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はてなキーワード: 学問とは

2019-11-18

anond:20191118123033

学問など一般人わからんから

権威だけ使って阿部におもねり庶民を操ったほうが自分幸福につながると

やっと等身大自分発見できた人なんだ

anond:20191118092428

最近はメスザルの毛づくろい的な要素や、わがままを聞いてくれて価値観の一致するオスを無意識に求めて

フェミニストフェミニズムを信奉してるんじゃね?と思っている

女性問題相談して、解決は実は望んでなくて、こいつは味方になってくれるか?みたいな判定するのが目的みたいなアレ)

現実に男女の差について細かく統計的分析したり、この献血ポスター女性嫌悪感を感じやすいか?って機械学習で判定するのでなく

個人体験談とか実証的な裏付けのない概念を振り回す遊びばっかやってるのも

フェミニズム学問というより文学政治思想の類で、メスザルの毛づくろいの派生系なんじゃないかと思う

2019-11-17

それでも学問政治活動を分断させてはいけない

とある理系大学文系教養課程。最終日のテーマは「原発についてどう考えるか」であった。震災からまだ数年、明らかに政治的な」設問である。それまでの重厚で如何にも学問的な講義とは、明らかに様子が異なる。先生は、「あなたが望むと望まないとに関わらず、これから社会はこのようになるだろう。そこであなたは何を考える?」と問うた。

私は、問われていることの意味もわからず、ただその時の素直な「気持ち」をレポートに書いて提出した。今思えばそれは全くナンセンスな回答だったのだろう。書き直せるものなら書き直したい。

人間は根源的に自由である」とは、講義中に何度も先生が口にした言葉だ。すなわち、この世界にどのような強制力が働いたとしても、最終的な意思行動決定権を握るのは自分なのだと。その言葉意味を、当時の私も理解していたつもりなのだが、それを実践するまでには至っていなかったのだろう。あの日先生が問うていたのも、結局は「そこ」だったのだ。

原発のあり方に賛成か反対か。賛成/反対だとして、どのような具体案を持っているか。そんなことはどうでも良かったのだ。ただ、「この社会に、私はアクションを起こせる」こと、それだけを問うていたのだろう。それこそ純粋に、ただ学問的に。

そして伝えたかったのは、何らかの政治的思想ではなく、「学問実践できる」ことだったのだろう。


別の授業。上記とは分野も、先生性別も異なる。その先生がふと、自分経験について語る場面があった。

とある論文について、テレビ番組からコメントを求められたのだ。それは嬉しいことだと取材を受けたのだが、どうも番組としては「目指したい結論」があるらしく、そのようなコメントを「断定的に言ってもらえないか」と打診された。先生学者として嘘はつけないと断ったものの、放送された内容を見ると、やはり結論ありきの構成に利用されてしまっていた。

以降、先生はしばらくそのような取材は全て断っていた。しかし、ある時「本当にそれでいいのだろうか?」と考える機会があった。「仮にあの時自分が断ったとして、それで何かが変わっただろうか?」「コメントの場を与えられることは、それ自体社会意識を変えるチャンスなのではないか?」と。

それからは、取材のお願いも可能な限り断らないようにしているそうだ。やはり結論ありきの構成に利用されることは承知の上で、しかし、「その中で自分にやれることを探している」と言っていた。


学問政治活動に毒されてはいけないというのは、確かにその通りだと思う。一方で、政治活動にはもっと学問を持ち込むべきだろう。現状のように、宗教疑似科学、「気持ち」で動くばかりの活動いつまでも続けてはいけない。

そのためには、学問から拒絶するような態度をとり続けていてはいけないと思う。決して迎合するわけではなくとも、ただ一方的な「批判」では為せない仕事もあるのではないか。雲上人のままでいることなく、この汚く泥臭い社会の中に身を投じ、正しい学問実践していく必要もあるのではないか

フェミニズム学問だというのならもっと戦うべきだ。

青識亜論と石川優実との対談というか論戦ショーがあった。

https://togetter.com/li/1431453

それで、ビッグネーム同士の論戦ということで、各界の大物論客が集まるだろうし、会場はフェミオタクプロレスが見れるだろうと期待していた。

しかし、残念ながら、盛り上がりに欠ける展開になってしまった。

理由ネット政治大好きオタクしか来ず、フェミサイドが閑古鳥だったことに由来する。

会場からフェミサイドの大物が名乗りを上げ「お前らオタクは豚だ。ブヒブヒ泣くんじゃねえ」とか、ネット論客オタクが「オタク差別は許さん。表に出ろ」とかそういう期待されたやり取りは全くなかった。

で、ここからが本題。

フェミ論客が、「あんなのに参加するべきではなかった。弱い者いじめだ。青識はクズだ」とtwitterでことが終わった後に全員が言ってる。

オタクばっかりの会場は卑怯だとも。

しかちょっと待ってほしい。

別にオタクけが参加するイベントではなかった。もっといっぱいフェミが参加して、青識を精神リンチすることだって可能だったはずだ。

しかしなぜかフェミは参加しなかった。4000円払えなかったのだろうか?

