はてなキーワード: 手紙とは
colaboは暇空茜に対しデマを流されたとして訴訟を起こしているが、他にも特に悪質な暇アノン数名を訴えている
そのうち4人とは早期に和解を果たせた
めたまんは今春から6年生に進級
顔出しで活動する他、VROIDの四国めたんを使っての時事動画制作をしていた
収益化にはいたらない程度の小規模な活動だが、リアルJSなので一部で人気がありコメント欄は賑わっていた
ネットネイティブのめたまんは暇空茜によるcolabo騒動に傾倒し、鵜呑みにして中傷に加担した
やがて暇空の発言に疑問を感じ離れるようになったが、信者であった頃の中傷発言がcolaboに開示された
めたパパ(父子家庭)がインタビューに応じているが、プロパイダからの事前の連絡もなく、いきなり開示したとの手紙が届き、
そこではじめて娘がネット上でどのような活動をしているか知ったのだという
めたパパが示談金を支払いめたまんが謝罪文を掲載したことでcolaboには許された
しかし、かつてめたまんを可愛いともてはやしていた暇アノンたちは「裏切られた」とめたまんを許さなかった
めたまんは騒動になってしまったことで投稿していた動画などを削除したが、
スクショが出回り猥褻に加工した偽画像を貼り回られ「めたまんこ」と侮蔑的に呼ばれるようになった
めたパパは警察に相談し、また特に悪質な投稿者を何人か開示に成功し和解交渉をしたが、
相手は和解する素振りでめたまんの実名や電話番号や住所を入手し、和解を破棄して個人情報を暇アノンらにDMでばらまいた
DMを受け取った者の中には、めたまんの個人情報を自分のプロフィールに記載し全世界に公開する者も出た
めたまんは小学校から帰宅後、めたパパは帰りが遅いので長時間一人ですごさなければいけないが、
連日大量の無言電話がかけられるため回線を切るしかなく、切った後にはしばしば自宅前で複数人に大声を出されたりドアを蹴りつけられるようになった
暴力くそオヤジだったけど逃げる者を追わないタイプだったのはよかったな
25歳ぐらいの時に、遠くで暮らしてるオヤジの扶養照会の手紙来たわ
もちろんお断り
今は生活保護受けてんのかな?
幼少期にはまともで優しかった時期もあるけど出世して(?)帰りが遅くなってから
深夜になんで出迎えないんだってキレて殴ってくるようになって小学校低学年なのに不眠症になって学校で寝てた
でも起きて出迎えたところで結局なにかしら理由をつけて怒鳴るし殴る
妻子に逃げられてストレスの行き場がなくなったのかな
第二の父はひょうきんな良い人だが、父母両方連れ子が3人以上いるから一軒家が狭くて個室がないのは辛かった
母は俺がいい年して結婚しないのはオヤジがあんなのだったせいかと気に病んでいるそうだが
どちらかというと密集生活で「一人になりたい」という願望が強固なものになってしまったせいだ
仲は良かったけど
あれだけ人がわらわらいて結婚したのが一人だけ
初めて投稿する、投稿できるのかな?わからないけど、自分の悲しみにさよならしたい、
2年前のこの時期に死のうとしてた。新卒で入ったとこは残業代がでなくて、雰囲気も悪い、家族経営のとこだった。新卒を何年もとってるはずなのに、私が入ったときはみんな辞めてて、残ってるのは高卒でずっとこの会社しか経験したことない、というおじさんばかりだった。古い気質で、残業しないと次の日朝礼で注意される。直属の上司からはポンコツ〇〇(私の名前)といわれ、営業に向いてない、夜の仕事したほうがいいと言われた。周りの人も冷たかった。徐々に眠剤で寝るようになり、精神安定剤の量も増えた。トドメはお局のあなたの直すべきところリスト(私の悪口)を渡され、心が崩れた。休職して復帰したら、営業部長に休職したことに対する反省文をだせ、と言われた。遺言書を書いて死のうとした。でも親に仕事を辞めてほしい、そのひとたちはおかしい、と言ってくれたり、友人からも死なないでほしい、と言われて退職した。
