はてなキーワード: 演繹とは
ソシャゲーは人の金を奪う.
この糞煮込み鍋の如きソフトウェアどもはプレイするためにあらゆる手段でリアルマネーを使わせる.基本無料だから云々という文句は受け付けない.なぜならこいつらが行っているのは実質第一種価格差別であり,それは最も効率よく企業が金を吸い上げるシステムであるからだ.
要するに500円で売り切れば500円以上出してもいいと思う人だけがきっちり500円払うのに対して,基本無料で無限に課金させるようにしておけば,100円くらいなら払ってもいいかなという人が0円ではなく100円払ってくれ,5000兆円課金して全部の絵柄が欲しいとぬかす豚は500円でなくちゃんと5000兆円払ってくれるのだ.500円の価値のものに5000兆円.そういうことだ.
おれはゲームが大好きだ.これまでの人生の少なくとも1割はゲームをしている時間だと思う.それくらいに好きだ.
ゲームのプラットフォームは時代とともに移り変わってきた.昔と比べればPCでゲームをするという行為も日本に馴染んできたと思う.しかしそれ以上に,スマートフォンでゲームをするという文化は日本の奥深くまで浸透している.
おれはスマホゲーを批判したいわけじゃあない.スマートフォンの携帯性や利便性とちょっとしたミニゲームの相性は抜群だし,指一本でプレイできる戦略性の高いゲームもたくさんある.
しかしスマートフォンというハードウェアの制約上,そこには間違いなく限界がある.全てのゲームが,スマホがスマホである範疇で快適にプレイできるわけではないのだ.少なくとも今の技術では.格ゲーやFPSをタッチパネルと指でまともに操作できるとは思えない.おまえらはどうせこの一文に対して「ボクたちはできるもん!ぷんぷん!」などと怒りを顕わにするだろうが,トッププレイヤーがスマホ対CS,スマホ対PCで同じゲームを対戦してスマホプレイヤーが勝つと本気で思っているなら病院に行った方が良い.プレイヤースキルは操作性の不自由を絶対に覆さない.
要するに,スマホでゲームを作る以上実現可能なことには限界があって,それを逸脱しようとしてもまがい物にしかならないということだ.
問題は,この国ではまがい物の方が売れてしまうということである.
ソシャゲー.他のゲームから丸パクリした取ってつけたようなゲームに,いつでも制作サイドで換装可能な絵を適当にひっつけ,あとは0.00000000001%の当たりを仕込んだゴミのような宝くじを実装した,それはもうまがい物としか言いようのない廃棄物に対して消費者が金を払うというシステムがこの国では完成している.笑えるような低コストで笑えるほどに利潤が得られるのだから,近視眼的に金を得たい企業が飛びつくのは必然である.
だがそれは逆に,真にゲームを愛し,真にクオリティの高い作品を世に送ろうとする者を殺す.苦労して作ったゲームが売れない.ふざけんじゃねぇよ.
おまえらがドブに捨てた金で本当に楽しく価値のあるゲームをプレイしようという気になっていたならば,もっとたくさんのゲームがその価値を認められていたに違いない.その機会を奪ったのはソシャゲーという巨悪であり,頭を使わず楽して金儲けをする企業であり,それに金を垂れ流すおまえらだ.
ここ数年この国では毎年E-Sports元年を迎えている.競技的にゲームをすることが毎年毎年毎年毎年ちょっとずつちょっとずつちょっとずつちょっとずつ市民権を得てきた.プロゲーマーの処遇に関してもまあ色々と問題があると思うが,それはまあ本題ではないので誰か詳しい人が語ればよい.
何がダメなのか.ソシャゲーとゲームが同値であるこの国において,ゲームの競技性が向上する余地が存在しないということである.
この存在する価値のないデジタルデブリ達は金さえ払えばゲームをクリアさせてくれる.意味が分からない.お前らは何のためにゲームをしているのか.
おれは人生において金に物を言わせショートカットをすることを批判したいんじゃあない.だがこれはゲームである.敢えて言うがたかがゲームである.たかがゲームで楽をして何が嬉しいんだ.
ゲームの目的は何だ.ゲーム体験の楽しさ,クリアによる達成感,ライバルとの切磋琢磨,プレイヤー内でのランキング,そういったものだろう.その過程にリアルマネーの入る余地があってはいけない.Pay2Winはゲームバランスを崩壊させるし,課金による近道はゲームというシステム自体を否定する.金を払うことが気持ちいいなら募金でもしてろ.
