はてなキーワード: ゴールデンとは
たまにいるじゃん「若い女性との関わり方が分からないからキャバクラで学んでる」って主張するオッサン。
アレが最悪な形で開花したのが金章噛奴なんだよ。
多分だけど普段通ってるキャバクラだと噛み跡つけると「光栄~~マジ光栄~~貴方様のお口に含んでいただけるなんて感激~~」とか言われてたんじゃないの?
それを「なるほどね、若い女の思考回路。完全に理解したね」と調子こいた結果今回の奇行が誕生した。
でもキャバ嬢は単にお金貰ってヨイショするのが仕事だから必死に言葉を紡いでお客さんの相手をしてくれていただけで、本当は「きっしょ……ありえねーでしょ……つうかコイツ口くせーな……匂い残ってるわ」と思ってたんだよ。
こういう話すると日本語通じないはてなーは「つまりキャバ嬢のせいってことですか^^火消しお疲れさまです^^^」とか言うんだろうけど、俺、そんなこと言ってないよね?
俺が言ってるのは「キャバ嬢が貰った代金の対価として上っ面のヨイショしたのを本気で受け取っちゃう痛い人がたまにいるんですよね」って話しかしてないから。
2chと一緒で「嘘を嘘と見抜けない人間が、キャバクラを通して若者心理を知ろうとするのは危険」って法則があるのかも知れないね。
たけしの面白さはコマ大数学科や映画、政治を語れる高い教養と不謹慎のギャップにある。
https://thetv.jp/news/detail/129518/p3/
「お笑いは、落差だから。普通の人がくだらないことやるより、有名な賞を取った偉い人がやった方が面白い。だから理想は、ノーベル賞を取った後に、立ちションや食い逃げで捕まりたいわけ。俺が『賞が欲しい』って言ってるのは、偉くなりたいんじゃなくて、お笑いのためなの(笑)」
TVで面白くないのは、たけしの不謹慎ボケにちゃんとツッコミを入れないから。
ひな壇芸人やたけし軍団は、たけしを神格化しすぎて遠慮しがちなツッコミしかできない。
これではひょうきん族のように、たくさんボケを撒いてアドリブから偶然生まれる笑いなどは起きない。
笑いのために偉くなったのに、皮肉にも笑いが生まれないほど権威化しすぎてしまった。
たけしのボケを成立させるには、教養が高くちゃんとボケを笑ってツッコミ出す橋渡しができる人物が必要。
所ジョージ、阿川佐和子、タモリ、さんま などがそれにあたる。
所、阿川は世代が下ながらも、親戚のおじさんぐらいにしか扱ってない距離感が良い。
2人の頭の良さは、たけしを前にその余裕を伺える。
タモリ、さんまも頭はいいのはもちろん、ひょうきん族時代の戦友。
とくにツッコミのスペシャリストであるさんまが一番たけしと相性いいだろう。
ブコメで高く評価されてる、ツービート、ひょうきん族、火薬田ドン、笑っていいともの祝辞などは「事前に用意されたコントや漫才」である。さんまがいないとき、周りがリアルタイムでボケを昇華してくれないなら、コントとして事前準備をすることでたけしの面白さを引き出す。
20年以上昔の世界まる見えだったか「俺がしゃべるほど視聴率落ちるんだよ。しゃべんないほうが数字いい。」と言ってて、そういや世界まる見えも、元気が出るTVもそういう立ち位置だなと、それを自覚してることに変に感心した覚えがある。今でも収録ではツービートばりの下品で不謹慎な毒を吐いてるらしいのだが、さすがに今のTVでは不適切でカットされるそうだ。今の時代不謹慎ネタは厳しい。
では、たけしがいなくてもいいかというとそんな事はない。たけしの数々の芸歴、教養、映画の実績など、演者、スタッフ、視聴者みんなが一目置く存在というのは稀有で、たけしがいるだけで番組の格が上がる。たけしを抜いたらすべての番組は深夜番組レベルに格が落ち、たけしがいればゴールデンに耐えられる。たけしは料理の豪華な器であり、なくてはならない薬味だ。たとえ中身が高級料理でもスーパーのプラスチック弁当箱に入れたら深夜番組レベルに落ちる。それぐらいの実績と格。
