はてなキーワード: こじつけとは
http://anond.hatelabo.jp/20170522132625
について
http://q.hatena.ne.jp/1495428314#comment
でコメントを書いたので転記+追記
他論を述べます。
今は、発達障害者は定義がすごくひろがっており、自閉症スペクトラムの「非常に薄い」部分も治療対象になるのではないかと検討にくりいれられています。
極言すれば「リア充」すなわち社交性で生き残る性質が100点満点の人でなければ発達障害の要因があるとされます。
私にとっては、発達障害とは、新しい形質ではなく、昔からの、座業職人、百姓や鉱夫のような、自然から直接資産を汲み出す産業に必要だった性質にみえるのです。それが今となっては機械に職場を追われ、ゲームやコンピュータという資産を汲み出すしかなくなっているわけです。
その意味ではミアキスのような「古い」存在だというのは納得いきますが、犬猫すべての可能性を含むとかいうふうにはちょっと納得がいきません。それは遺伝子プールそのものの性質であるはずでしょう。
人間の適応能力が広いから、育て方によっては発達障害者の範疇にも、範囲外にもなり得るし、社会の変化スピードによっても定義がかわるのだというほうがまだ納得がいきます。
さらに極論すると、字を早く読ませよう、小学校入学までに50音と足し算くらいは、と早期教育が常識になっている(教育は憲法に定められた国民の義務ですからね)と、子が発達障害になりやすいのかもしれません、というほうが、遺伝子プールを引き合いに出されるよりはずっとわかりやすい。
でも元益田がいいたいのは、日本マスコミは美談依存症で「不自然」を悪者にするキメツケがひどい。差別行動などをひき起こしやすい局面だから、とにかく何を引き合いにだしてもいいから、穏やかに共存の道を探ろうという最後の部分だけだとおもうのですけどね。ミアキスを犬ネコが攻撃したかどうかなんてダレにもわからんわ。
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今リア充が非常にもとめられているのは、福祉国家の最大労働者である介護者に必要な資質が「うたれづよいリア充」だから。
(口さがないのがあたりまえだった。差別用語を日常で平気で口にしていたし今でも口にする)ので、
「適応障害」程度なら、介護を経験すればだれでもなるといっていいくらいだ。
そのなかで「どうやら生まれつき介護や対人サービス業に向いていない性格」の人は「発達障害の気がある」とされる。
(自閉症さえも、遺伝子レベルで特定はされてないのに、発達障害=生まれつきと扱うべしというキマリはへんだけど、「疑わしきは生まれつき」とあつかったほうが社会の無理解によるいざこざは少なくなるだろうということだね)
(まあ、仮に早期教育はよくなかった、なんて判明したって後天的生まれつきだ、直せないからそのまま扱うしかないという結論になるんだし)
昭和後期生まれ(団体ジュニア)が食い止めている間に早く逃げろといいたいが、
粉ミルクが最先端のはやりの育児だったし、排ガス大気汚染最悪期で育ったから肺は弱いし。
ちびまるこでいうまるお。へたれ。
…もう少し話を掘り下げると、まあそりゃあフィクションなのだから、折角登場人物の外見も自由に設定できるのならなるべく美形又はそれっぽい容姿やキャラデザで揃えたいと思うのは自然だろうし、不細工でイモいキャラクターがそれっぽい必殺技で敵と戦っていたりポーズや名台詞等を決めたりしていても、残念ながら今一格好がつかず、迫力や説得力に欠けてしまう(よって不細工キャラは自ずと基本的にギャグ要員になる)ってのはあるのだろう。
そもそもこのようなことを考えるきっかけになったのは某ロリ漫画家が昔学生時代に漫研に所属していた頃描いたとされる漫画を見たのがきっかけ(こちらから閲覧できるhttp://www.geocities.jp/quzilax/new/c_la.html)…まあ作者の言わんとしていることは分かるというか、確かに「※ただしイケメンに限る」という言葉があるように、世の中容姿や美貌によって優遇不遇が分れてしまう面は残念ながら現実にもあるものだが、だからと言ってフィクションのキャラクター達にまで「こういったフィクションのカッコいいキャラクター達は読者・視聴者・プレイヤーの前では綺麗事言ってカッコつけてるけど、あいつらだって本当はこの漫画みたく自分よりカッコ悪い奴らや不細工な奴らを見下したりいじめたりしてるんだ」等というのは流石にこじつけじゃなかろうか、というのが率直な感想。