すぐに転職活動をして、3ヶ月後、今の会社に決まった。営業じゃなく、事務として。3ヶ月前は鬱だったのに、完治もしてないのにがむしゃらに未経験のところなので頑張ってきた。最初は、中途で入った私を警戒して冷たい人も多かったし、わからないことだらけで質問すると、やっぱり怒ってしまう人もいた。そんななかで助けてくれたのが、Aさんだった。
Aさんは私より5歳上の営業で、私が入った当初は2年目の方だった。最初は少し冷たかったけど、電話応対で困ってれば助けてくれたり、フォローもたくさんしてくれた。いつだって丁寧に教えてくれた。私がメンタルが落ち込んで控室で泣きじゃくってると、心配して慰めてくれた。私がしたミスを、Aさんは大丈夫だよって言ってお客さんに謝ってくれた。本当に優しい人だった。
2年経つとできることが増えて、Aさんの仕事の手伝いもできるようになった。周りの営業さんからも私を頼るようになって、前の会社よりもずっとずっといい環境で、転職してこの会社の人たちと働けて良かったと思ってた。
先日、Aさんは亡くなった。
趣味のスポーツで体にできてた血栓が心臓にきて、心肺停止だった。本当に突然だった。月曜日にAさんが来てないな、朝から外出かなと思ってたら、朝礼で言われた。自分の人生では初めての身近な人の死だった。
祖父母のもしものときに買ってた喪服が、Aさんのお葬式で初めて着た。会社の人たちはみんな泣いて、私もずっと泣いてた。ご家族も突然のことで戸惑っていた。
もう、亡くなってる人に感謝の言葉を伝えても届かない、それはわかってるけど、ただ、手紙を書いた。ひとりっ子の私にとっては、お姉ちゃんのような方で、人生のお手本にするならAさんです、と。手紙をご家族に渡して、お別れした。
焼香も初めてで会社の人に教えてもらった。帰り道はよく気にかけてくれる事務さんと一緒に帰った。次の日から、もうAさんの明るい声も、走って現場に向かう姿も、他の営業さんにお昼どこ行きますかって呼びかけてた言葉も、もう聞けない。
電話対応で、Aさんの取引先だったところからの電話では、もうAさんの名前もあがらない。
わたしがAさんのデスクできっと声を上げて泣きわめいて、Aさん戻ってきて下さい、また会いたいですって言っても、大丈夫?ってあきれながら笑って駆けつけてはくれない。
もっともっとAさんとお話したかった。こんなに早いお別れが、つらいです。Aさんに会いたいです。
2年前までは死のうとしてたのに、Aさんのお葬式でたくさん悲しんでる人をみて、私は残される人のことなんて全然考えてなかったと思った。
同時に、いま、自分を傷つける人やないがしろにする人に、時間を割いてる暇はないんだと。自分に優しくしてくれたり、気遣ってくれてる人を大切に、いつ会えなくなるかお互いわからないし、会いたい人には会わないとだめだと思った。
Aさんとの思い出は他の人よりは自分はずっとずっと少ないけど、Aさんが私にしてくれたことは、ずっとずっと覚えてます。Aさんはどこかで呆れてたかもしれないけど。たくさん感謝してます。ありがとうございました。天国でたくさんたくさん、韓国のアイドルの曲を聞いて、たまには会社の人たちのこと見に来てください。天国でもどこでも、また、Aさんに会えることを願って。
アイドルグループ・TOKIOの長瀬智也(37)が、14日に放送されたフジテレビ系トーク番組『ボクらの時代』(毎週日曜7:00~7:30)で、好きな女性のタイプについて語った。
長瀬は「性格が悪い子好きでした。モテる子って性格ひねくれてたりする。モテることが当たり前だと思っているから」と話し出し、「彼女にラブレターを出したことがあった。げた箱か何かに入れて、下校の際に校舎の柱から見ていて…。クラス1、2位を争うかわいい子だったその女の子が、クラス1、2位を争うかっこいい男の子と一緒に、僕の手紙を見ながらゲラゲラ笑いながら帰るわけ」と昔のエピソードを明かした。
