はてなキーワード: おやじとは
場所と日時は伏せておく。
おやじ、おかんと妹と俺の4人で、車でおやじの実家に帰省したときのこと。
俺は全く主義は違うんだが、うちの父親と母親が学生時代から熱心な活動家で、いまも仕事の合間に、日本共産党の○○とかの役職で活動している。
ふたりとも75歳を超える年齢だ。
その日は強烈な猛暑日で、サービスエリアに寄ったときに、それは起こった。
5~6人の深緑の制服にヘルメットを着込んでいた比較的若い連中が、自販機まえにたむろってた。
たむろっていたといっても、順番に飲み物を買っていて、全員が買い終わるまで待っている、というような感じだった。
トイレにいくときには、喫煙所に、2~3人の自衛隊員がタバコを吸っていたのも見えた。
とくに、俺は、何も思わなかった。
先に車の間に戻った俺は、トイレにいったおやじが車に戻ってくるのを見ていた。
するとおやじは急に方向を変えて、自衛隊員のほうに向かっていく。
そして、休憩している自衛隊員の人たちの前で、普段から声を荒らげないおやじが、怒鳴り始めた。
「税金で人殺しの訓練している連中が、のうのうとジュースなんか飲みやがって!!」
どこかで聞いたフレーズだ。
まさか、まさか、ウチのおやじの口からその言葉が出てくるとは思わなかった。
本当にそんなふうに思ってるんだ。というか、今思えば、それは日本共産党員にとっての当たり前の考え方だったのかもしれない。
おやじは、頭の血管が切れるんじゃないかってくらい怒鳴ってて、当然というか、自衛隊のひとたちはポカンだった。
あんまりにも怒鳴ってるから、みんな無言で移動を始める。そそくさと、おやじから離れていった。
複雑な思いでその光景をみていた。
おいおいおいおい。休憩くらいするだろし、水分くらいとらせてやれよ。
俺は、昔から主義主張に生きる両親に少し冷めた目でみていて、できるだけ政治に対する態度ははっきりさせてこなかった。
「二度と、日本共産党には票を入れない!」「人間として最低だな共産主義者は!!」と、車に戻ってきたおやじに怒鳴った。
おやじは、突然の俺の怒号に、身動きが取れないようだった。たぶん、そんなふうに怒る俺を見たことがなかったから。
おかんがおろおろと困っていたが仕方がない。
俺も怒りが止まらなかった。
さらに、自動販売機でジュースを人数分買って、走って持っていった。
「これよかったら飲んでください! 親父は根っからの日本共産党員なんですみません」
最初は断ってきたのだけど、本当に気持ちですからと強引に渡すと、
受け取った一人が、できるだけ笑顔にならないように気をつけているようにしていたのだと思うけど、複雑な表情で、受け取ってくれた。
糞みたいな本当のはなし。
「コーチおやじ」というものが存在する。主な生息地は動画サイトに若者が投稿した演奏動画のコメント欄で、そこによく出没する。
主な生態としては基本的にダメ出し。やれ「ピッチが」だの「モタる」だの「音の粒が揃ってない」だの具体的な計測方法のない切り口でダメ出しをする。そして主に若い女の子がギターやベース、ドラムを演奏している動画に現れては、そう言ったダメ出しをすることを好む。
(あと最近気づいたのは、街角で弾き語りをやっている女の子にも何やら延々と喋ってるおやじもよく見かける。これはダメ出しなのか何だかわからないが、腕を組み得意げに何やら喋ってる。女の子は片付けをしたいらしく困惑した笑顔で対応するのだが、彼女のその困惑には気づかず笑顔にだけ気をよくしてペラペラ喋ってる。CD-Rを買ってあげてるのかはわからないが買ってなさそうだ。)
またコーチおやじは、女の子が習得する楽器に関してステレオタイプの先入観を持っているだめピアノ、シンセ、エレクトーンなどの鍵盤楽器の投稿動画にはまったくと言っていいほど姿を見せない。そこにも稚拙な演奏が相当あるにも関わらずである。だからロック系の曲を演奏するギター、ベース、ドラム専門に出現する。とにかく女の子がこれらの楽器がうまいことを許せないのだ。
たまにそのダメ出しに対して誰かがコメント欄で反論をすると「批評も許されないのか」「慣れ合ってヨイショコメントしかしちゃいけないのか」的な開き直りを見せる。ひどい場合はコーチおやじのダメ出しコメントばかりが動画に並び、いつしか投稿主は動画を削除してしまう場合もある。