しかしながら,金を払うことでゲームをクリアするのが常識になったこの国では「自らの技を磨き,実力一本で強くなろう,人に勝とう」という意識が欠如してしまうのは必然である.
実際には,日本でも少なくない数のプレイヤーが上のようなマインドでゲームをプレイしているだろう.だがその数は,日本という国のゲーム人口や市場規模と比べると驚くほどに矮小だ.なぜなら未だに大多数が,げーむにまじになることを貶め,金の力で達成感を得ることを生業にしているからだ.これでは優秀な競技プレイヤーが一向に増えないのも当たり前だ.どれだけよい品種でも,畑が干からびているなら育つべくもない.
それでもお前らはお目当てのかわいいおんなのこのために金を貢ぎたいと言うかもしれない.だがその貢いだ金はどこに行くのか.クリエイターではない.制作会社だ.お前がかわいいおんなのこにいくら払おうが,そのかわいいおんなのこに魂を吹き込んだ偉大なるクリエイターはびた一文も儲からない.お前がこれまでに失ってきた巨額の資産は,直接クリエイターに絵を描いてもらうために使ったほうが良かったんじゃないか?
はっきり言って,ソシャゲーを根こそぎ刈り取るのは不可能と言っていい.パチンコに貧乏人どもが狂喜乱舞する国で,ソシャゲーとかいう脳を眠らせたまま金を垂れ流しているだけで快楽を得られるカスのような娯楽が流行るのは致し方ない.
ならばギャンブルに倣って規制を行ってはどうか,となるわけだが,ソシャゲーに対してそれを実行するのは非常に難しい.なぜならソシャゲーとそれ以外のゲームの線引きは非常に難しいからだ.
おれは課金制度を批判したいわけじゃあない.世の中には優良な有料DLC()が多数存在するし,それらには追加的に私財を投じる価値がある.だがそれらとソシャゲーの区別は余りに曖昧だ.個々のゲームを見て「これはソシャゲー」「これはソシャゲーではない」を論ずることはできるが,演繹的にソシャゲーの定義付けを行ったとして多数の例外が出ることはまず間違いない.結果的に課金制度そのものの規制につながりかねない.それはよくない.
そもそも一部を除いてソシャゲーは法に背いていない.お前らは自らの意思で合法的にじゃぶじゃぶ金を落としているのであって,それを理に適った大義名分で規制する術などありはしない.そしてそれらと優良なゲームの追加DLCとの間に線を引くことは,実質不可能である.
ご覧の通り,ソシャゲーはまごうことなきクソである.しかしそれと同時に,おれはそのクソをどうにかする術を何一つ提示できなかった.
結局,ソシャゲーという日本にはびこる病霜に対して,おれはほとんど無力だ.だからこうやって叫ぶしかない.
おまえらは、
今すぐ、
ソシャゲーをやめろ。
意識とは、感覚器官からの情報を統合するために生み出されたもの(らしい)。
統合技術の一つが論理だ。演繹、帰納、数学、他、論理の例いくつかめんどくせえから割愛。
もう一つが信仰だ。意識の方向付け、計測および測量による統合技術だ。なにも神や迷信を信じるに限らない。鉄道かっけえ、熱い友情、琴線に触れるものなら全てだ。
さて、ヒトは感知(入力)、認識(処理)、行動(出力)する装置だ。その各段階での正誤、善悪、好嫌は論理と信仰によって定義される。
論理と信仰は、車軸を共有していない。それぞれが独立しているが、意識は両輪に跨っているので影響し合う。
先日、信仰を否定される体験をした。論理的な破綻はなかったが、意識には相当なダメージがあった。鼓膜は言葉に悪魔が宿っていると警鐘を鳴らし、嗅覚は死の匂いに飛び退いた。
そこで気付いた。
論理とは価値付けるもの、信仰とは意味付けるものではないかと。
意見求む
当たり前だが無から有は生まれないし考察も無から生まれない。ぶっちゃけ考察なんて慣れの問題で誰にでもできる。
ある作品に対して、
お前が思う「すごい」はどれだ。そしてどの能力を伸ばしたい。
1に必要な能力は物語論であって、キャンベルでもシド・フィールドでも石川千秋でもいいからその手の本をいくつか読んでみろ。たとえば貴種流離譚という概念を知っているだけでスター・ウォーズやバーフバリとかの作品の捉え方が変わる。
2に必要な能力はキャラクター論で、大塚英志『キャラクター小説の作り方』や新城カズマ『物語工学論』あたりでも読んでみろ。キャラクター類型という概念を前提に作品に触れてみろ。