その時は「きつかった」と振り返るも、「大人になってみて、そういう子が好きかもしれないって。モテ過ぎちゃってよくわかんなくなっちゃってる人」と告白。今そういうことをやられたら「嫌」というも、「同性から嫌われている人がかわいいなって思っちゃう」と語った。
そして、「コンプレックスがあって取り繕ったのが、同性にそういう風に見られて嫌われているのかなと思う」と続け、「根本がコンプレックスだと思ったら一周してかわいい」と説明。「性格の悪い人がかわいい。または昔性格の悪かった子」と笑いながら話した。
2016/02/14 23:36
ずっと一人でやってたきた
それもたまに見るくらいで積極的にはやってない
毎年行ってる東京ビッグサイトのイベントであるグループに声をかけられた
その中にインスタでつながってる人がいた
話すことなくて前職が旅行会社勤務ってうっかり口を滑らせちゃった
だから東京でイベントがあるたびにホテルとか飲食店の予約を頼まれるようになった
なんならリーダーなんて趣味関係なく自分の家族旅行のTDLの予約とか平気で頼んでくる
ネットで簡単にできるよって言っても東京のことよくわからないからと言われる
そういうのが嫌でずっと一人でやってきたはずなのに
でもそれが一週間も続いたから気になって確認したらLINEグループからハブられてた
意味わかんない
いくら考えても思いつかないんだけど
ふと思い出した
通知が来なくなった前日の集まり
話すこと無くてHPVワクチン接種したって言ったら変な空気になった
分かれる時にまたねって言ったらリーダーからいつもの笑顔で次あるといいねって言われた
意味わかんなかったけどそうだねって答えて分かれた
あれしか思いつかない
でもそんなことあるかな
結果良しなんだけど何かモヤる
趣味友の実名とかインスタのアカウント名でTwitter(当時)を検索してみた
イベントのあった日の夜のツイートに「ワクチン脳と縁を切った」とあった
いいねが2000以上も付いてた
その後もわたしの個人情報匂わせたり誹謗中傷ツイート繰り返してた
キモいからすぐインスタとLINEのアカウント削除してグループ連絡用スマホのSIMも解約した
全部終わった後に翌々週のイベントにホテルとレストラン予約したことを思い出した
でも予約名はリーダーだし連絡を絶ったのはあっちが先だからまっいいかって思い直した
ホテルとレストランのキャンセル料の請求書のコピーと手紙が入ってた
請求書の方はほとんど黒塗りでキャンセル料の金額だけが見える状態
手紙にはあなたが嫌がらせで勝手に予約したんだからキャンセル料支払え
仲間が怒ってて何するかわからないよって書かれてた
そくせ差出人名も住所も振込先も書かれてない
どうしろって言うんですか
これは脅迫状ということでいいですか
でもちょっと待ってどうやって住所知ったの
だけどここって知る人ぞ知る警備厳重高級賃貸マンションだし
経験上だめだってわかってたんだけど仕事忙しいし面倒だから放置してた
そしたらやっぱりしつこく手紙が何通も来た
内容がどんどん過激になってく
最後のに放火って書いてあったから仕方なくコンシェルジェに連絡した
ほんと面倒くさい
リーダーらしきTwitterアカウントが誹謗中傷ツイート削除して謝罪文載せた
しばらくしてアカウントが削除された
リーダーの弁護人から連絡来て本人から謝罪させたいと言ってきたけど断った
弁護士はそれだけ聞いたら引き下がった
わたし全然悪くないのにマンション追い出されるんだから刑事くらい当然だよね
リーダーって公的機関勤めだったみたいで懲戒解雇になったらしい
