「演繹」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 演繹とは

2020-05-25

anond:20200524164144

神は道なんてものは一切作っていない。

まり迷うという観念自体に大いなる誤解があるのだ。

だがお前は言うだろう。

 でも卵子というのは明確なゴールではないか

 ならば道はそこへ至る経路に限られるはずではないか

答えはNoだ。

そのように行われるものこそが生殖である、と人間勝手世界の再解釈をしたに過ぎない。

世界には無限可能性が織り込まれている。

同時に無限の“非”可能性も内包して、それを決して排除しない。

無限を支える為に逆の無限無限に割り当てられている。

これが神の意思であるところの世界である

具体的な個別事例については各々で演繹されたい。

その処理に耐えられる自信があるならば、だが。

今日の説法はここまでだ。グッナイ。

2020-04-07

戦争戦時もこんな感じだったんだろうか

皆色んな意見を言い、メディアに公開されている情報から演繹的に正しいという人が現れ、

そうだそうだと意見が集約されていき、公開されていない外交などのエビデンスを知ることができない人が多数派なのでブレーキにならず、

国民の声という後ろ盾を得て強権が実行される。


だが強権が振るわれた後の終息時のシナリオは多くの人は描かず、

コロコロ状況で変わる意見に多くの人は責任を持たず、

国のトップが実行したという事実によって自身批判対象から逃れることができる。

2020-03-15

男女の間に友情は成立しない。

この事実は、人類の間に友情は成立しないことから演繹される。

2020-03-04

anond:20200304110636

そこは常識的演繹範疇では? 武漢って言わなきゃセーフなガイドラインとかあり得ないし

2020-02-21

anond:20200221165542

グーグル八分ツイッター凍結基準のほうが先に施行されており影響力も大きいからぜひ参照してほしいしなんならツベもあわせて現実社会演繹してほしいものだね

おわり

2020-01-02

anond:20200102172138

それは認識が間違っていると思う。科学技術は机の上で演繹的に発展していくものでないから。

理由はわからないけど現場で使えるレシピというのが先にあることもある。

2019-12-02

anond:20191202114827

人間本能がないと思ってるの?

演繹的に考察して出した仮説に過ぎないと言いたいの?

2019-10-31

隙間

論理的であることと感情的なことは両立すると思う?

自分自身可能な限り、論理的でありたいし、思考としてはルールありきで、そのルールいかに沿うかが人生において重要なんだなと思ってる。

ルール形成自分できめたいし

論理を振りかざすと(とりわけ演繹的なロジック展開で相手論破的な状況)、論理人間的な感情の壁にぶつかる。

この時間が最高に無駄で、不毛だと思うんだ。

人間感情の生き物だと思う反面、人間こそ知恵を有し、倫理観も有し、論理的に振る舞えるはずだ、と思うと

ものすごく気持ち悪い。

2019-09-24

知識だけではない何か

何気ないセルフィにも意味がある。

帰納法的なアプローチでは、

現時点のコンピテンシーで何ができるかを考える。

演繹法的なアプローチでは

目指すべきキャパティ水準とその能力強化の道筋構造化し、プログラムをつくる。

FEMA方法論が典型例。

その水準についていけない人に対しては、追加の強化プログラムとしてフォローする。

しかし、本当にこれで参加者動機付けられるのかが疑問だ。

脱落者は要件を満たさなものとして外されてしまう。

プロジェクトのコンセプトは演繹的につくられるが、それは既存戦略とほぼ完全に合致していなければ衝突してしまう。

合致したものを目指そうとすればするほど、それはすでに構想された計画ということになり、プロジェクト意味が失われる。

なによりも進捗具合や新たな事情によって、プロジェクトのコンセプトに修正必要になったときに、概念図に影響が及ぶ。

https://www.green.gifu-u.ac.jp/~bhdlab/?p=1391

今月は、古代ローマからスペイン中世までの歴史をふりかえる月間。

(ただし自分だけ)

最近ラテンアメリカ仕事をしていて気が付いたことがある。

それは、概して、彼らはいともたやすく不信感に陥って急に敵意をむき出しにし出すかと思えば、

ほんのちょっとしたこときっかけで、すっかり水に流してまた仲良くなったりする、ある種の単純さ。

コツをつかめば、コントロールやすい人たち(小馬鹿にしているわけではないが。)

