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はてなキーワード: 道徳とは

2024-04-19

「加害を受けた者は、世界にその正しさを問うのだろう」

先に宣言しておく

この社会において、加害行為は一切許容されない

どのような理由があろうと、どのような事情があろうと、どのような過去があろうと


道徳責任、いわゆる罪がどこに宿るのかという議論がある

即ち、罪を判断する判断材料意志なのか行動・具体的な影響なのか、である

から誤解を与えないようにもう一度書いておく

具体的な行為としての加害行為については、許してはならない

それとは別の話として、以下の事を書いていきたい


佐藤さんは「彼の一言がなければ確実に生きてなかった」というが、「家族暴言が今も脳裏によぎり、夢にまで出てくる」。

そうすると、平静でいられなくなり、発作的に「ダメだ。価値がない」と自分を責めてしまうだけでなく、SNS(X)で繋がる知人にも被害妄想をぶつける。「そのたびに親交が途切れて後悔する」という。

当時は衝動的に荒らしをしていたというが、一方で「疑問系の投稿にすることで名誉毀損などのリスクは減らせるという気持ちがあった」「私自身がされて一番嫌なことを同じようにしたのではないか」と冷静に当時の状況を振り返る。

また、かつて、家族から受けてきた暴言がどんな名誉毀損侮辱に当たるのか調べていたこともあったという。

――「ライブ配信に2000回以上「荒らし」投稿、にじさんじ所属「ライバー」を活動休止に追い込んだ男性の半生と後悔」より

地獄がある

恐らく、この記事に対して「加害者に寄り添いやがって」のようなコメントが山積するだろうことも含めて、この記事にまつわるあらゆる状況が悲哀と苦痛連鎖から

私は以下の記事を思い出す

自己犠牲とは、「間違ったこ世界への復讐」という意味が込められています

(この場合世界とは、自分以外の全てです。親も兄弟恋人もすべて世界の一部です)

なぜ「復讐」になるのかというと、

日常生活においては、この世界不都合のない世界で、自分の力の及ばない巨人に映るわけです。

かたや自分は、小さな存在腕力経済力もなく、世間からも顧みられることのない人間だと思っています

でもこの子の心の奥底では「この世界は間違っている」のです。

それを証明するためには、「復讐」という方法しかないのです。

この世界自分に送り込んできた使者と対決し、自分の正しさを証明し、相手無能もしくは無慈悲暴露することが、生きる目的になります

この世界自分に送り込んできた使者とは、親であったり、恋人であったりするわけです。

――「第5回新恋愛心理学-自己犠牲という名の恋愛-」より



この記事においては自己犠牲テーマとして扱っているが、構造としては同じであると感じている

攻撃性の方向性が内側に向いているのか、外側に向いているのかの違いに過ぎない、と思う

自分が行った加害行為を罰して欲しい気持ちも、罰して欲しくない気持ちもあるのだろう

加害行為を止めて欲しい気持ちも、止めて欲しくない気持ちもあるのだろう

トラウマは再演を伴う、私はそう思う

「ほら。自分が受けてきたことと同じ行動を今しているぞ。親から受けてきた理不尽だ」

「お前らは平気でそういう加害をしてきたし、見て見ぬふりしてきた」

「だったら、私が同じことをしても何も問題がない、そうだろう?」

「なぜ許されない?だったら、どうしてあの時は助けてくれなかったのか、なぜ酷いことをしたのか」

「何故、何故、何故……!」

そういう怨嗟の声が聞こえる

傷付けてきたもの全てへの、それは問い糾しなの

anond:20240418212609

孤独とinternal dialogueについては興味深い洞察だと思う。

サイコ』のノーマン・ベイツもヘンリー・ダーガーも確かに自分自身一人二役して会話していた。

それが孤独という苦痛ヘの慰めのために行ってるというのはあまり一面的すぎる。

それは『さかしま』、『オブローモフ』が提示するように社交的関係によって発生する苦痛からの逃避としての孤独存在する。『ツァラトゥストラ…』でも最終的には孤独が称賛されている。これらは文化的批評領域であり、現実とは無関係だと思うかもしれない。

だけれども、文化とは文化圏の象徴的秩序を内包しているためフィクションと隣合わせに語られることは常に避ける事ができない。現代でも『ジョーカー』とかその元ネタと言われる『タクシードライバー』がこれら議論に対して抱き合わせのように引き合いに出される。

