はてなキーワード: 哲学者とは
https://twitter.com/tm2501/status/1356865620206186496 と連続するツイートの
主張を箇条書きにしてみると、こんな感じだろうか
原:何度も言ってるけど、「社会学と哲学は真理の探求や再発見を目的とした学問じゃないことが問題」なんですよ。
訳:社会学や哲学は、真理の探求や再発見を目的とした学問に見えず、問題であると感じる。
訳:社会学や哲学は科学ではない。「議論に参加するまでの難しさ」や「成果を示すこと」によって、大衆を納得させることができないからである。
→意味不明。主張者が科学の一般的な定義について理解しているのかは不明。
原:だから個人的には哲学は歴史学や倫理学の一部ぐらいに(以下略)
訳:社会学や哲学は、真理の探求や再発見を目的とした学問に見えず、問題であり、また、社会学や哲学は科学ではないから、哲学は歴史学や倫理学の一分野として扱うべきだし、社会学は民俗学、経済学又は心理学の一分野として扱うべき。
→意味不明
訳:国家機関(官公庁)に例えてみると、不法行為を取り締まるのは、基本的には警察である。
但し、法律で定めのあるものについては、公正取引委員会、麻薬取締官、労働基準監督署、国税庁や消費者庁等所管が違う場合があ(って、一見ややこしく見え)る。
原:「ややこしく見える」は控えめな言い方で(以下略)
訳:哲学者や社会学者は、自らの学問のみでなく、周縁の学問についても深い学識を有すべきだが、そうした訳でもなく、自らの狭い理解で物事を語ろうとしており、問題である。
→前の主張とどう繋がっているのか、いまいちわからない。また、実例が挙げられないので、有効な主張としては取り扱えない。
訳:国家機関(官公庁)で言えば、被害額の多い事件等、ある種の犯罪については、警察とは違う官庁に取り扱わせようというのは、合理性があるから、納得できる。
訳:しかしながら、社会学や哲学は、現代において重要性が低く、また独立した一ジャンルとして扱う必要・合理性は認められない。これが世論の見解である。
→理由や根拠が示されないので到底同意はできないし、それが世論であるとは言えない。
以上
頑張って原文いかしつつ書き換えてみたよー!
国家において、不法行為を取り締まるのは基本警察である。しかし刑法で定められる事件のうち、
特定の種類のものは、公取・麻取・労基署・国税庁・消費者庁など、警察とは独立した組織が取り締まることになっている。(2段落前半)
このように、不法行為の取り締まりが警察に一本化されていないのはややこしい。(2段落後半)
とはいえ、国家において「『警察』とは独立して公取・麻取・労基署・国税庁・消費者庁が存在」していることはまだ納得できる。
件数が特に多かったり、被害額が大きいような犯罪の場合、それに特化した取り締まり組織を作ろうというのは、当然の発想だからだ。(4段落前半)
しかし、「『歴史学や倫理学』とは独立して哲学が存在」していることや、「『民俗学、経済学、心理学』とは
独立して社会学が存在」していたりすることはどうなのだろうか。(独自に挿入)
哲学や社会学は、『歴史学や倫理学』『民俗学、経済学、心理学』から独立させるほど重要性が高いのだろうか。
わざわざ「哲学者」「社会学者」という独立した仕事を作る必要があるのだろうか…と世論は見ているように思われる。(4段落後半)
なぜならば、哲学をやるには『歴史学 (世界史)や倫理学』に通じていることが当然求められる。
同様に社会学をやるには『民俗学、経済学、心理学 (歴史的な観点、人間心理の観点)』など、
逆に、もし『歴史学 (世界史)や倫理学』を学んでいない哲学者や、『民俗学、経済学、
心理学 (歴史的な観点、人間心理の観点)』的視点を持たない社会学者がいるとしたら、大いに問題と思われる。(3段落)
つまり、哲学や社会学には、「公取・麻取・労基署・国税庁・消費者庁を『警察』から独立」させたような重要性はない。
