はてなキーワード: センター街とは
「2人は東京・堀越高校の同級生。3年間を共にしたクラスメートで3年生のときに交際に発展したよう。欠席が多かった剛は女子との交流が少なく、修学旅行がきっかけで打ち解け合い、ハーレム状態になったという話は有名。そのうちの1人が山口だったといいます。2人の共演歴はなく、当時、山口がまだ無名だったために周囲は交際に気付かなかったとも」(芸能ライター)
そして2001年4月、当時21歳だった2人の熱愛を『FRIDAY』(講談社)にスッパ抜かれた。同誌では、堂本の自宅に一泊した山口が顔を覆うようにマフラーをぐるぐる巻きにして朝帰りする姿が掲載されたのだ。
「交際が4年ほどとなり、山口も次第に名前が認知され出した頃。一方の剛は相変わらずの人気で多忙を極め、キンキとしてもリリースする楽曲は毎回1位を獲得し、主演クラスの役者へと飛躍していた時期。当時は大きな話題となりました」(前出・同)
「当時のジャニーズ事務所は恋愛に対して厳しい対応で、交際していたとしても否定せざるを得ない状況だったのでは。2人は破局や復縁を繰り返しながらも、一部では山口の両親や家族に剛を紹介し、公認の仲だったという話も。さらに、2001年11月にキンキがリリースしたシングル『Hey! みんな元気かい?』のカップリング曲で剛が作詞した『愛のかたまり』の歌詞の一文にかつて山口が語っていた『好きな男性の香りを街中で感じた時には、渋谷駅からセンター街まで尾行したことがある』というエピソードが歌詞の内容と酷似し、交際を裏付けていると話題に。ところが、その後の2人に進展はなく、ファンの間では同事務所が2人を別れさせたとされています」(芸能関係者)
ところが、こんな噂もある。
「2人の同級生だった女優・ともさかりえが95年から97年にかけて剛と共演したドラマ『金田一少年の事件簿』(日本テレビ系)と同シリーズの公開映画をきっかけに、熱愛説が浮上。ともさかをライバル視した山口は剛をめぐって三角関係に発展したといいます。一時期は山口と、ともさかの関係が悪化したとも」(前出・同)
衆愚が声高く己の自己保全の為に叫ぶ根拠に、科学がある。が、そこにこそ現代日本の敗北があると私は認める。渋谷のセンター街、なんなら東京駅前で歩く屍のような彼らに尋ねるがいい。あなた方はレイチェル・カーソンをご存知か。そして地動説の確たる根拠をもご存知なのかと。約束してもいい、彼ら自身或は他人の採ったデータで証明出来得る者は皆無だと。今や情報化社会にあって我らは肝心のデータそのものの価値を忘れた。そればかりか、どうすれば演繹出来るかすら忘れてしまったのだ。今や知識に訴えかける時代は終わった。故に学生闘争は終わったのだ。いつしかインテリの自己満足に人々が飽きてしまったから。
思い出して欲しい。放射性物質のウラニウム塗料が蔓延った旧時代を。そして放射性物質が医療の役に立つと、顎を失ったあの男を。が、当時の人々からすれば現代からすれば愚行そのものとしか呼べぬ行為こそが科学だったのだろう。どこまで行っても我々は不可知論者である。全ての弊害を知り得ることなどない。気が付いたら手遅れだった、無論、尊い犠牲を払われたマーキュリー夫人にしてもそうだ。彼女の時代には有害性は認識されていなかった。が、結果として彼女は今尚隔絶せられた棺に収まっている。
そう、私が言いたいのは現状の枠組み、現代で言えばトリチウムその他諸々の半減期はあれども有害に間違いはない汚水を垂れ流すことに対して危機感を持つべきだと言いたい。データはただの他人の考えた情報の推移である。アーレントは政治的な意味合いで凡庸な悪と表現した。それは取りも直さず思考を外部に委ねた、傀儡と自ら欲した存在のことを言っているのだと解釈する。確かに凡庸な一市民に一々今回の汚染水を調べろ、とは酷であるのは承知している。が、一市民に於かれては各自考えて欲しい。その上で判断して欲しいのだ。
