はてなキーワード: 刷り込みとは
「転売」が悪だという刷り込みがされてしまっているから、問題のない「卸」と分けて考えたいんじゃないかな。それでこういう変な反応になったのかと。頭悪いと苦労するんだよ。余計なことで。
おっす俺アラサー(34)。
小学校で教わった「オナニー」という言葉の意味をオヤジのパソコンで調べて以来かれこれ24年間ソロ活動。
小学生当時の俺にとっては18歳(自称)のAV女優であっても肌のきったねえオバサンだったのでもっぱら二次元でシコった。
たまに気まぐれで三次元でシコることもあったが、基本的には二次元でシコってきた。
今までのオナニーの回数を雑に「365日*24年/2日おき」で計算すると8000~9000という所だが、そのうちチャンポンも含めて三次元でシコったのはせいぜい500。
俺のチンコは二次元をシコる対象とみなし、三次元はあくまで二番手とみなすように調教されてきたと言っていい。
最近性欲が衰えてきたのか、ついに三次元で全く興奮しなくなった。
素人自撮りは肌の汚さやカメラワークの雑さが見ていられないし、女優男優の演技が棒すぎるのもアニメばかり見てきて身にはキツイものがある。
特に若くて可愛いだけの三次元女優は演技を一切しなかったりやたりわざとらしかったりで股間に訴えかける物が少ない。
30すぎているような女優と比べると肌が綺麗に見えるが、二次元と比べればサメやトカゲのような革っぽさすら感じてしまう。
静止画の場合も三次元の場合は単なる写真でしかなく、二次元のポルノが持つキュビズムや抽象画のような時空を歪めながら性欲に訴えかけようとする趣が一切ない。
そもそも文化が違っていて、三次元のエロというものはある種の盗撮趣味のような世界の上に構成されているのだろうが、私の股間はそういった覗き見だとかリアリティだとかいったものに対して興奮するようには出来ていないらしい。
結果、私は三次元で抜くことが出来なくなった。
こないだ試しにDMMで人気上位のエロ動画のサンプルを順繰りに見ていったが、どれも私を興奮させることは出来ず息子は下を向いたままだった。
人生とは積み上げてきたもの、味わってきたものによって構築される。
誰が最初に言うでもなく誰もが自然と知ることになる人生の本質である。
性欲とは刷り込みによって構築され、刷り込みによる性欲の構築こそがフェチズムの本質であるとデカルト(フロイト?ユング?サド?マゾ?)は言ったらしい。
結論から言うと、この作品は低品質なタイプのクソ映画ではない。
たしかに動きは少ないが「100日後に死ぬワニ」の作画としては妥当な範囲内だ。
劇判がでかすぎるとかそういうことはなくちゃんとコントロールされてるし、役者もさすが一流どころなだけあって違和感のある演技には感じなかった。
ただ良くも悪くも原作の雰囲気が再現された結果、演出に抑揚がなく多くの人はつまらないと感じるだろう。
63分の上映時間で1900円のフルプライスをとってることに目を瞑れば、100ワニに相応な映像化といってよい。
ではクソ映画ではないのか?
以下にその理由を記す。
無駄に音がデカかったり音割れしてたり演技が棒だったり合成されたCGがショボすぎたりして興をそがれるタイプだ。
主人公に目的が設定されてなく、起きる物事をカメラが追いかけるだけでただひたすら時間が経過していくタイプや、物語の展開の仕方が強引を通り越して牽強付会でぐちゃぐちゃになってるタイプなどだ。
原作のキャラクターなどの要素を使ってるだけで全く別の作品となっててファンが怒り狂うタイプの原作付き映画がこれに当たる。
この作品は前半でワニが生きた100日間、後半でワニが死んでからの100日間を描く。
そして、前半で描かれたワニを中心とした友達のコミュニティにこのカエルが入ってくるのだ。
これは見方によってはワニのポジションをカエルが乗っ取ったように見える。
しかもこのカエルは観客のヘイトをめちゃくちゃ稼ぐ立ち回りをしてるので余計にこのクソガエルが!という心情になってしまうのだ。
この点で、ワニが好きだった人ほど、この映画は受け入れがたいものになってしまった。
友人が死んだとしても、残された人は生きていかなければならない。
しかし、ワニを主人公にした物語でその主人公が死んだあと、その主人公の代替品を手に入れて乗り越えましたという印象になりかねない物語展開はワニが好きだった人ほど受け入れられないだろう(ワニのことを忘れたわけではないという演出はされているが、観客の印象をコントロールできるほどかというとそこまでではない)。
ではどうすればよかったのか?
