はてなキーワード: 踏み絵とは
飴と無知
映画のワンシーンのような写真、絵のような写真、写真のような映画のワンシーン、写真のような絵、映画のワンシーンのような写真のような絵、写真のような絵のような写真、絵のような写真のような絵
米ソよりお世話になっております
失敗の非嫡出子
流石にスタン
コラソンアキノ/リンゴスター/マリアカラス/アーネストサトウ/ナオミキャンベル/ベアテ・シロタ
キレる仏図澄「このブドチンガ」
テジロ猿/ヤジロベイ
湯担保
ニューカレドニアはク活用形容詞の補助活用の已然形ニューク+逆説のド+連語のニヤ
豚を陸フグと呼ぶ人
サーターセンダーギー
想起ソバ
ワイヤレスイヤホンを洗っても壊さないことを売りにしている洗濯機
アンタレス↔︎ワタシモア
見ざる言わざるdismissal
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豪遊型リゾート
看取るネーム
鷹の爪の垢
四角い頭を丸くする→頭を丸める
忙しくない/忙しない
りんご/フラミンゴ/日本語/喃語/マンゴー/単語/援護/縁語
セヴラック/セノビック
絶賛デッサン中
大きいエスカルゴ→Lカルゴ
銃は社会の癌だ、ガンだけに
よりどり緑
エーゲ海↔︎悪い天上
能し力(抑止力)
隠された鷹の爪
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likely きらいがある
singing 呻吟
break order 無礼講
スケルトン 透ける
へしくらまんじゅう
崇めムノン
ベートーベンの答弁
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めちゃくちゃ覚えておいて欲しい人「記憶の中心にでも置いて頂ければ」
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上手くいった人「計画が表目に出た」
蛸の価値は如何ほどに?
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めんどくさくなったキリスト教徒「あーめんどくさい」
揺れ過ぎてシンドバットになった
しちめんどくさいから。
同時進行する川→長良川
千客万来→万客千倍
匈奴人「オルドスにおるどす」
呵呵大笑と笑うとと(父)
仏陀をぶった斬る
ディーテイル/ディティール
前半で感動させ涙で目をにじませることを想定して、後半は適当に作画しているアニメ
電子卓上計算機は「計算機」の部分が大事なのに電卓と略されている
追い詰められるトランプ→弾劾絶壁
ちょっとバズってる池→プチバズの池
アリペイにいえば...
ガラガラヘビで賑わってる店
イキリ寿司
コドモオオトカゲ
票取るピョートル
黙って物々交換
2寸の虫には10分の魂
教室に窓がなかったので、卒業生が集まっても同窓会が開催されない学級
どっちか分からない人。タバコは吸いますか?すいませんが吸います。
みんなやめる政党→辞任党
吸えず運河
シモニデセ/シモニデセ/シモニデス/シモニデスル/シモニデスレ/シモニデセヨ
ポジティブな朱熹「老人は年を取りにくく、勉強も大変にならない」
麓で行われる頂上決戦
死んだ草間彌生→草葉彌生
円の下の力持ち→日銀買支え
先に断っておくと,今から私は極めて(藤本タツキ氏に対して)無神経なことを書くつもりであり,その点については先に謝罪しておく.ごめんなさい.じゃあなぜわざわざ書くのかといえば,既に以下のようなコメントがネットに散見される状況ならまあ書いてしまってもいいかと思ったから.
https://twitter.com/imaitetsuya/status/1416946323043979267?s=21
『ルックバック』、すごく面白くてすごい作品だったんだけど、あの事件をこうやってすばらしいエンタメに昇華することやその世界に共振して祈りや救いのような気持ちに包まれること、になんというかすごい恐ろしさのようなものも感じる気持ちもあってうまく考えがまとまらない。すごく面白くはあった
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/shonenjumpplus.com/episode/3269754496401369355
masa_bob どんなに才能があったとしても2年前の実在の事件にDon't Look Back In Angerと言って公表する権利があるのかが気になったことはブコメしておく
world24 ”Don't look back in anger”は遺族しか言えない言葉だと思うけど。なんか事件が読者には「エモさを強調するもの」として消費されちゃってるな。
端的に言ってしまえば,藤本タツキ先生はその事件の「遺族」だったんではないの,という話である.それがどこまで文字通りの意味でそうだったのか私は知らないし特に知りたいとも思わないが,マンガの描かれ方からして私はそう読み取った.