コーチおやじの本質、それは「尊敬されたい」「愛されたい」である。「なるほど!わかりました!これからも指導お願いします師匠!」と言われたいのだ。とっくの昔に現役でなくなってる、もしくは現役時代そのものが存在しなかったかもしれない自分にだ。空想の、虚構の、眩い白日夢はこの上なく心地よいのだ。また相手が女性動画主だったらあわよくばねんごろになりたいってのもあるって言ったら邪推し過ぎだろうか。
だがコーチおやじの願望が叶う日は決して来ない。なぜならば若者たちが動画を公開するときに期待するものは「賛辞」と「励まし」だけなのだから。コーチおやじの「尊敬されたい」「愛されたい」とは対極の、はるかに青く純粋な衝動だ。コメントでもっともらしいダメ出しなんかもらわなくとも、彼らは再生数という言い訳の出来ない評価と対峙することになるのだから。こういうとコーチおやじは「再生数がすべてなのか」と半笑いで反論しようとするだろう。そうだ、すべてだ。
ここまで読んだ人は気づくと思うが、俺がまさにそのコーチおやじだった。
ここは「だった」と過去形で言わせてもらう。何故ならば俺はその空想の中の自尊心を、よりによって自分の息子に剥ぎ取られ、丸裸な状態の滑稽な初老の男である自分を突きつけられ、激しい屈辱と自己嫌悪とともに目が覚めたのだ。「コーチおやじの滑稽さ」に。(ちなみに息子は音楽はやっていないのだが、どう突きつけられたかは本題とそれるので省略する。ただ、涙ながらに訴えられ目が覚めたとだけ言っておく)
80年代に成毛茂という70年代のギタリストがやっていた深夜番組は、その骨太の説得力に薫陶を受けた何人かの門下生が凄腕ギタリストとなり、副産物として有象無象の門前の小僧を生み出した。ようするに「薫陶」ではなく「受け売り」止まりの奴らだ。俺はまさしくこのクラスタの人間。
そして90年代から00年代にかけてE〇Pとかの音楽専門学校に入ったはいいが、バンドやるでもなく真面目に授業受けるでもなく、身に付いたものはと言えば出会い系サイトのサクラのバイトによる昼夜逆転の生活習慣というだけの奴ら。
両方に共通しているものは、何ら後進が手本とできる見本となる演奏音源や映像を残すことも公開することもなく(そもそも今で言うところの「なろう」だったので存在すらしないかもしれない)、ただ曲と楽器と半端な受け売りの楽典の知識だけを元に、投稿動画をあれこれ批評と称してこき下ろす。全員が全員そうだとは言わないがコーチおやじの本質はおおむねこれだと思う。
あのな、ご同輩。今は時代が違うんだよ。まず機材が違う。昔のようにMDやテープを何度も聴き直して音を拾わなくてもコピーができる。アンプだってライン録りで遜色ない音もできる。8トラックでピンポン録音なんてアホらしいことだってする必要もない。だけど彼らはそうやって楽になった分のリソースをどこに注ぐと思う?彼らはやっぱりその分純粋に練習に注ぐんだよ。彼らは試行錯誤の必要がない分まっすぐに練習するんだよ。俺たちよりも合理的なやり方で、何よりも当時の俺たちと同じくらいの熱意でもって。今の若い子たちの演奏が(女の子のそれも含めて)抜群にうまいように聴こえるのは錯覚じゃない。本当にうまいんだよ。
だから彼らが、あなた方やかつての俺がかすかに期待する「尊敬」や「愛情」をお前らに向けることは未来永劫あり得ないんだ。とっくに現役じゃないかそもそも現役だった時代すら存在しなかったおやじたちに。だからコメント欄で偉そうなダメ出しするのはやめよう。気に入ったらlikeをクリックして、気に入らなかったらdislikeすらクリックせずに二度と観なければいいだけの話だ。
とは言えやはり俺もいまだに「尊敬」と「愛情」が欲しいことは否定できないので、