残された側のネズミを主人公にすればこの問題は回避できたと思われる。
これならワニという親友を失ったネズミの心情に観客は寄り添うので、ワニを失った悲しみを乗り越える様子にも肯定的な感情を抱くことができただろう。
実際、監督としても可能な限りネズミに感情移入してもらおうとしたのか、その工夫をした余地は作品からもうかがえる。
例えば前半のワニのエピソードはネズミとのやりとりが多く、後半もネズミのシーンが多い。
しかし、原作はワニの物語、映画のタイトルもワニ、前半のエピソードもネズミと関わってるものが多いもののネズミが絡まないワニのエピソード(特にワニと先輩ワニの恋愛模様のシーンのほうがネズミとのものより観客には印象に残った可能性が高い)も多く、ネズミが主人公であるという刷り込みを観客にするには不徹底なため、ネズミを主人公と捉えることは難しい。
結果として、観客は主人公はワニだと思い込んだまま、ワニが死んだ後のコミュニティにカエルが入り込むのを眺めるというグロテスクなシーンを見せられることとなってしまった。
とはいえ、ワニではなくネズミを主人公にするのはマーケティングの観点から言っても難しかったと思われるので、その点は監督に同情する。
松ってそんなに良いものかね。たしかに植木なり盆栽なり手間をかけたならば他の木にはない魅力が生まれる。でも、枝ぶりを矯正し続けてはじめて得られるゆがんだ美は、そんな称えられるようなものだろうか?
普通に植わっている松を見て、ああこれは松の木だな、なんてまず思わない。下に落ちている松ぼっくりから類推して松の木であろうと思うだけ。食べられる部位も松の実くらい。身近にある松は安価なパイン材。松はせいぜいこんなものだろう。
それならば、手間をかけずとも真っ直ぐ天を目指して伸びる竹のほうがよろしいと俺は思う。繁殖性の高さは玉に傷だが、手頃な刃物があれば誰でも加工できるし、青竹の香りの清々しさときたらこたえられない。筍もうまい。
というか、松竹梅で梅が一番下なのはあり得なくないか。花の可憐な美しさは誰もが理解できるし、漬け物として特別な地位をもつ実がある。普通に考えてこれが一番上ではないのか。皆も本心ではそう思ってはいないか。「松竹梅」がランクをあらわすと知ったとき、梅が一番上だろうと皆思ったのではないか? 松が一番上なのはおかしいと最初は思ったのではないか? 世間に慣れていくうちに松が最上だなんて刷り込みが完了してしまっただけではないのか。
あのツイートはそもそも「ゲームに何万も課金するのはおかしい」じゃなくて「ラノベに何万も課金させるにはどうしたらいいだろう?」という趣旨なんだよな。
ラノベの値段を一律で数万円に値上げするのは当然ながら上手くいかないわけだが(ゲームだって別に全員が何万も課金しているわけではない)、スマホゲーのように無料〜数十万ないし数百万の「価格帯」を持たせればいいのか、それとも既に「ラノベは500円くらいで買えるもの」という刷り込みが出来上がっていたら駄目なのか、という話。
あと「1000円のラノベを高いと言ってる人は1円でも買いません」というのは何の根拠もないな。「真のスコットランド人ではない」論法。
毎日AV見まくって限界まで射精しまくれば賢者モードで生身の人間なんてどうでもよくなるだろ。
ゆくゆくは刷り込みでモニターとオナホールとローションとDVDに直接欲情するようにさえなるんじゃないのか?
生身に固執するのはお前が性欲ヤバ男に生まれた不幸が原因なんじゃなくて、お前が生身の人間に欲情し続けたことに責任があるだろ。
お前のチンコは架空のセックスでマスをかくために存在し、お前の金玉は架空のセックスでマスをかいたら出てくる液体を作るためのものだと割り切れよ。
なんでそれが出来ない?
