性が出てくるから、かなり使いづらくなりそう(周りを気にするなら切羽詰まってないってことだから大した損害ではないだろとか言われたら悲しい)
あと、その使い方を真似る人も出ると思う。そしたら、本来の利用者が使えなくなって困ることも考えられる。
メディアが騒いだせいって言ってしまえばそうだねとしか言えないが、これがゲスで有名な芸能人とかなら大して取り上げられなかったと思う。クリーンなイメージをわざわざ作ってた渡部だからこそだとは思う。
風俗でお金落として遊んだり、女の子にシャンパンとか飲ませるような遊び方だったら、こうはならなかったのでは。
もしくは、プレイとして結構な金払ってとかなら性的嗜好なんだね……でも多目的トイレは駄目だよね……で済んだかもしれない。
自分は世界の渡部とか言って貴族みたいな振る舞いしといて他人は買い叩いて便器みたいな扱いしてたら、そりゃ派手に取り上げるよなという感覚。
私の年齢はおそらく元増田より10歳ほど下だが、同じように性的な体験をまったくしたことがなく、そのことをコンプレックスに思っていた。
友人同士で話しているときに、他の人が自身の性的な体験についての話で盛り上がっていると疎外感を感じた。
私は子供の頃から人一倍性的な事柄に対する関心が高く、性的な事柄に関しては誰にも負けない知識をもっていると自負していた。
しかし友人たちは不完全な知識であっても、それが自分の実体験に基づいている。
対して私の知識はほとんどが妄想・ネット・本・映像から得たものである。
おまけに私はややBDSM的なものが好きで、さらには性的指向が女性(特に年上の女性)に向いているので、私が好んで見る性的な創作物はほとんどが「きれいなお姉さんが虐げられる」という類のものであった。
そのため性的経験がないことと「きれいな女性が虐げられる」創作物を見ることが好きであることに1人悶々と悩んでいた。
一時期はレズビアンのコミュニティに入って交際相手を見つけようかと思っていたこともあるのだが、田舎に住んでいるためそのようなコミュニティが近所になかった。おまけに他人に自分の性的指向について知られるということがとても怖かった。
また、先ほど性的指向が女性に向いていると書いたが、男性に対して恋愛感情がわかないということはなく、これまで何人か好きになった男性はいた。
つまり、私は完全に女性のことしか好きにならないというわけではないのである。そして、そういった自分の性的指向はレズビアンのコミュニティではあまり歓迎されないのではないかという不安があった。あくまでこれは私自身の思い込みであり、事実とは異なると思う。
よって、レズビアンの人と出会って性的な体験をする手段が私にはレズビアン風俗しかない!と思い、レズビアン風俗の予約をとった。
私の好きな「きれいな年上のお姉さん」と思われるキャストの方を指名した。BDSM系のオプションについては生身の人間に苦痛を与えることがどうにも憚られたので付けなかった。金欠だったということもある。
実際にそのキャストの方は本当にきれいな年上のお姉さんだった。プレイ内容についても大変満足であった。やはりプロである。
1回性的な体験をしたことによって、性的な体験をしたことがないというコンプレックスは解消された。
勿論この体験も「きれいなお姉さんが虐げられる」映像が好きであることと同様に他人にひけらかすことができるものではない。
それでもいいのだ。自分にとって大切なものは心の中にしまっておけばいい。そう思うことができるようになった。
しかし、私はどうにも「きれいな年上のお姉さん」ともう1度性的なことをしたいという気持ちにはなれなかった。
私にとって「きれいな年上のお姉さん」は、役所の受付で二言三言言葉を交わしたり、ちらっとすれ違ったり、(こういった眼差しは不快に思う人もいるだろう)、創作物などの映像・画像の中で見て1人で勝手に興奮したりするものであって、ともに人生を過ごす存在ではないのではないかということに気づいた。