最後に私がせめて政府に望むのは、今回の件に纏わる風評被害を被るであろう漁業関連の人々、そしてもしかすると農業の人々への手厚いフォローをお願いしたい。復興したとは言え、完全ではない。今の日本は片腕のもげた人間が雑魚寝している痩せた人に己が食べるべきものを与えているに過ぎない。そしてもしかしたら癌細胞が今すぐそこで、例えば肘でも膝でも、或は心臓で発生しているのかも知れない。その為の包括的な経過観察は最低限必要ではないか。
ここで最後に格言を記す。樽一杯のワインにスプーン一杯の汚水を混ぜると樽一杯の汚水になるのだと。
未だ我々は海水の推移をさえ解らぬ下卑た存在。矮小な科学の知識で最小限被害の少ないと見積もった先が今の対処なのだろう。それは危険だと、予め申し上げる
衆愚が声高く己の自己保全の為に叫ぶ根拠に、科学がある。が、そこにこそ現代日本の敗北があると私は認める。渋谷のセンター街、なんなら東京駅前で歩く屍のような彼らに尋ねるがいい。あなた方はレイチェル・カーソンをご存知か。そして地動説の確たる根拠をもご存知なのかと。約束してもいい、彼ら自身或は他人の採ったデータで証明出来得る者は皆無だと。今や情報化社会にあって我らは肝心のデータそのものの価値を忘れた。そればかりか、どうすれば演繹出来るかすら忘れてしまったのだ。今や知識に訴えかける時代は終わった。故に学生闘争は終わったのだ。いつしかインテリの自己満足に人々が飽きてしまったから。
思い出して欲しい。放射性物質のウラニウム塗料が蔓延った旧時代を。そして放射性物質が医療の役に立つと、顎を失ったあの男を。が、当時の人々からすれば現代からすれば愚行そのものとしか呼べぬ行為こそが科学だったのだろう。どこまで行っても我々は不可知論者である。全ての弊害を知り得ることなどない。気が付いたら手遅れだった、無論、尊い犠牲を払われたマーキュリー夫人にしてもそうだ。彼女の時代には有害性は認識されていなかった。が、結果として彼女は今尚隔絶せられた棺に収まっている。
そう、私が言いたいのは現状の枠組み、現代で言えばトリチウムその他諸々の半減期はあれども有害に間違いはない汚水を垂れ流すことに対して危機感を持つべきだと言いたい。データはただの他人の考えた情報の推移である。アーレントは政治的な意味合いで凡庸な悪と表現した。それは取りも直さず思考を外部に委ねた、傀儡と自ら欲した存在のことを言っているのだと解釈する。確かに凡庸な一市民に一々今回の汚染水を調べろ、とは酷であるのは承知している。が、一市民に於かれては各自考えて欲しい。その上で判断して欲しいのだ。
最後に私がせめて政府に望むのは、今回の件に纏わる風評被害を被るであろう漁業関連の人々、そしてもしかすると農業の人々への手厚いフォローをお願いしたい。復興したとは言え、完全ではない。今の日本は片腕のもげた人間が雑魚寝している痩せた人に己が食べるべきものを与えているに過ぎない。そしてもしかしたら癌細胞が今すぐそこで、例えば肘でも膝でも、或は心臓で発生しているのかも知れない。その為の包括的な経過観察は最低限必要ではないか。
ここで最後に格言を記す。樽一杯のワインにスプーン一杯の汚水を混ぜると樽一杯の汚水になるのだと。
未だ我々は海水の推移をさえ解らぬ下卑た存在。矮小な科学の知識で最小限被害の少ないと見積もった先が今の対処なのだろう。それは危険だと、予め申し上げる