ただ、こうした美形設定が場合によっては破綻に近い違和感を生むことはある。特に引きこもりキャラだと、美容院等にも行かず化粧品等も買いに行かず運動もせずずっと家にひきこもっててどうやってこの体系や美貌を維持しているのか、そもそもこれほどのイケメンや美女が引きこもりになっちゃう理由って何なのさ?と思ってしまうし、また他にも作中にやたらと異性にモテる所謂モテキャラがいて、且つ主人公もそのモテキャラと負けず劣らずの美貌をしているのに周囲の異性には見向きもされてなかったり、また逆に大した理由もないのに嫌われてたりすると正直違和感しかない。
今日、5月1日が祝日になると、祝日法により、4月30日と5月2日もセットで祝日になる。だからさー5月1日を祝日にしようよ、ねえ。
5月1日というと、メーデーだから祝日にしても良さそうだけど、左翼色が強すぎるから、嫌がる人も多いとか。だったら、提案なんだけど、11月3日を明治の日にしよう、って動きがあるみたいだから、元々の11月3日の祝日である文化の日を5月1日に移すってのはどうよ。
4月29日を昭和の日に変更したときだって、元々あったみどりの日を5月4日に移したって、前例もあるからさ。5月1日が文化とどう関係があるのか俺は知らんが、適当にこじつけて閣議決定すればOKだろ。どうせ山の日が8月11日になってるもっともらしい理由を説明できるやつなんて、いやしないんだから、適当な理由でいいんだよ。ハッピーマンデー法で祝日の意義も薄らいでるんだし。
保守派のみなさんは、文化の日を潰すな!って批判をかわせて明治の日が制定しやすくやるし、左翼のみなさんはメーデーが休みになることで活動がしやすくなるし、俺らは休みが一気に3日も増えるし、全く隙がない。素晴らしい。
http://anond.hatelabo.jp/20170528064815
「オートバイと性的興奮のこじつけ」もダメな聖域ではないか。昔には鉄道フリークなんてなかった。それに比べれば「オートバイフェチ」はある。一見すると良いようになっている。しかし、鉄道おじが「オートバイガー」「自転車ガー」になるということは、とんでもない。カルトと一緒だ。
私が嫌悪しているネット民のひとりが鉄道おじのシンパのC君だが、Cが若い頃に描いたという漫画もやはりこんな感じで、オートバイガーと無縁なことに気づくことができる。
鉄道おじは基地周辺の飛行機の飛行音やかつての暴走族の車両やその車の走行音を「造型ポルノ」「音響ポルノ」などと呼ぶ、サイコパス・障害者予備軍である。しかし、実際には、あの迷惑的な物を美化する様子を見ると、彼らは同族嫌悪、近親憎悪のように見える。どちらもなんとかフェチではないかと。それを卒業しろよと。卒業する前に高校を出て大学を出た挙句の果てに職に就いたのなら、もう手遅れだ。
「造型やサウンド」で快楽を覚えるように、鉄道おじは自転車やオートバイの形や走行音で興奮を感じる。鉄道おじはサーキットを彼らのための娯楽施設と言っているが、鉄道おじは自転車やオートバイの走行風景や造型などで性的まがいな興奮を感じているの事実である、逆にそれにまたがる人自体には性的興奮を感じない。
鉄道おじは2003年の普通二輪免許取得と同時に行った250ccのオートバイの乗車は「オートバイで興奮を覚えた」一番最初の機会である。で、同じく好きなクラシック音楽感覚でヘッドホンで走行サウンドを聞きながらストレス発散をしていると思われる。つまり鉄道おじのアレなのである。そのようなオートバイフェチと常識を外れた性的嗜好を、鉄道おじのオートバイや自転車の造型で性的興奮していくことが、のちにあのように発展していくのだ。
私がこのような違和感を感じた最大の要因は、ロードバイクやオートバイの大群に興奮を覚えた鉄道おじを批判した人が、逆ギレした鉄道おじによって糾弾されたことにある。楽しさをわからない子供だと。しかし、その後に不正改造車のネタ消費を記事にした鉄道おじは、なぜか「竹箒に跨って飛び跳ねて遊ぶ女性」を批判していた。