また、初めて生身のレズビアンの方に出会って女性に対して性的な関心を抱く自分を肯定してもらえたことで、女性が女性に対して性的な関心を抱いていもいいという当たり前のことに気づき、自分の性的指向について悩むことがなくなった。女性が女性に対して性的な関心を抱くことは何も私だけの特別なことではないのである。
余談ではあるが、レズビアン風俗に行った後しばらくして友人の男性と付き合うことになった。本格的なお付き合いはこれが初めてである。
「女性のことが好きだから男性のことは好きになってはいけない」といった思い込みが解消されたことも、初めて他の人と付き合うことができた一因であろう。
まとめると、私にとって「きれいなお姉さん」が好きな自分、つまり性的な事柄が好きな自分との距離の保ち方を学んだということがレズビアン風俗に行った1番の成果であった。
タイツメーカーがタイツフェチの半エロ絵をPRとしてリツイートするのはまあ意味不明だしバカだな〜と思うわけですが、それはそれとして
みたいな話も出てきており、いち男性としてはちょっとツラい感じもある
しかし、いやいや普通に生きてるだけなのにキモい男から性的な目線を向けられるほうがツラいっすよと言われたら反論できない(好きじゃない人から好意・性欲を向けられる気持ち悪さってあるよね、俺もうっかりハッテン場のサウナに行ったことがありヒジョーに不快だった)
セクハラ発言をするとか盗撮するとかそういう言動じゃなくて「眼差す」時点でアウツ!って話っぽいじゃないですか
俺はできるだけ言動には気をつけてるつもりだけど、しかし電車でいい感じにタイツ履いた女性おったらちょっと見てしまう 性的に眼差してるのでアウトっぽい
正直やりたくてやってるわけじゃないんだよな
俺は子供まったく欲しくないし、性欲なんて基本的にジャマなだけだ、マジで
シコるために無駄にした時間は1000時間じゃ効かないし、仲良くない女性と話すときに無駄に緊張するのは性欲由来っぽい マジでウンコ
性欲自体は存在するにせよ「目玉の模様が描かれた赤色の円柱にしか興奮できない」みたいな性的嗜好になったほうがよほど楽だと思う 性犯罪に走る可能性が激減するしな
しかし、男に生まれて普通に生きて、性欲にはどちらかというと苦慮していても嫌悪感を向けられるっていうのはちょっとキツイものがありますね
これからするのは非常に複雑で難しい話だ。
まず「ゲイに掘られれば」は異性愛者に同性愛を勧める発言であり、所謂「性的指向」が後天的に変更可能である事を肯定する発言である。
一方でロリコン、ペドフィリア等は「性的嗜好」と呼ばれ、主に後天的である事によって「性的指向」と区別される。
以前、ロリコンの窮状がLGBTに例えて説明された際に「ロリコンは性的嗜好であり、LGBT等の性的指向とは異なる」「一緒にするな」といった批判がフェミニズム等から上がった事が有った。
しかし先に示した非モテ男性に対する「ゲイに掘られれば」発言もまたフェミニストから上がっている場合が散見される。
どちらか片方の正当性の検討は置くとして、両方を正しいと主張することは出来ない事を示す。
非モテ男性と非モテ女性に関する議論において、非モテ男性に対し「(そんなにセックス出来ない事が辛いなら)ゲイに掘られれば」といった発言が幾つか上がった。
発言者の内一部はフェミニストであった訳だが、件の発言は非モテ男性に向けた物であり、当然そこにはヘテロ男性も含まれる。つまりヘテロ→ゲイの性的指向の変更を推奨する物だった。
性的指向と性的嗜好は主にその先天性により区別され、通常、性的指向は先天的であり、変更不可能、性的嗜好は後天的に変更可能である事によって区別される。
件の発言はヘテロ→ゲイという変更が後天的に可能であり、「ゲイになる事」を選択可能であるとする判断に基づく。
従って件の発言は、ゲイは後天的に変更可能な性的嗜好であるか、もしくは性的嗜好と性的指向は区別されないとする主張を含むものである。
(また、これはゲイ→ヘテロの後天的変更の可能性を示唆する物でもあり、だとすると別の意味で大問題である。ゲイに対する「ヘテロになればいいのに」という発言の許容にもなり得るのだ)
