はてなキーワード: 21世紀とは
非同性愛者の多くは、普段同性愛差別をスルーしてるわけじゃん。同性結婚を認めない自民党を支持する人が大半で、それが選挙の争点になることもない。
そういう多数派がいざ同性愛を消費するとなったとき、その後ろめたさ、居心地の悪さをキレーに排除するのが「同性愛に偏見のない世界」なんだよね。おっさんずラブ、ユーリオンアイスなどはこの点から俺は嫌い。異性愛の腐女子がこれ等を偏見のない世界で進歩的〜21世紀を感じる〜とか言ってるの見るとムカムカしてくる。ふざけんなよ、と。
逆に、同性愛に偏見のあるおっさんやババアが普通にいて、そいつらが勧善懲悪的にご近所や職場から嫌われてたり、話の流れ的にコイツラ間違ってますねと表現されたら、こういうのを待ってたって思う。
正直よくきく。めっちゃ聞く。
一番無難なのは会合であった女性と結婚したり、年上の人に見合いセッティングしてもらったり、とにかく元から信者の女性を見つけること。これが一番多いし、上手くいく。そもそも創価メンバーが集まる集会に行きまくっているわけだし。
二番目は、外部の女性と結婚するが、宗教関係の改宗は求めない。子供も会合につれていったりしない。むしろ自分が宗教から離れる。創価○世の繰り返しを自分のところで断つ。俺はこれだし、従妹とか血族もだいたいこれ。親が熱心ではないために子供ももとから熱心ではなかった、みたいな経緯によって自然となる。
三番目は、彼女に改宗してもらう。これはね、本人たちには理想だし、俺の親世代は割とこれやってるんだけど、21世紀の今日び、無理だわな。そもそも普通に入信してくる若者が皆無な昨今だもん。行けるわけない。
彼氏は2番目と迷って、3番目の理想が捨てられなかったんだな。
それで別れるなんて、ほんとよく聞いたわ。集会外の男の立ち話で。
まあでも彼氏は彼氏なりに貴方との将来のことを考えようとした結果だった訳で、貴方が好きになる価値のない悪い奴だったとは思わない。ご縁が無かったですね、以外の言葉がない。
それなりに凹んだあと、次の恋に行こう。
世の中には、他人や物事を批判するときに限って、現実とフィクションの区別がつかなくなる人、二次元と三次元を区別しなくなる人、文化と実用を同じ俎上にあげてしまう人がいる。
結局の所、怖いのだ。そうした無自覚な混同に至るのは、自分の理解の乏しい分野が伸長してくることが恐ろしく、脅威に感じられるという、無知ゆえの恐怖に他ならない。
ほとんどの場合、その恐怖は杞憂である。人類の総体は、一人ひとりが認識しているよりもはるかにまともであり、良くオーガナイズされた動きをする。創発のようなものだ。
だいたいのアクティビティは、門外漢が取り沙汰し介入せねばならぬほど悪辣なものにはなり得ない。
バランサーはどこにでも存在する。外野からはそれが存在しないように見えていても。
その領域内の独自のルールが自然発生し、なんらかの形の自主規制に基づいて、守るべきラインが形成されていく。それは動的であり、だからこそ発展していくものだ。
海外の(観光客からみると)おっかないエリアであっても、そこに住み日常を営んでいる人たちがいるのと同じように。過度に干渉したりケチつけたりすべきではないのだ。
世の中のあらゆる人々や物事は、多くの側面を内包している。その側面一つ一つごとに発展の度合いも方向性も異なる。
そのうち一側面の要素を一つの尺度で「ひどく拙く粗野だ」と詰って発展段階を批判したとしても、その主体の価値がそれだけで毀損されることはない。