10月29日(土)の早朝5時、少し警戒しながら来たものの、人通りはいつもと変わらない「金曜日オールナイト明けのちょっと気だるい渋谷」という雰囲気だった。
この日、「渋谷ごみゼロ大作戦」のステーションがあるのは、センター街内の宇田川交番がある広場だった。
ごみを拾いながら仮装コスチュームなどのハロウィン系グッズを道端で見つけた場合は、協賛企業の1社である楽天が設置しているリユースボックスに入れれば、使えるものを捨てずに済む。回収されたアイテムたちはフリマアプリ「楽天ラクマ」で販売され、売上金は渋谷区の清掃活動や美化活動に充てられる。
運営スタッフの方によると、土曜の朝には2名ほど飛び入り参加してくれたボランティアの方がいたそうだ。
飛び入り参加者のうち一人の男性は、深夜2時すぎからごみ拾いをスタートしたと言い、話しかけたときすでに3時間以上続けていた。「人手は土曜日(の夜)のほうが多いと言われているので、明日も来ようと思います」(20代・男性)
袋とトング、軍手を受け取ったらごみ拾いスタート。仕事帰り通るたびにポイ捨てがひどいと感じていたスポットに向かってみる。が、ほとんど空き缶やペットボトルのごみが落ちていなかった。
宮下公園を媒介してNIKEがたたかれているみたいだね。ブクマカたちは安全圏からいつも通りいい子ちゃんぶって正論で罵詈雑言を浴びせてくるけどもう慣れちゃった。
自分はもう何年も渋谷で仕事して渋谷で生活している。渋谷って一口に言ってもいろいろな区画があって、それぞれの区画で治安が良かったり悪かったりする。道玄坂のホテル街は相変わらずラブホが立ち並んでてカップルと風俗客と風俗嬢がうろうろしてるし、スクランブル交差点はいつも関ヶ原で、センター街はリアルエクバ、宇田川町はDJがリアルGTAだし、宮益坂はいつだって坂がきつく、マークシティは死相のあらわれたホームレスがベンチみたいなところで寝転がってたし、南平台はいつだって渋谷と呼んでいいのか分からない。その中でも、宮下公園だけはあからさま近寄ってはいけないムードがただよっていた。それはホームレスがいっぱいいるからっていうのもあるけど、公園では何が行われてるか分からないし、犯罪の噂をしこたま聞くからだ。よく分からないけどなんかやばそうな空気を宮下公園からはいつも感じていた。
実際のところ、ホームレスの母数は統計上減っている。ガチの貧困者がホームレスにならずにネカフェ難民などに移行してるそうだが、それでもジュリーみたいなルンペンは体感で見てもここ数年で明らかに見なくなった。宮下のところや駅のところで高架下にはダンボールを毛布がわりにしたホームレスがいるけど、本当に見かけるのはそのくらいだ。マークシティからもいなくなった。あと、ホームレスは一般市民と比べて結核持ちが多いから、公衆衛生的にもよろしくない。
ところで、Base Ball BearってバンドのSAYONARA-NOSTALGIAって曲にミュージックビデオがついてて、2004年の渋谷が舞台になっているんだけど、ナンバガに憧れた男女がビル屋上で演奏してる裏で、ヒカリエができる前の治安の悪い宮下公園で治安の悪そうなJKが治安の悪そうなことをしてるなんだかよく分からないミュージックビデオだった。2004の頃からしてもそんなに治安の良い空間じゃあなかったのだろう。
そしていま、ちょくちょく宮下公園を通過している。あのあたりに限定すれば、本当に治安が良くなったと思う。安心して宮下を通過できるので治安が良くなったことを体感している。ホームレスの村よりはパリピがインスタ映えを求めてウェイウェイしてる方が明らかに平和だ。