親戚のじいちゃんが一生懸命不謹慎な事で笑い取ろうと必死になってるのを「たけしへのツッコミはそうじゃねえだろ! もっと事前に仲良くなって頭バチコーン言わせたれ!」と、心のなかでツッコミながら楽しむのも一興である。
馬鹿ですね。経済危機を迎えても、資本主事は蘇るのです。アメリカが技術力低下と憂う莫迦(例えばゴールデンブリッジは今では作れない、とか言うけど戦時体制になったら喜んで作るし、ハリウッド映画になって一石二鳥)がいるけど、必要になったらアメリカは復興できる。テスラだって、作れちゃうじゃん。
もともとは1930年代の世界恐慌に対して当時の自由主義が対処できなかったから必要であれば財政出動もする、資金循環を意識するケインズ主義が生まれた。
まぁ、ケインズがマクロ経済に一定の規律の上に、資本主義が持続可能である発見はしてくれたけど、景気が良くなるとマクロ経済はゴミになるというのは、新自由主義の始祖となったハイエクとフリードマンがみつけてくれたのじゃないか。
文化人文化人言うけど日本の文化人ってすっげー内弁慶野郎ばっかじゃん
正直そのへんのゲーム会社の名もなき社員のほうがグローバルスタンダード叩きこまれてるよね
落ちぶれたといわれるゲーム業界だけどそのへんはレベルが違うと思うわ
コーネリアスとかまじコーネリアス()って感じだしあげくラーメンズってw
いや、べつにそういう文化あっていいけど、こういう国際舞台に立つ人間の人選としてどうなのって思う人選のレベルっていうのかな
まじで任天堂とかソニーの社員でやったほうがよかったんじゃねーのって思う
めんどくせーなっておもいつつあれで何がいいか悪いかとわかってるよね
視聴率の敵とか言われてテレビ業界に足蹴りにされてたゲーム業界のほうがレベルたけーわ
こういうこと書いたらすぐデッドオアライブとかチェリーピッキングしてきて
「ほーんこれがゲーム業界のグローバルですか~」とか逆張りで言いそうだけどそういうことじゃねーからな
ゾーニングとか現地化とか線引きとかTPOが分かってるっていう意味な
狭い業界で特定層に受けることやってきた業界とは違うのよって話
最近人を傷つけない笑いすごい!とか言ってたじゃん、こういうことすぐいうじゃんお笑いオタクって
でも例えばミルクボーイのコーンフレークのネタなんて「コーンフレークは生産者の顔が見えない」とかで笑い取っててさ
これで人を傷つけないっていう評価してんの?って思ったよね
ミキとかもそうで、何かのネタで顔の話になって、弟が「ハーフ顔だぞ!」って自慢したら兄が「東南アジア系のだろ!」みたいなこと言って
これゴールデンで流すのかよって思ったよね
日本のお笑い、日本のテレビで評価されるってこの程度なんだなって
この程度で人を傷つけない笑いが時代がどうとか言ってるの~?って思った
自覚がないってやばいよ、人を傷つけますって言ってやるほうがまだいいよ
だからさ、こういうこと許す連中の思う人選だとそりゃあーなるよねって思う
インターネットを覗けば、被差別意識を抱えたオタクの怨嗟の声が可視化されるのは今も昔も変わらない。しかし、今その怨嗟が向けられる対象が「陽キャ」に属する人間像がほとんどであるように見えることを考えると、2000年代のインターネットでは、「サブカル」に対して憎悪を燃やす「オタク」が今より遥かに多く存在していた。当時、アニメや映画の話題において、必ずといっていいほど、どれが「サブカル」でどれが「オタク」かという区別をもとにした戦争がよく起こっていた。しばしば、それらは必要性のハッキリしない、無意味な区別だった。思えば、それらの怨嗟は、90年代以前より「サブカル」が「オタク」をいじめ続けてきた歴史の遺産であったのだろう。