はてなキーワード: 自力とは
1940年1月1日までにポーランドとフランスを降伏させれば達成できる。
1936年にポーランドに自力で正当化して1937年に併合、1938年〜1939年にフランス戦(連合国戦)やって降伏させて達成。
「ラインラント」は取らない。戦争することで非武装地帯が解除されるので自動達成できるため。
「四ヶ年計画」から始まる工場がもらえるツリーを適当に取る。あと「陸軍の諸改革」を取った。師団速度が上がる陸軍長官が好きなので。
政治力+15% の閣僚を二人雇ったらポーランドに正当化、という手順をやった。でもこれ、たぶん閣僚雇う前に正当化始めたほうがよかった気がする。その後は「労働条件の改善」をしたり、陸軍長官と空軍長官を雇ったり、「幻惑の紳士」を雇ったりする。
最初になんとなく民需工場を二つ建てて、あとはずっと軍需工場を立てた。たぶんずっと軍需でいいと思う。
歩兵装備の出る数だけ歩兵を徴兵する。ポーランド国境に並べる。開戦までに歩兵24師団の追加を目論む。
諜報機関設立して暗号部門を五つ強化するまで進めて、諜報員を二人出す。その後はしばらく強化しない。アンシュルスなど済んで民需に余裕が出来たら再開する。諜報員はポーランドに仕込む。
正当化が終わったらすぐに宣戦。東側飛び地の東プロイセン国境に24師団歩兵を並べておき、ここは動かさず固めておく。広い方の国境に歩兵24師団を並べて開戦と同時に突っ込ませる。戦車と騎兵は別の軍団にして、西プロイセンとダンツィヒに突撃して東プロイセンと繋ぎに行く。飛行機を全て西ポーランドに飛ばして補助。
海軍は特にすることはない。暇なのでバルト海で通商破壊したり機雷撒いたりしとく。
ある程度押し込んで東プロイセンと繋がったら、東プロイセンの軍団も南下を開始。ワルシャワとあと少しを押さえたらポーランドは降伏する。
講和会議では全併合する。国際緊張度が上がるが仕方ない。傀儡化するとたぶん実績が取れなくなる。(一敗)
「ラインラント」が自動達成できるので取る。「アンシュルス」が取れるようになったらすぐ取る。
その後は産業系を適当に取って内政。あらかた取ったら「東方地帯の再要求」の後、「ダンツィヒか戦争か」をポーランドがいないので自動達成、「マジノ線迂回」で開戦事由を取りに行った。でも NF で開戦事由取るより、自力で正当化した方がよかったような気もする。
ポーランド戦が終わったら諜報員をフランスに仕込む。「協力政府の作成」を一段階やって降伏を早めておく。その後はフランスの諜報網は休止、ベルギーとオランダに諜報員を入れて開戦に備える。
軍需工場や合成精製所を建てる。対仏戦直前は、レーダー建てたり対空砲建てたりしてた。
歩兵師団と軽戦車師団を適当に徴兵する。出せれば中戦車を出したかったが、間に合わなかったのでこれで押し切った。
NFで得た開戦事由で低地地方にまとめて宣戦。すると英仏が宣戦してくるので世界大戦勃発。歩兵師団を仏国境に並べて固めておく。マジノ線に突撃するのは無謀なのでここは動かさない。残りの歩兵師団と戦車師団を補給ができそうな数だけ低地地方に突っ込ませる。予備の師団はオーストリアで待機。
空軍は戦闘機を少しドイツ領の防空に配置し、残りを全部低地地方に飛ばす。
海軍は動かしてもボコボコにされるだけ。交戦を避けながら機雷を撒いたり、スペイン沖の深海でちょっと通商破壊したり位しかできない。
しばらくするとイタリアが枢軸に加盟してくれるので、すぐに予備師団を伊仏国境に貼り付ける。準備ができたらイタリアを参戦させて攻撃開始。
低地地方が終わったら南下。諜報網も再開。フランスの勝利点を少し取ったら降伏してくれて実績が達成できた。実績が取れたのでここで終わり。