けれどもそれが可能であるかのように誤解させ、一事が万事のように誘導し、その主体そのものを潰そうと息巻く人々が、事あるごとに出てくる。
それは、前述のように恐怖からくるのだが、同時に、疲れているのだろう。疲れている人がたくさん居るから、そのような一つの現象を生むのだ。
世の中が多様になりすぎて、受け入れるだけのキャパシティを超えてしまった人たちの、許容疲れなのではないか。
疲れている人とそうでない人とでは、その視野も認知能力も噛み合いようがない。それが理論の屈折と、議論の非建設性を増長することになる。
この「許容疲れ」の解消こそが、21世紀の課題だと私は思っている。モダンでありながら生きやすい社会のために。
今までは、そのキャパシティは物質的(経済的)にも精神的にも余裕のある成熟した人でないと拡張できなかった。
単にインターネットを通じていろんな立場の人の声が聞ける・読めるようになった程度では、人々の意識の器は拡張されなかった。
むしろ、一気に大量のタスクを渡されたせいで混乱しカリカリと殺気立っている人、のような状況に陥っている。
インターネットがより意識の低い一般大衆に浸透すればするほどその傾向が強まってきたように感じられる。半端に意識を高められ、排外排斥および他責思考が強まっている格好だ。
これは過渡期的な、一時的な現象だろうか。いや、そうではないだろう。
おそらく、インターネット、ハイパーテキストの先にはソリューションは存在しない。
情報通信の分野の中にはあるだろうが、まったく異なるプロトコルによる情報摂取体系の普及が必要になるだろう。
多面的でファジーな意識を、負荷なく脳に取り込む――可能ならば他人の脳そのものとリンクして、認識を統合する――
仮にそれをHCTP、ハイパー・コンシャス・トランスファー・プロトコル、と呼ぼう。
それが実現したとしたら、どのような形で運用されるだろうか。
氷1300tで選手冷やす 五輪暑さ対策、全容明らかに - 東京オリンピック:朝日新聞デジタル
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASMCF6JXWMCFUTQP019.html
中山トンネルは高崎駅と上毛高原駅の間にある長大トンネルのひとつ。トンネルを掘っている途中で水が止まらなくて掘り進めなくなり、トンネルを曲げて貫通させた。そのため、半径1500mの急なカーブができて160㎞制限。大清水トンネルの下りでつけた勢いもここで一気に減速。スピードアップのボトルネックになっている。東京から300㎞の新潟より、350㎞の仙台のほうが早く着くマジックはここにある。ちなみに新潟-東京の最速列車は1日1本の看板列車で1時間37分。仙台-東京は毎時走っているはやてで1時間30分。ほとんどは2時間以上かかっているので、とってもゆっくり新幹線なのである。
A特急料金から新幹線特急料金への急激な値上げを緩和するために、上越新幹線はしばらくの間、割引された。格安航空会社などない時代。羽田-新潟線はあっけなく白旗を上げ、東京への空路は早々になくなってしまった。新潟から真南に飛べば、最短距離で羽田に到達できるはずだが、横田空域の関係で福島の太平洋洋上を迂回するルートを取っていたため、時間がかかっていた。中越地震による上越新幹線の不通時に空路は一時的な復活があった。片道15000円。
開業時に導入された車両。3列席が車両の中央を境にしてそれぞれの進行方向に固定されていたので、後ろ向き走行を体験できる不思議な車両。0系にもそういうのがあったので、シートピッチ的に3列席が回転できなかったのは、当時の風潮なのだろうか。昭和の車両が21世紀になっても走り続けることになる。最長は2012年で30年走り続けた車両もあった。