3に必要なのは作品読解というよりその作品にあてはめうる「テーマ」について持っている自分自身の引き出しの問題だ。ラブストーリーひとつとっても、恋人未満の二人が恋人になる話、共依存関係が破綻するまでの話、三角関係の話、NTRもの、泥沼群像劇等々色々あるだろう。たとえば、コーマック・マッカーシー『ロード』は火を運ぶというメタファーから「受け継いでいく話」というテーマが読み込める筈で、そこからあの世界観において「受け継ぐ」が「世代交代」に繋がるというのは一つ言える。無数に存在する「テーマ」の類型の引き出しを作れ。
4はとにかく数をこなすことだ。小説なら作者の過去作品・インタビューを全部調べて読み込め。映像作品なら監督・脚本・演出その他諸々(全部とは行かないだろうから最低前述の3つ)の過去作品を調べてみろ。できればインタビューも読め。そして過去作品のなかのどの部分がその作品に共通しているのかを読みこめ。
5はこれまでの全部に共通する「演繹力」を磨け。「この設定であれば、この要素が欠けているのはおかしい」という想像を働かせつづけろ。「このキャラクターがこのような性格をしているのには理由があるはずだから、きっと過去にこういうことがあったのかもしれない」「この作品はこの作品のオマージュなので、きっとこういう展開になる」等々、上記で必要な引き出し全部を使っていけ。
二次創作もそれと同じだ。パターンだ。パターンを考えろ。AがBに対して愛情表現をするとする。どういうアプローチが考えられるか。気持ちを言葉にするかしないか、身体的スキンシップを含むか含まないか、そのときに照れるのか照れないのか、笑顔を浮かべるか浮かべないか、言葉にできないならどう表すか、ものを渡すのか、第三者にのろけるのか、色々パターンはあるだろう。考えて考えて考えろ。そのためには読んで読んで読みまくれ。自分のなかに引き出しを作れ。質は量で担保される。
最近「#私を布教して」というハッシュタグのツイートが頻繁にTLに流れてくる。
アマチュアで活動している人や絵師などが作品をツイートして「RTして宣伝しろ」という主旨のものである。
よく使われる言葉だとは知っている(つもりではある)。
そしてこれが「宣教」、つまり宗教を広めることが由来であることも
理解しているつもりではある。
しかしこれは「その作品を好きな人」が使う言葉ではなかったか。
私はこれを「言葉の誤用」や「言葉の意味の変容」だとは捉えていない。
「宣伝を広告費なしに行うことで物事が歪まされる過程」であると認識している。
そしてハッシュタグとはのきなみ(広告費なしに)宣伝を行う際に多用されるものである。
すでに私は「ハッシュタグ嫌い」になりつつある。
Bボタンを押して望まぬ進化をキャンセルするまで、もうほとんど余裕はない。
しかし誰もこのBボタンを探さないし、押すつもりもない。そもそも存在を知らない。
そして、我々にこの流れを押し止めるような強い力はない。
たとえ嫌悪の怒りを垂れ流したとして、金を求める動きには敵わないだろう。
私個人としては、どのようにハッシュタグを避けていこうかという課題が喫緊となっている。
諦めだ。私は諦めたのだ。この冷めた思いに、金への欲求は火を灯さない。
ぐんねりとハッシュタグにも絡みつく金への有象無象の欲望の炎を、
それは私達が火を触り熱いと感じるからだ。
これは経験的な話になる。
火を触る、熱い、火は熱いのだと言う具合に。火を触らなければ熱いと理解できなかった。
経験から抽象し、経験することを除き、熱さを痛点とすれば火は痛いのだ。
もちろん火に熱した鉄板が熱いということも、鉄板が火を前提にしているわけではなく、鉄板を熱した火を前提にしている。
では、なぜ痛いのか。
これは私には知識がなく語ることが出来ない。
つまるところ、私達は経験的な物事を語っているに過ぎないということだ。
火は熱い、火を触れば分かることだし、大体の人間は火は熱いということを経験から知っている。
火を触ることで発生する、痛いという事象が私達の心の中で発生する。
痛点が無い人間であっても、痛点を持てば感じることができるだろう。
火を触って熱いと感じるか、痛いと感じるかはその本人以外に分かることはないのだ。
火を触って熱いと感じるのが普遍的な事象で、痛いと感じるのはよくわからない。
それは私達が火を触って熱いと感じるかどうかを統計すれば結果は明らかになる。
先程言ったように火を熱いと感じるか痛いと感じるかはまた別なのだが、