DTMと呼ばれるものに手を出すことにした。つまり若い連中が群雄割拠する世界に、かつて打ち込み専門の誰かが言った「楽器が弾けるというのはデカい」をわずかな希望として胸に秘めながら、ひっそりと足を踏み入れることにした。pro toolを始めとした機材を大人買いした。使い方を早くマスターするためにインストラクターに素直に教えを乞うた(オヤジは金があるんだよ)。これで俺も再生数に一喜一憂する奴らの仲間入りだ。指がすっかり動かなくなったというより広がらなくなって難儀してはいるんだが、まあコーチおやじよりは健全だと思ってる。
親譲りの無鉄砲で子供の時からパンティーばかり被っている。小学校に居る時分学校でパンティーを被って一週間ほど腰を前後した事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張ってもそこからパンティーを被る事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。咄嗟にパンティーをパラシュートにすると同時に頭に被り、全身ひどい怪我をした。警察に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をしてパンティーを被って腰を前後する奴があるかと云ったから、この次は腰を前後したまま回転して被って見せますと答えた。
親類のものから西洋製のパンティーを貰って奇麗なレースを日にかざして、友達に見せていたら、一人がスケスケ感がある事はあるが被れそうもないと云った。被れぬ事があるか、何でも被ってみせると受け合った。そんなら君の頭に被ってみろと注文したから、何だパンティーぐらいこの通りだと頭に被った。幸いパンティーが大きいので、今だに頭は無事だった。しかし髪型のパンティー跡は死ぬまで消えぬ。
アルファ互助ラーのたいやきおやじさん久々にホッテントリ入りしてた。
互助会ブログの中でもポジ熊とコバログ、ジバニャン(ブログ名忘れた)とともに第三次互助ブームの四天王をなしていた
ちな、今回の記事がホッテントリしてることにはまったく不満はない。
俺は面白さはわからんかったけど力作だと思うし面白いと思う人も多いだろう。
なにより、そういえばちるろぐっていたなぁ、いまなにやってるんだろうと懐かしい気持ちになった。
そもそもこのブログ、互助会さえなければ登山系コンテンツとかはすごいまともだし、むしろそういうのがバズらないのは悲しいよね。自業自得だけどな。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.taiyaki-oyako.com/entry/hatenagakuen-manga-pvup7
いつもの互助メンバー以外の人間がはてブしてたらちゃんとホッテントリに載るらしい。はてなのアルゴリズムよくできてるやんって思った。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.halu7.com/entry/100-articles
互助会の連中が間違って一斉にブクマしてしまったせいで誤ってホッテントリにのってしまったが
そのあとが続かないからすぐにホッテントリ一覧から消えた。おそらく40分くらいしか持たなかったはず。
やはり互助メンバーと思われたやつらのブクマは評価が低く、たとえ閾値を越えてもそこからの伸びが悪いとすぐにホッテントリから除外される。
はてなブックマークのアルゴリズム、かなり厳しくなってきてるが、こんどは絞めつけ過ぎないように気を付けてほしいところやな。
思春期にBLやら女性向け同人にハマって腐界に住むようになってから、15年ほど経過した。
ハマった当初からネットがあるので、補給も発散もネットやSNSで手軽にできる。
そして、ルールやマナーや暗黙の了解…いつでも学級会がどこかで開かれている。
今SNS上の女性たちは女性人権に様々な声を上げられる時代になった。
腐女子たちも同じで、趣味のアカウントでも女性人権やハラスメントや痴漢や育児…色んな女性の問題の話題が流れてくる。
なんとなく以前は、趣味のサイトやアカウントでこういう話は嫌悪されていたように思うので時代は進んだなぁ、いい事だなぁと思う。
何かがひとつずつ変わるたびに
「次は自分の求める何かが変わってくれるかも」と希望を持てる。
でも、
一方でまだまだ人権感覚黎明期なのか、自分が好む属性の人間しか人権がない、と思っている人も多いようだと感じる。