もしオートバイや自転車の造型や騒音で性的興奮を覚えるのは良いというのが「竹箒を使った魔女や魔法使いや魔法少女の真似は下品」なら、鉄道おじの主張は明らかなダブルスタンダードになるが、実際はそんな問題ではないし、何より成り上がりである鉄道おじが下品な趣味を捨てていないのだから、鉄道おじこそ「下品」である。
鉄道おじは魔法少女ものの漫画を持っていないし、1990年代から今日に至るまでアニメオタク活動をしているとあるが、魔法もののアニメについて触れたこともない。その際、一度もを調べずに自分の無知や低知識をもとに娯楽論もどきのまとめを投稿したわけだが、オートバイからの興奮のリミッターが鉄道おじの人間性をダメにしていないか。
これが鉄道おじである。もちろん当然、鉄道おじの自宅部屋に行けば、本棚には古今東西の不良漫画やオートバイ漫画が、PCやその周辺にはオートバイや自転車に関する画像を集めたディレクトリやゲームソフトや機械があるから、その時点で問題である。本当にオートバイからの性的興奮は脳内から追放したほうがいい。そして、鉄道おじの異常な性的嗜好をどうにかしたほうがいい。
「親が特殊な属性だと子供がいじめられる」とか話題になってるけど
模範的な課程に育った模範的人間だって、ちょっとやそっとのことでいじめられっこになりうるだろうが。
そうまでは行かなくても、よく語られるようなあからさまないじめられっ子要素なんてなくてもいじめなんざ起こりうるわ。
典型的な「いじめられる要素」がなければいじめられないみたいな思想は辞めて欲しい。
いじめなんてのは完全に「いじめる側の都合」で決まるものなんだから
こういう要素があるといじめられるから、そういう要素のある子どもが出来ないようにしようなんてのはおかしいだろ。
金持ちだと嫉妬心からいじめられるかもしれん。貧乏だと馬鹿にされていじめられるかもしれん。
じゃあ金持ちは子供もつな、貧乏だと子供持つな、って言えるのか?
のであって、なんでいじめっこ様にご配慮せねばみたいなことになるんだよ。
どんだけいじめっこが偉いんだよ。
気に食わなさそうな属性はなくしてくべきだとでも言うのか?
そんな身分制度許されるのか?
「金」っていう共通ワードでこじつけた寄付金ネタでイメージつけようとワイワイ騒いで、
まあ別に何の問題もないけどなんか問題らしいぞっていう印象は植え付けられたんじゃないかな、
はてな界隈でも普段いないようなやつ送り込んではてサとナチュラルに協力して★つけてある程度強調できた気がするし、
カシコぶってるバカにもアピールできたんじゃないかな、あれ思ったより支持率変わらないな、
やっぱはてななんてマニアックなところで騒いでも母数に全然影響しないななんだこのサービス意味ないじゃん、
さて他の議員に飛び火したけどネットの中だけで騒いでる分には植え付けたイメージに影響ないだろうし、
マスでそういう話になる前に店じまいして別の話題ぶちあげて大衆の矛先変えましょう、
今度は「偏った教育」つながりで「戦前回帰」路線で行ってみっかっていう関連で
道徳の和菓子屋とか銃剣道とか教育勅語を取り上げ始めたようにしか見えないんですけど
お前そもそも教育勅語に何書いてあるのか知ってんのかおい、
字面だけでなんとなく戦前の教育だから洗脳教育だ悪いことだとか思わせたいだけだろ、
マスコミの皆さんはどんなメリットがあってやってんですかねそんなこと、
例えば、デレステにルームアイテムとして太鼓の達人の筐体が実装される。
ここで、「ファン」なる性質をもつ人は、これをおっとりした智絵里に叩かせて、
「大空直美(智絵里の中の人で、太鼓の達人が上手い)が降臨してるwwwフフフ…」とニヤける。
ただ、そうやってニヤける人も、実は分かっている。
ルームアイテムのアクションが1パターンで、どのぷちデレラがプレイしても機敏に弾きこなすということを。
そう分かってもなお、やはり「趣深いな…」と感じられている。
その一方で、「ファン」の性質に欠ける人は、何パターンかあると思うが、
複合的な楽しみ方を、「こじつけだ」のように冷笑的に捉えがち。
脳がシリアル処理なのか、それ単体としての評価をするのが美徳のように捉えている所がある。
上の例でいうと、「なんで1パターンなんだ、クソだな」「もっと作り込めよ」「好きだからこそ批判してるんだ」などと思いがち。
期待度はやけに高いし貪欲なのだが、楽しんでいる人たちの受け止め方を見せられても、
「信者乙」という感情が先にきてしまい、「それはそれ、これはこれ」と忠告目線を変えない。