夏になると水の事故が多くなるから、自分が子供のときのヤバイ経験を書いておく。
1.海で浮き輪に乗ってひとりでバタバタしていたら、知らぬ間にかなり沖にいた。
焦って自力で戻ってきた。戻れて良かった。
2.小学校の上級生との合同プール授業で、プールサイドで横1列に広がったら真ん中の深いほうに来てしまった。
そしてそのまま飛び込んだら足がつかなかったので溺れた。
親父が孫に会いたいがために、「土日のどっかで孫を預かるよ。ビニールプールに入れて遊ばせる」と言ったらしい
そして私にとっては甥っ子(1歳半)が日曜日の8時半に水着を持参してやってきた
親父はその日、仕事が入り、家には私と母だけだ
仕方がないので母と協力し、ビニールプールを設置、遊ばせ、撤収を行ったのだが、これがまあ大変だった
ビニールプールは2.5メートルほどの大きいやつで、小さな滑り台がついている
二週ほど前に和室にビニールプールを膨らませて甥っ子を遊ばせ、そのまま置きっぱなしにしていた
「実際に水を入れるならもう少し空気を入れたい」と母が言うので、車用のコンプレッサーとコンセント変換器を使うことにした
500円玉大の空気穴は二重構造になっていて、蓋をはずしてもその中にある弁が穴をふさぐのですぐさまは空気が抜けない
コンプレッサーの管で弁を押し開けて、管を中に通してスイッチをオンし、空気を送り込むが、これがまあ上手くいかなかった
なぜかというと押し込んだ空気分より、弁を押し開けた分の隙間から抜ける空気の方が多かったから
ごおおおおおおという機械音と「プールまだなん?」という物言わぬ甥っ子の目線に耐えながら硬いビニールの空気穴を二本指でつまみ狭くしつつ、ひたすら空気が漏れないことを祈る時間は苦痛だった
10分ほど格闘し、ネットでも調べたが有効な解決策が見つからず、ようやく自力で見つけた解決方法はコンプレッサーの管をもっと奥の方へ突っ込むことだった
空気穴近くで空気を送り込むのではなく、そこから離れた場所で奥の方へ空気を送ることで、ビニール壁に空気が当たりそのまま近くの空気穴から漏れ出ることを防ぐ
今言葉にすれば簡単な理屈だが、当時の私は寝起きの頭でプールの方に何か空気漏れを防ぐ理屈が存在するのかと考えていたのでなかなか気づけず、イライラしてしまった
コンプレッサーの力でも大きなビニールプールが膨らんだのは10分近くかかった
これを弟の嫁と父は足踏み式のポンプでふくらましたのかと思うと、それは愛でしかないなと思った
ようやく膨らんだビニールプールを庭の芝生部分に設置して、ホースで水を入れる
その間に母は甥っ子に水着を着替えさせていた
事前に会社の人に「水が冷たいとなかなか入りたがらないから午前中に水をはっておいて、午後に遊ぶほうがいいよ」と聞いていた
ただ当日は真夏日であり、入れたばかりの水もそこまで冷たくなく、甥っ子はぎゃあああああああと歓声を上げながら遊んでいた
大人が浸るには小さいプールなので、近くにベンチを置いて、母と一緒に自分たちは座りながら足だけプールに浸し、甥っ子を遊ばせていた
水辺で手をバタバタと動かし、発見と享楽のたびに笑顔を見せ、「こえっこえっ(これこれ)」とこちらの顔を観て指さし、興奮を交えながら言葉足らずに感情を共有しようとする様は愛らしくかわいかった
ただ1時間くらい夢中で遊んでいたので、赤子の体力って無限なの?とも思った
昼過ぎくらいに父が帰ってきて、そこから甥っ子の面倒を交代した
後で聞いた話によると、甥っ子は午睡の前に1回、午睡後に1回プールで遊んだらしく、本当に赤子の体力は無限なのかもしれん
これで一日が終わっていれば、ちょっと疲れたなくらいだったのだが、大変だったのはビニールプールの片づけだった