この作品に倫理的な危うさを感じてしまう人が一定数出てきてしまうのは理解できる.作者情報ゼロで読んでいたら私もそう感じていたと思う.そのような目線で読むと,この作品はまるで読者に対して「事件からもう二年も経ったんだし,うじうじしてねーで前向こうぜ」と語りかけているようではないか.何様のつもりだ.
でも,このマンガのタイトルは『ドントルックバック』ではないのだ.作者はルックバックしているのである.作者自身の過去を.
このマンガは,作者自身のリアルな経歴に対する自己言及の量が度を越している.ちょっとした遊び心のあるセルフパロディといった次元で片付けられるものではない.
登場人物の名称「藤野」+「京本」=「藤本」.京本の大学は明らかに作者の出身大学だし,『シャークキック』は明らかに『チェンソーマン』である.
https://twitter.com/12_Popo_36/status/1416781566928244742
って考察があったけど
だから,私はこのマンガを藤本タツキ先生の自伝だと思って読んだ.おそらく先生は,あの事件で自分の中のおよそ半分くらいを奪われたのだと思う(藤本の「本」=京本).それがどこまで文字通りの意味なのか,藤本先生に「では君は当事者なのか」と踏み絵を迫るが如く問い詰めることは,それこそとんでもなく無神経な行為となるので私は望まない.先生がこのような形で自分の思いを弔うことを選択したのだから,ドヤドヤと首を突っ込む権利はこちらにはないと思う.
では仮に当事者だったら許されるのかとか,事件に対する関係性を濁したままで許されるのかとか,ああいったトラウマ的な事象を表現として扱う際の手つきとしていかがなのか,とかいった問題は,私は詳しくないのでここでは触れられない.こーいう問題系ってホロコーストの表象不可能性に関して『シンドラーのリスト』や『ショア』と絡めてめちゃくちゃ論じられてきた話でしょ.誰か詳しい人論じてくれ.
ともかく,このマンガは藤本タツキ先生の極めて私的な回顧録かつ決意表明であって,それ以上の何かは特に込められていないのではなかろうか.
https://tomoko.fanbox.cc/posts/2500517
つまり『ルックバック』という作品はそのまま藤本タツキ先生のメメント・モっている状況、葛藤を描いたもので……ラストシーンは「充分にメメント・モったのでここからはやっていきをやります」というお話なんだと思った。
↑この記事には概ね同意するが,特に読者が「べき」を感じる必要性はないと思う.何か規範的なものを論じているわけではなくて,藤本タツキ先生の「やっていきますうおお」という日記が半ばフィクショナルな漫画作品として結実したものに過ぎない.そのマンガ的技巧の卓越さに驚嘆しようが,あまりの圧倒的な才能の発露に心を折られようが自由では.
メタ的なことばっかり書いてきたが,以上を踏まえての私なりの『ルックバック』に対する感想はシンプルである.
『チェンソーマン』で一番好きなのはアキくんです.高校編楽しみに待ってます.
加害者の描かれ方について苦言を呈するコメントに対して,「そもそもこのマンガはそういうテーマを扱う話ではないのだからその指摘は的外れ」という指摘もちょっと的外れだと思っている.まだ二年しか経ってないんだぜ.今の段階で,そもそも遺族に加害者側へ多少の同情をするよう強要できるのか?