では、今そうした「サブカル」への同時代的な怨嗟を耳にすることが少ないのはなぜか。21世紀のカルチャーにおいて、「サブカル」と「オタク」は融合した。それには「サブカル」のファッション性が凋落していったことや、「オタク」が大衆化していったことなど、時代の変化が生み出したさまざまな要因が絡んでいると思われるのだが、なんにせよ、現代では、当時「オタク」と「サブカル」に分けられていた二つは、ほとんどその境界を失ってしまったのだ。ここでは、これが精確には融合だったのか、それともどちらかがもう片方に吸収されたのか、はたまたアウフヘーベンかといったことは問題としないけれども、少なくとも、あえてそれらを二分して、お互いに攻撃し合うものであるという風潮は、ほぼ消え去ってしまったのだ。その空気感を端的に描写しているのが映画『花束みたいな恋をした』である。押井守の存在やガスタンクの映像やらを介して惹かれ合い、文芸や邦楽の趣味で共感し合う麦くんと絹ちゃんは、90年代的な枠組みにあてはめると、明らかに「サブカル」のカップルだ。しかし、彼らは宝石の国やゴールデン・カムイを読む。ブレワイを買う。シン・ゴジラをみる。ままごと(劇団)の舞台さえ観に行くような層が、同時にこうしたものをあたりまえに摂取するというのは、90年代の「サブカル」的な感覚ではありえない。まどマギの放送が2017年だった世界線ならば、二人で一緒に最終回に釘付けになったというエピソードがあっても違和感はないだろう。物語の後半で絹ちゃんは自分の好きなものを大事にしながら生きるために、謎解きゲームを主催するベンチャー企業で働く選択をする。ここで絹ちゃんに対比されるのは、物流企業に勤めることで激務に追われ、カルチャーのある生活から脱落してしまった麦くんである。この麦くんに対比される絹ちゃんやかつての麦くんを、「サブカル」かはたまた「オタク」かに分類することは、ここではもはや意味がないし、その必要も存在しない。文芸も映画も音楽も舞台もマンガもゲームも、派閥意識などなくカルチャーに関わる層が、ここでは描かれているのである。繰り返しになってしまうけれども、二人が生きた2010年代後半には、カルチャーにおいて、それまであった「オタク」と「サブカル」という境界はもはやほとんど消滅して、仮にその区別を認めるとしても、好きに行ったり来たりできるし、そのことになんの咎もないという状況になっていたのである。いま、「サブカル」という言葉にアクチュアルな響きがなく、古臭さを伴うのはこうした事情によるものだ。「当時のサブカル」という表現を40代以上がすることに違和感を覚える層がいるとしたら、現代には「サブカル」という枠組みがあえて存在する必要がないということにその理由があるだろう。つまり、「サブカル」という言葉にはもはや、90年代以前に存在したらしい、そして2000年代にほとんど絶滅した様子である、ある種の人々、例えば、大衆文化を回避するひねくれた心根を持っていたり、その一方で「オタク」を見下していじめるような心性ももっている、というのがピッタリなイメージの、そういったかつての人々に対する意味のみしか残されていないというのが、現在の状況であるのだ。
私は過去5年位テレビを見ていないので最近のテレビがどのようなものになっているのか知らないが、テレビが廃れた原因を考察してみた。
結論としては、テレビ以外の娯楽が増えたことが根本的な原因で、そのせいで番組が更につまらなくなり、一部の人が更に離れたことが原因。
まず、テレビ以外の娯楽についてだが、Netflix、アマゾンプライムを始めとした映像コンテンツのサブスクサービスが台頭した。
これにより、人々は好きなときに好きなコンテンツを消費できるようになった。
よって、己の好きなコンテンツを消費するために、その番組が放送されるのを待つテレビというモデルの存在価値そのものがなくなってしまった。