オタクほとんどで、フェミがほぼいない。これは主催者も、オタクも、フェミも予想外だった。

フェミ論客twitter漫画家の本が、出版されたのはいいが、実際には支持者がそんな買わずに困ってしまったということもあったが、実際にお金を出したり動いたり、意見を言う人はオタクの比ではないほど少ないということが可視化されてしまった。

宇崎ちゃん単行本バカ売れ、献血キャンペーンはめちゃ成功したのに対して、実際に動くフェミはほぼ存在しないということがバレた。

最大の理由は、「フェミニズムが戦う心を忘れて、共感手法に終始し続ける時代が長すぎた」ことだ。

もっと率直にいうならば、「100%肯定のみを求めて泣く女」に終始した「被害者ポジションで語る」ことに慣れすぎたからだ(これはもうフェミニズムではないという批判はまったく正当である)。

まり、面と向かって「あなたの言ってることおかしくないですか?」と言われることを極端に怖がりすぎているのだ。

末端の支持者がそのレベルならまだしも、大学教授や、弁護士などのオピニオンリーダーの姿すらなかった。参加者に至っては「報酬をもらってないから」とまで言う始末である

参加するのは外の世界とつながらない、ネットの論壇や、雑誌炎上記事だけで、他者との議論の場に姿を現さず、愚にも似つかぬ根拠あやふやエッセイを本として売りながら、学会にすら論文をまともに出さないのがいまのフェミニズムの堕落の姿だ。

彼らにできるのは「炎上を仕掛けて放火する」「雑誌炎上記事投稿する」「ネット絵師を凍結させる」「電凸する」程度で、実際に動くことはまずない。


なにより狡猾なのは、フェミニズムのオピニオンリーダーたちは、自分たち共感作法(そうですね、ひどいのは男ですね。あなた被害者かわいそう)という手法によってのみ勢力を拡大してきたことを誰よりもよく知っていることだ。だからこそ、「自分たち論法が、自由議論の場や意見議論を戦わせ、批判する場に出ていく」ことを極端に嫌がる。大学生の「なにを意見として述べてもよい。しか客観性のある根拠はつけろ」という基本中の基本すらできていないことを知っているからだ。だから大学教授ですらが、自由議論の場に出て行って、自説の正しさを主張することすら怠る。負けることを知っているからだ。それよりも「あなた被害者あなた被害者」と繰り返し言うほうが、楽だし、金も稼げるし、何より危険が少ない。

しかし断言するが、それは学問ではない。

もう、学者たちは、はっきり言うべきなのだフェミニズムは保護されている、と。


フェミニズムが学問であり、その正しさを学問看板で主張するというのならば、「あらゆる方法でその正しさが検証される」のは当然であり必然である。そこから逃げるのなら、もう学問ではない。

大学院生ならわかるだろう。あの学問のいやらしさを。論文のあらさがしばかりする腐れ外道魑魅魍魎たちを。学会質問のいやらしさなんて、青眼鏡の比じゃないレベルでぐいぐい突っ込んできますよ。

本当に最低。でもそういうところで戦わずに、「学生相手講義を一コマ男性社会悪口適当根拠で言って、男性社会悪口レポートを書かせて単位をやる」みたいな社会学の講義だけやって終わるような真似をしないでほしい。


石川優実さんが立派なのは、そういう自分の正しさを戦わせることを選んだことだ。彼女理論はともかく、意見の違う他者と戦ったという一点において、紛れもなくフェミニストであり、その一点において肯定されるべきだろう。100%に近い肯定の得られる場所以外はいかないという偽物ではなかった。それだけはこのイベントの収穫であっただろう。

追記 有村悠が凍結された。オタクが凍結させたのかと思ったら左派陣営フェミ側が怒ったかららしい。そういうところだけは仕事が早い。有村悠なんて、フェミ側の人間だろうに。

