2019-11-17

それでも学問政治活動を分断させてはいけない

とある理系大学文系教養課程。最終日のテーマは「原発についてどう考えるか」であった。震災からまだ数年、明らかに政治的な」設問である。それまでの重厚で如何にも学問的な講義とは、明らかに様子が異なる。先生は、「あなたが望むと望まないとに関わらず、これから社会はこのようになるだろう。そこであなたは何を考える?」と問うた。

私は、問われていることの意味もわからず、ただその時の素直な「気持ち」をレポートに書いて提出した。今思えばそれは全くナンセンスな回答だったのだろう。書き直せるものなら書き直したい。

人間は根源的に自由である」とは、講義中に何度も先生が口にした言葉だ。すなわち、この世界にどのような強制力が働いたとしても、最終的な意思行動決定権を握るのは自分なのだと。その言葉意味を、当時の私も理解していたつもりなのだが、それを実践するまでには至っていなかったのだろう。あの日先生が問うていたのも、結局は「そこ」だったのだ。

原発のあり方に賛成か反対か。賛成/反対だとして、どのような具体案を持っているか。そんなことはどうでも良かったのだ。ただ、「この社会に、私はアクションを起こせる」こと、それだけを問うていたのだろう。それこそ純粋に、ただ学問的に。

そして伝えたかったのは、何らかの政治的思想ではなく、「学問実践できる」ことだったのだろう。


別の授業。上記とは分野も、先生性別も異なる。その先生がふと、自分経験について語る場面があった。

とある論文について、テレビ番組からコメントを求められたのだ。それは嬉しいことだと取材を受けたのだが、どうも番組としては「目指したい結論」があるらしく、そのようなコメントを「断定的に言ってもらえないか」と打診された。先生学者として嘘はつけないと断ったものの、放送された内容を見ると、やはり結論ありきの構成に利用されてしまっていた。

以降、先生はしばらくそのような取材は全て断っていた。しかし、ある時「本当にそれでいいのだろうか?」と考える機会があった。「仮にあの時自分が断ったとして、それで何かが変わっただろうか?」「コメントの場を与えられることは、それ自体社会意識を変えるチャンスなのではないか?」と。

それからは、取材のお願いも可能な限り断らないようにしているそうだ。やはり結論ありきの構成に利用されることは承知の上で、しかし、「その中で自分にやれることを探している」と言っていた。


学問政治活動に毒されてはいけないというのは、確かにその通りだと思う。一方で、政治活動にはもっと学問を持ち込むべきだろう。現状のように、宗教疑似科学、「気持ち」で動くばかりの活動いつまでも続けてはいけない。

そのためには、学問から拒絶するような態度をとり続けていてはいけないと思う。決して迎合するわけではなくとも、ただ一方的な「批判」では為せない仕事もあるのではないか。雲上人のままでいることなく、この汚く泥臭い社会の中に身を投じ、正しい学問実践していく必要もあるのではないか

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