もちろん単にホームレスの母数が減ったからって貧困がなくなったわけでもないけど、行政とナイキが結託して弱者を排除してるっていう単純なストーリーには区民の立場からノーと言いたい。
報道や各種メディア、個人が様々な媒体で伝えているこのイベントに対して、私個人のごく私的な見解など、どうしようもない話の一部になるのだろうけれど、今年の事を書いてみる。
2020年4月9日、イギリスNESTA(科学技術芸術国家基金)に掲載された記事のタイトルは、「”平常に戻る”事はない」だった。タイトルの後、序文はこう続く。
「パンデミックは世界を永久に、そして根本から変えるだろう。例えば、各国が今後数か月でCOVID-19の蔓延を抑制できたとしても、政治的、経済的、社会的、技術的、法的、環境的な影響が何十年も続くことになるだろう。」
今は、今年の初めまでいつものように繰り返していた生活様式から、全く変わった世界に居る事が、まだ実感できておらず、また、そのうち元に戻るだろうという淡く楽観的な期待を持っている時期なのだろうか。
・今年の渋谷
10代20代が中心、2014年ぐらいの人手、100人に5人程が仮装をする。しかし今年は残りの95人こそが主体だったと思う。
18時程から23時まで、仮装している人と写真を撮る訳でもない、現地に居る他の人と盛り上がる訳でもない、マスクを付けた多くの人たちが、
センター街を延々と入れ替わり行進している、盛り上がっているわけでもない、話をしているわけでもない、ただ延々と周りを見渡しながら歩いている。
このような世情で純粋に娯楽を楽しめるような状況ではないので、過去の経緯とはなんら関係のない、主張や抵抗が出てくるものとは思っていたが、
・若者は今年も同じように楽しみに来ているのだという誤解、そして軽視
コロナ禍で受けるようになった多数派の成人社会からの同調圧力。抗議もできず、あなたの為、共同体の為との説明のみで、一方的に生活様式を変更させられた環境。
若者に対する教育サービスを維持させることに重点が置かれ、自由な休日の過ごし方や、様々な活動を通じ社会と融和していく接点は全く考慮だにされない現状。
そして、「来ないでくれ」と区長から予告され、大臣が自粛を述べるイベントに行くことが、周囲からどのように見られるかが分からないわけではない。
それでも現地に行き、個人では抗しきれない数多くのレンズや、文字による暴力から私を守る為に、仮装をせず顔はマスクで隠れた。
恐らく、ひとりひとりに尋ねると、明確な意思で来ているわけではないと答えるのだろう。多数決を取ると必ず潰される高齢化社会の中、滅多に見られない若者の群衆において、
沈黙と行進が延々と続いていた。
今週末、おそらく渋谷はハロウィンで騒ぎたい連中が集まってくるだろう。
区長が来るなと言っても、でかい広告を出して「家で楽しめ」と促しても、
一定数はどうしたって来る。去年や一昨年よりは減るだろうけどね。
代替イベントとしてClusterによる「バーチャル渋谷ハロウィン」が企画されてるが
これに行く人間とリアルの渋谷に騒ぎに来る人間がそもそもまったく違う層なのだから
「そっちはそっち、こっちはこっち」にしかならないことは容易に想像がつく。
紹介してるハフポストの記事見たけどこれは代替にはならんな、と確認した。
Cluster内でのデフォルトアバターはロボットっぽいキャラだ。
仮装する、となったら自分でVRM形式のアバターを用意してアップロードする必要がある。
そんなことできる人間はある程度の技術をもった人間しかいない。
デフォルトアバターで街をうろついて出来合いのイベント見せられて、それで満足できるか?