追記追記 と思ったら急に泣き言を言い出した。なんなんだよ。どっちらけだよ。司会者もセッティングもすべて石川有利に作られてたのかよ。しかも青識から一週間前に質問内容を全て教えてもらって、論点まで司会者と一緒に事前話し合ってたのかよ。そのうえで、「私はモノ化された」と泣き言をいうのがフェミニズムなのかぁ。被害者ポジションはそりゃ楽だろうさ。でもそれはフェミニズムじゃない。

anond:20191117053837

フィクションだろうがノンフィクションだろうが、漫画だろうがアートだろうが学問だろうがそれを金にできる奴と金にできない奴に分かれるだけだよ。

金にできる奴はどんなに下品なことをやろうが社会的には充実した生活が送れるし、金にできない奴はどんなに高尚なことをやろうがただの自己満足で終わる。

anond:20191117052217

漫画に期待しすぎ。あんもの所詮、頭の休憩や暇潰しの域を出ない

それに30ならそろそろフィクション自体から卒業しないと

現実社会問題とか学問とか勉強すべき事は無数にある

2019-11-16

フェミニスト発言話題になっているけど

学問としてのジェンダー学や社会学や以前あったジェンダー法学会の騒動

運動としての韓国フェミニズムとラブ・ピースクラブヒューマンライツ・ナウ辺りのフェミニスト団体関係のような話は

偽色情報はありそうだけどどういうつながりをしているのか気になる

anond:20191116174702

魅力とかそういう問題じゃないんだが

反党的な活動は全て封じられるのに理系でもなく文系の学徒が羨ましく思うなら

もう学問を捨てて働くべきでは?

理系はともかく文系中国大学羨ましがるのヤバくない?

Twitterで流れてきたけど

文系学生共産党下の中国大学羨ましがるの学問以前の問題だろ

2019-11-14

歴代天皇Y染色体って、神武天皇のそれと完全同一なの?

皇室男系絶対維持!女系天皇にあらず皇室滅亡と一緒!すなわち日本滅亡! みたいな事いっちゃってる人らがそういう風に主張してるんだけど?

生命科学とか遺伝子工学とかの学問には疎いのでぶっちゃけからない事の方が多いのだが、自分理解するところでは、

「X染色体と結合してXY染色体になった時点で相互遺伝的組換えが起こるのだから全く同一の(同じ塩基配列)が保持されたY染色体次世代に受け継がれる事は無い」

まり綏靖天皇(第2代天皇)のY染色体父親である神武天皇Y染色体とは同一ではない。父:神武天皇Y染色体と母:媛蹈鞴五十鈴媛のX染色体塩基配列の(確率的に)ほぼ半々ずつを受け継いでいる。』

こういう説明をより分かりやす日本会議周辺に伝える為には一体どういう手法が考えられるだろうか?

anond:20191114122611

普通書評というのは基本的にほめるものだ。批判はあっても最後ちょっとだけ。

 

そんなことあるかよ…

文系学問で有名論争バトルなんていくらでもあるだろうに

文系学問は長々と研究史まとめるのが必須から、そういうの見つけるとワクワクするよね

anond:20191114122939

そもそもこんな空前絶後激辛書評論文大学院生が書くこと自体大きなリスクを伴う。(書評子、いろいろ大丈夫か?)無理なイチャモンをつけるためにそんな危険を冒すわけがないし、出版前に東大で止められるだろう。

それを言ったら、この本の著者もそんな事するだろうか...? という話になるし、異なる学問流派間のバトルとも言えそうだし、いくら材料提示されても、素人には判断が下せないのであった。。。

京大博論を元にした本が東大紀要書評フルボッコされてる件2

(長く書きすぎたみたいだ。途中で切れてしまった。。。)

京大STAP細胞はありま~す?」

もう終わりにしよう。書評批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文審査結果の要旨とほとんど同じ。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf

審査結果からもいくつか引用しておこう。

論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式文法カテゴリ創発する根源的理由説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新たな研究分野の基礎を示した先駆的研究として評価することができる。

論文日本語文法事象を中心に扱っており、その記述分析の面においても、射程の広さと事例観察の綿密さが評価される。分析対象として、格、時制、主語目的語自動詞他動詞、態、形容詞といった広範な現象を横断的に扱い、本論文の主張する日本語の「主体化による認知モード」によって一貫した説明が試みられており、それらがいずれも西欧パラダイムによる言語研究標準的使用されてきた文法概念と完全な対応関係を結ばないことが、説得力をもって示されている。