哲学は『歴史学や倫理学』の一部、社会学も『民俗学、経済学、心理学』の一部として位置付ければ十分ではないかと考える。(第1段落)
●技術的な点
哲学・社会学を警察と対比させる際に、警察では『警察』と「公取・麻取・労基署・国税庁・消費者庁」、
一方で『歴史学や倫理学』と「哲学」のように、『』と「」のどちらが複数の要素を含むのかが逆転しているのが、わかりにくい理由の一つですね。
1段落の『歴史学』が3段落で世界史になったり、1段落の『民俗学、経済学、心理学』が
3段落では「歴史的な観点、人間心理の観点」になったりと、積極的な意味なく置き換えているのも混乱の原因だと思います。
●追記
哲学は歴史学や倫理学の一部ぐらいにランクを落としたほうがいいし、社会学も民俗学、経済学、心理学のどっかでいいんじゃないかな?と正直思う。
これが国なら不法行為を取り締まるのは基本警察。一部の法律だけは公取・麻取・労基署・国税庁・消費者庁あってややこしく見える感じ。
「ややこしく見える」は控えめな言い方で、これが学問だと「哲学者が倫理学や世界史など周辺の学問を学んでないとしたら、そいつはなんだ?」って話だし、社会学が狭い領域のことに影響を受けてその背景をもっと根深い学問(歴史的な観点、人間心理の観点など)から説明できないとしたらそれもそれで…
お国で言うと特に犯罪が多かったり被害額が多いモノを警察とはまた別の部署を作ろうって話になるのは納得できる。でも、社会学や哲学ってそれは独立した学問として存在するほど重要性が高かったり、それ専門の仕事を作る必要があるものか?と言われると…っていうのが、世論からみた感じなのでは?
何を言いたいのか全然わからないので誰かこの暗号みたいな文章をまともな日本語に直してほしい
意図だけならわからんでもない。言いたいことは最初の一文だけで、この書き手が哲学と社会学を何とかして貶めたいってことなんだろう多分。
そしてこの書き手が社会学のことも哲学のことも国のことも警察のことも法律のことも何一つわかってないのに知ったかぶりをして何か語ろうとしていることもわかる。
そこまでわかっていても、あまりにも文章のつながりが意味不明。
正直、社会学叩きって哲学者(というか東浩紀関係者)叩き、パクリデザイン叩きと地続きに見えるんだよね。数理化しづらい学問及び仕事が権威を振りかざして暴れてる光景に人々が「その権威、ホンマに正しい?」と
何度も言ってるけど、「社会学と哲学は真理の探求や再発見を目的とした学問じゃないことが問題」なんですよ。
これが科学なら議論に参加するまでの難しさとか成果を示すことによって「この人達が偉い・大金使って研究してるのは納得できる」んだけど、哲学や社会学で大衆を納得させるのむずいもん
もちろん、社会学でもちゃんと統計に基づいて「これおかしくない?」とか、「こういう問題をちゃんと取り上げて世の中をアップデートしたよ」って言えるような人はいるけど、テレビのコメンテーターとそう変わらんことしか言ってない人については…まぁ…ね
だから個人的には哲学は歴史学や倫理学の一部ぐらいにランクを落としたほうがいいし、社会学も民俗学、経済学、心理学のどっかでいいんじゃないかな?と正直思う。
これを国で例えると、国なら不法行為を取り締まるのは基本警察。一部の法律だけは公取・麻取・労基署・国税庁・消費者庁あってややこしく見える感じ
「ややこしく見える」は控えめな言い方で、これが学問だと「哲学者が倫理学や世界史など周辺の学問を学んでないとしたら、そいつはなんだ?」って話だし、社会学が狭い領域のことに影響を受けてその背景をもっと根深い学問(歴史的な観点、人間心理の観点など)から説明できないとしたらそれもそれで…
お国で言うと特に犯罪が多かったり被害額が多いモノを警察とはまた別の部署を作ろうって話になるのは納得できる。
でも、社会学や哲学ってそれは独立した学問として存在するほど重要性が高かったり、それ専門の仕事を作る必要があるものか?と言われると…っていうのが、世論からみた感じなのでは?