更にYouTubeを始めとした素人の情報発信が増えた結果、コンテンツが多様化し、より個人の好みににマッチしたコンテンツを享受することが可能になった。
その結果、それらのコンテンツを消費する時間が増えてしまったため、テレビを見るために時間を割くこともできなくなった。
それは、2つあると考えた。
2. サブカルなど特定のカテゴリに興味がまだない幼稚園児から小学生
複数の人間が集まる場所ではNetflixなどの個人の趣味に合わせた映像作品ではなく、テレビのようなランダム性のあるコンテンツが必要とされる。
なぜなら、複数人の中の1人がコンテンツを選択してしまうと不公平が存在してしまう。不公平は人間の間に溝を生じさせるので良くない。
私がテレビを見なくなった頃、なぜあなたは日本にいるのか外国人にインタビューする番組や、日本の文化を紹介してすごいと出演者が口々に話す番組が増えたように思える。
なぜこのような番組が増えたかというと、人間は褒められることで快感を得ることができる生き物だからである。褒められて嫌がる人間はかなり少ないと考えられる。
これらの番組は日本人という属性を褒めることで、ほぼすべての視聴者に当てはまる日本人という属性を持った我々を気持ちよくしているのである。
特に複数の人が同時に視聴する場ではできるだけ共通するものを褒める必要がある。それが日本人という属性なのである。
しかしこれらの番組は複数の人がいる場合に見られる程度で本当に日本が好きな人は右翼と呼ばれる人以外にはいないのである。
特に日本人の20代までの若者は政治に興味を持っていない割合が大きい。
よってこれらの番組を見たいとは思えなくなり、若者のテレビ離れが更に進行したのである。
次にメインの視聴者がサブカルなど特定のカテゴリに興味がまだない幼稚園児から小学生になった。
テレビはこれらの子供をおとなしくするために安易で有効な手段である。
この結果バラエティ番組にある変化をもたらしたと考えられる。
以前はエンタの神様、レッドカーペットなど、ある程度の年齢からでなければ理解できないようなお笑い番組が多くあったが、
最近はリアクションで笑いを取る番組が多くなったように思える。
例えば、アメトーーークのゴールデンでやっていた運動神経悪い芸人である。
これは運動神経が悪い芸人を運動させておかしな動作で笑いを誘う番組である。
小学生は運動ができる人間がカーストトップになり、運動ができない人間は嘲笑の対象になるのである。
正直運動神経が悪い事で笑いを取るには限界があり、芸人が以下にしておかしな動作をするかを試行錯誤しているようにしか見えない。
このような稚拙なお笑いで大人(一部を覗いて)は笑うことができない。必死に面白い動作を考えて実行している姿はある意味滑稽だが、お笑いとは違うように感じる。
現在これらの状態からどのように変わっているのかは知らないがテレビに将来性はないと考えている。
事実を伝えるニュースについては正確性という点でネット情報を凌駕していると考えられる。
ただ速度でいうとネットのほうがだいぶ早い。
元増田の見立てと自分の見立ては、半分合ってて半分違う。「朝日や毎日を共通の敵にして叩く」というのは計画的なことではなくて、単に偶発的なイベントだと思う。セキュリティ関連法的にはこれで両メディアの法的責任を問うのは難しく、朝日/毎日叩きの界隈では(サンゴKYのように)長く言及されても、世間的には尻すぼみの話題になるだろう。
増田の書いてることで的を射ていると思うのは、「今後何とかワクチン接種が進む度に防衛省は称賛され」の部分だ。今回の自衛隊による大規模接種プロジェクトには、第一にこの効果を狙った政治戦略・メディア戦略という側面がある。そしてそれは、より大きな政権の目的と結びついている。