以前、ロリコンの辛さや差別的扱いを説明する際にロリコンの立場をLGBTに置き換えた物がネット上で幾つか主張された。
その際のロリコン攻撃者(主にフェミニストや女性)の反応は「ロリコンとLGBTは違う」「一緒にするな」という冷淡な物だった。
ロリコンは性的嗜好であり後天的に変更可能であるが、LGBTは性的指向であり後天的に変更不可能だから、違う、という事だ。
(尚、もう一つ理由として挙げられがちな「欲望を叶えることが犯罪になるか否か」については後程触れる)
しかしこれは当然前件と矛盾する。もし仮に、「ゲイに掘られれば」発言を肯定し、且つ「ロリコンとLGBTは異なる」と主張している人が居たら、どちらかは論理的に撤回しなければならない、という事だ。
ではどちらを撤回するのか、予想してみよう。
恐らく多くのフェミニストにとってより大事なのは後者だろう。また、そもそも前者は別の理由でゲイ差別的であると批判され得る危険な発言でもある。
よりリスクが少ないのは前者の撤回であるので、そちらをお勧めする。
性的指向・嗜好の違いの他に、ロリコンとLGBTを区別する理由として「欲望を叶える事が犯罪に直結する」事が上げられがちである。
しかしこれもまた今回の文脈では実は主張することが難しい。文脈とは「非モテ」である。
「ゲイに掘られれば」発言は非モテ男性による「非モテ女性は存在しない」とする主張に向けられたものだった。さて、「非モテ」が欲望を叶えることは犯罪に直結するだろうか?
その人間が非モテであり続ける限りは直結するだろう。性交に同意可能な異性がいる状態である限り「非モテ」とは言えないので、その欲望を叶える事は同意を得ない性交つまりレイプに成らざるを得ない。
(もし「性交に同意可能な異性がいる」かつ「大事にされる等の性交に依らない恋愛的承認が得られない」状態も非モテに含めるとしても、その欲望の成就は「(恋愛的承認を得られない状態における)恋愛的承認の享受」である為、実現が不可能であるか、洗脳等の非倫理的な手段を要する)
従って、「非モテ」とは「ロリコン」と同様、「欲望を叶える事が犯罪に直結する」属性である事に成る。
フェミニスト或いは女性の一部は「非モテ女性は存在する」と主張したい訳だが、そうすると、その女性は「欲望を叶える事が犯罪に直結する」存在であり、
これまで自身達がロリコンに対してしていた「その欲望自体がギルティである」「欲望を公表する事も止めるべきである」とする主張が非モテ女性にも向いてしまう事に成る。
非モテ女性が「異性にモテたい」と言う権利を奪ってしまう事を是とするか否か、恐らく多くは否とするのではないか。
(また、私は女性を「性欲の無い清純な存在である」という神聖視を悍ましいものと考えるので、女性にも性欲は存在すると考えている。その場合、非モテ女性も「セックスしてぇ~」と主張したい場合もあり得るだろう。
それもまた彼女が非モテ女性である限り「欲望を叶える事が犯罪に直結する」欲望の告白に他ならない訳だが、その権利を私は彼女に認めたいし、多くのフェミニストもそうである事を願う)
だとすれば、「非モテ女性は存在する」か「ロリコンはその欲望を公表するべきでない」のどちらかは否定できなければ、論理的な正当性を主張できない。
以上は複数の論題に渡り論理的な整合性を保つべきという規範に乗っ取った議論であり、
恐らく多くの人(フェミニストや女性を含む)にとって非常に複雑で難しい話だと思う。従って理解されない事も有り得るだろう。
例えば「こういう問題を一緒にするべきではない」とあなたは考えたくなるかもしれない。
けれどもそれは自死の道である。「複数の異なる問題の間に論理的な整合性・一貫性を求めるべきではない」という規範は、あなたの批判の大部分をも無効化してしまう。
あなた自身も「複数の異なる問題の間に論理的な整合性・一貫性を求めるべきではない」事に成ってしまい、あなたが誰かの異なる問題に対する態度の違いや一貫性の無さを批判したい時にも、その規範は適用され、批判は意味を失くしてしまうのだ。