上司と部下の関係日本人感覚とはかなり違う。

基本的に対等で、自分にとって契約違反となるような理不尽なことに黙って従う感覚は乏しい。

会社に対する帰属意識(うち)ではなく、契約(見返り)が重要である

これも同様で、つぼを抑えれば文句は出ない。

こういうのって、中世の封建領主文化からきているのかもしれないし

感情の起伏の在り様は、あちこち離合集散を繰り返して戦争を繰り返し、

土地支配者が目まぐるしく入れ替わった歴史にさかのぼるのかな、とふと思ったりした。

日本ロイヤルファミリーは、どこの国とも一切交わらずに千年以上も続いているが、

国家安全保障王室婚姻が密接に結びついたヨーロッパでは、過去を水に流す(アムネスティ)というのはもっと基本的作法なんだろう。

そういう感覚ラテンアメリカでもなんとなく引き継がれているのかな、と。

2019-09-07

行動主義心理学10分で理解する

はじめに

行動主義はJ.B.Watsonが最初提唱した心理学哲学だ。この哲学は、現代では下火のように見なされてたり、あるいは棄却すべき対立仮説のように扱われることが多い。

しかし、実際には認知心理学者、あるいは認知科学者が槍玉にあげる行動主義は、誤解に基づくものか、そうでなくても「その行動主義自称している行動主義者は現代はいないよ」と言わざるをえないような藁人形論法であることが少なくない。

そこで、行動主義誕生から現代的な展開までの歴史について、ごくごく簡単にまとめてみようと思う。

Watson の行動主義

行動主義は、Watson が 1913 年に提唱した。

Watson の基本的な主張は、ご存知の通り「心理学対象客観的に観察可能な行動に限る」というものだ。

当時の心理学は Wundt の提唱した「内観法」を用いて人間の持つ「観念連合」を記述する、というものであった (余談だが、内観法は単なる主観報告ではない。これもよくある誤解である。Wundt の提案した心理学は、繰り返しの刺激に対し、同じように報告するよう徹底的に訓練することにより、人間の持つ感覚の組み合わせについて首尾一貫とした反応を得ようという研究方針である)。

Watson が反対したのは、Wundt の方法である人間自己報告」を科学データとすることである。それに代わって、刺激と反応という共に客観的に観察可能事象関係研究対象とすべきであると主張した。Watson は Pavlov の条件反射概念を用いれば刺激–反応の連関を分析可能であるし、人間の持つ複雑で知的な行動も刺激–反応の連鎖に分解できると考えた。

また、情動や愛のような内的出来事は、身体の抹消 (内臓筋肉) の微細運動から考察された。Watson の心理学が「筋肉ピクピク心理学」と揶揄される所以であるが、現代身体性を重視する心理学認知科学を考えると、(そのまま受け入れることはできないにせよ) あながちバカにできない部分もあるような気がする。

さて、認知心理学者、認知科学者が批判するのは多くの場合 Watson の行動主義である場合によっては、次に登場する Skinner と Watson を混同して批判する。

注意しなければいけないのは、Watson の行動主義立場を取っている行動主義者は、この地球上にはもはや存在しないという点である。従って、Watson 批判歴史的な批判以上の何物でもなく、現代科学議論ではない。

では、行動主義を自認する現代研究者が寄って立つ立脚点は何なのか? その鍵になるのが、Skinner の徹底的行動主義である

Skinner の徹底的行動主義

Skinnerは、Pavlov の条件反射を「レスポンデント条件づけ (いわゆる古典的条件づけ)」、Thorndike の試行錯誤学習を「オペラント条件づけ」として区別し、概念、および実験上の手続きを整備した。そのためあってか、Skinner は20世紀で最も影響力のある心理学者 1 位の座についている。

Skinner は、科学目的を「予測 (prediction)」と「制御 (control)」とした。ここでは説明しないが、そのためにの強力な武器として概念としては「随伴性 (contingency)」、方法論として「単一事例研究」などを導入した。 彼の心理学は他の心理学とは大きく異なる用語法、研究方法を持つため、「行動分析学」と呼ばれる。

