意識とは、感覚器官からの情報を統合するために生み出されたもの(らしい)。
統合技術の一つが論理だ。演繹、帰納、数学、他、論理の例いくつかめんどくせえから割愛。
もう一つが信仰だ。意識の方向付け、計測および測量による統合技術だ。なにも神や迷信を信じるに限らない。鉄道かっけえ、熱い友情、琴線に触れるものなら全てだ。
さて、ヒトは感知(入力)、認識(処理)、行動(出力)する装置だ。その各段階での正誤、善悪、好嫌は論理と信仰によって定義される。
論理と信仰は、車軸を共有していない。それぞれが独立しているが、意識は両輪に跨っているので影響し合う。
先日、信仰を否定される体験をした。論理的な破綻はなかったが、意識には相当なダメージがあった。鼓膜は言葉に悪魔が宿っていると警鐘を鳴らし、嗅覚は死の匂いに飛び退いた。
そこで気付いた。
論理とは価値付けるもの、信仰とは意味付けるものではないかと。
意見求む
本人もめんどくせえから割愛してるんでもう全文割愛でOK
意味と価値逆じゃね?
宗教を広くみれば科学も宗教なんやで 幸福のではなく。 信教の自由は科学を信じないまたは利用しない自由でもある。エホバの証人だの、アーミッシュだのは、実際にそうして科学を一...
定義はいくらでも広くすることができるので 「広く見れば当てはまる」に大した意味はない
駄文すぎる。ややこしいことを議論したいなら明晰な文章にしなさい
「誰か権威を持つ人が正しいと言ってる」が信仰 「検証可能性と再現性をもとに科学的検証を行った上で正しいという」が科学 昔は、科学的検証というものがなかったから、すべてが信...