件の共同声明について、女性フェミニストに対して是非を問うたり、踏み絵のように利用する事には抵抗が有る、
何故ならやはり女性は現在進行形で強く抑圧を受けている被害者であり(無論、そうした「男性」対「女性」の様な単純な二元論は当の声明で批判されていることは重々承知であるものの)
しかし、男性の場合はその様な遠慮は当然働かない。あの声明に対してどう考えるのか、フェミニストとして応答責任があるとさえ思う。
まず件の声明は「フェミニズムではなくヒューマニズム」との批判も受けているが、男性がフェミニストになる場合は女性と異なり、ヒューマニズムを経由する場合が殆どである。
理由は単純で、そもそも男性フェミニストは女性ではない以上、「何故ほかのどれでもなく、女性(差別)なのか?」という問いに応え得ない。
つまり女性ではない男性が女性差別を問題視する動機は、「そもそも差別は駄目だ」というヒューマニズムを経由せずにはほとんど成立しえないのだ。
だとすれば男性フェミニストは件の声明がヒューマニズムであったとしても、それ故にこそ声明の語る内容を拒否しえない。
ヒューマニズムを根拠に自己と異なる属性の人々(女性やLGBT、障碍者、貧困者、セックスワーカー等)へ共感を寄せ、それらの人々が受ける差別や苦難に反対する事は間違いなく正当だ。
しかしだとすればそれらの人々の間に優劣を付ける事は欺瞞ないしグロテスクな加害にさえなり得る、
例えば女性差別に反対する事は間違いなく正当だが、「女性を優先していない」事を理由に件の声明を拒否するなら、それはLGBTやセックスワーカー等をヒューマニズムの対象に含めないという極端にグロテスクな差別主義という事になる。
この事情故に、男性フェミニストにとってのあの声明は、女性フェミニストにとってのそれと取るべき対応がかなり異なる。
「女性を優先する」タイプのフェミニストを自任する場合、女性=弱者・被害者、男性=強者・加害者という構図を採用する事が多いだろうが、そのような単純な二元論を棄却しないならば同時にLGBTやセックスワーカーに対しても強者・加害者とならざるを得ない自己の責任を果たさねばならないし、だとすれば声明を拒否しえないのだ。
「あの声明の内容に問題は無いが、フェミニストの名を冠するのは不当だ」という批判もあるが、これも適当ではないと私は思う。
件の声明が「再確認を呼びかける」ものである事に着目すべきだろう。文脈上、ほぼ確実にあの声明はそもそも「フェミニスト・フェミニズムの名の下にLGBTやセックスワーカーへの差別や偏見が蔓延している」現状を前提とし、
そうした現状を憂慮するが故に「再確認を呼びかけ」ている。そうである以上、あの声明は「フェミニスト・フェミニズム」に対して呼びかけなければ意味がないし、その必然性がある。
また声明の構成は「➊人権の普遍性、差別をなくすこと、そして暴力からの解放」「❷身体的自主性、尊厳、作動性、アイデンティティの権利」等のタイトルで区分けされ、その前に「フェミニストの原則の再確認:」と書かれている。
これは声明に書かれたすべてが「原則」なのではなく、「➊人権の普遍性、差別をなくすこと、そして暴力からの解放」「❷身体的自主性、尊厳、作動性、アイデンティティの権利」「❸拷問、非人間的な扱い、医学的虐待からの解放」といったタイトルが「原則」であり、そのあとに付される文章はその原則の「応用」「実事例への適用」と読むべきだろう。
LGBTやセックスワーカー等への言及はこの「応用」「実事例への適用」に当たり、原則そのものにはLGBTやセックスワーカー等への言及は含まれていない。
つまり「LGBTやセックスワーカー等への言及ばかりだからこれはフェミニズムではない」というのは声明の構成に対する誤読だと私は解釈する。
あくまでそれらは「原則」から導いた応用に過ぎないのだ。そして各タイトルはフェミニズムの原則として違和感のあるものではない。
また、それらが「あまりに一般的すぎる」事は、論理的に考えてフェミニズムという思想に対する強い信頼の反映だと考える。
つまり「あまりに一般的な」普遍的な人権に関する原則とフェミニズムはほぼイコールなのであり、普遍的な原則からフェミニズムは自明に導けるのだ、という強い主張である。
例えばフェミニズムが「女権拡大」の為のもので、女性を優先した原則を掲げなければフェミニズムではないと考えた場合、そのような思想は「女権を拡大すべき」「女性を優先すべき」という命題に同意する人にとってしか重要ではないし、従う理由もない。