その後も警察から何度も事情聴取があってグループ全員が送致された
検察からも事情聴取あってリーダーだけ訴追されて他の人たちは猶予処分
結局犯行は悪質だけど初犯で社会的制裁も受けてるからって執行猶予付いた
リーダーは心を入れ替えて更生してください
他のみんなはリーダーと縁切れたらいいのにね
知らんけど(使い方間違ってるかも)
ここ1年で3回無くしててやばい。
朝に車待ちで声かけてくれるのありがてーーーすまーーん
そっから、
キーケースに家とか職場の鍵と一緒に入れてたのを分離して別のキーホルダーに分けて
(せめて家の鍵とかは死守作戦)
サコッシュに入れることにして出勤と帰る時に首から下げるスタイルで
車から降りた時点で、キーケース、駐車場の鍵、車の鍵3種入ってるのを確認…したつもりだったのだが
3回目また無くした。
管理人さんにも今回は届いてないって言われて青ざめたが、
その後、運転席の座席に挟まってた(わはは。詫び手紙投函した。)
ADHDとか診断はしてないけど、
かなり忘れっぽいとは思うけど、
親が無理
生理的になのか何なのかとにかく会ったり会わなくても存在を感じると吐きそうになったり叫び出しそうになったりする
児相行くとか接近禁止命令ができるような虐待は少なくとも受けていないのに
住所も教えず離れて暮らしているので普段はあまり問題ないのだが引っ越しを考えたときにとても困る
だれかの家に転がり込むような形でしか部屋を借りられず独立ができなくて苦しい
身寄りのない相手に部屋を貸したくない事情も察するが親が鬼籍のひとも困るだろうしなんとかならないのか
住所を教えないのは昔やむなく緊急連絡先を頼んだところ勝手に押し入られたり家の前で騒がれたりしたため
出訴期間について書いてくれという項目がありますが、裁決があったことを知った日ははるか昔のことなので覚えていません。美帆から、その手紙を受け取った日の事ですよ
というアドヴァイスがありましたが、いつ頃配達されてきたのか覚えていませんし、っていうかね、もうね、そういう細かいことをごちゃごちゃいうんでしたらね、この裁判なんかやりませんよ
朝霞水門のところに、真夜中の大運動会が開催された日時が分からない理由
開催されたときは、実施者が増田に、真夜中に老人が運動会をしたら倒れるだろ、と書き込みをしたが削除されているし、Webarchiveにも痕跡がないので全く分からない。
ままんの富澤佳代子がそれと思われる日時の前後に、部屋から拡声器の音が出ているようですがウンヌンカンヌンというメールが送信されているが、平成31年2月16日の
メールである。2月20日も富澤佳代子が電話をくれるようにメールを送信している。しかしこれだけからは何も分からない。通常これだけのことがあると、バクサイ、増田、Twitter、
などに痕跡が残るはずであるが、平成30年の31年の2年分についてはいかんながら、どこにも痕跡が残っていない。 ATOMのかんなちゃんを利用したことが判明したのは、
ATOMのバクサイのスレッドに、平成31年3月17日に自分がボロクソに書き込んだ痕跡を発見したからである。
なお、黒羽の中であったことは、そこでの手紙と、黒羽の運営はバクサイの奴がやっているから、主催していた長谷川が何をしていたかを聞けば自明である。
被害に遭ったのは私の弟です
弟は高校生で、内向的な性格のオタクでアニメや漫画の他にミリタリーが好きです
暇空にミリオタをバカにされたことで暇空アンチになり、カルピス軍団と接触していたそうです
私も暇空関係を眺めてはいましたが、家族との話題に出すことはなく、弟がカルピスに感染していることは知りませんでした
文鳥はカルピス軍団の中でもリーダー的存在で、中の人はアラサーぐらいの女性です
