例えば、デレステにルームアイテムとして太鼓の達人の筐体が実装される。
ここで、「ファン」なる性質をもつ人は、これをおっとりした智絵里に叩かせて、
「大空直美(智絵里の中の人で、太鼓の達人が上手い)が降臨してるwwwフフフ…」とニヤける。
ただ、そうやってニヤける人も、実は分かっている。
ルームアイテムのアクションが1パターンで、どのぷちデレラがプレイしても機敏に弾きこなすということを。
そう分かってもなお、やはり「趣深いな…」と感じられている。
その一方で、「ファン」の性質に欠ける人は、何パターンかあると思うが、
複合的な楽しみ方を、「こじつけだ」のように冷笑的に捉えがち。
脳がシリアル処理なのか、それ単体としての評価をするのが美徳のように捉えている所がある。
上の例でいうと、「なんで1パターンなんだ、クソだな」「もっと作り込めよ」「好きだからこそ批判してるんだ」などと思いがち。
期待度はやけに高いし貪欲なのだが、楽しんでいる人たちの受け止め方を見せられても、
「信者乙」という感情が先にきてしまい、「それはそれ、これはこれ」と忠告目線を変えない。
彼らも、別に批評家ごっこがしたい訳ではなく、楽しもうという気はあるのだと思う。
ただ自分の思ったとおりに楽しませてもらえないことに対して許容範囲がシビアだ。
それで、2ちゃんだとかtwitterだとかのネット上のファンコミュニケーションの場において支配的になるのは、
どうしても後者のような捉え方になる。コミュニケーションが広く活発になるほどそうなる。
それはもうどうしようもないことなのかもしれないが、
日本語でいうならば「おもしろき こともなき世を おもしろく 住みなしものは 心なりけり」
という発想の人の肩身が狭くなって、ブログで一人つぶやくだけの世界になるのはつらいなあと思う。
それを肝に銘じながら、これからどんな娯楽に触れるときにも、「ファン」側の壊れやすい感覚に寄り添っていきたいと個人的に思う。
まあでも、そんなに難しく考えることもないんだろう。
絶対的な正解の表現はないし、どんな受け止め方をする人がいてもいい。
それだけ忘れなければ傲慢にはならないで済むし、楽しめない自分に幻滅してしまうこともないだろう。
「fun」に至るほどにチューニングが一致する、というのは幸運なことだ。
余談だけども、某橙色のはてな村民の、李徴と袁傪の新作漫画もさっき拝読した。
李徴は、映画前のCMを「これはこれ」として評価したのではなくて、
「映画体験」の一部として複合的に、次回への期待も込めて(時系列も含めた複合性)受け取ったからポジティブに楽しめたのだろう。
袁傪は映画通のように思える。通になると一つひとつのパーツにこだわって見るようになりやすい。
それゆえに楽しめなくなってしまう。ありがちだけれど、
それを克服できるほどメタな感覚をもって邁進していける人というのはあまり見ない。
というか、それが出来た時点で人からは見えなくなるのかもしれない。