2階建ての詰め込み編成がちょっとだけ登場。依然として主力は200系。
北陸(長野行き)新幹線がオリンピックとともに開業したころ、北陸(長野行き)新幹線にはE2が集中配置。お情けで朝の東京行きのノンストップ便にE2が一編成だけ登場。2004年に召し上げられる。
なりもの入りで登場したオール2階建て新幹線。東北系統でミニ新幹線との併結運用をこなし、大量輸送をしていた。しかし、鈍足があだとなり、全車が上越へ左遷。200系とE1の時代が続く。
200系の後から導入された車両は、内装を取り換えて、塗装をやり直して、21世紀風にした車両。なんと3列席が回転するようになり大躍進。東京駅のホームで東北や長野の新しめの車両に引け目を感じた。E2に乗りたい人生だった。
8両の短い編成で登場。座れないはずれ車両のイメージがあった。特に2階の自由席は切ない。指定席車両が自由席になっている車両がねらい目だった。何も見えないない車窓と引き替えの静かな1階席。
100系の先頭デザインを拝借した仕様。東北新幹線では、2階建てグリーン車を含むフラッグシップ編成だった。2階建てグリーン車を抜いて上越へ左遷。先頭のデザインがカッコいいだけで、中身は何の変哲もない200系だった。
(・〇・)
E1を追い出した東北に登場したオール2階建てE4も結局はお払い箱。E5が出たころにスピードアップの足枷となり、上越へ左遷。
8両編成+8両編成の16両でピーク輸送に活躍。必ず座れるのでオール2階建て16両にはメリットがあった。2011年に2016年に全廃と新聞発表されていたが廃車するする詐欺が勃発。長野の車庫の水没でさらに延命されるのか。
専用色に塗り替えられたおさがりがようやく廃車に。
リニューアル工事で10年あまり延命した200系がようやく廃車に。
北陸(長野行き)新幹線開業時に指をくわえて見ていたE2がやってきた。そのとき、北陸新幹線にはE7、W7が導入され、北陸(長野行き)のE2は廃車になっていたのであった。上越にきたE2は、東北で使っていたE2で窓が2つつながっている1000番台。またもや一世代前のおさがりの登場だ。
ついに上越に新車が入る!ドンドン増備される!開業時の200系登場以来、まともに新車が入らなかった上越新幹線。県民の喝さいを浴び、朱鷺色の専用帯を付けての登場だった。だがしかし、長野の車庫の水没による10編成ロスト。E7の増備はおあずけに。E4とE2の天下はしばらく続くのであった。
現象判断のパラドックスは「心的現象には対応する物理現象が必ず存在する」で完全に説明できるにも関わらず、なぜパラドックスと言われ続けているのでしょうか?
この問題が現在も「パラドックス」として扱われているということは、この説明を受け入れない人たちが一定数居るということだと思います。
彼らはどのような理由でこの説明を受け入れないのかを教えて下さい。
100年前であればともかく、21世紀の現在に上の説明が誤りであり、対応する物理現象が存在しない心理現象があるといった主張をまじめにする人が多く居るとは思えません。
※哲学的ゾンビは「対応する心理現象が存在しない物理現象は想定可能」という話なので、上の主張とは異なる。
またもっとも簡単に思いつく理由は「直感と一致しない」ですが、世界の法則が人間の直感と一致するとは限らないというのは様々な物理法則で示されていることであり、これも議論を生き残れるような根拠とは思えません。