日本語学で所与のものとして適用されてきた「動詞の自他」や「態」といった文法概念のものの再検討を迫るという点で、本論文日本語研究にも一定の貢献をなすものである。また、本論文日本語における文法カテゴリや語彙の変容にも照準を合わせたものであるが、その主張は単なる理論憶測ではなく、万葉集源氏物語などの主要な古典作品をはじめとする膨大な歴史的資料に基づいたものであり、言語研究において不可欠である言語データの観察の綿密さについても高く評価することができる。

論文共時的言語事例と通時的言語事例とを並行的に分析し、日本語言語現象全般個別現象の解明を目指した統合研究であり、認知言語類型論という新たな研究視点提供している点で、学術価値は高いと判断される。

よって、本論文博士人間環境学)の学位論文として価値あるものと認める。

また、平成26年11月26日論文内容とそれに関連した事項について試問を行った結果、合格と認めた。

まさにお墨付きだ。

最後ちょっと真面目な話。『認知言語類型原理』の問題は、この書評で間違いだと明らかになったことじゃない。学問は古い学説踏み台にして進んでいく。今の定説もいつかは否定され、乗り越えられていくかもしれない。だから、間違いを含んでいるとわかったこ自体問題じゃない。それまでの研究に新たな知見を付け加えたのなら、たとえ間違いを含んでいても価値ある研究だ。ダメなのは、従来の研究に何ら新しい知見を付け加えず、最初から間違いだとわかる研究だ。『認知言語類型原理』はまさにそのような本だと批判されている。もちろん、出版された本に対してそのような批判をする権利は誰にでもある。たとえ批判が当たっていなくても、ある。自由批判ができることは、学問の発展に不可欠だ。書評子が批判したことで将来不利益を被ることがあってはならない。

それにしても、どうして『認知言語類型原理』は『日本語主語はいらない』みたいに多くの言語学者から批判されていないんだ? 『日本語主語はいらない』は大手出版から一般向けに出たのに対して、『認知言語類型原理』は学術専門出版から専門書として出たからか? それにしたって、専門書でも専門家なら読むだろうし、なんならもっと真剣に読むだろう。他に書評は出てないのかとCiNii https://ci.nii.ac.jp/ で『認知言語類型原理』を検索したけど、ないみたいだ。もしかして京大とか超大物研究者とかの権威に怯んでるのか? 文系学問がそんな腐敗した世界なら、世間から不要とされるのも無理はない。この腐敗した世界に堕とされても、くだらないことでビビることなく「王様は裸じゃないか! 裸の王様、何を学んだの?」と喝破した書評子には拍手喝采を送りたい。だけど、こんなものを書くために生まれたんじゃないだろ…。

京大博論を元にした本が東大紀要書評フルボッコされてる件

日本大学特に文系学問に対する風当たりが厳しい昨今、文系学者達は自分たち存在意義を示そうと必死だ。大学で行われている文系研究は、どう役に立つかはともかく、それ自体研究としてちゃんとしたものなんだ!ということは前提となっているし、みんなそう信じている。文系先生達は決してSTAP細胞のようなデタラメをやっているのではないと。

だが、それは本当か? 証拠はあるのか? 最先端研究専門家でさえ評価が難しい。たとえばアインシュタイン一般特殊相対性理論を作ったけど、時代の先を行き過ぎていて正当な評価がされなかったそうで、ノーベル賞は他の業績に対して与えられた。文系研究基本的には同じで、研究の良し悪しを判断できる人は極少数だ。だから、知らないうちにトンデモない研究がはびこっていて、それに社会的評価が伴っていても、ほとんどの人にはわからない。専門家が厳正に評価してくれていることを信じるしかない。

パンドラの箱が開いた

本題に入ろう。最近、1つの書評論文東大言語学研究室発行の紀要に出た。

田中太一日本語は「主体的」な言語か―『認知言語類型原理』について―」『東京大学言語学論集』 41 (2019.9) 295-313

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=53475&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1

書評された本は『認知言語類型原理』(京都大学出版会)。

https://www.amazon.co.jp/dp/4814001177/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_6P9YDbPVN9WJ2

著者は、関西外国語大学 短期大学部 英米語学准教授中野研一郎先生

 