言ったこと全部覚えといても揚げ足取りだとか、逆にこっちが言ったこと覚えてなくて言われても文句言えないからね?そのことをあんまりわかってない人がこの言葉を使うんだ
俺だって重要なことは時間かけて説明したり、何度も言ったりする。
でも聞かないやつは出てくる。
そういう時にはキレないでほっとく。
もう、言ったんだから私は知らん。
考えがあるかも知れんし、やりたくないかもしれない人に説明しても無駄だから
なぜ会話しないか考えなくていい。
私は言った。
もう終わった。
必要性に気づいたらまた聞きに来たらいい。
必要性に気づかないか、とくに困ってなかったから私の話を流したんでしょ。
伝わってるからいいよ
私は変わってるかもしれない。
ただ、世の中に「自分の意見や命令を他人に絶対に聞かせないといけないこと」はすごく少ないんだ。
言わないといけないと考える人は支配欲が強いか優先順位がつけられないんでしょう。
知らんけど
誰も得しないというか「お互いにそう言われないために振る舞うことでコミュニケーションコストが高くなる」と思いました。
相手にやられても文句言えないし、嫌なことまで覚えられるリスクができるし
責任ある立場の人ならまだしも普通の人同士で前にあれを言ったこれを言ったとお互いで覚えていて指摘し合うっていうのはすごく大変だから
なぜネットユーザーは絶対正義であるかのように転売を叩けるのか?
少しでも考えれば転売を叩ける理屈などどこにもないと分かるはずだ。
このまま順当にいけば日本の格差社会はますます加速していくに違いない。
国民年金は年間80万円だが、厚生年金は一般的に国民年金の2倍以上の金額を受け取ることができる。
なお年間80万円という値は現時点のもので将来はもっと少なくなるだろうと予想されている。
年間80万円という金額でどのようにして生活していけばいいのか?
素直に考えれば年間80万円という金額で生活していくことは難しいだろう。
ではお年寄りは老後どのようにして生活費を稼いでいけばいいのか?
当たり前だが老後の体力の衰えによって体力を必要とする仕事は難しいだろう。
そうでなくとも雇用側の年齢制限によって採用される仕事の幅は狭められている。
「仕事の選り好み」以前の段階で雇用側の都合によって生活費を稼ぐことは難しいのだ。
膝の軟骨がすり減って、ちょっと動くだけでも激痛が走る。しかも膝の軟骨は修復しない。
ネットユーザーがいくらキーボードをカチャカチャしても、お年寄りの膝の軟骨は修復しない。
気持ちよくテンバイヤーを叩いているネット論客に膝の軟骨のすり減ったお年寄りを救うことはできない。
iPS細胞による再生医療が実用化でもされない限りお年寄りの膝の軟骨は修復しないだろう。
その点で転売は体力の都合や面接の必要のないという点でお年寄りが生活費を得るのには最適だと言える。
一日中ネットに張り付いているようなネットユーザーならテンバイヤーがホームレスを動員していることは当然ご存知だろう。
ネットユーザーはきっとそれを「ホームレスのような社会的弱者の足元を見る、悪のテンバイヤー」とでも思っているのだろう?
はたしてそうだろうか?たとえつまらない仕事でもホームレスにとっては貴重な収入源に違いない。
君らの職場にホームレスが「働かせてくれ」と頼み込んでも君らは「自己責任」と魔除けの呪文を唱えながら無碍に断るのだろう?