夕方になっても父は甥っ子に夢中でいっこうにプールを片付けしようとしないので「プール片づけしようと思うんだけど」と言ったら「おう任せた」と笑っていた
いい加減にしろよと思いつつも、翌日になって水がぬるぬるになったプールを一緒に片付けてと言われる方が嫌だったので、バケツと風呂桶に取っ手がついたやつを用意し、プールを片付けることにした
母に水はどうしたらよいかと聞くと、花や野菜や木にかけてほしいとのことだったので、バケツで水を掬い、水やりに使って、5分の1ほどの水嵩を減らした
残りの水で芝生が水でびしゃびしゃになる分には仕方ないと了解をとってあったので、プールに手を突っ込んで、栓を抜いた
これで片付け終わりだわと思っていたが、全くいっこうに水が抜けない
ホースの水で遊んでもいたので、水かさはたっぷりでプールの底は芝生にぴたっとくっついていて、栓は500円玉くらい
水が抜ける隙間がどこにもないのだ
もちろんそんな大量の水が入ったプールを持ち上げる筋力などない
仕方なしに取っ手付きの風呂桶を片手に中腰になり水を掬い、庭のコンクリート部分目掛けて、水を撒いた
中腰からのアッパーカットの要領でたぶん30回くらいは水を撒いた
人間の皮膚の汚れや表面菌のせいか、はたまた甥っ子がどこかのタイミングで水中で粗相をしていたからかコンクリートに打ち付けられた水は泡を含んでいて周囲へと広がっていく
中腰と水の重さと同じ運動の繰り返しによる体の負担といっこうに減らない水嵩で嫌気がさしていた頃に、父が甥っ子を抱いて窓辺から「ほら、○○(甥っ子の名前)がんばれーっていって」と私を見せていて、父に対し一瞬の怒りを抱いてしまった
しかし、「(がんばれーと思うほど)大変そうに見えるなら、母に預けて、自分が手伝いにこればいいだろ」とは甥っ子の前で叫べない
もう仕方ない、心を無にして、打ち水マシーンになるだけだと工程を繰り返し、コンクリートから広がったた水が家と田んぼの間にある公道のアスファルトにしみこんだくらいでようやく水が20センチくらいの深さになった
もう汚れるのは仕方ないとビニールプールを抱きかかえ、栓から残った水がじょろじょろと芝生に落ちるのを眺めた
その後、飛んでいきそうにない場所にビニールプールを設置し、腰と右腕に相当量のダメージを感じつつ、なんとか片づけを終了した
最初に空気を抜いて、ビニールプールから水を溢れさせてしまう方法も考えられたが、またこのプールを使うことを考えると空気入れが面倒でできなかった
その日の教訓は相当量の水は本当に重いということだった
遠くの田んぼに用水路から水を送るのに電気式のポンプを使っているのをプール片づけた後でコンビニに行く際に見つけて、これがうちにもあったら楽だったのになと思った
ある日、ツルツルのマル、マル太郎がいた。人間のお尻のようにツルツルと輝いている。
マル太郎は、知らなかった。外側にはいろいろな世界が広がっていて、その中にはその輝きにふさわしくない刺々しいものがあることを。
あまりにもその丸さと輝きは素晴らしかったので、棘の軍勢は嫉妬をし、「このマルには醜い棘を刺すのがふさわしい」と言った。
マル太郎は、さまざまな種類の棘を刺され、その針の先には麻薬が付けられていたので、刺されるたびに「きゃははは」と叫んだ。彼は狂っていった。
彼がツルツルの村の仲間に話しかけると、仲間は彼の棘に刺されて血を流した。しかし、棘からは麻薬が染み出るので、マル太郎の棘に皆が刺されようとし始める。
ツルツルの村が血だらけになっているところを見て、棘の軍勢は「マル太郎は悪人だ」と叫んだ。「あんなにツルツルたちの血を流しているではないか」
ツルツルたちは棘の軍勢に賛同した。「そうだ、マル太郎が悪い!」そうして、マル太郎の棘がツルツルになるまで、鞭打ちの刑に処してやれと、棘の軍勢は命令した。