普通書評というのは基本的にほめるものだ。批判はあっても最後ちょっとだけ。しかし、この書評は、冷静な筆致でありながら、酷評酷評、ボロクソ、クソミソ、ケチョンケチョンフルボッコだ。一個もほめてない。批判が当たっているなら、トンデモ本に違いない。

こうすればあなた博士になれる

一番ヤバいのは、この本が博士論文を元にしたものということ! 一応説明しておくと、博士論文とは、最高の学位である博士」の学位を取るために大学院生が何年もかけて書く長大論文で、大雑把に言って本1冊以上の分量がある。もちろん、何でもいいからテキトーに書けばいいわけではない(はずだ)。自分オリジナルで、学術的に価値のあること、つまり、これまで誰も知らなかった知見を新たにもたらして人間知識を拡大するような研究の成果でなければいけない。どの分野でもそうだ。

そして博士論文原稿は、3~5人の審査委員審査する。審査委員は全員、その分野に詳しい大学教員だ。審査は3回くらいある。まずは博士論文の大枠ができた後、本格的な執筆にゴーサインを出すかを決める一次審査、そして論文が大体書けた後、論文大学に提出していいか審査する二次審査最後論文が完成し、大学に提出された後、博士学位を与えるか否かを決める最終審査がある。それぞれ少なくとも1時間はかかる本格的なものだ。ディフェンスと言われる最終審査の口頭試問は、公開で行われる。最後に別室で結果を審議した審査委員が会場に戻ってきて厳かに合格が伝えられると、みんな拍手で心から祝福する。

ミサト:おめでとう!

アスカ:おめでとう!

レイ:おめでとう。

シンジ:僕はここ(アカデミア)にいてもいいんだ!

研究人生のフィナーレではないが、1つのピーである。こうやって研究者の能力お墨付きを与えるのが大学存在意義の大きな一部分だ。

要するに、博士号を取るのはとても大変なのだ日本だと博士号を持っている人は1万人に1人くらいしかいないらしい。日本大学は入るのは難しいのに出るのは簡単だとよく言われるけど、大学院の博士課程はそうではない。入るのも修士課程ほど楽ではないし、文系では入っても博士号を取れない人の方が多いくらいだ。これだけ大変だから博士号はアカデミアでは評価される。大学教員になるなら、博士じゃないとエントリーすることさえほぼほぼ不可能。『認知言語類型論』の中野先生は、フェイスブックを見たところ、以前は高校先生だったみたいだけど、博士号をとってから、50歳を過ぎて関西外国語大学准教授になったようだ。周知の通り、大学終身雇用教員の座をめぐる争いは非常に激しい。博士号がなかったら就職できなかっただろう。

 

博士号はどこの大学でとっても価値は同じ、みたいなことを何度か読んだことがあるけど、あれはデマ。真に受けてはいけない。いい大学博士号ほど高く評価される(Why not?)。中野先生がお持ちの京都大学博士号は、京大が超一流なのと同様、超一流の博士号だ。50歳を過ぎて大学就職できたのも不思議ではない。しかも、中野先生師匠は、日本言語学界の大物中の大物、山梨正明先生だ。『認知言語類型原理』に山梨先生が解題を寄せているから間違いない。この大先生は、「日本代表する理論言語学者の一人」([wikipedia:山梨正明])。中野先生が在学していた頃には、日本語用論学会(2008〜2011)や、日本認知言語学会(2009〜2012)の会長を同時に務めもした大物中の大物だ。ちなみに、山梨大先生2014年度に京大を定年退官して、2015年から中野先生より一足早く関西外国語大学で教鞭をとっている。ちょっとややこしい話だが、博士論文審査が終わる前に京大を定年退官したようで、審査主査ではないが、審査委員には名を連ねている。https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/199376 博士論文を書くのに何年もかかるから、こういうことはよくある。

日本語に主語目的語、態、時制、格、自動詞他動詞はいらない?

さて、超大物お墨付き博士論文(を元にした本)はどんなもんなんだろうか。書評から拾っていこう。2節は専門的な議論でよくわからいかパス。3節「日本語に存在しないとされるものから見ていこう。まず、1節に同書のまとめらしき部分から引用がある。

日本語(やまとことば)」を深層とする日本語において、「形容詞 (adjective)」・「主語 (subject)/目的語 (object)」・「態(voice)」・「時制 (tense)」・「格 (case)」・「他動詞 (transitive verb)/自動詞 (intransitive verb)」といった、従来ア・プリオリに前提とされていた統語・文法カテゴリ妥当していないことも論証した。さらに、「膠着」言語の一つである日本語」においては、その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしていることを論じた。