ネットユーザーは「年金で生活できないのなら、生活保護を受給すればいいじゃないか」などと安易に発想するかもしれない。
生活保護バッシングや水際作戦の厳しい現状では生活保護を受給できずに餓死するパターンもあるのだという。
生活保護を受給するにはノーガードであることが求められ持ち家を手放すだけでなく保険をも解約することが求められる。
生活保護と転売についてだが生活保護を受給する際には贅沢品は手放さざるを得ない。
転売可能なグッズはケースワーカーによってことごとく強制的に二束三文で転売されるのだ。
いくら口では転売を憎んでいると言っても社会的なパワーによって有無を言わさず転売することを強いられる。
転売を叩いているものは、恐らくは富裕層で将来は十分過ぎるほどの年金を貰えるに違いない。
まさか、将来年金が年間80万円しか貰えないフリーターが転売を叩いているなどということはあり得ないだろう。
富裕層は自分自身の安定した生活を確保した上で「最後は大好きなグッズに囲まれて大往生したいなぁ」などと企てているのだ。
転売によって大好きなグッズが手に入らないくなるから転売は悪なのだ。
いや、あるいはすべてを見通した上で「下々の者達の生活など知ったことか!」とまで考えているのかもしれない。
だが現実には純粋に悪意なく「転売は悪いことだから悪いんだ」などとトートロジーを浮かべて悦に入っているのだ。
ところでグッズを欲しがっているのが将来になんの不安もない富裕層だけなのかというと、どうやらそうでもなさそうである。
実際には富裕層よりも年間80万円勢が後先考えずに刹那的にグッズに浪費しているのだろう。
マジレスすると年間80万円勢はグッズをゲットしようとテンバイヤーとバトってるような場合ではない。
年間80万円勢が身の丈を考えて将来のために貯金するようになれば民草は転売に怯える日々を過ごす必要もなくなる。
一般的には90年台にフリーターというライフスタイルが登場したとされる。
あと、20年もすればこれらフリーター世代が年金受給者となるだろう。
そうなれば年金格差という「現実」が重くのしかかってくるわけだ。
お年寄りの賢いライフハックとして転売が今まで以上に盛り上がることはまず間違いない。
年金格差が解消されていれば話は別だが、それは希望的観測でしかない。
今、街を歩いている老人はなんだかんだで正社員で終身雇用だったから十分な額の年金をもらっているのだ。
本当の年金格差時代、ひいては本当の転売時代はまだ訪れてはいない。
転売(TENBAI)が世界語として通用する日もそう遠くはないだろう。
世界中の人々に日本が誇るTENBAIの名を知らしめてやるのだ。
今、転売を痛烈批判しているもの(アンチ・テンバイヤー)も、いざ自分自身が経済困窮に陥ったら、まず真っ先に転売という発想が脳裏をよぎるのではないか?
今は良くとも、70代、80代になったらどうか?
まさかせっせとかき集めていた大切なグッズを転売するなどということはあるまいな?
どうせ、いざという段になったらマッハで手のひらを返すに決まっている。
いや、それどころかアンチ・テンバイヤーほどテンバイヤーとなる素質を備えているのだ。
人々の想像するであろうテンバイヤーVSアンチ・テンバイヤーという構図は誤りであると言える。
テンバイヤーになる素質のない人々は、テンバイヤーを敵視してはいない。
テンバイヤーへの敵意には少なからず嫉妬も含まれているのだろう。
ちなみに「仮想通貨で老後資金を得ればいい」などという甘言を囁くものもいるかもしれない。
だが、考えなしにこのような甘言に乗ってしまえば待っているのはより一層悲惨な末路だ。
仮想通貨では税金が発生することに気づかずに高額な税金を支払えず自己破産するパターンがあるのだ。
さらに自己破産した場合でも税金は非免責債権なのでチャラにはならない。
読者のみなさんは紀元前の哲学者ディオゲネスをご存知だろうか?