弟は文鳥を信頼しており、また文鳥を同性の男性だと思ったまま電話番号や簡単なプロフィールなどをDMで教えていました
カルピス軍団のみんなでオフ会をすると言われ向かった先には文鳥一人しかおらず、文鳥は弟に前から気があったと告白し、弟はそのままホテルに連れ込まれたとのことです
放っておくと左右の眉毛がつながるような、身なりに無頓着な弟が急に垢抜けて不審に思っていたら、彼女ができたと打ち明けられました
私は喜ばしく思いそっと応援しようと思いあまり触れず、まさか成人女性に弟が遊ばれているとは思いもよりませんでした
弟の変化をいいことだと考えていたのに、2月頃から弟の様子がおかしくなりました
彼女にバレンタインチョコをもらったが、同封された手紙に書かれている名前が自分ではなかったというのです
ほどなくして、弟はふさぎこみ引きこもりになりました
母は心配して泣き、家の中はめちゃくちゃになりました
カルピス軍団に深入りするうち文鳥と関係を持ったこと、しかし文鳥はカルピス軍団の姫扱いで他の多くのカルピスと奔放に関係を持っていたこと
バレンタインの日に彼女はカルピス軍団行脚してチョコを配り歩いていたため間違えたと、泣く弟を嘲笑うように言ったそうです
カルピス軍団はアンチ暇空として当初は集まったものの、現在では誰彼かまわず関係を持ちたがる文鳥の穴兄弟だらけの集団になっているそうです
文鳥は、それまで女性と付き合ったこともなかったまだ未成年の弟を、無数の遊び相手の一人と同列に扱ったのです
ブラインドを閉じる
コピー機の電源を切る
モニターの電源を切るのを忘れない
システムの打刻
最終退館の入力
照明を落とす
施錠とセキュリティを起動
廊下の消灯で一度真っ暗になる
エレベーターで1階に降りる
表玄関は閉じているので裏口に向かう
大通りを歩く
高速道路沿い、高架につく明かりが深夜でも明るいオレンジ色をしている
小さく歌を歌いながら帰る日が多い。頭を空にするための歌なので、なんの歌でも良い。TikTokで聞いたサビしか知らない歌でも、学生時代の合唱コンクールの課題曲でも。車が多いから迷惑にはなっていないと思ってる。
いつも曲がらない角を曲がって帰る日もある。知らない坂の先の景色をみたり、通れるかわからない細い路地を入ってみたり。
自転車で帰った日もある。電動式のシェアサイクルはわたしをぐいぐい引くように走った。
自分の足で走った日もある。通りを走るランナーはたまに見るしそれほど浮かないだろうと思った。自分で自分の体をコントロールして、心拍を上げる行動は何かに良い気がした。
酒を買って歩きながら飲んでみようとした日は、缶を路上に落としてしまい中身が噴出した。甘くないジンソーダで助かったと思いながら拾って帰った。
誰にも迷惑をかけない範囲で行う小さな奇行は、私が私に許す小さい遊びだ。1日の大半を仕事に明け渡してしまった今日をちょっとだけ取り返してから自分を寝かしつける、そういう儀式。最初はちょっと外食をして自分の機嫌を取ったりしていたのだが、夕食をしっかり摂るのも憚られる退勤時間になってからは「帰る」ことに遊びを見つけていた。人目につかない深夜に、小学生の帰り道みたいな、誰にも話さない1人遊びがたくさんあった。
何も出来ない日は大抵泣きながら帰る。あの時の自分のなかに何の感情があったのかわからない。悔しいなのか苦しいなのか、誰かに心配されて嬉しいなのか情けないなのか、
あのとき取りこぼしてしまった自分の気持ちはもう、私がわからないってことはこの先誰にもわからない。
泣いている時に頭の中に入っていたのは、周りの人が私に投げかけた言葉だけで、それを咀嚼して反芻しても、なんの味を感じたのかわからないまま、子どものように口角をひん曲げてボロボロ泣いた。マスクの中に水分が溜まって蒸れて、でも外した顔はひどいから付けたまま歩く。
