それは私達が火を触り熱いと感じるからだ。
これは経験的な話になる。
火を触る、熱い、火は熱いのだと言う具合に。火を触らなければ熱いと理解できなかった。
経験から抽象し、経験することを除き、熱さを痛点とすれば火は痛いのだ。
もちろん火に熱した鉄板が熱いということも、鉄板が火を前提にしているわけではなく、鉄板を熱した火を前提にしている。
では、なぜ痛いのか。
これは私には知識がなく語ることが出来ない。
つまるところ、私達は経験的な物事を語っているに過ぎないということだ。
火は熱い、火を触れば分かることだし、大体の人間は火は熱いということを経験から知っている。
火を触ることで発生する、痛いという事象が私達の心の中で発生する。
痛点が無い人間であっても、痛点を持てば感じることができるだろう。
火を触って熱いと感じるか、痛いと感じるかはその本人以外に分かることはないのだ。
火を触って熱いと感じるのが普遍的な事象で、痛いと感じるのはよくわからない。
それは私達が火を触って熱いと感じるかどうかを統計すれば結果は明らかになる。
先程言ったように火を熱いと感じるか痛いと感じるかはまた別なのだが、
多分一緒にしてしまうだろう。
では、火は熱いのか、痛いのか、統計しても分かることはない。
これは言葉の問題なのか、統計の問題なのか、それとも心理的な事象を普遍化する試みが問題なのか
まず、火が熱いのだろうが、痛いのだろうが分けることに意味はない。
タイトルを変えるなら、なぜ火は私達の皮膚に刺激を与えるのか
だが、やはりこの言い方だと痛点のない人を想定していない。
やはり心理的な事象ではなく、外部の事象から考えるべきだろう。
皮膚を熱することでどういう事象が発生するのか、火が熱いことで特有の現象が起き、それが熱い状態だと記録できるかもしれない。
多分、火を熱いということを心理的な事象から普遍化する試みは失敗するはずだ。
心に発生する事象が、熱いか痛いかどちらが生成されるかよくわからないからだ。
もし、熱さを痛みだとしても、何か別の表現をしてくる人もいるかもしれない。
なにか経験論を心理的な事象に反映することを反論したくなってこのような文章を考えてみたが、いまいちか。
>> これは私には知識がなく語ることが出来ない。 つまるところ、私達は経験的な物事を語っているに過ぎないということだ。 << 「私」を「私達」にすり替える詭弁
熱さ、痛さは、神経の刺激回数で決まってるが、人によって相対的で違う。