貨幣偽造の罪で奴隷の身分とされてしまった、あのディオゲネスだ。
自己破産でも取り消せない負債を負ったものはさながら現代のディオゲネスとでも言うべきだろう。
下手に仮想通貨になど手を出してしまえば国家の威信をかけて嫌がらせされてしまう。
よほど知識に自身があるのなら話は別だが素人が触れるべきものではない。
インターネットで甘言を囁くものは、ただ情弱を養分に還元したいだけなのだ。
それで「君らは転売しないつもりなのか?」というところに話を戻そう。
転売行為を批判しているものも「金に困ったときはグッズを金に換えよう」そして「それは転売ではない」とでも考えているのだろう。
表向きは転売を批判しているようで内心では手持ちのグッズにプレミア価格がつくことは満更でもないのだ。
つまり「誰も手放さないからめったに市場に出てこない伝説のコレクターズアイテム」となることを期待している。
さも社会正義のような体を装っているが、やれやれ結局は損得勘定でしかない。
自分が「転売脳」でものを考えていることすら自覚していないのだ。
しかも未練がましく後生大事に抱えて長年に渡って死蔵した上での転売だ。
金目当てでさっさと手放す転売よりも、よほどたちが悪い転売ではないか?
しかも!そういうやつらに限って自分が手放すときはテンバイヤーによる市場価格を参考にするのだ。
いや「思い入れが深い」「手放すのは惜しい」などと言いながら値段を釣り上げるまである。
「(金目当てで愛のないテンバイヤーと違って)大事に使ってました」などと悪のテンバイヤーにマウントを取りながらいけしゃあしゃあと値段を釣り上げるのだ。
常識的に考えて商品に無関心でノータッチで倉庫に眠っていたテンバイヤーの品のほうがコンディションはいいのでは?
ところで「グッズを手に入れたい」という一点だけを重視するなら、テンバイヤーのいない状況は理想的ではない。
テンバイヤーさえいれば、金に糸目をつけない覚悟を持てばとりあえずグッズは手に入る。
「本当のファンなら周辺情報を常にチェックしてるから、限定グッズなどを見逃して買い逃すことはありえない」とでも反論されるかもしれない。
その分野にテンバイヤーは一人もいないというような状況は果たして本当に理想的だろうか?
金目当てで手放すものがいるから、新人がその分野に新規参入することができるのだ。
逆説的ではあるがテンバイヤーのいない分野はおのずと新規参入のない閉じコン(閉じたコンテンツ)となる。
テンバイヤーの有無でそれが決まる。
ここまでで普通に生きていれば転売は避けられない定めだと分かったはずだ。
そこで「俺は上位1%の上級国民だから転売などとは無縁の人生だ」という人々もいるかもしれない。
よしんば鉄の掟によって一生転売しないですんだとしよう。
金持ちほどマンションなど転売していそうなものだが、この際それもないものとする。
グッズの持ち主が死んだあとは、どうする?
死後の世界にグッズは持ち込めない。
遺族によって転売されるか?あるいは遺品整理業者によって転売されるか?
ただし価値があることに気づかれずに捨てられるということはありうる。
勝手に転売されることを防ぐには転売に追い込まれる前に捨てるか、無償で贈与するかしかない。
なお贈与する場合は贈与税を支払わなければならない点に注意しなければならない。
その点、グッズと違ってチケットは消耗品だから気楽で気ままではある。
ただ転売が悪という前提がそもそも間違っているのであってチケットは文字通り無駄金だ。
そして貧困層ほどチケットのような後に残らない刹那的な用途に金を使うという負の連鎖がある。
いままで「転売」と大雑把に扱ってきたが、転売にも種類がある。
転売の話題がこじれるのは転売と聞いてイメージするものに差がある側面が大きい
ネット上で話題となるのは大きく分けて「せどり」「ダフ屋行為」だろう。
他にも「プレゼントとして受け取ったものを転売する」行為の善悪が問われることもなくはない。
まず少なくともせどりに関しては「可」としていいのではないか?
せどりは中古販売なのだから古物商営業許可が必要だという議論になることもある。
しかし古物商営業許可の意味合いを考えるに「盗品販売を防止する」という意味合いが強いのではないか?