マル太郎は、毎日毎日、鞭を打たれ、ごめんなさいと泣き叫んだ。しかし、ツルツルの村の人たちは「マル太郎をツルツルに戻せ」というので、鞭はこん棒に変わった。
ある日、棘の軍勢は、これはエンターテインメントだ、麻薬のついた棘を刺してみないかとツルツル村にビジネスをした。棘を刺すたびに、ツルツルの村の人はお金を払った。
「もっともっと棘が欲しい、きゃはははは」とツルツルの村の人たちは懇願した。棘の軍勢は大量の棘を提供した。
ツルツルの村の人たち皆の体に、大量の棘が刺さっていた。「棘が気持ちいい」と言うので、マル太郎は忘れ去られていた。
マル太郎は、すでに棘を摩耗し、ツルツルに戻っていた。村の人たちに「みんな、棘をツルツルにして!棘は悪いものだよ!血を流しているよ!」と言ったが、ツルツル村の人たちは聞かなかった。
ツルツル村の人たちは、ツルツルのマル太郎を見て、「お前はみじめだなあ、棘一つないなんて」と言った。「棘は気持ちいいのに、なぜマル太郎には棘がないんだ。馬鹿だなあ。」と、拷問していたことを皆忘れていた。
ツルツルの村は、棘の軍勢に飲み込まれた。そして、お互いの棘を刺しあって、血を流し、「きゃはは、気持ちいい!」と叫んでいた。
マル太郎は、この世界に絶望した。マル太郎の力では、棘の軍勢に勝てないので、一人寂しく、自分の静寂の庭を造り、そこで自分の善と哲学を追求した。そして、仲間を救うための研究に勤しんだ。
ある日、マル太郎の元に、客が来た。この客は、ピカ太郎と言った。ピカ太郎の体には棘が摩耗した跡があり、ツルツルであった。
「なんの用ですか?」とピカ太郎に尋ねた。「マル太郎さん、私はあなたのことがやっとわかりました。世の中は狂っています。あなたの庭で一緒に修業がしたい」
マル太郎は自力で棘をツルツルにしたそのピカ太郎の体を見て、この人は友達になれるかもしれないと思った。
マル太郎とピカ太郎は言った「俺たちの戦いはこれからだ」
たくさん読んでくれて嬉しい。元は友人とのTwitterDMが下書きになっていて雑な文章だから申し訳ない。なので以下、こちらの意図が伝わってないコメントに返す。
・この物語の各パーツ・キャラを現状のジブリのメタファとする解釈はこの児童文学作品を矮小化していると思う。あまり好きではない
→全く同意見で、書いた通り普段はテクスト的に解釈するのが好きです。矮小化されてしまってるのもそうなので、これだけが「正解」だとは微塵も思ってないし書いた通り自信はない。今回は宮崎駿の最後の作品、って思いが自分に強すぎて作家周辺の解釈がまず出たのだと自己分析している。作品そのものの解釈は海燕さん他書いているのがよかった。
→お前みたいなやつがいちばんダメ。観ろ。観ずになるほどすんな。
・一般向けではないというけど、次世代へのバトンや家族の話って極めて普遍的で、ジブリや宮崎駿のことを知らなくとも皆それぞれ自分の物語を重ね合わせて見ることができる作品だと思うよ
→この辺りは宮崎駿は自己言及と普遍的テーマを重ねて両輪でやっている気はする。
・あの作品の登場人物を実在のジブリ周りの人物に置き換える読み方はわかるけど非常に下品だと思っているので、する人を否定はしないけど、それが正解だと言って押しつけたりする風潮にならなきゃいいなと思っている。
→おおむね同意見で、自分もホッテントリに上がったことが押し付け風潮の一助になるのは避けたい。作家論は作家論でしかないし、それは基本的に狭い解釈になってしまうから、「正解」ではない。ただ言葉遣いとして、この人が作家論を「下品」としているのは、なんというか令和だなぁと思った。