(『認知言語類型原理』[以下、中野 2017] p. 308、書評論文[以下、田中 2019]p. 295から禁断の孫引き。以下、同書の引用は全て孫引き)

昔、『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』[amazon:日本語に主語はいらない]という本が出て、言語学者に酷評されたことがある。金谷武洋日本語に主語はいらない』批判記事一覧 - 誰がログ https://dlit.hatenadiary.com/entry/20071216/1197757579

主語がいらないと言っただけでそうなったのに、『認知言語類型原理』は、ミニマリスト断捨離なんてもんじゃない。主語だけじゃなく、形容詞、態、時制、格、自動詞他動詞も、いらない、何も、捨ててしまおう~♪と謳っているらしい。全部なしで日本語の文法はどうなっているのかというと、「その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしている」ということらしい。

「音象徴」の名の元に蘇る亡霊

これは熊倉千之氏の「音象徴理論に基づいているそうで、熊倉氏は、

膠着語にかんして、「イメージイメージを膠でつけるように、ことばができているのです。ですから、具体的なモノとモノをつなげると、言語(コト) としての「抽象」 性が生まれ、新しいことばが作られるのです (熊倉 2011: 18)と述べた上で、日本語の音素はそれぞれ何らかのイメージを持つという観察を根拠に、やまとことばの「音声と意味」には、ソシュールの説に反して、「恣意的」ではなく、密接な繋がりが感じられる」 (熊倉 2011: 30) と主張している。

(これも田中 2019: 309から禁断の孫引き

熊倉千之 (2011)『日本語の深層〈話者のイマ・ココ〉を生きることば』東京: 筑摩書房.

とのこと。

近代言語学の父、ソシュールの一番有名な恣意性原理否定しているが、それ自体はない話ではない。音象徴が当てはまる例として、ポケモンとか怪獣名前は、音と意味関係が全く恣意的なわけではない、みたいなことが最近よく言われている。ただ音象徴基本的オノマトペ擬音語擬態語)や新たに名前を付けるものについての話、しかあくま傾向性言語全体の「語・語句・節の生成メカニズム」になるようなものとして扱われてはいない。しかし、中野説はそういった主流の音象徴研究とは一線を画する。具体的に見てみると、

「あ/a/」は「空間出来の語基」 として、「い/i/・居」 は「様態化の語基」 として、「う /u/・続」 は「プロセス化の語基」 として、 「音象徴」 により語彙を創発させる機能を担っているのである(中野 2017: 247) 。

知らなかったー、日本語ってすごいですね(棒)。たとえば、「合う・会う」は、「あ/a/」+「う /u/」だから、「(出来)動詞」だそうだ。書評子が、

「「出来」が「プロセス化」すると「合う・会う」になるという説明は到底理解できるものではない」(田中 2019: 309)

と言う通りだ。「あい」(愛とか藍)はどうなるんだろう。中野先生によると、音象徴

日本語(やまとことば)」の同音異義の語の数の多さと、またオノマトペの豊穣さの、母体にもなっている」 (中野 2017:232)

そうだが、書評子は、ここに鋭く矛盾を見て取る。

この主張は、本書の議論を決定的に破綻させるものである。もし「音=意味」という恣意的でない結びつきが存在するならば、同じ音を(同じ順序で)組み合わせれば同じ意味になるはずである同音異義語存在が極少数に限られるならともかく、その数が多いのであれば、日本語の全体を「音象徴」に基づいて分析することが不可能であることは自明である。(田中 2019: 310)

かに。他にも、中野先生は「確かに」・「達する」・「頼みます」・「たった、これだけですか」・「立つ」・「経つ」・「絶つ」・「裁つ」などを例に、

日本語(やまとことば)」では、音部分が同根であれば、「音象徴」に基づき、その意味機能通底している 。 [中略] 「た/ta/」音を語頭とする語は「心的確定(確信)」を基に語彙が生成していることが理解できる。「日本やまとことば」の「た/ta/」音は、「音象徴」において「確信」を「意味」とする「音」なのである。 (中野 2017: 255)

と言っているそうだが、「立つ」とか中野先生自身の例でさえ、どこが確信関係があるのかわからない例もある。この説が無理なのはよく考えてみるまでもない。

そもそも、「音象徴」なんて流行りのタームを中野先生熊倉氏は使っているが、こういう説は「音義説」[wikipedia:音義説]と言うのがより正確だ。近代以前に唱える人がたまにいたけど、今ではググるとわかる通り素人が唱えているだけのものだ。ちなみに、このような形で同書に大きな影響を与えた熊倉千之氏とは、