# これはどこに投稿するのが正解なんだろう?
共和制日本は思考実験としては面白いかもだけど、現実的にはかなりハードルが高い
現時点での皇室及び神道の支持と影響力を考えたら、象徴天皇制をもつ日本国憲法は天皇を公権力で縛ってると考えられる
だって、制度としての皇室がなくなったとしても皇室の人たちは残るしその皇室が祭祀として君臨する神社が全国津々浦々にある
下手したら、竹田某を担ぎ出して征夷大将軍とか名乗る武力勢力が勃興することだって全然ありえる話なのさ
となると、神道の禁教化はもちろん、皇室の方々には国外退去&入国禁止だけでは事足りない
もれなく処刑しなきゃならん
傍系や旧宮家、ないしは遠いむかしだろうと天皇家の血が入ってる公家、武家も、藤原系も徳川、島津、毛利も。神主や古刹・名刹の門跡家系にもいるよね
そりゃあもう大殺戮よ
そこまでしなきゃ絶対に天皇の権威を担ぎ出すものが現れて少なからず日本の安定性は脅かされる。もしくは完全に破壊される
もちろんそんな外道が21世紀の国際社会に許容されるわけがない
江戸時代の終わりあたりにやっとけばまた違ったのかもね
まあ共和制日本を考えるには時期が悪い、タイミングを逸してしまった
もうここまで来ちゃったら伝統を守ってるとか以前に伝統という建前を纏わせてでも制度を維持しなきゃならんのよ
他のコメにもあるように、自然消滅を待つしかないのかな。多分しないけど。前述のように血脈散らばってるし
パソコンが全くない時代は知らないけど、パソコンが部署に1台とかの時代に就職した。
うちの業界は機械化が早くから進んでいたが、昔の時代の機械投資が大きかったせいもあり、パソコン等のダウンサイジングされた
OA機器が導入され始めたのはWindows95以降、一人に1台配布されたのは21世紀になってからだった。
といっても、業務効率化のために使ってるのは1日のうちのほんの少しであり、あとはパワポやエクセル方眼で資料を作ったり、
相手先への文書の清書をするための機械としてしか使っていない。鉛筆と消しゴムより時間はかかっている(完成度は上がっている)。
効率が上がっていないということはないが、パソコンならではのことをしているのかというと疑問だ。
もちろん電子メールやインターネット、共有ファイルサーバは確かに便利で恩恵を受けている。
問題は、仕事の仕方がパソコンがなかった時代のやり方にあまりにもこだわり続けていることだ。
パソコンのない時代はどうやって仕事してたの?ではなくパソコンを使ってパソコンがない時代と同じような仕事をしている。
非効率の極み。
元増田です。皆さんトラバで参加いただきありがとうございます。
さて、正解は「2」だそうです。なぜでしょうか?
元ネタ記事からの孫引き(『芸術新潮』2003年6月号「ヴィクトリア朝の闘うヌード/筒口直弘」)ですが、詳細は以下の通りだそうです。
この2人のヴィーナスが、それぞれどういう場にいるかを、よく見比べてください。レイトンの絵の背景に顔を出す青い海は、おそらく地中海。ドーリス式の柱も立っているし、画面の左下にはヴィーナスのアトリビュート(引用者注・このモチーフはこのキャラクターを表す、という約束ごと)である薔薇の花と鳩が描かれています。
一方のムーアの絵は、そこがどこかも判然としない室内風景ですよね。画面の下に描かれている染付の壷なんて、明らかに1869年当時(引用者注・この絵が描かれた年代)の日本趣味を反映している。
つまり、こういうことなんです。レイトンのヌードは、その場面設定からして、古代ギリシャ世界のヴィーナス像以外のなにものでもない。一方、ムーアのヌードはといえば、画家のアトリエのような室内でヌード・モデルを描いたとしか見えない作品でした。レイトンがヴィーナス像の伝統というものをきちんと踏まえているとすれば、ムーアのヴィーナスは、A
Venusという題名のとおり「ヴィーナスのようなもの」、つまりヴィーナスそのものではなくて、単なる現実のモデルをヴィーナス風に描いたヌードにすぎなかった。
先ほど紹介したムーアの作品への2つの評が変に回りくどい言い方で貶していたのは、この事実を口に出すのがはばかられて、ぐっと呑みこんだ結果だったんですね。だからムーアの絵を見た評者も、本当は「道徳的にやましいところ」を感じていたわけですよ。
(引用者注・ムーアの絵は「あまりにも醜くおぞましいために、その趣味に反対する以外、他に反対しようという気にもならない」「このようなヌード作品には反対しようがない。というのも、まったくもって不愉快きわなりないからだ」といった具合に、具体的に「どこがどう」という指摘ではなく、ヘンに奥歯に物が挟まったような表現で批判されている)
というわけで、この例では19世紀中ごろのヨーロッパ画壇における文脈にめちゃくちゃ依存しているわけです。
21世紀日本という全く背景が異なる我々が理解できなくても、たぶん「まあ、当時はそうだったんだろう」と考えるほかないのかなあ、と個人的には思いました。
上の引用にあるムーアの絵への批判の筆致も、最近の日本でも何か似たようなのをよく見るような気がしますが、人間の歴史というのはこうやって繰り返すものなのかも。
上記リンク先のブログ記事は2010年にまきおこった「非実在青少年表現規制問題」に関連した内容ですが、昨今かまびすしい「表現の自由はどこまで認められるか?」という問題についての観点からも興味深いので、ぜひ皆さんに見ていただきたいです。(というためにこのクイズを投稿したのが半分くらいなので、読んでみてね!)