これら文化批評を取り除けば、他者に対しては振る舞い以上のものを我々は知る事ができない。

仮に合意形成の結果から相手心理状態類推可能なら囚人のジレンマは発生し得ないことになる。

復讐意図弱者男性が持ってるかは動機主観的決定とその不可知性のため客観的な振る舞いからは推し量ることはできない。

そして主観的には人間自己幸福を測り間違える。

これはデイヴィッド・ベネターが統計引用して例を挙げてるが人というのは身体障害知的障害を抱えていても幸福を感じる人々の割合は健常者と変わらない。そして、自己幸福度の位置づけは相対的に決まる傾向がある。

どの立場であれ心理抑制環境によって与えられる不自由さの裏に悪意を見いだせばそれが防衛として他者に対して闘争行動をする動機付けになる。

隷属か破壊かはニーチェが扱っている議論だが、

ニーチェ正当防衛についてこう述べている。

━━正当防衛一般正当防衛道徳として是認されるならば、いわゆる非道徳的な利己主義ほとんどあらゆる発現もまた是認されなくてはならない、人は、自己を保存するためにまたは自己を守ったり個人的な禍いを予防するために、害を加え、奪い、殺すのである(中略)意図的に害を加えることは、われわれの実在または安全問題となる場合には道徳として許容される『人間的、あまり人間的』

そこに合意形成が介入する余地はなく、個々の主観的評価正当防衛基準が決定する。法が予防効果を維持する事を放棄した時、法は犯罪を事後的にしか処理できなくなる。

一方で社会システムに着目すれば、反対者あるいは敵対者は結局のところ対象としている前駆的社会構造寄与している。よって社会機能を一部担っていると言える。《弱者》や《敵》無くして強者価値付けの基礎となる社会進歩前進はありえない。

社会弱者はその機能故に巨視的観点では無くならないだろうし、目に見える弱者としての存在搾取する主体である強者必要としてるからこそ残り続ける。

まり、救っても救っても《弱者》は存続しそれを識別する指標であるスティグマ流行規定するモード存在する限り形を変えて生産され続ける。これは共同体幻想において神に等しい絶対者である絶対者の在り方は超時代的ではない。問題は疎外化された周縁に位置する人間たちがサイコパス/ソシオパスのような生得的悪というレッテルを貼られて尚、否、初めて絶対者剥奪し得ない自由意志による行動決定権が与えられる所にある。(シェリング)

万人は万人を殺す事ができる。野蛮な闘争状態規制しているのは社会報酬である。それが除かれた場合上記行為当事者にとって合理的行動である。ただし、万人が合理的決定を行うわけではない。

しかし何も対処しようがない訳ではない。社会上の功利性の総和を考える時殺人社会的に避けられないものならそれに方向性を与える事は決して無益ではない。これが畜群智慧である

2024-04-17

anond:20240417122119

乳児検診から始まって福祉や税の成り立ちを考えたら、

生きてるだけで誰かに迷惑かかるのが大前提から、「他人迷惑かけるな」なんてデタラメ道徳を信じ込んじゃうの、さすがに普通じゃない

そいつ境界知能じゃないか

2024-04-16

anond:20240416104921

宗教的理由裏付けされた物語というのは手強い

それは子どもの頃から親に寝物語として吹き込まれて、基本的道徳とか倫理観と一緒に頭のOSインストールされる

彼らにとっては「約束の地」を自分たちで治ることが、物語のゴールであり現代の基本地点なんだろう

インストールされた物語を振り払うには思考力と勇気がいる

anond:20240416001241

Xに腐るほど生息する妄想被害者仕草ばかりの日本人女の群れを見て、女の知能や道徳観の平均値ってこんな程度かって下方修正できて良かったよ

勉強になるというか

2024-04-15

anond:20240415202520

すげー奴だな。優しさのかけらもない。想像力も欠如してる。あなた自身憲法で守られてる基本的人権理解せずに、弱い立場の人を貶める発言することは、障害者高齢者にとってとても迷惑存在だと思うよ。あなたみたいに健常者の立場からしものを考えられない人が障害者に目くじら立てて騒ぐから社会が円滑に進まないんでしょうよ道徳テストあったらマイナス1000点

弱者に謝らせて迷惑かけんなよってスタンスの最低人間だな。きっしょ

2024-04-14

anond:20240414232833

近代教育受けられなかったorサボってきた奴らは人間チンパンジーの間くらいの知能と道徳観念から

一度「本物」と接してしまうと、こいつらと共存なんかできるわけないと納得せざるを得ない

もしうまく共存できるとしたらそいつの子供か孫の世代をうまく躾けられた場合のみ

例のEV激推しさんが生成AIだったっぽい件

AIを生身だと思って星つけたりマジ反論ブコメしてたりしてるのを見て

なんかどうしようもない滑稽さを覚えるのはなんでなんだ

俺だけ?