人権の話をする時、何かの人権を尊重しようと声を上げるみんながみんな、反差別や人権派なわけではない。
時に、自分の差別心を肯定してくれるから〇〇人権の話を建前にする流れになってしまったりもする。
この差別を批判することで別の差別を肯定する、というのはあまりにも前時代的というか、その手法を人権先進国で嬉々として話したら単純に差別主義者に見られる…ということをまだまだ多くの日本人は知らない。
だから、ついつい自分の認めた人種、自分の好きな属性の人権だけを高らかに気持ちよく発する。
とにかく属性で見るのが好きすぎるのはなぜなんだろう。
……ああ、ほら、また〇〇だ。だから〇〇は…。
〇〇がみんなそうなんですか?という疑問は「それってノットオール〇〇ですよね」に封じられる。
表題について、
女性人権について、SNS上のフェミニストたちと女性人権を語る腐女子は時々「男性嫌悪」について同調しあうが、途中から道が分かれているな、といつも感じる。
最近、一部のSNSフェミニストの間で「トランス女性は女性ではない」といった論争があった。
性別…ジェンダーはSEXを覆すことができない、肉体的に男性性を持つ以上は男性なのだ、だから男性嫌悪を是とする派にとってトランス女性も、それからゲイも嫌悪する対象なのだ、と。
ここで、腐女子と道が分かれている。
以前から、「BL妄想」と「現実にいるゲイ」の様々な学級会があった。
マナーとして失礼な扱いや現実との混同などの問題があれど、基本的に腐女子はゲイの存在に否定的な人は少なく、好意的な印象だ。
男性嫌悪があらわな腐女子でさえ、ゲイの記事をRTし、肉体的な、性的な魅力のある男性の写真をBL妄想とともにRTする。
ゲイの悩みや欲求には耳を傾け、ゲイが物申すツイートも肯定的にRTする。
でも、ゲイではないただの男性や、おじさんのツイートにはその内容の善悪や是非にかかわらず否定的だ。
「男同士でなんとかすれば?」
「ほんとにあったの?(真偽はわからないけど)嘘っぽい」
「(本人ではなく男性の)日頃の行いが悪い」
という。
これらは女性が長らく言われて苦しんできた言葉でもあるが、それを苦しめる言葉だとわかっていてあえて使ってしまっているのか、
言われちゃいけないし、言っちゃいけないんじゃないの?と思うがそれを咎める人は少ない。
男性嫌悪していても、ゲイやBL的に見栄えするものに対してはまったく態度が異なるのはなぜなのか。
フォローしているBL作家さんのRTを意識してみていたが、やはり普段は男性嫌悪だがゲイの記事だけにはなにをもっても肯定的だ。
そして、特定の相手ではなく概念としての「団塊世代の老害おじさんたち」を嫌悪しながら、そのおじさんが俳優やキャラクターや魅力的な写真の誰か…目に見える相手になった場合にBL妄想の種にするのは大好きだったりもする。
中年でもないが学生ほど若くもないお金も友達も特定の彼氏もいないおじさんだ。
以前、ネットでBLをたしなみ始めたころなはコミケで男性の購入おことわりなどの話を見ていてイベントには行けないな、などと思っていた。
いつの頃からか、腐女子はゲイには優しいなあ、などと感じはじめていた。
そしてまたいつの頃からか、それを男性嫌悪の波の中にある異質なワンポイントとして認識しはじめた。
生まれ持った男としての性への責任と罪というのを、女性多数の趣味の世界の中にいると強く強く念押しされるのを感じる。
そのたびに、間違わないように生きたいと思いながらも、
先人の男性たちやどこかの誰かが犯した罪を背負う責任を説かれ、
自分の世代や、次の世代の男の子たち、これから生まれてくる男性性を持ってしまった赤ちゃんたちに「罪人の性」としての負債を残していく事を望んでいる…
そんな日本の一部の「男は男で生まれただけでマジョリティで優位者」という考え方に呑まれながら
でもふいに「ゲイは別だよ」と肩をたたかれたときのゾッとする感覚。
なんだろう、これはなんだろう、とずっと考えていても答えがわからない。
マイノリティな属性を持っていたら「男に生まれた罪」から解放されるのか?社会的に弱者であると認識されたから優しくされるのか?