徹底的行動主義では、Watson が扱ったような客観的に観察可能な「公的事象」に対し、「私的事象 (ようは「意識」のこと)」もまた、同様の行動原理によって説明できると主張した。つまり、内的出来事も「行動」として捉えられる、ということだ。文字通り「徹底的」に行動主義なのである。実際に、Skinner の著書の中には「知覚」「感じること」「思考すること」といった、内的な事象についての考察も多く、それらは行動分析学重要対象であるとはっきりと述べている。

逆に Skinner が反対したのは、「心理主義的な説明である。心的な活動実在するし、それ自体研究対象ではあるが、「心的な活動によって行動が駆動される」という因果的な心理主義に対しては、Skinner は反対であった。つまり、「原因としての心的概念」の導入に反対したのだ。この点を間違えると、Skinner を完全に誤解してしまう。

ただし個人見解としては、行動分析学ほとんど顕在的な行動以外実際には扱っていないし、扱うための具体的な方法論を発展させてもいない。そこに関しては批判を免れないとは思う。

行動分析学の他に重要な特徴として以下の 3 つが挙げられる。

(1) 「反応」を運動パターンとして定義するのではなく、「どんな結果事象を引き起こすのか」から定義する機能主義
(2) 人間の営みを超えた真理探究ではなく、行動の予測制御という現実的有効性の上昇を目指すプラグマティズム
(3) 仮説構成体・仮説群から研究演繹するのではなく、実験結果から法則抽出する帰納主義

なお、帰納主義については「え?でも科学って演繹帰納の両輪で回ってるんじゃないの?」と考える人いるかもしれない。

Skinner は「行動について我々は知っているようでまるで知らない。そのような若い科学にはまず、具体的なデータ必要なのだ」と考えた。そのため、Skinner は環境 (刺激) と反応の間の関数関係データの蓄積を重視した。

まりあくまで当時の知的状況を鑑みての方針だったということは重要な点だ。

ちなみに、Skinner は自身の徹底的行動主義区別するため、Watson の行動主義を「方法論的行動主義 (methodological behaviorism)」と呼んでいる。

また、次に述べる Skinner の同時代の行動主義も、同様に方法論的行動主義とまとめられることが多い。

Skinner と同時代の行動主義 (新行動主義)

Watson のアイデアを発展的に継承したのは Skinner だけではない。

ただし、Skinner 以外の新行動主義に与している研究者は、現代には皆無なので、あくま歴史的な展開として捉えるべきである

Guthrie

Guthrie は刺激と反応の間にできる連合は「時間的接近」によって生じることを述べた。また、Hull や Tolman と異なり、心理学研究対象客観的に観察できる行動に限定すべきであるという姿勢は堅持した。

Hull

Skinner と大きく異なる点として、Hull は「仮説構成体による演繹」を重視した。「習慣強度」という潜在変数を導入したモデルを考案し、その潜在変数挙動の変化により行動の予測に挑戦した。

Hull の研究問題点は、いたずらに潜在変数いくらでも増やせてしまい、理論肥大化する危険はらんでいるためである特に Hull や Skinner の時代は、行動に関するデータがまだまだ少なく、行動研究には強固な地盤がなかったのである。Skinner は「理論必要か?」という論文理論研究批判していているのだが、Skinner が批判たかったのは Hull の心理学だったのである

Tolman

Tolman は刺激と反応の間に「仲介変数」を導入した心理学者だ。いわゆる S-O-R の枠組みである。彼は「潜在学習」の研究によって、「学習」と「成績」は必ずしも一致しないことを見出した。そのことから、刺激と反応の間には、それを仲介する隠れた変数がある、と考えた。

Tolman からすると、「感情」「期待」といった内的な出来事も、刺激と反応の間に存在する仲介変数である

現代視点で見ると、認知心理学下地になるアイデアを提出したのが Tolmanだ。

ところで、Tolmanと地続きである認知心理学もまた、徹底的行動主義立場からすると方法論的行動主義立脚した心理学である。そう、私たち現代心理学徒のほとんどは、意識せずとも方法論的行動主義なのだ