ネット上でホストファンタジーなどといろいろと悪評を聞くが、自分でやってみないとなぁと思ったので。
ちなみに買ったのはロイヤルバージョンで、1年前に買っていたが、どうにもやる気がでず、1年間寝かせていた。
最近やった他のゲームはアストラルチェイン、FF9、カップヘッドなど。
先に結論を書くと、FF15は80点くらいの作品で、決して悪い出来ではない。良い部分があるが、粗削りな部分があるといった評価とも異なる。
むしろウェルメイドであり、ゲームとしてウェルメイドでありながら、圧倒的なセンスの悪さが、FF15を怪作たらしめていると思う。
先に悪い部分を書こう。
ほぼ前情報なしでプレイしたので、作品オープニングでタイトルとともに、Stand by meが流れたときは、センスの悪さに鳥肌が立った。
自分に忍耐がなければ、電源を落としていただろう。それくらい、21世紀のこの時代にStand by meは気持ちが悪かった。
旅がテーマ、男4人の旅というのは知っていたが、だとしてもだ。
ホストファンタジーという揶揄からもわかる通り、キャラクターは大不評のようだ。
自分は野村ファンタジーにはそれなりの耐性があるものの、全員黒い衣装ってどうなの?とは思う。
あと車の乗り方。ヤンキーか。
終始、画面がシュールな笑いに包まれるのだが、製作者がこの笑いを意図したものなのか、天然なのかがわからず、笑っていいのかどうかよくわからない。
口調は主人公のみ気になったが、それ以外のキャラクターは特に気にならなかった。
100万回くらい言われているのだろうが、駆け足&説明不足。しかし、この原因はあとで考察する。
ファンタジーなのか現代なのかはっきりしてほしい。道路は異常に整備されているが、車の数は少ない。
誰がどういう目的であんなに道路を整備したのか。車は一般人でももてるのか、特権階級だけなのか。
帝国はなぜ空から襲ってくるのか。道路に非常線を張れば、一発で主人公を捕らえられるのにバカなのか。
良い部分
オープンワールドゲームとしてよくできていると思う。地形も良いし、世界もそれなりに広い。
仲間とのパーティがあるオープンワールドゲーとしてはよくできていると思う。特にチョコボの出来が非常に良い。
チョコボに乗って初めて、やっとFF15やってよかったと思った。それまでは苦行だった。
車は、道路を走っているだけなので、個人的にはあんまり良さは感じなかったが、人によっては、あのドライブしている感じを楽しめたのではないかと思う。
オープンワールドゲーでは終始走り続けないといけないので、そこに車によるオートドライブというのは新しい世界の魅せ方だったと思う。
アクションゲームとしても良くできている。特筆すべきものがあるわけではないが、やっていて気持ちよさは感じるのでよかった。
さて、FF15はゲーム部分としてはよくできていて、ストーリー部分は終わっていて、演出とセンスが壊滅的であると書いた。
その理由はFF15のオープンワールド化とこれまでのFFのギャップにあると思う。
基本的にはFFはストーリードリブンのRPGと見做されていた。FF13が一本道とバカにされたように、FFはこれまでストーリーを語ってきた。
そのため、FF15でもストーリーを語りたい、クリスタルや帝国、王家、召喚獣が出てきて、いろいろやりたいという欲望が製作陣にあった。
一方で、オープンワールドゲームはストーリーを語るのに、あまり向かない。または、現状でストーリーを語るうまいフォーマットが生まれていない。
ゼルダBotWでも、かなりストーリー部分は淡々としていた(ゼルダは基本淡々としているが)