前半はまぁ、とりあえず置いておいた撒き餌みたいな稚拙な解釈なので、「正解」ではありません。(一貫性の形成願望をとりあえず満たしておくために書いた、と思って欲しい)
むしろ、この作品は唯一解を求めたがることも含めた後知恵的な意味よりも、もっとプリミティブな意味を伝えようとする作品だと思います。だから自分の感想の本質は後半です。そこのところ言葉足らずだったみたい。
追記ここまで
初日に見に行って、いろいろ考えつつ見たが、たぶんほとんどの人が「意味わからん(けどジブリっぽくて面白い!)」ってなるやつだと思ったので、自分なりの考えを書いてみる。ちなみに全然自信はない(その理由は最後に書く)
見た人の多くは、ラストにかけてのメインストーリーラインがよくわかんねえとなると思うけど、同時に物語にいくつもの象徴や比喩が込められていることも、なんとなく察すると思う。
個人的な結論を先に書く。(自分は普段はテクスト論的に物語を読むのが好きなのだが、作家論としてこの作品が見えた。)
まず、内容で感じたのはセルフオマージュの多さ。「紅の豚」の死出の飛行機葬列が海の船になったり、ハウルの泥の人形が殺生できない住人になったり。老人の描き方はジブリの各種キャラを思わせたり。
オマージュ元には特にトトロが印象に残るように思って、抜け道や森から出た暗がりの風とか、ワラワラとか、宮崎駿はトトロ気に入ってたんやなと思わせた。まあワラワラは鈴木敏夫の入れ知恵な気もするし、観客へのサービスって感じかな。
そしてここから感じたのは、宮崎駿の人生が細かく千切られ散りばめられてるということ。
ていうことで、物語の根幹と宮崎駿の人生に準えてラストで明かされる物語の根幹をよんでみる。やっぱりラストについては大事だよな。
結論から書けば、空から降ってきた大岩は宮崎駿の才能、ギフト。宮崎駿は大叔父でありあの世界は宮崎駿によって作られた作品の集合でジブリそのもの。その血を引く主人公は宮崎吾朗や孫だと思われる。ただし、内面は宮崎駿が投影されていて二重のモデルがいる主人公になっている。駿はジブリを継いで欲しかったが、吾郎は拒否した。ジブリは駿の引退宣言とともに崩壊して、皆それぞれの暮らしにもどった。端的に言えば、それら経緯への駿の内面の告白、なんだと思う。つまり、スタジオジブリ(と駿)のために作られた物語なんだと思っている。
昔。降って湧いた才能に取り込まれた駿は、作品の世界から出なくなった(家庭を顧みなかったりしたんだろう)。そして世界の創造に励み、海や森の美しいファンタジー世界と、ユーモラスで残酷な鳥に代表される多くの愛すべきキャラクターを生み出した。
時々挟まれた、大岩が怒ってるとか。あれは才能から来る作品へのこだわり、そこから発される憤怒なんだろうな。時々駿キレてたし。
ただ、老いてきた。積み木を重ねられなくなった。積み木を安定させることも苦労するようになった。だからこの世界・ジブリの後継者を探して、館に主人公ら血族を引き寄せ始めた。(この辺りの傍迷惑さについての自覚が、人生を総括し始めた老境の駿らしい感じがする)
関係ないけど、インコの王は唯一宮崎駿に謁見できて最後に世界ぶっ壊したし、たぶん鈴木敏夫なんだろうなと思う笑
そして物語のラストで吾郎はジブリを継ぐのを拒否し、焦ってしゃしゃり出た鈴木敏夫がぶっ壊してジブリは崩壊した。でもそれを受け入れて?(この表現は適切じゃないかも。ただ眺めて?)老兵は去る、ってことを、ラストで宮崎駿は表したかったのだと思う。
総じて、人生全体を眺めて、ある程度中立的に感情も整理しながら、比喩的な物語と人物に落とし込んだ。そして達人のアニメーションで、それが分からなくとも万人が楽しめる2時間にした。
主人公が、みずから頭を傷つけて、それを最後の最後に告白し、汚れているから自分は継げないとジブリ世襲を拒否するシーン。
