はてなキーワード: アトリビュートとは
元増田です。皆さんトラバで参加いただきありがとうございます。
さて、正解は「2」だそうです。なぜでしょうか?
元ネタ記事からの孫引き(『芸術新潮』2003年6月号「ヴィクトリア朝の闘うヌード/筒口直弘」)ですが、詳細は以下の通りだそうです。
この2人のヴィーナスが、それぞれどういう場にいるかを、よく見比べてください。レイトンの絵の背景に顔を出す青い海は、おそらく地中海。ドーリス式の柱も立っているし、画面の左下にはヴィーナスのアトリビュート(引用者注・このモチーフはこのキャラクターを表す、という約束ごと)である薔薇の花と鳩が描かれています。
一方のムーアの絵は、そこがどこかも判然としない室内風景ですよね。画面の下に描かれている染付の壷なんて、明らかに1869年当時(引用者注・この絵が描かれた年代)の日本趣味を反映している。
つまり、こういうことなんです。レイトンのヌードは、その場面設定からして、古代ギリシャ世界のヴィーナス像以外のなにものでもない。一方、ムーアのヌードはといえば、画家のアトリエのような室内でヌード・モデルを描いたとしか見えない作品でした。レイトンがヴィーナス像の伝統というものをきちんと踏まえているとすれば、ムーアのヴィーナスは、A
Venusという題名のとおり「ヴィーナスのようなもの」、つまりヴィーナスそのものではなくて、単なる現実のモデルをヴィーナス風に描いたヌードにすぎなかった。
先ほど紹介したムーアの作品への2つの評が変に回りくどい言い方で貶していたのは、この事実を口に出すのがはばかられて、ぐっと呑みこんだ結果だったんですね。だからムーアの絵を見た評者も、本当は「道徳的にやましいところ」を感じていたわけですよ。
(引用者注・ムーアの絵は「あまりにも醜くおぞましいために、その趣味に反対する以外、他に反対しようという気にもならない」「このようなヌード作品には反対しようがない。というのも、まったくもって不愉快きわなりないからだ」といった具合に、具体的に「どこがどう」という指摘ではなく、ヘンに奥歯に物が挟まったような表現で批判されている)
というわけで、この例では19世紀中ごろのヨーロッパ画壇における文脈にめちゃくちゃ依存しているわけです。
21世紀日本という全く背景が異なる我々が理解できなくても、たぶん「まあ、当時はそうだったんだろう」と考えるほかないのかなあ、と個人的には思いました。
上の引用にあるムーアの絵への批判の筆致も、最近の日本でも何か似たようなのをよく見るような気がしますが、人間の歴史というのはこうやって繰り返すものなのかも。
上記リンク先のブログ記事は2010年にまきおこった「非実在青少年表現規制問題」に関連した内容ですが、昨今かまびすしい「表現の自由はどこまで認められるか?」という問題についての観点からも興味深いので、ぜひ皆さんに見ていただきたいです。(というためにこのクイズを投稿したのが半分くらいなので、読んでみてね!)
最近、自分のことを発達障害とかADHDとかいう人多いよね。なんでだろ?昔はそんなに言う人いなかったよね。いや、ほんとうに発達障害やADHDが昔の方が少なかったのか?そういうことではなく、そういう人の割合は変わってないと思うんだよ。なのにやたらと主張する人が多い。何のために主張してるんだろ?「自分は発達障害だから、しょうがない。」と自分にも他人にも言い聞かせてるのだろうか?自分の苦しみを他人に分かってもらって少しでも妥協してもらおうとしているのだろうか? こんなことを書いていると批判される。たしなめられる。「あなたは私たちの苦しみが分かっていない!差別主義者だ!」と攻撃される。そうかもしれない。現代は苦しんでいる人を攻めてはいけないのだ。疑問にすら思ってはいけないのだ。ましてやこんな風にSNSで意見を言ってはいけないのだ。こんな風に他人の苦しみがわからずに、空気を読めずに自分の感じたことをそのまま話すことはいけないのだ。だ・か・ら、自分は発達障害というアトリビュートをアサーションすることによって、自分自身の存在を肯定しているのだ。僕は悪くないと。