オープンワールドでは、どうしても小さなクエストを回りながら、大きなストーリーを進めていくというプレイスタイルになる。
世界には小さな、しかし大量の点としてのクエストがあり、そこを自由にまわりながら、その世界を楽しむことがオープンワールドの面白さなので、
ゼルダであれ、ホライゾンゼロドーンであれ、Falloutであれ、大きなストーリーは、主人公個人の動機に依存する物語で、世界を救う動機ではない。
一方で、FF15の場合は、国と国の間の大きな物語を語ろうとしてしまっている。つまり、従来の線としてのストーリーだ。
すると、この王子は親父が殺されて、国が崩壊しており、もしかすると自国民が路頭に迷うかもしれないのに、ふらふら旅をしているお馬鹿さんになってしまう。
国が滅んでいるのに、シドニーに頼まれて、ワックスを取りに行ってしまう。それ、やる必要ある?とプレイヤーは突っ込んでしまう。
結果として、オープンワールドゲーの楽しさである回り道が、ストーリーにとっての罪悪感を生んでしまい、
どちらを重視するプレイヤーにとってもしっくりこないプレイスタイルをつくってしまっている。これがFF15のゲームとして見たときの一番の欠点である。
もちろんキャラクターが気に入らない、ファッションが気に入らないという感想はあるかもしれないが、
上記のオープンワールドと大きな物語の矛盾こそがFF15を怪作としているところだ。
ノクティスと仲間たちは、戦争孤児で、シドが引き取って育てていた。つまり、ただの村人である。
ノクティスが18歳になったときに、一般人では手に入れることが不可能な高級な車が見ず知らずの人間から送られてきた。
そこには、こう書かれている。「世界を見よ。そして、自分が何者かを知れ」
ノクティスはこれを機に旅に出ることにする。
グラディオラスが言った「おまえ一人では心配だ。用心棒がいるだろう?」
4人の旅が始まる。
旅の途中で、ノクティスは謎の力を手に入れることになる。
その力をめぐって、帝国軍とやりあうことになり、帝国に追われることになる。
たまには幼馴染のシドニーのところに戻って、車を修理したり、彼女のお願いを聞いてあげる。
世界を少しずつ回るにつれて、帝国とルシス王国の争いに、巻き込まれていくこととなる。
おそらくこういう導入の仕方の方が、すんなりと世界に入れたのではないかと思う。
FF15はとにかく惜しい作品なんだけど、インディーゲーや小さいメーカーがつくったゲームと異なり、
開発期間がもう少しあれば、開発資金がもう少しあれば、といった話で解決されるものではまったくなく、
このゲームをどういうゲームにしたかったのかが不明確で、昨今のスクエニのディレクターをやれる人が少なくなってきているのを如実に表していそうだ。
ラジオの曲は名曲ぞろいと言うけど、それは必死にFENを聞いていた世代や深夜ラジオの黄金期に触れていた世代の話だろ。彼らの話ならわからんでもないが、最近のアーティストでラジオを聞いてきた奴なんてほぼいない。マジでいないって。徳永が歌った壊れかけの黒いラジオだってちゃんとイメージできてないだろ。スマホで聞いてる奴がラジオの実物それも骨董品なんざ知ってるわけねえだろ。そんな奴にラジオの何がわかるってんだよ。名曲~泣ける~わかる~とか言ってりゃ済むと思ってんだろうが。聞きかじった話の上っ面をなぞっただけのクソセンチメンタリズムで名曲いっちょあがりってか。ふざけんなよ。もはや若い奴にはラジオの名曲なんて作れない。実際21世紀になってからというもの名曲は出ていない。ジュディマリのradioですらもう20年以上前になるんだぜ?