あれはなんかほんとに個人的な事件が、駿や吾郎にあるんかなて感じもするけど。いずれにせよ、今まで子どもをイノセントに描いた宮崎駿が、この主人公にはドロドロしたものを罪悪感と共に植え付けているのは、自身や自分の子どもみたいな、客観的に見られないし理想化もできない存在としてマヒトを描いているんだと思う。そしてそれが「真の人」って名前なのが、正直な曝け出しなのかなって感じさせる。
でもここは、ちょっと未整理。
まあたぶんに一義的な狭苦しい解釈なんやけど、とりあえずここまでは言語化できた。
ただ、ここまでこうして書いた考察について、正直自信がないというか、こうして作品が言語化されることを拒否している作品である、ということことを、作品を見ている最中からずっと感じてきていた。
子供のころからジブリ作品を見て、宮崎駿のひねくれた人物像も知ってるから、この作品は明らかに異質だとわかる。観客へのサービス(配慮)が欠けている。
はっきり言って、一般向けではない。大衆、子供に映画を作ってきた宮崎駿やジブリは、今までこんな映画を作ったことがない。上記のような一応に意味の通る解釈を自力でできる人間はとりあえずいいが、そういうことをしない人が圧倒的多数で、それが大衆なのだ。だから、今回のような、作品の展開の速さや密度、抽象度の高い映画は、一般向けとは言えない。自分が見た初日夕方の回は平日なのにほぼ満員で、しかし上映終了後のほぼ全員がタヌキに化かされたような顔をみんなしていたぞ。(正直自分もそんな気持ちだったので笑えた)
しかし、ここでそれを鑑みても面白いのが、この作品の「面白さ」は皆が感じているらしいということだ。
そして、これと同時に、自分のような批評する目線で映画を見る者は、それはそれで大衆客と別な側面で拒まれている気がした。何か見る者の賢しい批評を拒んでいるように感じた。
以下に、その理由を書く。自分の感想としての本質はむしろこっちだ。言語化しづらいのだが、見た人にはなんとか伝わるように書くと
となる。
例えば、食事のほおばり方。たとえば、黙ってうつむく表情。たとえば、真人がうそをつくときの顔。みんな圧倒的に生き物らしい。生命力を感じる。みんないびつで、あいくるしい。(カワンゴがお説教されたアレとは本当に真逆な、きわめて何か、生命に対する賛美を感じます)
これらすべてが、芝居をしている。客に直接的な理解を与える。この人物の感情や、物語における人物の立ち位置(正しい方向かどうか)など。あらゆる情報を、言語での理解を超越して、身体的・ダイレクトに観客へ伝わる。
作劇のうまさや間の取り方、ちょっとした身のこなしや振る舞いの描き方。それらすべてがアニメーションなのに自然で、本当にほれぼれする。達人のアニメーションは今でも健在だし、それはスタジオポロックみたいなのにもマネできてない駿の達人技だと思う。
で、それらの生理的な表現が今作で上げる最大の効果は「生理的な感覚として、見る者に言語の範囲外で意味を伝える」ことだと思う。
(自分は新海誠の映画が昔から好きなのだが、新海誠が「星を追う子ども」でやりたがって、でも全然できなかったようなことを、中盤くらいまでで軽々と全部やり尽くして、更に塗り替えていったような印象が途中した。)
はっきり言って、中盤以降は物語のテンポが速すぎて情報量も多すぎて、物語が何を表現しているのかまったくわからないし考える余裕もなく、何もかもを押し付けられていくだけのように感じるのだが、いち観客として言えば、作劇がうますぎてずっと楽しくて画面にずっと惹き寄せられたままで、一ミリの退屈もなく最後まで面白かった。作品が何を言いたいのか理解できねぇのにコレなのまじ意味わかんねぇ。ユーモアと人物の芝居とテンポと心地よさとその他あらゆる作劇でずっと作品世界へ惹き寄せ続けるの、冷静に考えてすごすぎる。