なぜか?認知心理学でも、公的事象と内的事象を分ける。内的事象には直接アクセスできないので、公的事象の「操作」と計測を通じて内的事象研究をする。公的事象操作 (実験条件) を通じて、内的事象定義を行う。これは、Stevens-Boringの「操作主義」と呼ばれる。操作主義では、操作と計測の対象公的事象であり、内的事象については「研究者間での合意」に基づいて議論される。つまり、例えば「この条件によって反応時間に変化があったら、作業記憶に影響があったということにしようね」というのが、研究集団によって暗に共有されている、ということだ。これが、認知心理学が「方法論的行動主義」と呼ばれる所以である

Skinner 以降の展開

1980年代以降、Skinner の弟子筋の研究者たちの間で、Skinner 以降の行動主義を巡って、研究方針多様化しつつある。その中でも最も影響力のある 3 つについて、簡単に紹介したい。

Heyes の機能文脈主義

Skinner の行動分析学プラグマティック科学であると言われているが、実は Skinner 自身は表立ってプラグマティズムに述べていたわけではない。例えば、近い時代を生きたパースジェームズデューイを直接引用して主張を行なっていたわけではない。一方、Heyes の機能文脈主義の特徴は、Skinner の徹底的行動主義の持つプラグマティズムをより明示的に推し進めた点にある。

Skinner は心的概念を導入することを否定した。私的出来事 (内的過程) は外的な行動の原因ではなく、それ自体独立した行動として捉えるべきだと考えたためだ。また、心的概念による説明は、行動分析学目的である予測制御寄与しないと考えたことも一因である

Heyes の場合、そのような概念でも、予測と変容 (influence) に寄与する場合は、十分に有用であると考える。

具体的には、「態度」を測る質問研究が好例だ。質問紙で測る「態度」は Skinner であれば「質問紙に回答行動」として見なされる。しかし、Heyes の場合「そのような研究問題点は、測ったところで、実際の行動を変容させるための操作変数が同定できないことだが、最終的に行動の予測と変容を目指すという目的がぶれない限り、足がかりとしては有用である」と主張する。

このような、伝統的な行動主義比較してある意味で軟化した態度を、Heyes は「行動主義心理学自由主義化」であると述べている。

少し脇道に逸れるが、Heyes は行動の「制御 (control)」とは言わず、「変容 (influence)」と表現する。これは、「制御」だと決定論的に操作できる印象を受けるが、実際の行動には確率的な変動性が必ずついてまわるため、表現を柔らかくする意図である

また、機能文脈主義では、研究の真偽の真理基準にも明示的にプラグマティズムを導入している。

行動主義科学には必ず目的がある (多くの場合、それは現実問題解決と結びついているが、そうでないものもある)。Heyes の標榜するプラグマティズムは、目的にかなうかどうかが、研究の真偽を決める、ということだ。

これは、「うまくいけばなんでもok」という主観主義ではない。問題解決としての科学として、発見というよりは創造プロセスで知見が生まれるということだ。ただし、解決されるべき「目的」の方はどうしても恣意的にはなってしまう、と Heyes は述べている。

Baum、Rachlin の巨視的行動主義

巨視的行動主義の特徴は以下の 2 つにまとめられる。

(1) 分析単位として「随伴性」ではなく「相関性 (correlation)」

Skinner はレスポンデント条件づけは刺激−反応という 2 項随伴性、オペラント条件づけは刺激–反応–刺激という 3 項随伴性によって定式化し、随伴性こそが考察されるべき基本単位であると考えた。

巨視的行動主義は、そうは考えず、よりマクロな「強化子–反応率」の相関性行動主義心理学分析単位であると主張している。

まりミクロな刺激と反応の関係を捉えるよりも、マクロ環境と行動の関係を捉えることを重視しているのが、巨視的行動主義である

行動主義心理学目的予測制御に置くならば、結局はマクロ記述で十分であり、その方が有用であるというのが彼らの主張だ。

(2) 内的出来事の導入の拒否

Skinner は外的な行動とは別に内的な出来事もまた行動として捉えられると考えた。巨視的行動主義ではそうは考えない。

彼らは、内的な出来事を「潜在的な行動 (covert behavior)」と呼んでいるが、心理学はそれを直接対象とする必要がないと論じている。なぜなら、潜在的な行動が実際に効力を持つならば、最終的には顕在的な行動 (overt behavior) として表出されるためである