けれども普遍的な人権に関する命題からフェミニズムが導けるならば、普遍的な人権に同意するあらゆる人はフェミニズムに同意しなければ矛盾を抱えていることになる。
つまり原則が「あまりに一般的すぎる」事はフェミニズムの普遍性を支持しているのであってその逆ではない。逆にフェミニズムを普遍的な人権と切り離してしまう人は、フェミニズムを自ら小さい、意味の無いものにしてしまっている(こうした論理的な関係は気付きにくいものなので、そこに気付かないことに特別過失が有るとは思わないが・・・)
こうした事について男性フェミニストや男性リベラルは真面目に考えることが出来ているのか、声明に応答できるのか、という事は注視すべきことであろう。(勿論私自身を含めて)
これはさあ、表現意図という内心を断罪すべきかという踏み絵なんだよね。
日常において偶然体の線が強調されるポーズをしてしまうことはよくある。これはエロではない。
ただ、その瞬間を絵に描いたり写真に撮ったりするとグレーになる。
たまたまそのポーズをとらえただけかも知れないし、ほかのポーズも選択肢としてあったのにわざわざそれを選んだのかも知れない。
わざわざ選んだとしても、躍動感を感じたのか、美しいと感じたのか、エロいと感じたのかは描いた本人にしかわからない。
作品の鑑賞技術として、これは性的魅力を表現していると「解釈」することはできる。
でもそれは正解とは限らない。悪名高い国語テストの作者の気持ちを考える問題みたいなやつ。
だから、どう見てもエロを強調しているように見える構図でも、その解釈を根拠にNGとすると、内心を勝手に決めつけて断罪することになるので現代では受け入れられにくい。
オリンピック選手はオリンピックにでたい、飲食店は営業してお金を稼ぎたい、劇場は公演をしたいし、労働者はお金を稼ぐために出勤しないといけない。
みんな自分の利益が大事なのは当たり前。コロナ防疫が社会全体の利益だといってもその自分への分配分は放棄しなきゃいけない利益に比べたら余りにも小さい。
でもみんなが自分の利益だけを求めていたら社会は成り立たないのでそれを調整するのが政治の役割だ。
個人が自らの利益を求めるのは当然でしょうがないので「自粛と補償はセット」のようにその利益を満たしてやる代わりに
防疫に協力させる取引を引き出すのが政府の役目で、それがうまくできない日本政府がはてなにおける批判の対象であったはずだ。これまでは。
ところが変異株によるかつてない感染拡大の恐怖でそんな悠長な建前はあっという間にポイ捨てにされ、もはや「個人の利益」が直接攻撃の対象となった。
五輪の間接的な受益者ではあるものの決定権者でも何でもない池江に「私は自らの利益なんて求めません!」と宣言しろと踏み絵を迫ってるのである。
かつて自粛警察の攻撃対象は「実際に営業してる店舗」であったが事態はより先に進んだ。これからはもう「出来れば営業したいという願望」すら許されない。
「コロナが収まるまで喜んで営業を放棄します」と宣言し店に張り紙を出さないと焼き討ちにあうのもそう遠くない。
通勤だってそうだ。「会社がテレワークにしてくれないからしょうがない」なんてのはもはや甘えだ。
「なぜ会社を辞めない。そんなに自分の金が大事なのか」と糾弾される世の中までもう少しだろう。
既に飲食店や劇場が池江を叩くこん棒にされてるように、そうやって屈服させた事柄を新しくこん棒にして「〇〇は我慢してるのにお前は何をしてるんだ」とあらゆることを叩いて回る。
近所のスーパーに3日に一度買い物に行くことすら批判の対象になるかもしれない。人間は生鮮食品がなくても保存食とサプリで生命維持が可能だから。
白饅頭、すもも、もへもへ、青識、わいず、有栖川ありす、どうぐや、ホモ東、ぼっかんしゃ等が弱者男性側から批判されているのを見たことがない
あてがえとは言っていないというが、あてがえ論者を切断処理しないから同類だと思われてるんだよね
程度の差こそあれ
②女の社会進出、女の恋愛の自由のせいで少子化が進んだ・弱者男性が結婚できなくなった
③女の人権を制限or賃金の不平等を維持or意識改革()なりの方法で、皆婚社会を目指そうって主張は共通。アンチフェミってか、アンチ女の人権だよね。
女からして、こんな主張する連中の同類を救う理由があるはずない。せめて、あてがえ論者を切断処理してから来てくれよ。
「あてがえとは言っていない」じゃなくて、「あてがえ論には反対です」って言ってみろよ。踏み絵を踏め。名指しで批判しろ。
かつべ元気を、よもぎ団子を、上野千鶴子を批判した時みたいに、あてがえ論者を批判してみろよ。
出来ないなら、そういうことでしょ。