公園の横を抜けて、ファミレスの駐車場を突っ切って、その先の横断歩道は押しボタン式の時間帯。渡った先のコンビニに寄る。朝昼は胃痛を避けるために軽いものしか摂らないので夜は多少好き勝手に食ってやろうと思いながら入店するが、運が悪いと夜中に腹を下すので結局中途半端な惣菜や軽食を買う。大体いつもボブヘアの男性店員がシフトに入っている。コンビニの横の坂道を上ったらあと少しで家に着く。
徒歩25分。家も職場も駅からあまり近くないせいで、電車に乗ってもせいぜい5分短縮できるか微妙な所だから歩いて通勤した。
机に縋り付いている記憶の方がたくさんあって良いはずなのだが、私は長い間、家に帰る道をずっと歩いているような、ずっと夜みたいな感覚を1番よく思い出す。
日中は、
「食事か睡眠、どちらかを満足に出来なくても片方が人並みならまだ保つ」
「このくらいの度数のロング缶を一度に飲み切ると眠れて二日酔いも残らない」
働き始めてから何年かで身につけたおまじないのような「これが出来ればまだ大丈夫」を幾つかポケットに入れて、指先で手触りを確認するような日々を過ごしていた。
「酒や乳酸菌飲料の力を借りて睡眠は取れているからまだ大丈夫」
「胃が荒れていて平日は差し障るだけで、食欲はあるからまだ大丈夫」
「朝は起きて支度できるからまだ」
部屋は荒れているが、不精なので繁忙期はそんなものだ。青クマもデスクワーカーの職業病。
「まだ大丈夫」を肯定的に捉えてサバイブしていたつもりだった。
いつのまに切り替わったかわからないが、これらの一つ一つが「まだ私が壊れてくれないから、大丈夫じゃなくなるのを待つしかない」のカウントになっていた。
勤務中、気を抜くと頭を上げていられなくなった。
ひとの目を見るのは元々苦手ではあるけど、顔を見せるすら苦しくなった。
対面で働くチームメンバーには両手で伏せて早口で指示を出す。通話会議は声を出せれば成立する、まだ大丈夫。
大丈夫な自分を演じているのか、大丈夫ではない自分を演出して逃げ出そうとしているのか、どっちにしろ何かのフリをできているうちは大丈夫なのか、大丈夫ってなんだ?
わたしは席に座れる、手を動かせる、web会議で通話が出来る、謝罪を述べることができる。出来るけど、帰りたいと申し出てある日早退した。これはダメなことだってわかっているからまだきっと大丈夫。平日の明るいうちに外出するのが久々でなんだかスカスカした気持ちになりながら、せめて身体を労わるポーズをとらないと均衡が取れないから大戸屋で品目の多い定食を食べた。ポテトサラダが重くていつまでも口に残った。
わたしにも少ないが友人はいる ありがたいことに定期的に会う用事がある
他愛ない近況の報告をしようとしたら、言葉が出ない日があって、そのとき友人は精一杯わたしを傷つけないように、「頑張る私」を否定しないように選んだ言葉で、心配に思っている、あなたを害するものをあなたは拒否する権利があるとだけ 言葉を投げてくれた
書いて消して何度か回り道しただろう、書かれなかった文にたくさんの気持ちが詰まっていた それに対して言い訳のような自虐で返事をした 最悪だ
病院探しを始めた。
躊躇いは特になかった。「自分に限って」なんていうバイアスは思い上がりだ。弱さを認められる方がまともだと思う、そういうペラペラのプライドを持っていた。「まだ大丈夫」のうちに、近い将来ダメになった時の避難経路を決める、それは賢い判断だと思った。
まあまあ都心に住んでいたので選択肢はいくつかあると知っていたし、思ったよりいっぱいあった。逃げ場ってコンビニほどはないけど歯医者くらいはある。場所を見つけて、予約を取ったあと、メモを書くことにした。
うまく話せるように、話せなくてもとにかく伝わるように。カンペなのか手紙なのか問診票の別紙なのか、わからないけど言葉を起こす必要があった。