このことを彼らは「時間スケールを長くとる (temporally extended)」と表現している。瞬間瞬間に我々には豊かな精神活動 (mental life) があるが、それを相手取らなくても、長い時間観察すれば、観察可能な行動として現れる、ということである

Staddon の理論的行動主義

Staddon の主張は、他の行動主義と大きく異なる。彼の場合は、心的概念の導入を許容する。そして、それを用いた「理論」こそが心理学必要であると考えた。その点は、実験結果から法則抽出する帰納を重視した Skinner の立場とは異なる。また、「心的概念による説明」は Skinner の反対した「原因としての内的過程」でもあり、それを採用する点も Staddon の特徴である

行動主義心理学目的は、予測制御だけではなく「説明」にもあると彼は主張した。Staddon の言う「説明」とは、概念同士の関係によって、現象記述することである。わかる人にとっては、David Marr の「アルゴリズム表現」の位置心理学位置づけている、と考えればすっきり理解できるように思う。

Staddon はやや言葉遣いが独特で、概念連関による記述を「メカニズム」と呼んでいる。そのメカニズムは必ずしも生理学的基盤を前提しないで、あくま心理学レベルでの記述である

ようは、行動のアルゴリズム的な理解なのであるが、事実 Staddon は「私の言うメカニズムとは、アルゴリズムのことである」とも述べている。

Skinner は反応率 (時間あたりの反応数) を分析の基本単位としたが、Staddon はより多元的である。ただし、なにを分析単位とするかは、それ自体研究立脚点を示しているものである。それを Staddon は「The model is the behavior」という言葉表現している。

それでは認知心理学となにが違うのか?と思われるかもしれない。Staddon いわく、行動主義心理学伝統的に堅持してきた「強化履歴」は理論的行動主義でも重要であるというのが大きな違いらしい。つまり、行動や内的状態は、それまでの環境との相互作用に基づいている歴史性を有しているとういうのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、その点を強調するか否かである

また、Staddon は「動的過程 (dynamics)」を重視した点も特徴である。他の行動主義は、基本的には刻一刻と変化するような過程というよりは、安定した反応の推移を対象としてきた。ややテクニカル議論ではあるが、現代では複雑な時系列データを扱う方法もたくさん用意されているので、動的な過程を取り上げるのは科学として自然な展開であると思う。

一方、認知心理学では「コンピュータアナロジー」のように、入力–出力関係を固定して考えることが多い。動的に内的状態は推移していることを重視した点も、Staddon の理論的行動主義認知心理学を分ける特徴の 1 つであるしかし、個人的にはこの差異は徐々に埋まっていくのではないかという期待もある。

おわりに

以上、行動主義 100 年の歴史簡単に振り返ってみた。

色々なアイデアはあるものの、基本的現在「行動主義」を標榜している人がいれば、Skinner の徹底的行動主義である。Watson、Hull、Guthrie、Tolman に依拠している者はいない。従って、歴史批判ではなく、科学議論として行動主義批判したければ、Skinner を相手にするべきである

行動主義はとにかく誤解されがちである。それは行動主義心理学者サイドにも問題があるにはあるのだが、科学において、無理解責任基本的には不勉強側に帰せられるべきだろう。

個人的には、アンチ信者より詳しくあってほしい。認知心理学者も、自分たちが寄って立つフレームワーク出自はどこにあって、なにに対するアンチテーゼだったのかをきちんと理解してみたら、何か発見があるかもしれない。

2019-08-14

語学学習の基本

文法構造から学ぶのではなく

はじめは経験をつくる。

構造経験で得た知を説明できるものとして理解する。

そういう方法日本人にはあっているように思う。

文法から入り、原則適用していく学習方法ヨーロッパ演繹を好む思考様式に基づいている。

理論適用するという訓練も大切だが、間違えながら発話経験を積み重ねる方法、言い換えれば

全体がわからないながらも文脈を推察する帰納法的な訓練のほうが日本人思考様式には馴染む。

2年くらい文法をやったらあとはひたすらプラクティスがいいと思う。

日本人必要以上に細かい文法をやり過ぎる。

それは、完璧主義もつながる思考様式だ。

https://anond.hatelabo.jp/20190815021231へ続く

2019-08-06

anond:20190806145613

憎悪にまみれてる状態こそ真の姿

世の中が憎悪に満ちてることと、「着ぐるみ」では全く程度が違う。

程度しか違わないって最低限の認識あってよかったなw

たとえ話なんだよ、演繹しな 

虐待児は根本から憎悪にまみれてる状態こそ(世の中の)真の姿」って見方なんだろ

それ世間認識と違うよっていってんの

 