さて転売の中でもチケット転売に限ってはダフ屋行為であり犯罪であるとされる。
「ダフ屋行為が反社会勢力の資金源となる」というのがよく聞く決まり文句だ。
しかし「芸能界はそれほどクリーンなのか」という疑問が新たに湧く。
「反社会勢力の資金源となる」というまったく同じ理屈でショービジネス自体の正当性が危うくなるのだ。
反社会勢力云々という言い分はそれほど有無を言わさず通用するような絶対的なものか?
それにやろうと思えば適当な分野と反社会勢力を結びつけることはさほど難しくはない。
例えば「仮想通貨は反社会勢力のマネーローンダリングに利用される恐れがあるから全面禁止とすべきだ」と言うことができる。
でもショービジネスは文化だから保護しなくちゃならないというわけだ。転売とて同じこと。
転売ヘイターはこれら文章を読んで、何か思うところはあるだろうか?
否。おそらくは逆ギレして「じゃあ転売を法律にて完全禁止すればいいじゃん」などと言い出すに違いない。
よしんば法律にて転売を完全撲滅できても背景が変わらない限り待っているのはより悲惨な世界だ。
転売はあくまで金目当てであって悪意があるわけでも嫌がらせでしているわけでもない。
そこで全面的に転売を一律禁止としたところで転売or死という図式は微塵も揺るがない。
転売ヘイターは「転売するくらいなら潔く死ね」とでも思っているのだろうが。
なぜ転売ごときのことがまるで大罪であるかのように扱われ禁止されねばならぬのだ?
転売文化によって人々の目利きのセンスが磨かれるという側面もある。
人の心を持たない冷たい機械による仮想通貨のマイニングによって地球温暖化はますます加速する。
転売か?仮想通貨か?良心ある人々ならどちらを選ぶべきかあえて言うまでもない。
インターネットでは転売は絶対悪であるかのように扱われているが擁護しようと思えばこのようにいくらでも擁護できる!というお話でした。
・自分のアイデンティティが理系的な思考ができる人間と思い込んでるけど思考が完全に文系のそれすぎる。
「私が哲学者好きじゃないのは哲学なんて数理的なもんで正しさを証明できないくせに、「高校生どころか大人でもわからん書き方したってわかんないやつが悪い」に陥るから好きじゃないんですよね」といった直後に(自分の話は)「抽象的過ぎる話になるからいいや」でOKになる理屈がマジでわからん。
誰よりもめんどくさいオタクの自覚がある私だが、その最初のきっかけがクレヨンしんちゃんであるせいで、ぼくは「これ、オタク文化知らん人が読んだらどうなるかな?」「これ、性癖こじらせてない人が読んでもこの子好きになるかな?」みたいなのはすっごい考えるわけです。はい
結果として、エロマンガ読む時も「これオタクはわかるけど…」みたいなのを考えて読んでるし書いてるわけです。「オタクでもわからん」という分野を発見した時とかでもなんとか間口を広げて語ろうと頑張るわけです。…どれだけ伝わってるかは謎だけども、オタの間でさえ他分野はわからんからね
この件に限らず、そもそもが「16歳の俺が読んで面白いかな」みたいなのをそれこそワンピースの作者みたいに考えてるわけです。だから、ややこしいテーマでも語彙を難解にしたり、わかって当たり前みたいな書き方をしない。だからこそ、それができてない作品や感想にはちょっと眉唾なんだよなぁ
文系学問で「わかんない人置いてきぼりでいいや」をやるのあんま賛同できないんですよね…科学と違って正しさが証明できない時に煮詰まっていくのが目に見えてるから。科学はその点、高校生がわかる書き方しなくていいんです。正しさが証明できない科学は仮説ではあってもまだ法則でも定理でもないし私が哲学者好きじゃないのは哲学なんて数理的なもんで正しさを証明できないくせに、「高校生どころか大人でもわからん書き方したってわかんないやつが悪い」に陥るから好きじゃないんですよね。そんなもん、やる前から本人の間で煮詰まるか劣化してしか伝わらんの目に見えるやん…アホやなって
データや統計は参考になるけど、そんなモノは自分の中の「高校生」「異性」が正確な人にはデータも統計もなくてもバランスの取れた意見や伝えた方ってできるんです。