そもそもこのプロジェクトはどう始まったか。産経報道(5/17)によれば、1月下旬に「菅義偉首相の「特命」を受け、杉田和博官房副長官をトップに防衛省、厚生労働省、総務省などから集まった約10人のチームが編成された」が、その事実は外部には3ヵ月以上秘密にされていた。理由は「自治体の接種態勢が緩む懸念もあったことから計画には箝口(かんこう)令が敷かれた」からだ。そして「河野太郎ワクチン担当相とは、異なるラインで計画は進められた」。
常識的に言えば、相当めちゃくちゃなやり方だ。自治体側のラインと国側の特命チームラインがあって、それぞれが互いに情報交換せず、箝口令まで敷いて、完全に二重行政のまま進んでいた。しかも自衛隊自身が大規模接種のためのリソースを潤沢に持っているというわけではなく、医療従事者の一部とイベント運営全体はそれぞれ医療系派遣会社と旅行代理店に外注する形になっている。なんでこんな不自然なことをしたのか。
この問題はもっと大きな枠組で見る必要がある。自民党の中枢や国会議員達から見て、今年最大のイベントは何か。それは五輪開催でもないし、コロナ鎮圧でもない。衆議院選挙だ。このまま菅首相が解散を行わなければ、2021年10月21日に衆議院は任期満了となり、総選挙となる。そしてよく知られている通り、戦後に行われた25回の衆議院選挙で、任期満了による選挙は1回しかない(1976年のロッキード選挙。自民は結党後初めての過半数割れ)。支持率が上がる政策をぶち上げてから解散権を行使できるのは政権与党が持つ最大の武器で、逆に任期満了による選挙、あるいはその近くでの追い込まれ解散では与党が負ける、というジンクスが政界には根強くある。
だから自民党は何としても任期満了前に解散総選挙に挑みたい。といって、むやみに「大義なき解散」はできない。党内でも菅降ろしのマグマは燻っていて、スジを整えなければ解散の流れが(ロッキード選挙時の三木内閣のように)党内で押し止められる可能性もある。だから国民に好感されるネタをぶら下げて「国民に広く信を問う」体裁が必要になる。そして今年は、平時では難しいが、今だからこそ「国民に広く信を問う」ことが可能なテーマがある。そう、憲法改正だ。
どういう切り口でやるのか。自民党の憲法改正提案のページでは、4つの項目を「変えたい」と言っている。
このうち一番下の「家庭の経済的事情に左右されない教育環境の充実」については、大きな方向性としては反対する国民は少ないだろう。下から2番目の「参議院の合区解消」は、一種のゲリマンダリング(自党有利に選挙区を改編すること)だ。現在合区になっている「鳥取・島根」と「徳島・高知」(いずれも自民党地盤)を分割することで自民党の議席を増やせるという露骨な党利党略案件で、与党の公明党にも疑問視され、日経でも厳しい批判を受け、産経にすら叩かれるという相当ろくでもない代物だ。これはこれで厳しく批判されるべきだろうが、いま注目すべきはその上の2つのほうだ。
これは後期の安倍内閣が目指していた「自衛隊明記改憲」という奴そのまんまだ。統計の取り方で国民の賛否がかなりブレるこの案件だが、新型コロナのワクチン接種に自衛隊を担ぎ出した時点で、勝負はほぼ決まった。各自治体のワクチン接種が(主には国側のロジスティクスの問題で)遅々として進まない中、国と自衛隊が大規模接種をアレンジして、1日100万人の接種水準を達成する。計画通りに行けば、高齢者たちは国と自衛隊に大いに感謝し、国民全体に「やっぱり自衛隊を大切にしよう」という雰囲気が醸成されていくだろう。