それはお前が性欲ヤバ男である自分が性犯罪を起こすことより、現実でセックスをしなくなることの方が恥だと考えているからだ。
なんて惨めで憐れなんだ。
恋愛業界によって刷り込まれた価値観に振り回され、犯罪の過小評価を勝手に行った憐れな犯罪者予備軍め。
車業界に煽られるままに危険運転を繰り返して刑務所に打ち込まれた走り屋(笑)と同じ末路を歩みたいのか?
もしかして本当に歩みたいのか?
格好いいと思っているのか?
単にチンコと金玉と商業主義生まれの刷り込みに振り回され、自分では一切の価値基準を下せなくなった憐れな操り人形であることが格好いいと思ってらっしゃる?
惨めにも程があるぜ。
近所の幼稚園児を誘拐してきて無理やり尻の穴にチンコを突っ込むペドフェリアと、同僚に酒を飲ませて判断力を奪ってから無理やりラブホに連れ込むクズの間に、貴賎の差なんてなく等しく人間として最低のクズだ。
自分のガキに手を出すクズ、暴力に脅すクズ、こそこそ盗撮をするクズ、弱そうな奴を狙って痴漢をするクズ、全てのクズが等しく人間として最下層のゴミだ。
お前がご自慢の性欲の強さをぶら下げてイキってみせても、世間の人間からすれば墓場の死体を掘り起こして穴に突っ込み始めるような気持ちの悪い存在と全く同じ、理解不能のヒトモドキでしかねえ。
お前に人間としてまっとうに生きたいというプライドが少しでも残っているなら、毎日限界までマスかいてろ。
AVを見てマスをかくためにお前のチンコは存在し、AVを見てマスをかくためにお前の人生は存在するんだ。
弱者男性論が多少は盛り上がってきたけど、「これは女をくれという意味ではなくて」というのを何重にも重ねないといけなくなってんの、ダメでしょ。
弱者男性側に肩入れするブクマカも、HN出してコメントする奴は大体「女をあてがえなんて思ってるやつはほとんどいないだろ、だから弱者男性論はあてがえ論だと黙らせるのは不当」みたいな言い方ばかりになってるの、ちょっと待てい、って感じよ。
何がダメかわかる?
女と愛し合いたい、イチャつきたい、生活を共にしたい、そうじゃないと辛くて仕方ないという飢えを抱え、それが満たされないことで病んでいく男が存在しないことにされるからだよ。
そりゃあ、そういうやつらはいない事にした方が多少は意見の見栄えがよくなって議論で有利になるだろうけど、長期的にやばいっすよ。
フェミニストが議論に勝つために「立派なフェミニストとしての生き方考え方」ばかりを強調してきたら、実際の女たちの多くがついていけなくなって、しゃーないからバッドフェミニストでもアリと言い出したけど効果が微妙という、あれの二の舞になるのが目に見えてる。
恋愛と性愛と生活のパートナーがぶっちゃけ精神の安定に不可欠だというのが本音の、立派でない弱者男性の存在をないことにするな! 叩いて黙らせるな! それは弱者を言論上でも抹殺することだ。
このような話をすると、そもそも男は女がいないと幸福感を得られないと言うのが思い込みで、社会的な恋愛至上主義の刷り込みでしかない、なんて言いたくなる人間は多いだろう。
そして、ロマンチックラブイデオロギーという近代になって成立したにすぎない感覚から脱出すれば楽になるのだ、と。
でも、それってホントなのかな。
現代基準で、恋愛や結婚なしの人が多くて、健康で幸福で持続可能な人生が実現できてる社会って、すくなくない?