たとえAI意見であっても理路があって反論賛同に値するなら当然問題はないはずなのにね

「生身だと思ってる」感がそうさせるのだろうか

はてのちゃんみたいにAIとわかってて生身っぽく扱って反応したりするのは全くそういう感じがしない

実在しないものをマジに扱うという点では2次元キャラガチ恋するみたいな現象嫌悪感を表明する人がよくいるけど

それはどっちかというと自分の性道徳と比べた倒錯への違和感だよな。

道徳的信念は理路の明晰さとは噛み合わない部分が多いと思うからそれともちょっと違う気がする

理路や道徳観の問題じゃなくて、身体論的な領域というか、生身同士でなければ感情のやり取りはあり得ないという固定観念がそうさせてるのかな

後生AIが参加する言説空間が当たり前になっていくだろうけど

理路整然としつつ感情リブンみたいな反論イイネスターみたいなゼロイチお気持ち表明の在り方も変わっていくのでは?

2024-04-05

anond:20240104033740

日本人犯罪に遭遇しても被害届を出さな

犯罪統計暗数というのだけど、現実に起きた事件の数と警察受理された被害届けの件数には乖離がある。

例えば性犯罪被害者は4%程度しか被害届を出さない、96%は泣き寝入りしていると推測されている。

ちなみにアメリカは50%の被害者被害届を出す

 

我慢美徳と刷り込まれ文化的背景

被害者にも落ち度があるという謎の道徳

 

だけどね、犯罪被害ちゃん公的に報告するべきなんです。

統計上の被害数がカウントされ、その数字社会政策刑事政策が左右する

 

貴方父親のためにも決着をつけるべきだ

正統に法的に、貸し借りゼロ状態にしなければならない

父親社会的に殺すべきだ

それが社会のため、貴方だけの問題ではない

しかしなにより貴方が真に精神的に自立するには決着をつける必要がある

 

貴方は幼少期虐待痕跡日記などに残しているか

裁判では重要証拠になる

貴方覚悟を決めて最後虐待を受けなさい、録音録画して

それを持って警察刑事告訴をしなさい

警察は全力で被害届受理を拒むだろう

(「刑事告訴「と「被害届」は意図的に書き分けています、違いとその意味勉強してください)

家族問題警察が一番嫌がる犯罪類型だから

警察の謎の説得に負けないようにあらかじめ法的な論理武装弁護士の補助も準備しなさい

刑事裁判民事裁判、両方やりなさい、法廷貴方の正当を法的に確定させなさい

頑張ってください

2024-04-03

同性婚で生まれ子どもの嫡出推定ってどうするんだろ

やっぱり同性同士で子どもができたことにするのかな。

もしDNA鑑定基準にしたら、本当の親じゃないとされたどちらかの親が傷つくし生物学上の別の親が不明だった時に子の法律上地位不安定になる。

下手をすれば、せっかく穏便に過ごせているはずの異性婚の家庭まで破壊する可能性もある。

そう考えると、嫡出推定DNA鑑定ではなく、法律上の両親が子どもを作ったことにするしかない。

学校家庭科道徳の授業では、同性同士でも子どもが作れるし法律もそう定めていると教えたい。

同性婚は誰にも不利益なく当事者幸せになれるものなので、せっかくなら法律医学との整合性もつけておきたい。

2024-04-02

障害者って一昔前は「あなたも悪いことしたらああなるのよ」って道徳教材くらいにはなったんだけど、人権意識()の高まりによって、障害者からチー牛にその役割が移った結果、障害者社会に何の役割も果たさなくなったね。それでも障害者雇用枠で低賃金奴隷として使える軽度身障はまだマシだけど、精神障害とか社会負担しかならない。第三者推薦制の安楽死制度を早く導入しろ