バーチャル渋谷ハロウィンはとても意義のある試みだがイベントとして全く別のものだと思う。
友達と「合わせた」仮装をして混沌とした街を歩き、写真を撮り、同じような集団と交流する。
「小学校のときに安室ブームが始まったんですよ。中学では『egg』に憧れた。地元の横浜はヤンキー色が強かったけど、
渋谷経由で高校に通うことになって憧れのギャルデビュー。負けず嫌いが高じて、どんどん派手になりましたね」
「ちょうどそのころ、友達と何人かでセンター街で暮らしていたんです。正確にいうと、宮下公園で寝て、
起きたらセンター街に行って(日焼けサロンで肌を)焼く、みたいな」
1か月半の間、友達とローテーションを組んで見張りを立て、公園で野宿。ホームレスの男性からおでんを分けてもらったことも。
「完全に無収入だけど、肌は焼きたいから日サロのチラシを100枚配って20分焼かせてもらう。
お風呂がわりに公園の蛇口で陰部とワキを洗う。ガッツリ生活してましたね(笑)」
そんな集団がテレビ業界の目にとまり、街頭インタビューにたびたび登場。ギャラとして渡されたハンバーガーを仲間と食べた。
が、ある日、「帰るか!」と突然の解散。自宅に帰ると、ヤマンバ度が増したあぢゃに気づかぬ祖母が「ハロー」と挨拶してきたという。
報道や各種メディア、個人が様々な媒体で伝えているこのイベントに対して、私個人のごく私的な見解など、どうしようもない話の一部になるのだろうけれど、今年の事を書いてみる。
この条例は報道以上に効果があったと実際に現地にいると感じる。しかしこの条例は単に仮装者が羽目を外しすぎないようにするという印象とは異なり、数年来発生していたある問題を解決できたことが大きい。それは①酒の無許可販売②警備がなくなる深夜~早朝帯の乱痴気騒ぎ問題であった。
① 酒の無許可販売は2016年頃から見られるようになる。2018年のハロウィン当日には20名ほどの人が、テキーラやウオッカなどを販売していた。個人が勝手に販売する方が多いが、飲食店に雇われた売り子も、年齢など見境なく度数の高い酒を販売するのはよろしくなく、またルールなしの状況下では、酒の品質低下はもちろん、密造酒販売の可能性も発生する恐れがあるので、2019年に歯止めがかかったのはとても良かったことだった。
しかし2019年10月30日でも数名、31日当日では確認しただけで少なくとも5名が販売していた。仕入れたビールサーバーを背負い、仮装で隠した売り子は、マスコミのカメラの前で「規制の事実は知らなかった」と笑顔でのたまうずぶとさで、このような場でどうしても鬻ぎたい山師と企業は今後も出てくるだろう。
② 警備している警察官や警備員も人間なので、夕方から翌朝まで全力で雑踏警備を行うのは不可能である。大多数の方が帰宅した終電以降は警備人員もほぼ撤収するので、その時間帯に騒ぐ人々に酒を与えないという目的があった。2018年の軽トラックを横転させる事件は、深夜2時~3時に発生し、動画をよくよく見ると、トラックの周りで騒いでいる人は、誰も仮装をしていないという事が確認できる。毎年ネット上に上がる喧嘩の動画もそうだが、現地に行ったことのある人は「その喧嘩が起きている場所は、ハロウィンが発生している時間帯は人がすし詰めで、殴り合うだけのスペースはなく、これは人が少ない深夜に発生している」と直感として把握できるのだが、ネットや報道だけで情報を得て想像を膨らませている人々にとっては、四六時中喧嘩と乱痴気騒ぎが起きていると解釈になっている。
警察は「将棋倒し」への対策に苦心している。過去何人の人が圧死しているこの現象は、起伏が少ない渋谷の底である宇田川の上に集まった人々にも起こることで、仮に発生した場合は目も当てられない大惨事になる。2016年にホコ天を設置したのも、これが理由である。今年の警備は警察官と警備員が協力して、センター街に集まった人が撮影や雑談で滞留しないように、しつこく動くように声をかけ続けたことが大きな変化であった。結果は当日の19時までの人手であればこの方法が有効に機能していた(対応する人員の疲労は目に見えて明らかだったが)。当日に渋谷に集まる人々はすさまじく、19時には路上の収容人員がパンクしてしまい、そこから全てのホコ天が開く21時までは非常に苦痛な状況であった。