矛盾には一つの問題内での矛盾と、複数の問題間の矛盾があるが、当然ながら後者の方が多い、それをみすみす手放し、前者のみしか批判出来ない様自分を縛ってしまっては、
あなたは多くの批判を手離してしまう事に成る。そのようなリスクに見合う程、今回の議論の否定は大きなものではない。従って、受け入れる事をお勧めする。
ここで語りつくすことは出来ないが、興味深い論点が有る為、補記として残しておく。
ロリコン或いは女性を性的に消費するコンテンツにおいて、読者や視聴者に与える後天的な変更が取り沙汰される事が有る。
例えば「ロリ漫画はロリコンを増やす」であったり、「風呂覗きの描写は男性児童に悪影響を与える」等である。
一方で先日の足立区議会での自民党議員の発言の様に、「(コンテンツや制度的な承認により)LGBTが増える」事を危ぶむ差別的発言があった際、
「そんな事でLGBTは増えない」「あなたの生活は何も変わらない」といった反論が上がる事が有る。
これ等はLGBTの先天性を根拠の一つとして主張されるわけだが(それ故、「ゲイに掘られれば」発言による後天的なヘテロ→ゲイの変更は、これらの反論に真っ向から対立してしまう非常に危うい発言である訳だが)
この時、その先天性自体を否定する言説が現れた際、その言説に求めるべきエビデンスとは何であろうか?
通常、ロリコン或いは女性を性的に消費するコンテンツの影響を論じる際、「統計等のエビデンスを挙げろ」といった反論がされるが、多くの場合は無視される。
つまり、(その状況を肯定する限り)ロリコン或いは女性を性的に消費するコンテンツによる後天的な変更の可能性にはエビデンスは必要ないという事に成る。
これと同じ規範を適用すると、「(コンテンツや制度的な承認により)LGBTが増える(後天的な変更は発生する)」という主張にもエビデンスは何ら必要ないという事に成る。
もしLGBTの先天性を事実として保護したいのであれば、LGBTへの後天的な変更が可能とする主張にはエビデンスを要求する必要があり、
そのような規範を持つ限り、ロリコン或いは女性を性的に消費するコンテンツによる後天的な変更の可能性を論ずる際にも、エビデンスは必要と考えない訳には行かないのである。
今回はここまでにしておくが、とあるコンテンツや制度による受容者への影響、またはそれらを論ずる際に必要とするべきエビデンスの問題は、
LGBT等への配慮の問題と関係するという点でこれらの論点は非常に興味深い。
これまで主にリベラル側で軽視されてきた強力効果論等のメディア強化論のエビデンスの重要性について、再度一考するインセンティブがリベラル側にも現れたという事なのだ。
たまたま職場がオープンな環境で直接間接の同僚にLGBTの人が何人もいます。左利きの同じくらいの比率と聞いたことがありますが、実感できる数字です。逆に職場以外の交友関係では全然知らないのですが、基本的にはみなオープンにはされてないのだと理解してます。
気持ち悪いと思ったことはまったくないですね。自分に性的嗜好が向けられた時の感じ方は人やシチュエーションそれぞれと思いますし、そもそも向けられてないのに気持ち悪いとか考えるのは自意識過剰かなと思います。そこは相手が異性であっても同性であってもそうじゃないかと思います。ただ、そう考えられるのは実際に知り合いがいた具体的に考えられるからで、周りにLGBTの人がいなくて(本当はいる)、頭の中だけで空想してるとろくなことを考えない人もいるんだろうなとは思います。
ペドフィリア(英: pedophilia)とは、幼児・小児(一般に10歳以下)を対象とした性愛・性的嗜好のこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%89%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2