お前が反論すべきところはそこじゃないぞwww

一晩よく寝て考えろww

2019-08-04

休みの日に、朝動き出せるかどうかとかについて。~夏休みの宿題でき

なんでだろうか、

「やろう!」と決めたことを

実行できない自分がいる。

もっと言うと、

「やろう!」と決めているその瞬間に

「でもできないんだろうなーやる気なくなるんだろうな」って予感してたりして、

それは当たる。


なので、ちょっと

「①やれる心理」と

「②やれない心理」の

法則について考えてみた。

演繹的に考えるよ。

今日家計簿つけて、お金の支払いしに行こうと思ってるけど、

たぶんやれなそう。

これを題材にします。


まず

①やれる心理

作業部屋に入ったら涼しい

作業部屋が片付いていて、すぐ取り掛かれる

②やれない心理

・部屋が散らかっていて、片づけなきゃと思う

・昨日買ったゲームが目の前にある(やりたくなる…)


…まぁそうだよね、ってくらいの箇条書きにしかならなかった。

環境整えるのは大事そうだってくらいの結論。つまんな。



リベンジ

①やれる心理

・催促のお手紙が届く。早く払え!~日までに

→「やる面倒」と「やらない面倒」を天秤にかけ、やる面倒の方が傷が浅そうならやる。

お母さんに怒られたら、しぶしぶ宿題する心理と一緒。

でもこれだと、

やりながら「なんでこんなせなあかんねん…」って

内心ずっと思ってる。

これは非常にコスパが悪い取り組み方。

でもこれがないと動けない時はある。ある。

でもこれ書いててちょっと思ったのは、

この「天秤」は人によって色々なものを持ってるよなぁってこと。

楽しいか楽しくないか

・面倒か面倒でないか

・安いか安くないか

・高いか高くないか

色々。

人によって、大切にしてる天秤も、

天秤の優先度も違う。

これを「価値観」というんだろうな。

おかんの「天秤」だと

宿題を早く終わらせることが重要だけど、

自分の天秤的には心安らかな時間を得ることが重要だったり。

…そんな天秤を、

自在イメージ出来たら、

少しやる気の操作ができそうな気がした。


まぁ…

価値観なんて、そんな一瞬やすぐに変わるものじゃなないけど。

地道に、気長に、コントロールして、

望みの価値観や天秤を、身につけるしかないのかもしれない。


そして、、、

こんなポエムを書きながら30分、

1時間

そして1日…と、

日は過ぎていくのではないかな、と

予感しつつ、

筆をおきます。(たぶんやれない)



②やれない心理

→向き合いたくない。考えたくない。めんどくさい様子が想像できてしまう。

(誰か続き書いて、私に、いい解決策ください)

2019-07-29

anond:20190729210011

一言でいうとそれが男性向けエロゲ主人公補正なんだが(虚淵富野につづくタイトルホルダーだから・・)

女性二次創作はそれを演繹して毎度大変なことになってて解釈力がすげーなって思うぜ

公式が毎月のように似たようなキャラ連続で出して飽きられない

ランサー長尾カゲトラとラクシュミーとかすごいカブってそうだけど)

社長働きすぎ、アルトリア特攻増えすぎでは)

バーサーカーのジャンノルタと水着きよひーなんか自分でしゃれのめしてたけどw

それで女性ファンにも多数ご納得していただけてるし

原典テンプレ二次創作自由でいいんやで

2019-07-28

anond:20190728221501

男女逆にしたらめちゃよくある話だな

演繹して男女逆の場合とおなじ解決方法つかえ

まり結婚しよう、扶養に入ってくれ」っていってみたら一言で通じるのでは

そこまでいかなくても「自分としなくても他の人とセックスしてほしくないか婚約じゃゴラー」とか

乙女男子も増えて、よい世の中である

2019-06-05

anond:20190605131020

見た目はたしか内面表現する材料の一つだけど、

派手で奇抜な服を着て、メイクをしている人は『私は"普通"じゃないですよ』ってアピールしてるんじゃないの?