彼らも、別に批評家ごっこがしたい訳ではなく、楽しもうという気はあるのだと思う。
ただ自分の思ったとおりに楽しませてもらえないことに対して許容範囲がシビアだ。
それで、2ちゃんだとかtwitterだとかのネット上のファンコミュニケーションの場において支配的になるのは、
どうしても後者のような捉え方になる。コミュニケーションが広く活発になるほどそうなる。
それはもうどうしようもないことなのかもしれないが、
日本語でいうならば「おもしろき こともなき世を おもしろく 住みなしものは 心なりけり」
という発想の人の肩身が狭くなって、ブログで一人つぶやくだけの世界になるのはつらいなあと思う。
それを肝に銘じながら、これからどんな娯楽に触れるときにも、「ファン」側の壊れやすい感覚に寄り添っていきたいと個人的に思う。
まあでも、そんなに難しく考えることもないんだろう。
絶対的な正解の表現はないし、どんな受け止め方をする人がいてもいい。
それだけ忘れなければ傲慢にはならないで済むし、楽しめない自分に幻滅してしまうこともないだろう。
「fun」に至るほどにチューニングが一致する、というのは幸運なことだ。
余談だけども、某橙色のはてな村民の、李徴と袁傪の新作漫画もさっき拝読した。
李徴は、映画前のCMを「これはこれ」として評価したのではなくて、
「映画体験」の一部として複合的に、次回への期待も込めて(時系列も含めた複合性)受け取ったからポジティブに楽しめたのだろう。
袁傪は映画通のように思える。通になると一つひとつのパーツにこだわって見るようになりやすい。
それゆえに楽しめなくなってしまう。ありがちだけれど、
それを克服できるほどメタな感覚をもって邁進していける人というのはあまり見ない。
というか、それが出来た時点で人からは見えなくなるのかもしれない。
私が言いたかったのは、「作り手に対する敬意がない状態」で悪意的に見た人の個別の内容に対する批判を、「内容に対する反論」で納得させるのは「不可能」だということ。
よくある2chでアニメアンチたちが「この脚本がクソ、寒い、ガバガバ」とか言って個別のこういう展開がダメだと言っているようなこと対して、
どんなに上手に言語化して長文で物語とはどういうものか、というレベルから説得したとしても、絶対に理解させることができないし、自分が感じた「欠点」に対して寛容な見方に変えさせることはできないんです。
それは、先のエントリで述べたように、非対称性があるからです。だから結局、どうしても、デフォルトの視聴姿勢を変えるくらいしか忠告のしようがない。
それに、主体性やウーマンパワー的なもの、巧遅拙速を再評価しよう的なイノベーション思考、自由に動いてこそ答えにたどり着く、多様性と寛容、…
そういった作品のテーマ性にかかわることがらは、個別的な部分で表現されているものではなく、全体で少しずつ積み重ねられているもの。
でも、「クソ寒いわ」と思って見ている人は、その積み重ねの部分部分をことごとくはねのけて、1ミリも積み重なっていない状態になっているので、
個別にこのシーンはこうなんだよと解説した所で、「やっぱうさんくせーわこじつけ信者乙」って気分になって感性のアンテナが反応しない。
結局、初見で運良く自分の中にするりと入り込んでこなかった表現は、他人がブログで長文で書いているようなものを読んで、視座のとっかかりを得てから全編見直すくらいの事をしないと、その良さを理解できないわけです。
人生体験は人それぞれ違うので、するりと入り込む部分とそうでない部分が一作品の中にも必ずあるから、きちんと公平に論評しようとするならそういう作業は必須。
もちろん、そこまでする気がなくても、あくまで自分の感性に従った感想をもつことは自由だけれど、
そうして至ったネガティブな捉え方をネットで発信して、悪意の感染に加わってしまうことが、いかにクリエーターにとって辛いことなのかを考えてみてほしいというのが趣旨です。
とくに、アニメというのは敏感になるべきなんです。
視聴者は若年層やASD傾向の人が多いため、その人生経験の少なさや精神気質ゆえに、著しく思慮に欠けた受け止め方をする方が非常に多い(決めつけですが、ネットをみている限りではそう感じます)。
すべて、とは言わないまでも大部分が文章で説明されている小説とは違って、映像作品は表現やその意図が曖昧になりがちだし、尺の都合または演出上の省略が多用されるので観る側が擦り寄ってある程度補完してあげる必要がある。