1980年「『源氏物語』の語りの時間」でカリフォルニア大学バークレー校にてPh.D.取得。ミシガン大学サンフランシスコ州立大学などで日本語・日本文学を教える。1988年帰国後、東京家政学院大学教授1999年金城学院大学教授2007年退職

[wikipedia:熊倉千之]

という人。ウィキペディアでは一応「日本文学者・日本語学者」となってはいるけど、専門はどう見ても文学言語について言語学界とは関係なく自由思索著述をしている人のようだ。そういう独自言語論を唱える文学思想研究者はよくいるけど、普通言語学者はそういうのはまともに相手にしない。『認知言語類型原理』もその類の本だったなら、東大言語学を学ぶ書評子も取り合わなかっただろう。でも、これは京大言語科学講座で博士号をとるために書かれた論文(が元になった本)なのだ

驚愕の主張の数々

他にも同書には、業界震撼の主張が満載みたいだ。是非同書を買って私の代わりに確認してみてほしい。

日本語では論理的命題を表すことができない」(田中 2019: 305)
日本語は英語を含む近代ヨーロッパ標準諸語に翻訳できず、また近代ヨーロッパ標準諸語も日本語に翻訳できない」(中野 2017: 268)
科学数学物理学化学生物学法学経済学歴史学社会学言語学等)」と称せられるものの全ての言説は、日本語で書かれている限り、「日本語(やまとことば)」の論理によって、「客観的であるとする言語論理的根拠を維持できないのである。当然のことながら、この本自体も、日本語で書いている限りはその陥穽から逃れることができない。」 (中野 2017: 268)
日本語の「伝聞」というコミュニケーション様態においては、伝えられる内容は、伝える者によって「主体化」されており、したがって、その「主体化」された内容の真偽判断に関わっては、「権威」が必要となる。伝える者に「権威」が伴っていない場合、伝えられる内容は真と判断されない。」(中野 2017: 16)

しつこいようだが、これで5年前に京大博士号が取れたのだ。

ちなみに、なんで日本語が英語などと違ってこうなってるかと言うと、中野先生によると、日本語は歴史的文字を持たなかったからだそうだ。とはいえ英語だってそうだし、文字で残っている歴史の長さも日本語と同じくらいなんだけど。っていうか、どの言語も昔々は文字がなかっただろ!

ということで、書評の内容は変な言いがかりではないようだ。そもそもこんな空前絶後激辛書評論文大学院生が書くこと自体大きなリスクを伴う。(書評子、いろいろ大丈夫か?)無理なイチャモンをつけるためにそんな危険を冒すわけがないし、出版前に東大で止められるだろう。ま、『認知言語類型原理』は、博士論文審査から本の出版にいたるまで、誰にも止められなかったみたいだけど!

京大STAP細胞はありま~す?」

もう終わりにしよう。書評批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文審査結果の要旨とほとんど同じ。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf

審査結果からもいくつか引用しておこう。

論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式文法カテゴリ創発する根源的理由説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新た

2019-11-13

anond:20191112222103

さら追記

・90分教室に座る体力

5年引きこもったあと、大学に行ってみると10分座って難しい話を聞いているだけで限界で、トイレに行ってしまうような身体になっていた。

難しすぎて、何を言っているのか分からないし、周りにいる人たちも全員初対面。(4留なので)

ところが運動すると、耐えられる時間が少しずつ長くなっていったのだ。

また、冷静に見れるようになると大学での学問ほとんどの人にとって、同様にちんぷんかんぷんしかないことも理解した。

さすがに本格的に勉強するようになってからちゃん理解してるけど、それ以前の大学生がほとんどなのでそもそも恥ずべきことでは無い。

・車

必須である。これがないと女遊びは出来ない。年間50万くらいでローン含めて維持可能

2019-11-08

anond:20191106235523

サンジが大好きな少年と、嫌いな少年比較したときに、前者のほうがセクハラ男になる確率が高い……などということはない。

 

サンジ」の部分は、奇面組でも横島忠雄でもゆらぎ荘でもいいぞ。

 

 