2024-04-01

仏教キリスト教イスラム教の違い

仏教

2500年ほど前に生まれ宗教。「生きることは苦しみであり、その苦しみから逃れるにはどうすればよいか」という問題に、開祖は「思索を深めて悟りを開くことで苦しみから解脱する」ことを説いた。僧侶となり厳しい戒律を守ることで悟りを開くことができるとする派閥と、過去悟りを開いた人たちが神のような存在となって僧侶でない人でも助けてくれるとする派閥がある。

キリスト教

2000年ほど前に生まれ宗教。神と開祖は同一の存在であるとする。世界が終わるときに神による裁判が行われるが、開祖が全ての人の罪を背負って死んだので、開祖の言うことを信じて生きれば救われる、と説く。当初から国家によって保護されたので、キリスト教指導者世俗君主との棲み分けがなされ、そのため倫理道徳としての側面が強くなった。

イスラム教

1500年ほど前に生まれ宗教。神と開祖は異なる存在であり、人ならざる神の気持ち推し量ることはできないので、ただひたすら神が命じたとおりに行動するしかない、と説く。また、開祖自身が国を打ち立てた指導者だったこからイスラム教国家政治と一体化しており、その教義がそのまま法律として運用されている。

2024-03-31

厳罰主義宗教

厳罰化による犯罪抑止効果エビデンスがあろうとなかろうと、

北欧をはじめとした厳罰主義見直した国の犯罪減少の話があろうとなかろうと、

厳罰主義絶対的な信念として崇拝されてるみたいだよね、庶民の間で。

「悪いことをしたら地獄に落ちる」というのが自分倫理観の基礎であり、

これを否定してしまうと、自分の中の全ての道徳観の存在破綻する。

そんな砂上の楼閣のような人間観を持った人が大多数なんだろうね。

地獄に落ちない世界線でも人に優しくできる人こそ、本当の優しさを持つ人だと思うんだが。

そろそろ真剣に、日本における「ポリコレ」への反動検討されるべき

反動」という言葉にはマイナスイメージばかり付くけど、揺り戻しとか修正とか微温的な対応ではなく確固たる意志を持った、批判意思抵抗を突き進める立場として私は評価している。

曖昧定義できず、そしてマイノリティの手そのものからすら離れた、奇妙な概念がすでに十数年も猛威を振るい続けている。

SNS上で過大に増幅され、誰もそれを正確に数値化できず(正確にできないのだから「適量」も当然わからない)、ひたすらポリコレ配慮という贅肉にまみれながら膨れ上がり続けている。

日本より立場の弱いアフリカでもラテンアメリカの各国でも、しっかりと「ポリコレ」に対する大衆反動は行われ、メディアが奇妙な論理に捉われていないかの「逆・監視」が行われている。日本でもそれは出来るはずだ。

定義も数値化もできないものに対して、我々は卑近な例を挙げるしかない。

我々の生まれ持った素質や外部から定義される優劣を笑いに転換して何が悪いのか?

本当にその芸能人過去や起した事件舞台を奪われるに相応しいのか?

なぜ「子ども」が関わると様々な表現規制されなければならないのか?

アングロサクソンプロテスタントの一部の道徳基準とその差別歴史からしか発していない基準をなぜアジア日本人が採用する必要があるのか?

地上波で裸体が流れてなぜ悪いのか?

芸能人が顔を黒く塗ったとしてそれはWASPミンストレルショーとは違うものであると何度も説明しているのだが?

そのポリコレを続けたところで、では果していつ、大衆労働者や、地方の人々や、同情されない部類の障害者尊重される日が来るのか?

その大半の人々の癒しや笑いを不明確に奪い続けてきたのがポリコレではないのか?

上述の通りここでかくポリコレとはとても曖昧ものだ。ブームであり、ムーブメントであり、あるいは野蛮人に対する蒸気機関機関銃のような物である

原理はどこかにあるのかもしれないが、それが我々には明かされない。便利なのかもしれないが、ここでは我々を殺す道具にしかなっていない。

そしてそれに対する反発が起きるのは当然である。そして、起きるからには、それこそは明確に「曖昧もの拒否する。我々は我々の、そしてあなた方より広大な基準がある」というものを示す必要がある。

