はてなキーワード: 苦痛とは
変更案→不快な言動をとられたことにより精神的な苦痛を被ったことに対する賠償を求めて、ジャイアン側がのび太に損害賠償請求を行う
検討事案②:スネ夫の自慢話を聞かされたのび太が悔しがってスネ夫に報復を行う
変更案→自身の行動を模倣されアイデンティティを毀損されたことに対する賠償を求めて、スネ夫側がのび太に損害賠償請求を行う
検討事案③:しずかちゃんのお風呂を覗いたのび太がお湯をぶっかけられてトホホな被害者ヅラをする
変更案→自身の裸体を性的搾取されたことに対する賠償を求めて、しずかちゃん側がのび太に損害賠償請求を行う
言ってみれば弱男のチー牛だからこうなるのか。
ひどいね令和。
生きていると、
嫌なことばかり起きる。
自分が嫌な思いをするのは仕方ないと、人のために行動すると、
迷惑だ、関わるなと
忌避される。
極力、誰とも関わらずにいると、
蔑まれる。
どうしようもないのだと、首を括ろうものならば
馬鹿な事をするなと
罵倒される。
俺はこんなに嫌々生きているのに、
死んでいく奴はずるい。
生きて行かなければ、気が済まない。
――「生きるのは苦痛だ」より
理不尽な強制として産み落とされ、理不尽な強制として生きていく
ストレッサーに対してストレス対処が生じるように、作用に対して反作用が生じるように、
人は苦悩と悲哀を抱え、縛られ、それらの奴隷として生きていく
遠い我らが祖先は、きっと寒い冬の時代に抑鬱状態になっただろう
怯え、不安になり、神経質になり、目の前にいつでも最悪の状態を想定していただろう
だから、生き残った
呪い多き我々は、それでも生きる価値があるとこの世を這いずるだけの人生である
Life's but a walking shadow, a poor player
障害を負い、新しい心と体になり、しかし「以前の自分の連続に生きる自分」としての意識もあり続ける中で、それでも機能低下という現実に向き合い
年を取るに連れて楽しいことが減っていると感じる
感性が鈍くなり、何を見てもあまり感動もしないし興味もひかれない。そして気力もわかない
健康面でも不安な項目がちらつきはじめた。なんとなく不調な身体を引きずって毎日生活している
今でこれだったら、更に年をとったらどうなるのだろう、と思って周りを見てみると、高齢者になって幸せそうな例が周りにない
気を付けて見ればあちこちで誰かに迷惑をかけてる老人ばかりが視界に入る
銀行や病院の窓口、レジ、どこかの店員にからんでいる年寄、そんなのばっかり
身体にガタがきて、病気と痛みを抱えて、頭もぼけて、誰にも相手にされなくなって、老齢者の生活のそんな面ばかり目に入るのだが
老人になってしまったらいいことってないのだろうか
そんなにしてまで自分は生きたいと思えない気がする
それって「生物学的に見たときの寿命差は男女で1年ほどしか違わない」という論文で
男のほうが寿命が短い要因は生物学的なものではなく他の因子である、って話だよね?