また、その作品が本当に自分向け(年齢・性別・文化嗜好のクラスタ的な意味で)のアニメなのか、見極めるのが難しいという問題もある。
そういった諸々を考えると、ネットで悪い(と自分が感じた)部分を書いて作品を侮蔑するのはたしかに自由だけれども、極力慎重になってほしいと強く思うんです(そのための「謙虚」を説いたのが先のエントリーです)。
そういう思いが強すぎて、つい偉そうな攻撃的口調になったことは謝ります。私も未熟で自己矛盾を抱えた30代のおっさんなんです。
こういう事を話すことで、少しでもあらゆる趣味に理解と敬意を示せる人がネットに増えてほしいし、すぐ何かをクソ呼ばわりしたり、丁寧に長文で特定方面をdisするような人やメディアが減ってほしいと思う。
私はアニメが好きだけれど、女児向け、BL系、右翼系、日常系などはあまり好まないので見ない。でも、それらの作品を内心でもバカにはしたくないし、そのファンもバカにしたくない。
はてブでもはてな有名人系、まとめブログ系、タブロイド系は非表示にしているけど、それらのメディアを攻撃はしない。ただ避ける。それらを好む人もバカにしたくない。
そういう人が増えてほしいんです。
いや、増えたところでそういう人は「見えなくなる」から増えたかどうかも分からないのですが。
ただ、そういう人、静かな怒れる人の存在を、あなただけでなく、すべてのネットユーザー、はてなユーザーに意識してほしいと思いその一心で書きました。
まあ、なんだ。JASRACに因縁をつけて「カ○ラック」呼ばわりするのはよろしくないと思う。ただし間違えるはずのない、基本的な部分を間違えた場合にキツく指摘する事は許されると私は思う。特に、著作権者から著作権の管理を一任されている責任ある組織だけに。
http://www.jasrac.or.jp/news/17/0227.html
手短にまとめると「クラシック」は西洋音楽の流れを汲む「芸術音楽」のこと。まあ何が「芸術」かというめんどくさい話はおいておくとして、クラシック音楽の中には現代(またはそう遠くない昔)に作曲されたものもある。ここがポイント。つまり、クラシックの楽曲の中にも当然著作権が存続してる作品もある。ところがJASRACは「著作権が切れた楽曲の例」として「クラシック楽曲」をあげている。おかしいよね。
模範解答は
「著作権が切れた楽曲のみを演奏する場合は管理の対象となりません。クラシック楽曲の中にも著作権が切れていない作品(例えば作曲者の死後50年を経過していない作品)もありますので、ご注意ください」
でしょ。
まあ、重箱の隅なんだけどね、想定Q&Aに不正確な記述を入れるのはNG。どこの馬の骨ともわからない匿名の有志が行うのならまだしも、著作権管理団体がこの程度じゃイカンでしょ。「クラシック音楽」のことをよく知らないって言ってるようなもんですよ?で、そのクラシック音楽の作品の権利を日本において守るのは、JASRACさん、あなたでしょ?
「がらく」はまあ多くの人にとっては「伝聞」の話でしかないけど、「クラシック楽曲=著作権切れ」はネット上で公開されたポカである。致命的とは言わないけど、こんなのが日本の著作権管理団体だなんて、不幸だわ。
#ここまで書いて改めて考えたんだけど、「クラシック楽曲などの著作権が切れた楽曲」を「クラシック楽曲のうち著作権が切れた楽曲」のように解釈できないかなぁとも考えた。
叩きたがりなアンチであっていちいち気にするほどでもないって思ってたけど
自分のムカつくを正当化するために理由をこじつけまくるクズが既にたくさんいるじゃん。
理由をこじつけさえすれば自分のムカつくを正当化するクズと言語化しない理由はないけどムカつくクズじゃ前者の方が自分に酔ったり周囲と同調したりタチが悪い。
現状だって普通の多数派の側にいる人間がマイノリティに向かっておれたちに負担をかけるなおまえらが悪い理由もあるだから殴っていいと正当化してる現状があるのになるかもしれないとか今更何いってんだ。
http://anond.hatelabo.jp/20170217100559
自分とおなじ価値観の人間の自称論理(相関と因果の混同など)を信仰してそれ一本で押し切ろうとする非論理的なアホと感情論のアホ、どっちもどっちなんだが前者に対しては誰も文句を言わないんだよなぁ