"ありえなくもない"、じゃない。

ありえない。それはもう学問的にファイナルアンサーが出ている。

女性学かい自称学問自称専門家が認めてないので分りにくいだろうがこればっかりは本当だ。

俺はお前が"あり得て欲しい"とすら思っているのではないかと思う。

 

anond:20191108134228

高校物理はわかっててその本が読めないなら

その本は物理だけではないのかもしれんね

(いわば高校の教科のようにきっちりわかれた物理ではなく

大学のいろんなジャンルまぜこぜな「科学」の中での「物理っぽい学問」)

 

用語からすると物理化学の本なんだろ

化学ポテンシャルだの励起だのは

化学ミクロ物理かなあ

量子化学・量子物理学までいかない部分かね

2019-11-06

anond:20191103222919

いや、社会学学会に参加してたり博士論文取ったりしてるやん。それ排除しないと、意味ないよ。自分学問からうんこ垂れ流してる証拠そのままでこっちに来ないでなんて言われてもさすがに都合がよすぎるだろ。

上野千鶴子からすべての学問的な箔を取り切れたら止めるよ。俺は。

2019-11-05

で、いったい誰が社会学の狂犬を駆除すんの?

要するにまともな研究をせず本ばっかり書いたり雑誌に三文記事書いてるようなアホを、学問としてお墨付き与えてるわけでしょう。

誰が、あのアホどもを駆除すんの?

これはほかの分野でもいい。要するにテレビ学者でござい、って顔してギャーギャー根拠のないことばっかり言う連中を、どうやって駆除するわけ?

迷惑なんで、何とかしてくれませんか? 構造主義だの社会学方法だのどうでもいいよ。ソーカル事件すらまともに総括できなかったのはなぜ?

トンデモ巣窟になってる理由は?

どうしたら正常化されるんだ?

anond:20191105160751

ん?トーンポリシング

ごめんね、そんなに急にギャオオンされても意味がとれないよ、落ち着いて。

元記エントリでは絡まった倫理的問題個別命題に切り分けてどこまでが意見のすり合わせができそうなのか論じてるのに、

急にそこに自分でっちあげた定義ねじこんで読み替えちゃったら

「あ、こいつは高等教育機関でで文章書く訓練は受けてこなかったのかな」と思っちゃうのは仕方ないよ。

お画描きばかりして青春を過ごしたかな・・ 誤解だったらごめんね。

おつむゆるふわなサブ学問の徒でも便利に振り回せるように天上のフェミから与えられた便利な用語の使い方も満足にわからないんだから救われないよなw

争いは同じレベルの者同士でしか発生しない

元々フェミニストって強者女がなるもんだったと思う

男と同じように勉強していい大学入り学問を修めようとして「あなたはい結婚するの?」とかバリバリキャリアウーマン目指して「女はお茶汲みでもしてろ」とか言われたような人間

が、対強者男、つまり社会を変えることができるような権力をもった人間に向けて発信してたんだろうけど

ツイフェミ主婦とか腐女子とかグラドル?とかお前が言うな案件ばっかりで

案の定クソ女特有の棚上げすり替えお気持ち論法の嵐

一方それに反論するのは弱者男性たち

ただでさえ学歴社会就職戦争その他諸々に敗北した、あるいはそのスタートラインにすら立てなかったような、社会歯車にすらなり損ねた奴ら

お前らは虐げられて生きてきて苦しいんだろうけど、お前の怒りの矛先はどう考えてもツイフェミじゃないだろ

もっと違うとこに目を向ければ?知らんけど

とか思うけど議論楽しそうだからいいのかな?

2019-11-04

科学のもの事実かどうかを現在において確かめることができる客観性の伴った情報の集積を一つの学問として分類した言葉だ。

最近漫画を読んでいると不真面目な漫画家という職人の頭の中ではどうにも科学情報の集積)と科学を応用した科学技術知識としての技術)と科学技術を使った道具(情報以外の実用性を持つ物体)の三つの区別がつけられていない。

科学という日本語科学技術および科学技術が応用された道具という意味合いが含まれるようになる日もそう遠くはないかもしれない。

あるいは阿呆は今もすべてが同じだと思っているのか、これから先も間抜けしか混同しないのか。

anond:20191104043628

それなりのエネルギーを投入し錯綜した問題論点を整理しても低学歴には無意味ということが一段落目でよくわかる

箇条書きにしても 「ぼく、そもそも最初からそのとおりだとおもうよ!」

上野千鶴子を見ればわかるとおり社会学はこういう虫を排除するどころか手駒として使い学問良心蔑ろにしてきたのだから今日エセ学問よばわりされるのもある程度はしかたないね

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