つまり
「カトリック教会の修道士のように、粗食で、規則正しい生活をし、危険な行動を避けて、禁欲的生活をして、自殺をしないで(カトリック系は自殺禁止)、神様に祈りを捧げて心穏やかに生きるならば
男女の寿命差は1年くらいなので、男も女と同じように長生きできますよ」
ってだけで、テストステロンを捨てて生きたら長生きできるよって話。
ただとにかく新しい人間と会いたくない
友人は少ないながらもいて、会社の人間関係も良好なため基本的に週2〜3は人とご飯を食べる機会がある
それで満たされてしまうので、知らない人と会うのが苦痛で仕方ない
しかも体力がないから土日どちらか空いていたとしても予定を入れたくない
現状が幸せだけど、現状が一生続くとも限らない
もしくはそうなったとしてもぐだぐだ言って何もしない人間なのかもしれない
ただ、4日間暇なら3日目には会いたい人っていると思うんだよね
『(ある程度は読めるが)喋れない、聞けない』から、『TOEIC 815点(リスニング420点)まで、5時間x10か月=1500時間』
大学受験で英語が得意科目だったのははるか昔。喋れない、聞けないから脱却の必要があり、10ヶ月の猛勉強で、さほど苦労なく英語で世間話ができて、ニュースやTEDなら比較的楽に聞けるようになった。日常的に字幕なしの海外のYOUTUBEを見ているし、世界一人気があるというポッドキャスト『The Joe Rogan Experience』も、まだら状の理解ながら、テキストなしで楽しめるようになった。
僕の勉強量と成果のバランスが良いのかどうか、自信はない。勉強時間も、平均したら、一日5時間を大きくは超えないとは思うが、サボり気味だった期間もあり不正確である。
それだけの時間をかけたら、そりゃ、それぐらいにはなるわな、と思う方もいるだろう。
が、『TOEIC 815点』は日常生活においても楽しめる世界が圧倒的に広がるということ以外に、履歴書にも書けて転職やボランティアにも有利らしい。
日本にいるまま、リスニングとスピーキングの力を伸ばしたいと考えている人に役立つかもしれないので、書いてみる。
と、当初考えて、オンライン英会話で、ネイティブとのレッスンを受けまくった。
そのうち、ブロークンで、適当に、喋れることを喋るだけなら、問題はなくなった。
が、文法はむちゃくちゃだし、細かな表現はできない、聞けない。会話がちゃんと噛み合わない。リスニングの能力も、上がった気がしなかった
(◯)カランメソッドで、文法的に正しい英語を喋る訓練をしよう!
と思い、カランメソッドを始めた。ちゃんと学習しようとすると、1回のレッスン時間は、25分にしか過ぎないけど、復習に1時間半かかる。合計2時間。
毎日かなりのフレーズや文を暗記しなければならず大変ではあったものの、効果を直感したので、毎日2時間をカランメソッドに注ぎ込んだ。
(x)アプリ『ELSA』さえやっておけば、発音はばっちしのはず!
「正確に発音できないと、いつまでたっても聞き取れない」とあちこちに書いてあるし、発音が悪いと、簡単な単語が伝えられなくて、会話がたびたびスタックしてしまう。発音を矯正したくて、評判のアプリ『ELSA』を毎日やった。が、ある程度進むと、何度発音しなおしてもOKにならなかったり、文としての発音が難しすぎたりして、限界を感じた。
オンライン教室のインストラクターに教えて貰って、発音矯正の得意な先生に発音を習うことにした。毎日、25分のレッスンを受けた。目から鱗の連続だった。正しい発音の仕方(口の形、舌の位置、息の出し方など)を徹底的に教えて貰った。先生は言う、「正しい発音の仕方を、まず、知ること。知ったとしても、できるできないは、別問題。口の周りの筋肉を思ったように動かすには、毎日の練習を何ヶ月も続ける必要がある。勉強ではなく、スポーツのトレーニングと同じと思え!」