多分一緒にしてしまうだろう。
では、火は熱いのか、痛いのか、統計しても分かることはない。
これは言葉の問題なのか、統計の問題なのか、それとも心理的な事象を普遍化する試みが問題なのか
まず、火が熱いのだろうが、痛いのだろうが分けることに意味はない。
タイトルを変えるなら、なぜ火は私達の皮膚に刺激を与えるのか
だが、やはりこの言い方だと痛点のない人を想定していない。
やはり心理的な事象ではなく、外部の事象から考えるべきだろう。
皮膚を熱することでどういう事象が発生するのか、火が熱いことで特有の現象が起き、それが熱い状態だと記録できるかもしれない。
多分、火を熱いということを心理的な事象から普遍化する試みは失敗するはずだ。
心に発生する事象が、熱いか痛いかどちらが生成されるかよくわからないからだ。
もし、熱さを痛みだとしても、何か別の表現をしてくる人もいるかもしれない。
なにか経験論を心理的な事象に反映することを反論したくなってこのような文章を考えてみたが、いまいちか。
それが、まごうことなき真実なんていうことはひとことも言ってない。反証可能な命題を提出しているんだよ!演繹的な数学理論に瑕疵はないけれど、外部環境が常に変化する社会モデルに完全な回答なんかないんだよ。
そうじゃない。社会的影響力を客観的な事実の検証や演繹的な理論で反証するのが、人文・社会科学者の使命だと思ってる。ただし、社会的な訴求力を持たない絶対真理を求めるのことは人文社会科学には無理だと言っているだけ
「人文学・社会科学の国際化について」(独立行政法人日本学術振興会人文・社会科学の国際化に関する研究会 p.73-75)
https://www.jsps.go.jp/j-kenkyukai/data/02houkokusho/houkokusho.pdf
http://sociology.jugem.jp/?eid=277
Laudanの研究伝統論による社会学理論発展法の考察 - J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/57/1/57_1_41/_pdf/-char/ja
日本の社会学には「学説研究」と「理論形成(構築、発展含む)」の2つがある。
「学説研究」とは優れた理論を適切に読み、解釈することである。
「社会学」を欧米から輸入した日本では、この「学説研究」が(すくなくとも2000年代まで)社会学の中心となってきた。
一方、「理論形成」は社会の諸問題(経験的問題)を「以前より効率よく解決する」ためのものである。
創造的で想像力が必要な仕事であり、歴史的にはフーコーやハーバーマスのような一部の天才的な英雄によってなされてきた(英雄史観)。
例えば、新しい人間観や社会観の創造・採用、適切な概念を作り出すことがこれに当たる。
日本でも「学説研究」から「理論形成」へと移行すべき時期なのだが、「どうすれば理論を形成できるようになるのか」というハウツーが世界中のどこにも未だ存在しない。
1970年代のアメリカでは理論構築のためのテキストが数冊出版されており、
1.学説の専門家ではなく,統計や数理モデルに詳しい研究者によって書かれており,
といったものであった。
データの収集・分析が重要であるという考えは社会学の「統計学化」として社会学者からは懸念されていた。
これは理論形成はデータから帰納や命題からの演繹によってのみなされるわけではないからである。
(「社会学の理論の役割」を考える際、統計学化された社会学では認識論や存在論、人間観や社会観などの哲学的な問題が脇に追いやられてしまう)
また、理論を発展させるためには「解くべき問題の発見(未解決問題の発見)」が必要である。
「なにが未解決であるか」「すでに言及している・使える学説はないのか」を知るためには、今までの学説の研究(研究伝統の基本的な文献)が結局のとこと必要となる。
まとめると、社会の諸問題(経験的問題)を解くにはデータの収集や分析が重要であるが、手法の問題(概念的問題)の解決への手掛かりは学説の研究の中にある。
凡人であればあるほど、二兎を追うべきなのである。
(まとめここまで)
他
https://twitter.com/kaya_hojo/status/1049257254552125440