相手に自分を「大丈夫」に見せたいのか、「大丈夫ではない」と言わせたいのか、なんだか意図がブレブレのメモ書きになった
紙に書き写す以上はありのままなんてどこにもない、本当のことを書いたのかどうか主観で見てもあやふやな文面。とにかく話せなくなればそれを読むか手渡すかしようと思って、印刷したものを携えて心療内科に行った。初診の予約は平日の昼しか取れないルールで、14時過ぎに中抜けして向かった。
名のついた診断が出た。
有給休暇の残数を尋ねられたり、直近で休養の取れるタイミングなどの話を流れるようにし始めた医師に、そんなつもりではない。 まだ大丈夫だから、もう少しマシになるための方法をくれと訴えたら、それはまっすぐに否定をされた。でも自分に「休め」を許せなかった結果、中途半端な診断書を持ち帰った。
朝、眠りから浮上する感覚を覚えると同時に心臓が跳ねるようになっていた。生きている、意識があるということに気づくと心が怯えるのはまあ自然なことかもしれないとその時は思っていたし、動悸そのものは業務に差し障りないから「大丈夫」「ダメ」の判断基準にならなかった。寝覚めは悪いが寝起きは良いので、遅刻もしなかった。
なんの名前を付けたら良いのかもわからないけど、しっかりと質量のある「ダメ」の感触が胸の中に入っている日がある時やって来た。
もっと、動けないとかずっと泣くとか何かが出来なくなったことを以て「ダメ」に『なる』なのだと思っていたけど、そうではなかった。何がどうダメなのかなんてわからないのだけど、相対的な話ではない、とにかく「ダメ」が去来する朝が来た。突発の休暇をとった。休んだ罪悪感を原動力にその週は出勤する、というサイクルをいくらか続けた。
この頃に、「ダメ」になる階段を一歩降りたような気がしていたが、同時に睡眠も食欲も自分の思う「大丈夫」の基準のままだったのだから、二元論で考えることが間違っていたと思う。
この「ダメ」は、「不安」の名前に片付けるものらしい。抗不安薬の頓服の処方を受けた。「頓服」だから、常用してないからまだ大丈夫。大丈夫の数をまだ数えていた。
そんなわけないのにいつもの道が歪んで見える日
物音が大きく聞こえる日
そんなものをちょっとずつずれながら積み上げてきて、綺麗に縛れない新聞の束のような、歪みが溜まっていくような感じがあった
退職願を書いた。
できるだけ綺麗な文字でしかるべき封書に綴じた正しいフォーマットで、すぐに出せる完璧な一筆を仕上げようと思った。
遺書ではないけど、でも心持ちは少し近いかもしれない。白くて郵便番号欄のない封筒が望ましいとネットに書いてあったがコンビニにも百均にもなかった。緊急で必要になる人もいるだろうに。
下書きをして、それを見ながら丁寧に文字を書いた。書いている間は無心になれた。書いただけで、結局出せはしなかった。
退職願も、診断書も、私にとっての「勝訴」の紙にならなかった。結局私は、自分にバツを付けて逃げるのが怖いまましばらく日々を過ごした。
同僚が出勤してくる
涙が止まらない
10時半過ぎ、何も変わらない
ここにいたらもう駄目なんだ、そういう日がついに来たのだと言われた気がした
そのあとは、とにかく手続きを滞りなく進めなければと、社会人として角の立たないように休職の手配をするために自分の感情はどこか棚の上にでも置いたような感覚で、再診の予約をとり会社と連絡を取り、自分を社会と切り離すことに成功した
今、会社に向かう朝も遊びながら帰る夜も無くした私は、子供の頃からの地続きの自分をあの夜の帰路に置いてきてしまって、残りかすの体だけがここにあるような気持ちで布団に横たわっている。じゃああの夜に私は何を思っていたのか、書き出してみようと思いメモ帳に書きつけるが、結局そこにも何もなかったとわかってしまった。今の私の回想だからそうなのか、本当に何も思うことはなかったのか、もうわからない。