半年ぐらい毎日レッスンを受け、今は、中断して、『ELSA』だけ毎日続けている。(ELSAによる僕の発音は90点)
発音矯正のレッスンは、ネイティブのように喋りたい人が受けるもの、と思っていたが、大きな勘違いだった。正しい発音の仕方をまず学ぶこと。それが大事で、できなくても知ってさえいれば、毎日、ほかのレッスンで英語を喋るときに、そのように発音しようと努力するようになる。
まず、正しい発音の仕方の基礎を徹底的に学ぶことが、大事だなと痛感した。
(◯)Netflixのドラマを全文英文表示させて理解しながら見る
のも、リスニングとスピーイングのよい勉強になった。まあ、とにかく、ドラマは、ノンフィクションやニュースや教材と違って、わからない。子供同士の話しなんか皆目わからず、ほんとに英語かと思いたくなる。でも、字幕なしでドラマを楽しむのは、最上級の難易度。なので、無理せず、英文字幕を表示させて、一文一文、解読理解していく。今は、便利なアプリがあって、英文表示をさせつつ、キーボード操作で簡単に進めたり戻せたりできるので、能率的に勉強ができる。英語のイディオムやスラングの勉強に最適。
(x)重要単語の本の単語や、単語アプリの単語をまるまま覚える
のは、なかなか難しい。いくら単語のセレクトが能率的でも、無味乾燥な勉強になるので、苦痛だし、案外能率が悪い。
(◯)ドラマやオンラインレッスンで習った単語熟語をアプリWordHolicに入れていき、毎日、聞き流す
ドラマから取った単語や熟語は、そのドラマのシーンとセットで頭に残るので、覚えやすい。その単語が、頻出単語なのかどうかはわからない不安が少しあるけど、覚えやすさが勝る。スマホのWordHolicに、現時点で新しく知った単語・熟語を2500語ぐらい蓄積していて、車の運転などのときに、流しっぱなしにしている(日本語→英語の順)。ボキャブラリー・ビルディングには、アプリWordHolicに次作するのが、一番の方法と思う。
僕がたどり着いた勉強法はこんなところ。
5時間x10ヶ月=1500時間は、2.5時間x20ヶ月。1時間x50ヶ月。やっぱり近道はない。これだけの時間を英語に費やすためには、何かを諦めなければならない。
が、少なくとも、これだけの時間をかければ、なんとかなる。
なお、僕は65歳。歳は関係ない。ただし、必要性があったので、頑張れた。是が非でもという必要性があることが、一番大事なのかも。
昨今漫画アニメのエロ表現が過剰に露出していると言われる。それは個人的にもなんとなくわかる。
十数年ほど?前、「ふたりはプリキュア」をGoogle検索すると「ふた◯りプリキュア」がサジェストに出てきてしまうという事実を知った時は、子を持つ親として戦慄した。(ちなみに、増田はふた◯りにはまったく興味がなく、検索なんてしたことがないことは一応念を押しておく。)
インターネットはコミケの18禁同人誌と児童書が横並びに並んでいるような空間なので、ちょっと目線を横に振るだけでとんでもないものが飛び込んできてしまう危険性がある。そういう場で、自分を含めてオタクコミュニティの人間が、「ここはもともと俺らの縄張り」と野方図に振舞うのは傲慢だろう。
「もともと」で言えば、学術研究のためのシステムなのだから、と混ぜっ返すことも出来る。
閑話休題。
上の例のような「セックス」を直接的/間接的に表現することに問題があるのはわかるのだが、ただ「露出の多いキャラクター」のようなデザインの問題には、個人的にいまいちピンと来ないところがある。
例えば「水着を来た少女」のグラビア写真のような構図のもの。これは非常に表現が難しいが、卑猥だと感じるものとそうでないものがある。