実は渋谷区としては、昨年の騒ぎがなければホコ天の先や、別にサテライト会場を用意し、混雑の分散や、「共感」という目的のために来た人々の一部マインドを消費に回すことを少しながらも実行に移せていた状況であったが、上記3点の安全のためと、マスコミのネガティブ方向への報道癖がついている状況下で、前進する対応が取れなかったのは彼らにとっても残念なことであっただろう。
ゴミ問題について毎年思うことを今回書こうと思う。今回はコンビニと名指しするが、自動販売機を除き、他にめぼしい外に持ち出せる飲料や食事を販売する店舗が見当たらないのにも関わらず、自店舗で出したゴミを回収させる為のゴミ箱を設置しない上に、
店舗の目の前で飲食した客が路上に落としたゴミを、「街が汚れたのはマナーのせい」で、
後始末を行政とボランティアに全て丸投げする納得できない状況が毎年続いている。
明け方でなく、ハロウィンのコアタイムにセンター街のコンビニの前で、コンビニから出たゴミを拾う警備員と、それを眺めるコンビニ従業員の様子をネットに上げてもいいぐらいである。普段から責任を全て若者と行政のせいにしている姿勢の店が一定数あるからの行動なのだろう。新しく出店しているケバブ屋やタピオカ屋にはあり、関係ないのにわざわざゴミ箱を出す店もあるので、そういう店の姿勢に客も合わせてやっているんだなと感じる。
今年の特徴は「ダイバーシティ」である。昨年は日本のあらゆる立場の人々が集まるヤミ鍋状態と表現したが、今年はその鍋にラグビーW杯の観戦に来た欧米の観光客が大量に押し寄せた、日本文化にリスペクトしてわざわざ来日したわけでない欧米文化圏の人、更に増え続けるアジア系技能実習生と、中国の大型連休が重なり、当日でも3割~4割は外国人の様相で、欧米文化における「ハロウィン」なる文化と日本の「はろうぃん」、アジア圏の方々が更に解釈した「ハロウィンのようなもの」の3つ巴の衝突が起きた。記号に頼らない私の考えるハロウィンの仮装だらけである。
ギャラリーも酒が入っていないので、それでも人が多いが、仮装した人同士で盛り上がる場に割り込んで、観光欲を満たす行為は多少減ったように見られる。
コスプレは、衣装やメイクを作りこみ、撮影による仕上げにより、世界観を作り上げる一連の行為とした場合、仮装は世俗における一瞬のなりきり、又は社会を風刺していく行為で、その出自がかなり違う点を理解したい。
参加した人々を傍観する人々
カラーギャングの時代から街の浄化作戦を街頭で行ってきた商店街からすれば、深夜に“ボボボ”とやってくるヤンキーは「またかよ」という気持ちだろうし、当時精力的に活動していた方々の年齢問題もあるだろうから、マスコミに叫ぶ気持ちはわかる。ヤンキーも、地域社会に受け入れられず、持っている力と金を余らせている上に、承認欲求が人一倍強いので、入り込める余地があれば求められなくてもやってくる。しかしヤンキー同士のコミュニティが強固な為、仲間を差し置いて仮装している集団に入れないし、クラブに行って踊ることもできないジレンマがある。さっさとコミュニティ変えろとしか言えない。パンチラスポットでパンチラを見ているような、下半身の欲求で来ている輩と存在感がどっこいなのに気づいていない。
ネットや報道で分かったフリをしている人々も厄介である。2018年に渋谷区へ来た抗議数百件の内、ほとんどが区民でない人の抗議であったという報道が示すように、自分の知らないところで楽しそうにやっている人を嫉妬する傍観者も多くいる、ニューヨークやロンドンと同列にして問題を語っているような国際的な街と、あなたが住んでいる町が同じでないのは当たり前で、そこで起きているイレギュラーな問題を必死に解決している人と、その大小様々な果実を受け取っている人をあざ笑っても、仕方がない。芸能界の恋愛事情に一喜一憂するぐらい不毛な事柄である。
現地にいると、さも当然のように、さまざまな人種・民族が、さまざまな年齢・性別が、
さまざまな社会的背景を持つ人が、それぞれの文化背景を元に、又はそれらから開放されるための仮装をしている。
資本主義が求めるダイバーシティである、(金をより稼ぐために)優秀な様々な立場の人が活躍(生産)できる都市ではないかもしれないが、実はその概念が最も実現できている環境がいまの渋谷ハロウィンにあるのは非常に面白いことである。都市は、生き物のように変化していき、日本の首都である東京でさえ、不意に訪れた雑踏の流れ、物事の速さに追いつけず、傍観者を大量に生み出しているのはとても味わい深い。