このメソッドで逆算すると「自分の中の上司像・おじさん像」がない人は世渡り下手だと思います。…まぁ、私はないですけどね
この辺も「自分のこの人物像が偏向してるな」とかそういうことは色々なケースを見てるうちに気づいたりするもんだけど…それ以前にそうやってバランスを取ろうとしない人や、取ろうにも思ってた答えの中に正解がなくてドツボにはまるケースがけっこうあるんだけど
なんでこの話ししたかって言うと、僕のことを「君の話はわかる人じゃないとわからない」みたいにいう人が過去にいたのをふと思い出したから。
その人の意見が正しいかどうかは別にしても、誰に話すかと誰に話してもわかるかはバランスとる必要あるよね。って思っただけ。知らんけど
なんか「ないものはない」とかいう深淵からやって来た命題がホッテントリに上がってたけれど、ブコメ欄で言及されていた「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」はオーストリアの哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの言である。我々が想定する哲学的真理の多くについて、我々は「ある」とか「ない」とかそのほか如何なる述語も設けずに、沈黙を守るべきなのだ――というのがこの発言の主旨だと思われるが、僕は学生時代、ヴィトゲンシュタインの代表著作である論理哲学論考を第四章だか第五章の論理式の辺りで投げ出してしまったので、正確な解釈がどうなっているかは分からない。もし貴方が正確な知識を求めるならば、岩波版の『論理哲学論考』を書店に探しに行こう。
ヴィトゲンシュタインは、ケンブリッジ大学にて当時の哲学の大家であるバートランド・ラッセルの元で学んだ後に、ラッセルへとこの『論考』のアイデアを書き送り、激賞を受け出版へと至りました。この『論考』の主旨は、簡単に言えば「世界は言葉でできている」といったものです。極めて凝縮された文体で書かれたこの異形のテキストは、当時の哲学界に激しい影響を与えたと言われています。
さて、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」の一節はこの『論考』のラストを飾る言葉であり、また彼は「梯子を用いて障害を乗り越えた後は、その梯子を投げ捨てなければならない。即ち、この書物もまた投げ捨てられねばならない」とも同書において語っており、彼によれば同書によって哲学界における諸問題は「完全に解決された」とのことでした(後年、彼はこの意見を覆すことになります)。
ヴィトゲンシュタインは極めてその人生に謎の満ちた人物で、ユダヤ系の影響を大きく受けた裕福な家系に生まれ、本人はカトリック教徒として一生を過ごしました。学業において非常に優秀な成績を収めた彼は、イギリスのケンブリッジ大学に進学し、当時の学壇を占めていた哲学ほか様々な学問の大家と対面し、議論と思索を深めていくことになります。
彼の人物史を巡ってしばしば取り沙汰されるのは、彼が人生の殆ど全てに渡り自殺への欲求に苦しんでいたというエピソードです。彼は、兄四人、そして姉三人の八人兄弟の内の末っ子として生を享けるのですが、彼の人生において四人の兄の内、四男のパウルを除く三人は自殺しています。そのため、ヴィトゲンシュタインの心には、常に死への憧憬が巣食っていたというエピソードは有名です。彼は、自分の死に場所を求めて第一次世界大戦に従軍したとも言われています。その過酷な戦場で、彼はトルストイの福音書解説を紐解きながら、砲声に震える塹壕の中で『論考』の原型を模索し、そして戦場の死に接する中で生への意欲を切り開いた、とも言われています。
さてタイトルの「クソデカ述語」に関してですが、いや、要するに「ない」って何なんですか? って話です。「ない」っていう述語なんなんすか、っていう話です。
とかくこの世の中には意味のない述語というのが多数存在していて、その内の一つがこの「無」だと思うんですね。つまり、「無」っていうものは言及できないから「無」なのであって、それに対して「ないものはないですね」とか平然と言及しているダ○ソーの店員ほかその他の店員の存在は一体なんなんすか? という話なのです。