単に水着のデザインや構図そのものの問題だけでなく、「アニメのキャラ(派手な髪の色、極端なプロポーションのデフォルメ)」が着てると別に違和感がない、という着こなしの問題もあると思う。
現実の人間で考えても、髪やメイクをバッチリ決めたモデルのような女性が着ている場合と、こどものようなアイドルにお仕着せしている場合では、同じデザインの水着でもまったく印象が違うのは普通だと思う。
そういう点でいうと、アニメ漫画のデフォルメの強いキャラクターがある程度露出の多い格好をしていても、「変なデザインだな」と思うことはあっても、卑猥だと興奮したり嫌悪感を覚えたりすることは個人的には少ない。
もちろん、度を超したものには辟易することがある。特にこのごろは人間の骨格のデフォルメというレベルを超えたようなプロポーションで性的な魅力を強調されたイラストを以前より頻繁に見かける印象があり、デザインのための解剖学を学んだ立場としては違和感を拭えない。
一方で、世の中ではまったく規制されるべき表現とはされないが、個人的には苦手で仕方ないものがある。
表情の描き方だ。
これもまた非常に表現が難しいが、目の焦点が虚ろな(多く寄り目がちな)、まるで薬物中毒者のような表情のキャラクター絵がとにかく苦手だ。
いわゆる「アヘ顔」に近いのだと思うが、こういう描き方が性的な目的の表現を越えて、一般の漫画で「魅力的な顔」を表現するのに使われているのをみると背筋がぞくぞくしてなんともいたたまれない気分になる。(余談だが、これは言うまでもなく成人向け同人誌にありがちな表現の影響によるものだろう。)
個々の漫画を攻撃するつもりはないが、最近見かけた(より微妙な)例で言うと、「税金で買った本」という漫画が、一般向けのお仕事漫画のような内容でありながら、癖の強い表情の描き方で受け付けない。
この作品を特に上げるのは、「下手ではない」ということは確実にわかるからだ。デッサンも仕上げもハイレベルで、絵がとても上手い。ファンも多いのだろう。しかし、その技術力を使って追及している絵の魅力の方向性が、何か作品の物語、設定の方向性とズレているように感じる。
まあ、それで売れている以上は、自分には合わなかったというだけの話なのだが、個人的にはこちらの方が、単なるデザインの露出問題よりも、上の「ふた◯りプリキュア」のようないたたまれなさに近いものを感じる。
と突き詰めてみると、自分が嫌悪感を感じるのは日常的ではない、普通は恋人でもない人のそういう姿を見ないというような部分を露骨に表現された時なのだろう。
単なる水着(薄着)でバッチリ決めた人は、夏になればどこでも見られるし、人間というのはもともと裸なのだから、それだけでなんということはない。
しかし、普通近しい人にしか見せないような性的な部分への言及や、媚びるような表情を描くのは「自重されるべき表現」と感じるし、そういう「描写」(言葉、表情、デフォルメによる強調)を一般的な表現のように持ち出されることが何より苦痛で仕方ない。(これこそ「ポルノ的」と言える表現の条件だと思う。)
とかく「規制」というものはわかりやすく線を引きやすいところでされがちで、だからこそ肌の露出面積のような物理的に判断可能な基準ばかりが先行しがちだが、そういう杓子定規な処置が人間の本当の苦痛を取り除くことは、どこまで行ってもないのではないかなあ。
色々思うことがあったので補足をする
前提知識編
本編
知りたくなかったのに知ってしまって一週間?二週間?が過ぎた。でもまだ引っ張ってる。
半額セールやってたからいつものように推しの出演作をポチっとする流れの中で、ふとレビューのところを見た。
レビューの内容なんか関係なく買う気ではいたのだが(内容関係なく推しは常に可愛い)その時は本当に何となく見てしまった。
そこで見た幾つかの不穏な言葉。
は????
昨年に死んだ???
なんで???