そんなに単純に演繹できるわけではない。個人内面を深く知った後に、「この人はこういう理由でこういう見た目をしているのだな」と少しずつ理解できていくものだよ。

2019-05-04

anond:20190504075021

自然演繹タイプ公理系は無矛盾であることが示されているみたいなのですが、

自己記述自然数論的な公理系なのでしょうか?

2019-05-02

anond:20190502143308

いまやTRPGは細かく裁断されていろんな作品に少しずつ混じっているので「これ」とは挙げづらい。

作者がTRPG好きを公言しているなろう作家は多いと思うが、いちいち名前を覚えていないからググってくれ。

しかし、そういう作家はたいてい「自分TRPGで実現したい冒険」をやりたいのであって、増田が求める「GM迷惑をかける」ような和マンチ作品は少ないと思う。

そもそも異世界転生は、転生した直後の幼少期から物語を始めるものも多いので、その場合増田が言う「出自を描く必要がない」などのメリット無視されることになる。

安易に「読者の欲望」やらで説明せず、作劇のメカニズムによって理由を考えようとする態度は素晴らしいが、現時点では、ごく一部のアニメから演繹しているだけではないのか?

2019-04-14

anond:20190414153927

自分小学校高学年の工作をみてたことがあるが、

男の子上下に幅広く分散しており、女の子中央値自分をあわせることができる気がする。

先生のいうちょっとむずかしい工作意図をさっと飲み込んで、この程度達成すればいいか、ってわかるスピード女の子にはある。

男の子はなかなか始まらない子(時間内に完成しないのでアドバイス必要)、やったことあるってとびつくように始めて追加オプション材料もらいに来る子 バラバラ

  

大学演繹すると

女性生理がはじまったらホルモンなどのせいで月に数日体調不良になったりするんで、

女性生理のない時期に受験できるよう受験用低用量ピル高校女子全員に配布するくらい丁寧にやりとげてから

ようやく千鶴子先生に「男性優位社会じゃないですよ」って堂々といえるんじゃないか

一事が万事そう。もんかしょうのおじさんが考えたゆーしゅーなじょしこーせーは現実からズレまくってる。

日本化学会女性化学者育成ユーチューブ現実ばなれしすぎててキモすぎとかそういうのばっかり。

ふんわりした生物身体性のないジブリめいた空想上の生き物への対応しかまだできていないよ

anond:20190414125507

これはどこかで聞いた与太話なんだが、「男性女性の脳の違いはあるけど、(おまえらが考えるようなものでは)ない」と誰かが言ってたな。

まずそもそも違いが生まれる要因が環境にあるのか遺伝子にあるのかもわからないこと、また「全体としての傾向」から個体差」を演繹的に導くことは不可能、が前提。その上で、データを調べればどんなところにも何かしらの違いを見出すことはできる。それはもちろん男性/女性の間にも言える。まあ、血液型だってそうなんだから、要するに世間蔓延る「男性脳/女性脳」ってのは血液型占いと同レベルなんだけど。

前置き終わり。

そういうわけで、ある程度統計的に正しいだろうと言われているのが、「空間把握能力男性が優位。言語認知能力女性が優位」というもの。で、よくある誤解が「論理的思考男性が得意だから数学男性が得意」というもの。これは何が嘘かと言うと、そもそも論理的思考」とは何かという定義がそれほど明確ではない。もしもそれを「言葉説明する能力」とするなら、言語認知能力が優位とされる女性の方が得意でも不思議ではない。ではなぜそうならないかと言うと、数学幾何学と密接に結びついて発展した学問から数学は高い空間把握能力要求するんだと。確かに数学って、難しい問題=難しい図形の問題ってイメージあるよね。でも、それだけが数学」なのかな?とも思う。現代数学はむしろコンピュータとか数理論理学とか、必ずしも幾何学直感要求されない分野が大きな存在感を発揮してるよね。もちろん極度に抽象化された数学世界幾何論理区別はないから、「どちらも得意」な人が一番必要なんだけど。