私は研究者というよりコラムニストになりたかったんだな。もともと東浩紀と上野千鶴子、大塚英志や宮台真司に憧れて社会学を志したのだから、研究者というよりは表現者への憧憬が強かったんだろうな。でも社会学を学んだ6年間はすごくキラキラしていて充実していたよ。合掌。
頭のいい人にとっては、当たり前なことなのかもしれない。
損得に訴えた方が、話が早く行動に移してくれることがある。
そんなことを学んだ。
自身は、都会育ちで、中学から大学まで比較的同質な集団と過ごしていた。
みな概ね理性的だし、そもそも似たような集団なので、その中では差別とか偏見とかはほとんど発生しようがなかった。
そのため、昔は、リベラルだとか差別だとか、そこまで興味がなかった。
個人的に親しい友だちが実はLGBTで、家族にもカミングアウトしていないらしく、色々と苦しんでいた事がわかった。
基本男女平等だと思っていたが、女性が多い職場をマネジメントした結果、例えば女性は男性とは違って結婚出産というイベントがはさまる事から、男性とは全く異なるキャリア観を持っている事がわかった。男性と女性を等しく扱う真の男女平等は、女性にとってむしろ行きづらい世の中を作り出してしまうと考えるようになった。
海外に留学して、外国の方やそれぞれの宗教を進行する人と接して、違う価値観を理解した。欧州の移民問題に触れて、移民政策の理想と現実を感じた。
日本に来ている移民の人と接して、彼らなりの希望や苦労を感じるとともに、外国人を極度に恐れる日本人にも会った。
そういった中で色々な記事を読んでいると、最近では、リベラルだとか、極右だとか、様々な言葉があまり定義されずに使われていて、議論がとっちらかっているように感じる。
自身も、断片的に色々と経験したけど、帰納的ではなく、演繹的に全体像を眺めたいと思っている。
セリーナ・ウィリアムズの件は、自身を被害者に仕立て上げて、他社との分断を図ろうとするアジテーションだと思う。
きっとそういった現象には名前があるのだと思うけど、それを自身は知らないので頭が整理されない。
というわけで体系だって勉強したいと思うのだが、これはなんという分野になるのだろうか?
リベラルだとかナショナリストだとか、差別と寛容に関する歴史や思想が体系だった入門書みたいなのを教えてほしいです。
下方婚であきらかに成功している例として自分を挙げたいがもうすでに終わったのとソースを出せないので、
リアタイ例としてhttp://www.kawauchisyun.com/ こちらの主夫さんを挙げておく。
また、勝間和代さん、女性芸能人(覚えてる限りで夫は歯医者など比較的高給とりだけでなく、ADや脚本家などもいる。歯医者にせよさほどの高給取りではないと思える)なども
おそらくすべて下方婚にあたるとおもう。
そのすべてが失敗例とはとても見えない。
(あとりゅうちぇるご夫妻なんかも最初色物扱いで女性のほうがしっかり稼いでいたように見えた。これは逆転婚とでもいうべきか)
勝間さんなど、結局は離婚しているものの、また再婚というかパートナーを見つけて子供を育てている。
旦那さんの意識を変えるのと、自分の属している方の意識を変える簡単な手として、
今は産休・育休を使って将来を見据えたり、あと体にうめこまれた出産ダメージという爆弾を除去してほしい。
だれにとってもこどもという愛しいくびきをつけたままの自己実現というのは難しいけれど、そのすべてが下方婚のせいではない。
これを言うのは残酷なことかもしれないが、あなたよりちゃんとできてる下方婚女性は現実にいる。
だんなさんも「生まれたての子供さえいなければ今すぐにも転職して上方婚状態にしてあげたい」と思っているかもしれない。
話し合うことが第一歩。
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26日の追記みたけど、貼ったリンク先を一個も読んでないよなーと。
ようするに、「男がこんなに気が利かないなんて。下方婚なんてするんじゃなかった」は二重に誤認がある。
あなたの男だけが気が利かないのであって全体に演繹してはいけない。
なので炎上ネタとしては男女ともにケンカを売るという基本的なやり方で成功してますが、
ほんとに胎盤剥離とかしたんならネットなんかしてないでとりあえず寝れば。
親戚に写真送って子守相談できそうな人を探すとか保育園活動とか解禁と同時に注射しまくりとか、別にやるべきことが相当あるわけで。