そんな訳ないだろと名前で検索したらTwitterのアカウントが出てきた。が、それはどうやら移行前のものらしく新アカウントがあるらしい。
早速新アカウントを見てみたところ、直近の投稿こそないが今年の投稿はある。ほらみろやっぱりデマじゃん!!!と安心したいがどう見ても本人のアカウントには見えない。恐らく同名アカウントを第三者が取得したパターンに見える。
(なお自分は推しのSNSは見ない主義。完成された推しの作品を見たいのであって、推しと同じ空気を吸いたいわけでも同じSNSを使いたいわけでも無い)
冷静にキーワードを多少工夫して検索したところ、真相というか当時の情報が出てきた。推しが亡くなってしまったのは否定しようのない事実だった。
自分から見て推しは一言で言えば「あざとかわいい」タイプだった。自分の武器を完全に理解し一番望まれているものを出し惜しみなく提供する。メンヘラ的な雰囲気も全て計算された自己プロデュース的なものだと思っていた。しかしSNS等を通じて知る推しの姿はそうではなかったようだ。
推しの最後の言葉の中に、やっと楽になったんだと思って欲しいみたいなものがあった。生きること自体が苦痛と思う人に生を望むのは酷いことかもしれないが、それでも生きていて欲しかった。推しがいなくなるのは、つらい。
検診で女児が服を脱がされている。男性校医の性的好奇心のために。そう思っている方がおられるようだが、そんなことはないと思う。
僕は消化器内科医として大腸の内視鏡や造影検査でたくさんの方のデリケートゾーンで仕事をしてきた。いまも在宅医として日々尿道留置カテーテルの挿入などしているが、そこに何か特別な感情が生じることはない。
意識してきたのは「目の前の患者さんに必要な処置をできるだけ少ない苦痛で」。
もちろん脱がされること自体が苦痛になりうる。羞恥心への配慮は大切だが、それによって診療としての必要条件が満たせなければ結局患者さんの不利益になる。
少し前、AEDを使用する際に女性の胸をはだけることが許されるか話題になった。秒を争う救命処置と胸を隠すこと、どちらが優先されるべきなのか。ここに議論の余地があるとは思ってもいなかった。
救命できなければ問題にされる、救命できても胸をはだけたことで問題にされる、こんな状況で誰が「若い女性」の救命処置に関わろうと思うのだろう。
僕の子供のころは上着を脱いで検診を受けるのは当たり前だった。そこに当人が疑問を感じることも保護者のクレームもなかった。それは検診の意味をみんなが理解していたからか、あるいは医師に対する無条件の信頼があったからなのか。
今は、おそらく医師の視診・触診・聴診・打診に対する信頼度が下がっているのだろう。あるいはそれ以前に医師の人間性に対する信頼が失われているのかもしれない。
一方で診断機器に対する信頼は厚い。保護者の多くは心疾患の除外診断にはエコーを、側弯の除外診断にはエックス線検査をすればいいと思っているはずだ。
これは医師ー患者の双方にとって望ましい状況ではない。しかしこの状況は、近年、医師が日々の診療でカルテ画面見て「患者」をきちんと診察せず、検査結果だけで病気を診断してきた結果なのかもしれないとも思う。
でもこれは医師だけの責任にはできないとも思う。外来に溢れる多数の患者、待ち時間に対するクレーム、診断ミスや処置の合併症に対する訴訟リスク。これは日本の健康保険制度に基づく医療提供体制そのものの問題でもある。
患者と医師の双方にとって最適な診療環境とはどのようなものなのか。医療に対して失われた信頼をどう取り戻していけるのか。あるいは、テックの進化で、もうそんなものは必要とされなくなるのか。
上京してから、友達や地元の恋人が私の家に遊びに来るようになった。
私の家があるのに、ホテルに泊まれって言うのが変なのはわかってる。わざわざ東京まで来て、ランチだけで済ませられないこともわかってる。
汚くてもいいし、もてなしなんていらないから、寝るためだけに来るみたいな人の方が楽だ。遊びに来ないでくれ。
家に来ないでくれ。掃除してないし、世間一般の衛生環境に合わせるのが苦痛なんだよ。なんでそのために前日から家綺麗にしなきゃならんの。自分のテリトリーに入られる不快感もあって、本当に家に来ないでほしい。家族ですら嫌だ。ワンルームだから、自分の部屋に24時間近く他人がいる不快感とでも言うんだろうか。