大学でも、俺の周りにも数学科の女性って少ないながらいるんだけど、みんな基礎論とか代数とか行っちゃうんだよね。トポロジーもいるけど、やっぱりやってるのは代数トポロジー。解析はあんまりいないかな。抽象的なことをやりたがる女性が多い印象ある。

結局何が言いたいかと言うと、例えば初等教育の中にもそういう言語的なセンス要求される数学を取り入れる時代が来たら、男性/女性の得意/不得意って容易に入れ替わる可能性もなきにしもあらず、じゃないかな?ということ。

ここまで長々と書いたけど、もちろんエビデンスなんて何も出せないから信用しちゃダメだよ。

2019-03-04

anond:20190304110447

>> 目次

https://medium.com/@0h0n0/e3e429688456(このページ)

はじめに『この文章について、フローチャート重要性について』

第一章『関係記述する方法としての「基準」とその基準からの「指定」』

第二章『集合論

第三章『フローチャート

https://medium.com/@0h0n0/520dcc8c4cd7 (次のページ)

第四章『集合論フローチャート

https://medium.com/@0h0n0/408a2d035205最後のページ)

第五章『情報

第六章『目的

第七章『アクター

第八章『アクター行為

第九章『社会

おわりに『この研究の不完全さについて、エクセルの使い方について』

付録『本文に掲載されていない単語一覧』

はじめに『この文章について、フローチャート重要性について』

ベーシックイングリッシュとは、第二次世界大戦後くらいに流行した、英語を850語で言い換えることができるとされる体系だ。

私は「その体系を論理的説明できれば自然言語論理的説明できたことになるんじゃないか、あるいは論理的説明するヒントくらいは得ることができるんじゃないか」という仮説を立て、ベーシックイングリッシュ研究を始めた。

この文章は、その研究現在地点の記録だ。少し読んでもらえれば分かるように、論文では無い。論文にするなら説明形式根本的に変える必要があるだろう。

この文章では、説明にまず集合論フローチャートを使う。「集合論」とはただ学校で習うような素朴集合論であり、「フローチャート」とはただ日常で使うようなフローチャート意味している。

まず第一に『フローチャートは、集合論と並び立つように存在する、論理というもの原理だ』ということについて了解してもらいたい。そうで無ければ、「フローチャート」という概念を使う意味や、フローチャート集合論を組み合わせて何かと隣り合うことができるような「存在」を説明する意味は、読者に了解されないだろう。

論理人間思考表現だとすれば、脳神経の構造上、何と何が同じかを問題にする集合論だけで無く、何を前提にどういう結果になるかを問題にするフローチャートもまた重要ものになる。

実際の問題としても、「帰納演繹」という言葉は、ただ「色々なものが集合にまとまる・集合が色々なもの適用される」というだけで無く、「フローチャートが集合にまとまる・集合がフローチャート適用される」というようなニュアンスも含んでいる。論理や具体的には演繹の弾き出すようなイメージフローチャートのもので、例えば「その話は何が前提になっているんですか」とか「根拠は何ですか」と聞く時も、思い描かれているのは実はフローチャートだ。

とにかくこの文章では、集合論の他にフローチャートも、説明大前提として重要視する。 <<

2019-02-06

自分論理に自信がない

論理と言えば演繹帰納だが、演繹の方は三段論法しか知らない。ときどき自分の考えが論理規則に合っているかどうか不安になる。

2019-02-05

ノットオールメン!」というとめちゃくちゃ叩かれるのに

そこに「コリアン」が付くといっぱい差別はんたーいと言ってもらえるのはどうしてなの?

ジャップオスは潜在的に性加害者だけどそこにマイノリティ属性付与されるとなんだか清らかな存在になるのですかね?

やたらハングルプロフィールを書いてるツイフェミさんはどう思ってるんだろう 彼女らをオルグしているメガリアの連中にとっての敵がまさに韓国人男性のはずですよね

こういう、論理的演繹できない問題については、洗練された人権感覚を日々研ぎ澄ませている一流のポリコレ鑑定士によるジャッジが求められると思うのですが

何卒ご教示ください

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん