2021-01-31

結局ジェンダーって何?

トランスジェンダーがそれがMtFしろFtMしろ、肉体的性とは異なる性を選択した際、ジェンダー議論の中で定義されるステレオタイプ的な振る舞いを好む/忌避し自らの社会的性を確立しようとしたとして、それは性別二元論批判対立するか?

例えばMtFが化粧をし、ハイヒールを履き、スカートを好み、それが社会的女性として扱われるためだとしたら?

トランス(やX・Qジェンダー)の幼少の体験としても、男の子おもちゃ女の子アニメといった言葉は見られる。社会的性の選択社会に構築された性観念は密接で、それに則り社会的性を構築するのは当然のことでもある。しかしてそれは既存の性観念(性規範と言っても良いかもしれない)を積極的肯定することになるのか?

そもそも選択をする時点で社会的性差一定以上認めているのではないか性差がないと考えるのであれば、性規範のみを批判すれば事足りるのではないか

自身を内的に肉体的性と異なる性を持つと思うだけでは満たされず、社会的承認を以って初めて社会的性の構築と捉えるのであれば、何らかの見本が必要であり、それがジェンダーステレオタイプであり、社会的性差なのではないか?例えば#kutooのようなジェンダーステレオタイプ押し付け批判する概念と折り合いをつけることはできるのか?

ステレオタイプが完全に破壊され、誰しもが自分のしたいように自由に振る舞える時、個々人の肉体的性との不和は本当に解消されるのか?誰もが社会的に認められるとして、そこに各社会的性の承認はあるのか?そもそも不和が生じるのか?

そこにあるのはMaleでもFemaleでもなくただの個人で、それ以上でもそれ以下にもならず、究極的には社会的性が失われるのではないか?これは男女共同参画に対するバックラッシュの中で論じられた「中性人間」と通じるかもしれないが、ミソジニーに基づく政治的な主張などではなく、社会的性の存在に関する純粋な疑問であると自負している。

性的嗜好とも関連する。男性という性自認(=ジェンダーアイデンティティ)の下、男性という性自認をする人を嗜好することと、オス(=セックス)がオスを嗜好することは異なることである

性自認男性でも肉体的にはメスで、性転換手術を受けていないかもしれないし、そのオスの性自認女性かもしれない。これらもやはり社会的性に関わるが、社会的性無しに線引きできるのか?

ステレオタイプ役割は必ずしも悪なのか?

ステレオタイプ的に振る舞う個人が悪なのではなくそれが肉体的性を理由押し付けられ、個人自己実現抑制されることが問題と見做すとしても、ではステレオタイプから大きく逸脱する振る舞いを採る人間承認されるのか?外見上オスに見え、性転換手術も行っていないが性自認女性レズビアンと主張する人物を我々はどこまで信じられるのか?

フェミニズム一枚岩じゃない。出発は政治社会における男女の力の不均衡であるが、その後の歴史展開の中でホモフォビア性別二元論への考え方などにおいて分類ができる。上述した#kutooも決して全体の思想ではない。「ジェンダー」というフレーズフェミニズムの中でも用いられる語句だが、その多義から一部のフェミニズムと一部のジェンダー概念って場合によってはとんでもなく対立しうるのではないか

てなことをTSFエロ漫画を見てて思った。

オススメTSFエロエロわず書いてちょ

  • せみもぐら先生の「TS男子校付属中童貞マッサージ部」単推しで。

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