昔は簡単に人が死んでたから、ロマンチック不足による孤独な死が沢山あっててもあんまり目立たなかっただけだったりしないか。
「昔の人は粗食で普通だった」とか言うけど実際は平均寿命クソ短くて、現代基準の「健康で文化的な最低限度の生活」のためには粗食じゃなく十分な食事じゃなきゃダメでした、みたいなのと近かったりとかさ。
まあ、これはただの思いつき。
「恋愛性愛パートナー抜きでは、現代社会で男は心が満たされないのだ!」と主張する科学的根拠は、俺にはない。
だが「パートナー抜きでも幸福!」と主張する科学的根拠もない。個別でそういう人間の例はあるが、大多数の男に当てはまるかは別の話だ。
だからとりあえず、「女と仲良くしたい!苦しい!」という感覚を、女の人権を侵害するからと言って即黙らせるようなことはせず、堂々と表現させて、それを専門家なり学者なりが丁寧に聞き取り分析し議論をして、その感覚の理由と、飢えの満たし方を開発すべきだろ、ってこと。
現時点では、「お前らの飢えと不幸は、女でなくても満たされます」と言い放たれる意見は、俺の知る限り、現代社会と人間心理の分析が不十分で、自己啓発精神論みたいなものにしかなってない。
「要は性欲と会話欲と承認欲と金だろ」なんてクッソ雑な切り分け方しかしないから、風俗と友人と仕事と福祉で満足でしょ、とかの乱暴で役に立たない結論になるんだ。
https://anond.hatelabo.jp/20210407023455
↑の増田みたいにな。
「そんなに異性を必要とするのが理解できない」と思うんだったら、理解できないからこそ丁寧に紐解くべきだ。
何か未知の理由により本当に必要不可欠なのかもしれないし、なんらかの代替物でカバー可能なのかもしれない。
丁寧に研究された上でなら、どっちが判明しても世の中の幸福に繋がるだろう。
だが今みたいに雑に「風俗と友人と仕事と金ねハイハイ!」と片づけてるんじゃ、誰も救われない。
現に存在する人間心理を、雑に解釈してズレた解決策を提示するな。社会運動全般に言える事だ。
こんな文章ですら、匿名でなきゃ怖くて書けない程度には、「なんだかんだ言って女と愛し合えなきゃ辛い」という欲望は悪とされて抹殺されかけている。
「俺個人は、女でしか満たされないとは感じないし、女はいらない」って話すならいいけど、「女でしか満たされないと感じる奴はいない、いたとしてもそいつらは自分の欲求を勘違いしてるに違いない」という話にはするな。
道徳的に揉めそうな欲望だからって、抹殺して世の中に存在しないことにはするな。
(悪いとは言わないが)エグい欲望の存在を認め、それを告白することもできる世の中でなければ、対処や救済の方法を考えることができない。
実は俺自身も、かつて弱者男性論の記事を書いた時に、「あてがえ論だなどと批判がくるだろうがそれはズレてる」みたいな主張をしたのだが、今では反省している。
その時の記事は確かに、女と恋愛させてくれという主旨でなかったかもしれないが、女とイチャつきたいという欲求は悪であり僕の記事はそういう悪しき欲求と別物だから読む価値ありますよ、みたいな浅ましい意図があったのは事実だ。
社会問題の多くは人権と人権の衝突であり、議論によって双方の人権をどの程度侵害しあうかという落としどころを見つけることが必要だ。
大体の社会政策は、広くとらえれば○○の権利を削って××にあてがえって内容だと解釈できるし、それでよいのだ。
だから、弱者男性論だって、貧困対策だって、介護だって、広義のあてがえ論になることを恐れてはいけないし、聞く側はそれを非難すべきではない。
広義のあてがえ論だからと内容を熟考せず否定するようでは、税金は財産権の侵害であり、再分配は金をあてがえ論だから廃止しろ、という風になってしまうからな。
生まれた時から特定の宗教を信仰してる人は多かれ少なかれそれを土台にした性格形成をされてると思う。
でも信仰を持たない日本人が寺社仏閣を訪れるのは他の信仰をすでに持ってる外国人が観光で訪れるのと感覚的に似てる。
むしろ自分の神を持ってる人らのほうがよその神への敬意は深そうに見える。
葬式等のイベントにしてもみんながやってるからやらないと立場が悪くなりそうだからやってる。
宗教を持ってる人の信仰心って、宗教アレルギー的な刷り込みを受けてきた信仰を持たない日本人とは温度差がすごすぎるんだよ。別に狂信者とかじゃなくてもね。
「神様っていると思う?」って聞かれて「どーかなわかんない」って流したらめっちゃ驚愕されて説明されまくったり、「日本人は○○教の教育を受けてないから道徳心が無い」とか普通に言われたり、何かというと常にその宗教の教えが会話の中に出てきたり、そういうのを目の当たりにすると信仰を持たない日本人がやってる宗教的な行いは、特定の宗教を信仰してる人のやってるやつとは全然違うなと思ってしまう。