2024-03-31

そろそろ真剣に、日本における「ポリコレ」への反動検討されるべき

反動」という言葉にはマイナスイメージばかり付くけど、揺り戻しとか修正とか微温的な対応ではなく確固たる意志を持った、批判意思抵抗を突き進める立場として私は評価している。

曖昧定義できず、そしてマイノリティの手そのものからすら離れた、奇妙な概念がすでに十数年も猛威を振るい続けている。

SNS上で過大に増幅され、誰もそれを正確に数値化できず(正確にできないのだから「適量」も当然わからない)、ひたすらポリコレ配慮という贅肉にまみれながら膨れ上がり続けている。

日本より立場の弱いアフリカでもラテンアメリカの各国でも、しっかりと「ポリコレ」に対する大衆反動は行われ、メディアが奇妙な論理に捉われていないかの「逆・監視」が行われている。日本でもそれは出来るはずだ。

定義も数値化もできないものに対して、我々は卑近な例を挙げるしかない。

我々の生まれ持った素質や外部から定義される優劣を笑いに転換して何が悪いのか?

本当にその芸能人過去や起した事件舞台を奪われるに相応しいのか?

なぜ「子ども」が関わると様々な表現規制されなければならないのか?

アングロサクソンプロテスタントの一部の道徳基準とその差別歴史からしか発していない基準をなぜアジア日本人が採用する必要があるのか?

地上波で裸体が流れてなぜ悪いのか?

芸能人が顔を黒く塗ったとしてそれはWASPミンストレルショーとは違うものであると何度も説明しているのだが?

そのポリコレを続けたところで、では果していつ、大衆労働者や、地方の人々や、同情されない部類の障害者尊重される日が来るのか?

その大半の人々の癒しや笑いを不明確に奪い続けてきたのがポリコレではないのか?

上述の通りここでかくポリコレとはとても曖昧ものだ。ブームであり、ムーブメントであり、あるいは野蛮人に対する蒸気機関機関銃のような物である

原理はどこかにあるのかもしれないが、それが我々には明かされない。便利なのかもしれないが、ここでは我々を殺す道具にしかなっていない。

そしてそれに対する反発が起きるのは当然である。そして、起きるからには、それこそは明確に「曖昧もの拒否する。我々は我々の、そしてあなた方より広大な基準がある」というものを示す必要がある。

個別の「昔はよかった論」「弱者男性女性論」あるいは「不適切にも程がある論」などを乗り越えて、明確な反動を打ち出す必要がある。

そしてそのためには、ポリコレに対する配慮を全く必要としない、確固たる地盤も持つ必要がある。

数ある「炎上騒動の中でも、自活できる基盤のある会社個人は、そもそも圧力無視するという最高の解決方法を見出せた。これを業界全体、国全体に拡大していく。

そしてポリコレへの反動大衆マジョリティのためのものだけではない。マイノリティのためにもなる。例えば障害者障害者で、「ポリコレ」によって牙を抜かれてきた背景がある。

我々を取り巻いている曖昧空気を取り払うことによって、始めて、例えば映画館交通機関における障害者権利問題も、川崎バス闘争の様に明確に語ることができるようになる。

障害の不便さを笑う芸と、障害者権利異性愛であれ同性愛であれそれぞれの機微ポルノに出来る社会と、性的マイノリティ。男女の裸が平然と流れるメディアと、フェミニズム・男女論。それらは同時に生存しているべきだ。それが我々の社会の強さになる。

  • アメリカ人がやってんだから我々名誉白人もやるべき

    • そして日本は「名誉白人」という言葉に尻尾を振ってよだれをたらし、アパルトヘイト下南アフリカの最後の大手取引国家の一つとなるのだった(もう一つはイスラエル)。 白人のポリ...

  • 反ポリコレって一瞬流行ったけど 結局アンチフェミの方がキャッチーで面白いから廃れたよね

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