でもそれは正解じゃないかもしれない…。
男性嫌悪のおじさん批判は、金なし友達なし恋人なし職なし趣味なし病気あり介護あり…であっても容赦なく叩くから、ただ弱者であってもダメなんだと思う。
普段自分の性別は明かさないが、腐男子だとわかると嫌悪してくる腐女子も多く出会ったし、それまで交流があって普通に話していたのにそれで終わることも多い。
でもやっぱり、ゲイだと話すと優しくされる。
彼氏がいたころなんて毎日のように相談に乗ってくれたし、いろいろ話を聞かれたりもした。
それは、エロおやじが女の子の性の話題に食いつくのと同じなんじゃないのかな、要するにオカズとして見られてるのでは?なんて感じるようになって話さなくなった。
ゲイやオカマは人生に役立つ格言を言ってくれる、人生経験豊富、みたいに思われるのも嫌だった。
丁度、男性の同性カップルの殺人事件があったときだった、不謹慎だけど萌えた~って言われて理解ができなくてブロックしてしまった。
書いていればまとまるかな?なんて思っていたけれどだめだね、どうしてだろうなんでだろうが止まらなくなってしまった。
今日も好きな商業BL作家さんも二次同人作家さんも、概念おじさんを、悪いおじさんなのか良いおじさんなのか、それはどこの誰で、顔見知りの誰かとどう違うのか、
そんなのはどうでもよくすべての男性という大きな主語で嫌悪しながら、「でもゲイはいいんだよ」とでもいうように同調され支援され萌えを語られる。
お前は悪い人種だお前はダメな人種だと指さし囲まれたあとに、「でもゲイでいれば許すよ」と頭を撫でられる。
これって腐女子にとってはゲイだけど、誰にでもある「好む属性の人権だけ認める」現象の、ひとつなんだろうか?