個別の「昔はよかった論」「弱者男性女性論」あるいは「不適切にも程がある論」などを乗り越えて、明確な反動を打ち出す必要がある。

そしてそのためには、ポリコレに対する配慮を全く必要としない、確固たる地盤も持つ必要がある。

数ある「炎上騒動の中でも、自活できる基盤のある会社個人は、そもそも圧力無視するという最高の解決方法を見出せた。これを業界全体、国全体に拡大していく。

そしてポリコレへの反動大衆マジョリティのためのものだけではない。マイノリティのためにもなる。例えば障害者障害者で、「ポリコレ」によって牙を抜かれてきた背景がある。

我々を取り巻いている曖昧空気を取り払うことによって、始めて、例えば映画館交通機関における障害者権利問題も、川崎バス闘争の様に明確に語ることができるようになる。

障害の不便さを笑う芸と、障害者権利異性愛であれ同性愛であれそれぞれの機微ポルノに出来る社会と、性的マイノリティ。男女の裸が平然と流れるメディアと、フェミニズム・男女論。それらは同時に生存しているべきだ。それが我々の社会の強さになる。

今のところ多様性時代がもたらしたことといえば「悪しきもの道徳の上位に配置した」くらいしか思い浮かばなくて、普通にクソだなって思った

2024-03-30

anond:20240330171058

そもそも法律道徳自体が元を辿ればお気持ちだしな

なぜ人間には人権があるのに動物には動物権がないのか?それは人間自分たち動物より特別だと思ってるからにすぎない

法律を作りたければ社会感情的に納得させればいい

納得させられるなら「人を殺してもいい」という法律だって作れる

実際戦争では人殺しが許されるし、死刑安楽死だって人殺しだが国によっては許される

それは社会がそういうお気持ちを持っていたからそうなったんであって、お気持ちが先であって理屈は後からついてくるに過ぎない

2024-03-27

汚言症擁護してる人たち怖すぎる

道徳の授業か?

FIRE以後、自分は人嫌いだと改めて認識しているんだけど、

みんな仲良くっていう教育なり道徳は、

そうしないと経済がうまく回らないからであって、

人間本来の性分としては、人間嫌いも別におかしくないのではないかと思う。


義務教育の何時に来て何時まで勉強しなさいとかいうのは、

そのまま工場工員にもあてはまってきて、至極奴隷的に思える。

こう考えると、今まで受けてきた教育なり道徳奴隷的な身分の秩序を維持するための物でしかなかったと思えてくる。


こういうシステムを考えて作り出した人達意図的奴隷的な階層を用意したんだろう。

そういう雇われの現代奴隷階級自分たちが奴隷だと気づかれると革命犯罪に走る危険性があるからね。


僕はデザイナー崩れなんだけど、人が作った物には作った人の意図が反映されていることをわかっていない人が多いと感じる。

物理法則自然以外は誰かが作った物。

そこには善意も十分に含まれるが。

善意

anond:20240326205021

まり増田は神のことを道徳を語るものとしてしか考えてなかったということ?

文系でも宗教学問の関わりは世界史倫理で学んだけどな

しかしたら産まれときからキリスト教が当たり前の環境いるからこそ気づけなかったのかな

anond:20240327111310

クレカ会社人間味がないっていうか

説得は全く不可能だけど、言葉変えれば通しちゃうような機械みたいな存在だと思われてるからいまんとこそういう対処になってるだけで

もしクレカ会社中の人が出てきて「このような作品販売が許されてはいけません!」って道徳アピール始めたら

めでたく「クレカ会社フェミ」が確定して同じ熱量で叩かれるようになると思うよ

2024-03-26

anond:20240326214755

数十万円使って裁判したら1万円の賠償だったので損したね、という話?

道徳教科書で読んだ話を思い出しちゃうので、それを嘲笑っている方が悪役のイメージになるのだけど。

2024-03-25

相対主義は悪い」というよりも

この間、SNSである議論に参加というか巻き込まれて、私含めた数人の参加者レベル的にそれで結局答えなんか当然でなさそうな雰囲気だったので

「結局これはどっちもどっちってことなんじゃないの。こんなことしてるより別のことをしたほうがいいよ」みたいな返事をしたら

「それは悪しき相対主義だ」「相対主義の皮を被った保身でしかない」みたいなことをある人からいわれた。(「別のことをしたらいい」というのが相対主義?なのかはよくわからん