「最後は力」を認めるならテロリストの論理を裏付けしてしまう。
これは見解の相違。
価値観を覆されてからでは遅い、自分から微修正していくべきと私は思っている。
塩がなくて困る者の憎しみが、商人という属性に向かうのは感情的には理解できるが積極的には肯定しない。また、手元に来ない塩自体を恨むのは違うというは間違いだという立場であることは明確にしておく。
一部の商人(たち)に集中してしまうのは、「塩商人は一部の商人に売るべき」だとか「一部の商人以外には塩は必要ない」とか社会的な規範が原因だったりする。(塩の実際の市場がこうであるということではなく、塩はあくまで比喩である)
また、「社会的な規範」というのも「個人の選択」の集積、結果である以上属性としての批判も免れえないと考える。
私は、その社会規範を壊したうえで自由市場的にすべきであると考えている。もちろん、自由市場である以上、競争は働いて競争に負ける人は出てくるかもしれない。現代日本では、その人たちの救済する手段がなにもない状態であることは間違いない。
なお、個人の選択が集合しても差別にはならない。そこは明確に否定する。差別とは、属性を理由に排斥することであり、選択に正当性があれば結果的に特定の属性が排斥される形になっても認められるべきだ。演繹的か帰納的かの差だ。
聞いておきたいが、「属性」とは何を指しているのだろうか?特定のパーソナリティ(e.gオタク、パリピ)や造形も私にとっては「属性」である。その排斥は許されるのか?
また、「選択の正当性」とはいったい誰が担保しうるのか?それが「社会」だとするならそれは個人の問題ではなく、社会としての差別と言える。個人だとするなら「正当性のない選択」はあり得ないことになる。
私はこの段には賛成しない。なぜなら、自分の望まない相手をあてがわれたくないし、そのデメリットと相手がいないというデメリットを比べると、相手がいないという状況の方がマシであると考えるからだ。
見解の相違は認める。
だが、あなたのいう「デメリット」「マシ」とはあなた個人の感情論であり、それは「女をあてがえ」という個人1人の感情論とイコールの価値しかない。
「他者を納得させられるだけの理由」が人権の条件だとすれば、結局最後は力になるのではないだろうか。e.g南北戦争
そして、「通過点」の議論の素は少しずつ表れて来ている。たとえばそれは未婚率・少子化と言った現象であったりインセルのような暴徒であったり。
フランスの市民革命などみてみれば、納得しないやつを排除するという意味で、最後は力であることは間違いないと思う。
君が「神の見えざる手」を期待しているのだと思っていたが、そうではなかったか。失礼した。
少なくとも私には、議論の素が従来の価値観を覆すものであると確信を得るまでには至っていない。
この論は一面においては正しい。
ある商人が伯方の塩だけを買い占めたとして、ほかの商人がそれぞれ別の塩を買い占めると結局塩は行き渡らない。
塩がなくて困るものの憎しみが「商人」という属性に向かうのは必然ではないか。
「個人の選択」が集合すると「差別」と化すのはこれまでの歴史から見ても明らかではないだろうか。
塩がなくて困る者の憎しみが、商人という属性に向かうのは感情的には理解できるが積極的には肯定しない。また、手元に来ない塩自体を恨むのは違うというは間違いだという立場であることは明確にしておく。
一部の商人(たち)に集中してしまうのは、「塩商人は一部の商人に売るべき」だとか「一部の商人以外には塩は必要ない」とか社会的な規範が原因だったりする。(塩の実際の市場がこうであるということではなく、塩はあくまで比喩である)
私は、その社会規範を壊したうえで自由市場的にすべきであると考えている。もちろん、自由市場である以上、競争は働いて競争に負ける人は出てくるかもしれない。現代日本では、その人たちの救済する手段がなにもない状態であることは間違いない。
なお、個人の選択が集合しても差別にはならない。そこは明確に否定する。差別とは、属性を理由に排斥することであり、選択に正当性があれば結果的に特定の属性が排斥される形になっても認められるべきだ。演繹的か帰納的かの差だ。
私はこの段には賛成しない。なぜなら、自分の望まない相手をあてがわれたくないし、そのデメリットと相手がいないというデメリットを比べると、相手がいないという状況の方がマシであると考えるからだ。