でも断る理由がない。つらすぎる。友達は好き。どうしたら関係を崩さず上手く断れるんだ。あまりにも来てほしくないから、私から地元に遊びに行ってる。そうすると、次はこっちから行くねって気を使わられる。まじでつらい。
国民の幅広い階層を意識してつくられていて、家族で朝飯とともに一緒に見るNHK朝ドラと、オタク男子だけしか見ない深夜アニメは比較できない。
事実、朝ドラは家族が朝飯の時間につけているので、否応なく見なければいけない。しかし、今回に限らず朝ドラというか日本のテレビドラマは、自分の目からみると演技も演出も画面も全てがわざとらしい上に安っぽく、本当に見ているのが苦痛で仕方がない。どうしても我慢できず、妻にドラマの文句を言ってしまうこともあるが、そのたびに怒られている。
寒いと乳首が勃つって増田で思い出したんだけど、昔、素人投稿系のSM雑誌見てたら「乳首ピアスをつけて冬に緊縛露出プレイをすると、ピアスがキンキンに冷えて乳首が痛くなるし、それは気持ちの良い苦痛ではない」みたいな注釈のついた写真があって、異様に興奮した記憶がある。マゾであっても苦痛の種類は選ぶって言うあけすけな告白に「本物の女」を感じ取ってしまったのかも知れない。
今となっては、素人投稿系は実際はほとんどが何らかの性産業についているプロであることも、注釈も私らみたいな変態を興奮させる為に考えられた虚構であることも理解してしまっているし、そもそもSM雑誌自体が子孫繁栄が不可能なレベルで個体数が減ってしまった絶滅確定種な上、信長書店でもかなり店舗規模が大きいところじゃないと扱っていないから予期していない偶然の出会いもない。
今の世の中は、あまりにも何もかもがつまらなくなってしまった。それでも飯の為に今日も働くのである。もうすぐ会社につくけど、家に帰れるのは翌朝3時かな?裁量権も決裁権も部下もない、通勤・住居・スーツ・技術・資格手当込みで粗20万の管理職は辛いぜ…。
うらやましいな。
自分は増田と同じで私自身も旦那もとくに結婚式したくない派だったけど、親族の希望で2月に結婚式をした。
まじで興味がなかったから、基本的にシンプルにしたけどとにかく準備が面倒くさかった。
周囲からの「おめでとう」は喜ばないといけないプレッシャーに感じて苦しかった。
メイクしてくれるお姉さんやお花を選んでくれるお姉さん、式場のスタッフとのやりとり、仕事でもないのになんでこんなめんどくさいことをしないといけないのかってただただひたすらに苦痛だった。
ウエディングドレスを着たとき、着たことで喜ばないといけないストレス。
言われるがままに歩いて、誓いのキスをして(人前でなんかしたくなかったのに)、誓いの言葉を言って、
手を組むタイミング、歩くスピードや方向転換の場所とか、もうただのお遊戯。
わざわざ金だしてつまんない作業させられて、当日は幸せいっぱいです!ってアピールする苦痛の時間。
いろんな人に「おめでとう」って言われて笑顔で「ありがとう」っていう虚無さ。
ディズニーランド行っても楽しめない人間だから(富士急とかのほうが楽しいと思う)(ミッキーとかの気ぐるみに喜んでる人の気持ちがさっぱりわからない)
五十七番の目はまだ開かれたままで口もそうだった。
しかし最も私に印象を残したのはその顔の白さだった。
以前は青白かったが、今では体を覆うシーツより少し薄黒い程度だ。
その小さな歪んだ顔を見つめるうちに、
台車で運び去られ解剖室の遺体安置台の上に放り出されるのを待つこの胸の悪くなるような遺棄物が「自然」死のひとつの例であるという事実、
礼拝での祈りで願われるもののひとつであるという事実が私を襲った。
そう、そうなのだ。私は思った。
これこそ二十年、三十年、四十年後に待ち受けているものなのだ。
もちろん人は生きようと望む。死への恐怖によって生に留まるのだ。
しかしその時考えたように、今では私はあまり歳をとらずに暴力によって死ぬ方が良いと考えている。
人々は戦争の恐ろしさを語る。
しかし一般的な病のどれかにでも残酷さで匹敵するような兵器が人間によって発明されたことがあるだろうか?
貧しい者の死に様 ジョージ・オーウェル