でもそいつ全然自分意志があるのか怪しい話しか出来てない感じだったが。

しかし、この10年ぐらいの間に、「相対主義はとにかく悪い」という人たちの意見が目に付くようになった。

今日晩御飯の内容からガンダムみたいなアニメ評論日本アジア歴史問題認識の差まで。軽い話題から深刻な内容まで、一つの物差しでそれぞれの問題を計るわけにはいかないにせよ。

でも「相対主義責任放棄であり社会問題の根源~」みたいなことをいう人はリベラル側に結構いる。

資本主義でも社会主義でも、いじめっ子でもいじめられっ子でも、ドリフでもひょうきん族でも、連邦軍でもジオン軍でもなく、相対主義

ほとんどの日本人は6・3・3制の学校で、まあ、社会処世術とでもいうものを学ぶはず。日本人の「思想」「思考」が問題にされるとき、大体学校教育まで遡って批判されることが多い。

でも、私は小学校から高校まで「相対主義」なんて学んだことはない。相対性理論はあるけど。大学でも、ゼミでいろいろやったが、具体的に相対主義とは言わないにせよ「中立的」な見方記述をするようにはいわれた。

我々もそうだったが、年に何十万人の若者が、中卒・高卒大卒のいずれであれ社会に旅立ち、この社会構成する。そしてほとんどの人々は、リベラル派の危機意識からすれば(どう形容していいかからないが)、「相対主義」者ということだ。

学校で、国が定めた教育課程により(理系は一先ずおいといて)国語社会公民・図工美術音楽語学道徳などの授業を6年間や3年間学び、家庭生活も過した人々が、学校を出る時には「相対主義」者として再生産される。

そしてそれは悪いことなのか、私にはわからない。この国は民主主義であり、自由主義であり、自分思想を選ぶ権利があり、その上で、多くの人々は確固たろうが適当であろうが、相対主義選択し、それで別に社会を維持できている。

少なくともこの社会のかなりの部分が、毎年再生産される「相対主義」で維持されているのは事実だ。相対主義者による虐殺であるとか強制収容であるとかも見聞きしたことがない。何がよほどの悪なのだろうか。

逆に、「相対主義であることを徹底的に拒否する教育生活とは何なのだろうか。

私は相対主義への批判を見るたびに、言っている人々の普段言動比較しても、なんだか検閲全体主義に近しい論調だなと感じ続けている。

社会の授業で世界の国々や選挙制度について学ぶときに、ある国は素晴らしく、ある国は劣っていると教育するのだろうか。ではその上で日本立ち位置をどう教えるのだろうか。

ベートーベンの曲を聴いたりピカソの絵を鑑賞した時に、楽譜や色調に現れる技巧は別として、徹底的に「ベートーベン」「ピカソ」の何たるかを国が定義し・教師もそれに盲目的に従い・生徒に刻み付けるのだろうか。

(よく相対主義の引き合いに出される)機動戦士ガンダムを視聴するときに、連邦軍ジオン軍のいずれかが徹底的な善であり対極は悪であると必ず親御さんが傍で「アドバイス」し続けるのだろうか。あるいは制作時まで遡って指図されるのか。(ゆうきまさみがそんな漫画描いてたな)

相対主義決断責任拒否かもしれないが、では非・相対主義決断責任日常的な強制にはならないのだろうか。それは反世俗主義的なカルトや閉鎖的な集団思考(例えばエホバの証人、旧統一教会搾取目的とした自己啓発セミナー戦前日本政治など)とどう違うのか。

これらの集団若者二世三世信者に対してどう当っているのかも含めて。

もっと言ってしまうと、リベラル的なさまざまな批判や許容の精神は、人々に曖昧に巣食う相対主義という岩盤の上で存続できているのではないか

長々と書いてしまったが、私としては、相対主義であると言われることは受け入れた上で、それが悪いとか変わるべきだとする思考には至らなかった。

ただ考える中で、他の問題も含めて、「教育・学制」というものはかなり意識する必要はあると思った。

毎年、「相対主義」であり、「自民党を『安易に』支持」し、「映画音楽を『表面的』に」しか鑑賞できず、あるいは「胡散臭いやり取りを『プロレス』、くだらない文章を『ポエム』と呼ぶ」大衆再生産されている。

そして大学教授活動家いくら「再教育」しようとしても改まることはない。果してこの毎年の大衆再生産の渦とでもいうもの「悪」「間違い」なのだろうか。

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