おそらく内閣と岸信夫防衛大臣はこのゴールを見据えて、ワクチン特命チームPT以外にもさまざまな仕込みをしてきた。岸大臣が就任した去年末頃から今年5月にかけて、民放テレビ枠で自衛隊の露出が確実に増えている。防衛庁・自衛隊の全面協力による番組コーナーが、ゴールデン帯で何度も放映されている。これまでの自衛隊では情報公開を渋ったような基地構造や訓練・兵装なども惜しみなく紹介し、番組側は「初潜入」「初公開」を謳って大々的にアピールする。元旦放映の「鉄腕DASH!」、幾度となく自衛隊をフィーチャーし、岸大臣自らも出演した「沸騰ワード」。さらに今日(5/24)は「深イイ話」で護衛艦「やまぎり」トップ女性艦長の密着取材をやる。おそらくあと3ヵ月程度は、こういう防衛庁・自衛隊のメディア露出が続くだろう。
防衛省・自衛隊が機微な防衛関連情報をネタにして番組制作者を惹き付け、「選挙まで最長でもあと数ヶ月」という今のタイミングを狙って、国民と自衛隊との接触機会を高める。人間は接触回数が多い対象に親しみを感じるようになることが知られている(ザイアンス効果)。「親しみやすい自衛隊が、コロナの制圧でも頑張ってくれた」。「ワクチンを打ちに行ったおじいちゃんに、自衛隊の人が敬礼してくれた」。こういう風に感謝と感動と親近感をトリガーする建て付けさえ成立していれば、多少のアラはどうとでもなる。
新型コロナウイルス感染症の第4波拡大と変異株の急増に伴って叫ばれるようになった「私権制限」がここにつながる。「今の国や自治体の権限では効果的な営業抑制や人流抑制ができない。法的な根拠・正当性をもって、ロックダウンをはじめとする強力な感染症抑制政策を実施するには、こうした緊急時に一定の私権制限を可能にするような憲法改正が必要だ」---5月になって、そんな議論が盛んにされるようになった(たとえば、いま話題の高橋洋一もこんなことを言っている)。
私権制限論については橋下徹や吉村府知事など大阪維新筋が積極的に発信しているが(ちなみに高橋洋一も政策工房経由で大阪維新と繋がっている)、政府・与党も折に触れて「現在の政府権限では、これ以上の対策は無理」という言い方をしてきた。もちろん感染拡大は一面では政府の失策でもあるのだが、エクスキューズとして「私権制限ができないのが悪い」と言い張れば、国民の不満の矛先は、政府の失策ではなく法の不備、つまり「現憲法における強すぎる私権保護」に向かう。実際、変異株が急増して切迫感が高まるとともに、私権制限をめぐる国民感情は明らかに「NO」から「YES」に傾きつつある。
こう考えてみると「合区解消」以外の3テーマについては、過半数の国民が「YES」と考えるような情勢が整いつつある。国と自衛隊主導でのワクチン接種拡大が「自衛隊明記論」を後押しし、変異株感染の増加と医療逼迫により「私権制限導入」が現実的選択肢として受け入れられていく。平時には国民の賛同を得るのが難しい私権制限論だが、コロナ禍真っ直中の今だからこそ「アリ」なのだ。
残る課題はタイミングだ。高齢者へのワクチン接種が一巡し、パラリンピック(8/24-9/5)も終了した9月中旬頃。おそらく菅義偉首相は衆議院任期満了の1ヵ月前に「憲法改正について国民の信を問う」として衆議院解散に踏み切り、そこで大勝して、自民党改正案の上記4項目を盛り込んだ形で憲法改正の道筋をつける。第二次安倍政権が9年かけても実行できなかった憲法改正を、安倍元首相の実弟の岸信夫大臣、そして昵懇の仲である大阪維新の会をうまく使うことで達成するわけだ。
ただ、このシナリオが成立するにはいくつか条件がある。国と自衛隊による大規模接種プロジェクトが破綻なく進行し、8末までに(自民・公明の大票田である)高齢者層への接種を完了すること。オリンピック/パラリンピックを、形式はどうあれ予定通りの日程で開催すること。コロナのこれ以上の拡大を選挙時点までうまく抑制すること。このどれかが破綻すれば、選挙戦略も大幅に見直さざるを得ない。あとはお手並み拝見というところだが、コロナの推移を見るに、正直かなり暗雲が立ちこめてきた感はある。