要するに、「無」なんてものは「無い」のだから、本来であれば我々は「ありません」とか、「無いです」といった述語の使用を基本的には控えなければならないのであり、つまり、我々は沈黙しなければならないわけです。それでも、我々が何かについて「無い」だとか、「ありはしない」とか語れるということは、本質的に我々の言語が、その意味と対象との関係性に混乱を来しているからなのであって、要はこんな言葉のやりとりなんか単なるゲームのようなものに過ぎないんじゃねえか、みたいなことを考えるわけですね。クソデカ述語。
世界は「ある」? コップはここに「無い」? もっと正確な記述の方法があるはずです。空は青い? 空は青く「ある」? 「無い」について我々が多くのことを語ることができないにも関わらず、何故我々はその対義語とされている「ある」について雄弁に語ることができるのですか? もっと正確な記述の方法があるはずです。正確には「コップは移動している。あるいは、コップは現在別の形状を取っている」が正解なのです。クソでけえ述語は投げ捨てろ、梯子を下ろせ。お前らはもっと沈黙しろ。
哲学者って何する人なんだ?
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Auguste Comte
Flag of France (1794–1815, 1830–1958).svg フランス共和国、オクシタニー地域圏エロー県モンペリエ
イジドール・オーギュスト・マリー・フランソワ・グザヴィエ・コント(フランス語: Isidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年1月19日 - 1857年9月5日)は、フランスの社会学者、哲学者、数学者、総合科学者。1817年からアンリ・ド・サン=シモンの教えをうけ、助手を務めたこともあったが、1824年にけんか別れした。1841年から1847年までジョン・スチュアート・ミルと親交があった。「社会学」という名称を創始し、彼の影響を受けた英国のハーバート・スペンサーと並んで社会学の祖として知られる。『社会再組織に必要な科学的作業のプラン』、『実証哲学講義』、『通俗天文学の哲学的汎論』、『実証精神論』などの著作がある。生涯を在野の学者として過ごし、パリで死去した。
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哲学というと難解な用語と訳の分からないレトリックだらけの本をイメージする人が多いけどそんなこたぁない。なんならセンター試験の方がムズい、たぶん。
初心者といっても普段本を読まない人をここでは対象にする。本を読む人は偉いのでそのまま自分流に頑張って下さい。
まず、知識として学びたいなら哲学用語図鑑でいいと思う。パッと見れるし漫画チックだし。で、ここで気になった哲学者とかの本読めばいいいじゃん(完結)
で、それもめんどくせーという人間に向けて三冊。
やっぱりギリシャ哲学読まなきゃ始まらんでしょ!という方はこちら。対話形式で読めてプラトン流のソクラテスの考え(所謂イデアってやつ)が書かれてるぞ!でもやっぱりメノンの方がサッと読めるからメノンの方がいいかもしれんわ、選べ。
えっ、あの我思うゆえに我ありの本!?と思うであろう本書、デカルト自ら寓話だと思って読んでくれと言ってるので内容も難しくなく読めちゃう!なんてったって訳を除けば100頁もない!
おいお前マルクス主義者か?と思うのも待って欲しい。というのも第二次世界大戦後の哲学者というのは大抵は資本主義の問題に直面せざるをえなくなっている。そこでやっぱりマルクスが与えた影響というのは大きすぎるわけで、重要な古典でもあるわけです。だからこれからニューアカとか読んでみて~となるなら読んどくべきなんですなぁ。(いかんせん頁数が少ないのでいい)
と、紹介したけど結局は気になる哲学者から読め。あと90分で分かる~とかそういうシリーズもいいとは思うけど原本も読むべき。まぁ、やっぱり頁数が少ないのは正義だよなぁ。