みたいなものなんだろうか。
なぜそうなのか、なぜなのか、誰もちゃんと教えてはくれない。
古い会社。建前では男女平等を謳って色々やるけど実情は男社会だ。女性ではマネージャー(課長級)より上の人を見たことが無い。
数年前のある日、一息ついてちょっと暇になった時期に、社員のお茶会をまとめてくれている女の子が「ここ1年ぐらい収支が赤字で貯金が尽きそうなんです。」と相談してきた。せっかくなんで会費値上げのお願いを一緒にして回ったのだが、そもそもなんでこの子がたった一人でお茶会まとめてるのか?という疑問がわき、暇だった勢いで何を血迷ったか女子にやらせていた雑用(お茶以外にも色々ある)を男子もやるようにしましょうと偉い人に進言してしまった。
建前上は男女平等で働きやすい職場を標榜しているわが社の偉い人がそれを拒否できるわけもなく、すべては私のほうで取り仕切りますからということで「職場改革」の大義名分を得た俺は早速状況調査にかかった。
色々聞いて回ったが、一番の古株に聞いても「前からそうだったので・・・」という回答しか得られなかった。
そしてそんなルールが明記された発行文書も無い。(何十年も前にあるかもしれないが、少なくとも閲覧できる履歴の中には無かった。)
こうした結果を踏まえ、雑用を女子だけがやっている正当な理由はありませんとアナウンスしたところ、誰からも反論が無かったので具体的な作業分担を行うこととした。まぁ、表立っての反対ではないものの、特に50代のリストラ対象者に限って「なんでワシがそんなことせにゃならんのか?」という意味の非常に遠まわしなメールが帰って来てはいたが。
まずは、定期的に発生する作業。これは当番制で全員がローテーションに入る事とした。どうしてもやりたくない人は支援金として毎月1,000円支払えば免除することとし、宴会・慶弔の口座に入れることとした。これにより、事実上課長級以上に毎月1,000円課税できることなり、親睦の促進が期待された。
次に、随時発生する作業。これは原則発生させた奴が行うこととした。これも支援する人を何人か予め決めておき、丸投げしたい人は課税することとした。これによりさらに親睦が深まるのは間違いなかった。
これらのことは、すべて公開議論にして決定した。内心文句垂れ垂れのリストラ対象おやじ共も最終的には承諾したし、雑用から開放される女子からも大歓迎された。
2週間程度の周知・移行期間を経て、いよいよ運用が開始された。
とたんに男子がボロ見せ始めた。普段やり慣れてないせいでミスを連発した。すっぽかす奴も居たが、それでも、それなりにお互いフォローをしつつなんとか軌道に乗り始めた3ヶ月後・・・
お茶会の女の子と、一番喜んでたはずのAちゃんが二人で俺のところにやってきてもごもご話し始めた。
なんだか的を得ないので、会議室に行ったところ、「やっぱり元に戻しましょう!」「あなたたちには任せてられない!」と言い出した。
それ以外にも「業務が滞りがちで・・・」とか理由をつけていたが、根掘り葉掘りと突っ込むと・・・
ということだった。
「いやいや、そんなことは無いでしょ。そんな雑用よりせっかく浮いた時間で利益につながる本来の業務を手伝えばいいだけじゃないの?Xさん忙しいからそっちフォローしてあげるとか。 評価も上がって一石二鳥。」
といったが、どうやらそれは困るらしい。
とにもかくにもそれから1ヶ月ぐらいは、実運用を踏まえて制度の再検討ということで女子と話し合いを持ったのだが、いや、全員ではなく女子と話し合うということがすでにおかしいのだが。結局2ヵ月後には女子の強い申し出により制度開始半年も経たずに元に戻ってしまった。
女子が雑用をやっていた本当の理由は、実のところ、言い方は悪いが、社内生活保護的な意味合いによるものであった。
大した仕事したくない人が時間をつぶすために簡単で苦労も無く、時間もかからずすぐに終わる雑用を引き受けることで、くびにならない程度の存在感を維持する口実になっていたというのが実態だったのだ。いつしか、何十年もかかって、それが女子社員の中で既得権化して雑用したくない男子社員とも利害が一致し、お互いにまったく無意識のうちにそういう風に制度化されていたというのが本当のところだったのだ。
これを悪く言うつもりは全く無い。実際問題、雑用係はありがたい。会社として雑用係という役職が無い以上、誰かが自発的に引き受ける必要があるからだ。
だから、女子でも仕事バリバリやっている人なんかは、最初はなんとなく女子だからという理由で同じようにやらされるが、だんだんとそっち側の人のほうに雑用が引き取られていくらしい。
そうであるならば、同じ考えの男子がいてもそのポジションに入れずに、成果主義から逃れマッタリとしたサラリーマン生活を送るすべを持たないというのは逆差別なんじゃないかなと思う今日この頃。