理解として言えば、言語の範囲外で生理的に伝わってこようとする情報が、最速で理解できる。だから理性で作品に好悪を判断つけたくても、生理的な理解が先に面白さを伝えていて、判断を保留し、物語が表す「意味」が分からない気持ち悪さをいったんわきに置く(打ち消す、わけではないのもポイント)
たまたま映画見る前に考えてたのが、美輪明宏のモロの演技や紅白のヨイトマケの唄なんだけど、あれもなんか、生理的に分からされる凄みがあるよな。あれと同質の、生理に訴えかけてくる理解が、この作品の全体にあった。
だから意味深がセリフが物語上の「意味」として理解できなくても、なんとなくわかっちゃうわけ。ああ、「そういうふうに」感じてるんだなぁ、って。
自分が書いたものも含め、なんか色々考察とか出てくると思うんだけど、この作品に関して自分はもうそんなのに大した意味を感じていない。いや言葉で説明することは俺も試みたと思うんだけど、そういった理解や「意味」は後からやってくるものであって、それより先にあるこの一次的な身体的感触の強さが、現在進行する映画鑑賞の今、圧倒的な作品だった。肌感覚で腹の底から湧き上がる力強さは、言語的理解を拒否して圧倒する。そんなプリミティブさ。
プリミティブな、といえばものすごく情報量が少ないように感じられるかもしれないけれど、ただそこで言う「情報量」ってつまりキロバイト的な情報の多寡でしかなくて、生理的な質感や圧倒的な情報の圧が含まれてない。この作品はそういった生理的な質感や圧、すごみをもってして最後まで観客をエンターテインする作品だった。面白さが言語の範囲外で生理的に伝わってこようとするんだよな。
「語り得ないことに関しては、沈黙せねばならない」という言葉があるけれど、宮崎駿は言語で語りえないことを語れる。対して、自分たち観客は語れないが、しかし生理的に理解している。
自分が最初の考察に意味を感じない、といったのは、考察の当たり外れよりも「こんな小賢しい考察なんぞしてんじゃねー」的なギルティ感覚がするからだ。賢しらぶってることが怒られそう。それこそ、宮崎駿に叱られるカワンゴみたいな、「意味」や思考の中だけに生きて現実に生きる生命を見ようとしていないと叱られている気が(これは完全に自分の勝手な感覚なのだが)する。強いて言えばそれが、本作のタイトルのごとく自分に突き付けられたお説教だったかもしれない。
一般には訳が分からなくてもいいし、読み解く材料も与えないし、理解されなくても面白くしなんか感覚的には伝わるでしょ?みたいな感じが、ただ壁を感じるし、見る人は選ぶと思う。ジブリ作品に壁を作ったことって今まであんまりないと思うんだけど、たぶん風立ちぬで少しやって、「あ、好きにやってもいいんだ」みたいなのを、それこそ庵野秀明とエヴァから知ったんじゃねーかwみたいな気もしていて、そして老境にさしかかりジブリの崩壊を見ながら、いろいろなことを感じ考えながら職人芸ですべて盛り込んだのが今回の作品なんだと思った。だから、一部の人の批評や感想、特に老人の走馬灯とかボケたとかみたいなのには全く賛成できない。
中央競馬→配当はでかいが馬がなに考えてるかわからんので当たらん
地方競馬→オッズや人気が全く信頼できない。実力もよくわからん。たまに八百長くさい走りをする
ボート→最初のコーナーで大体はずれておわり。なお最初のコーナーをすぎてもカスは刺されたりどっかいくのでゴールまで信頼できず、当たっても配当はゴミ。殺意とストレス耐性がたまる。八百長くさいというかガチな八百長があった
競輪→チャリンコのれるかも怪しくやってふ中毒者共以下の走りをチャリドカタ共の予想なんか無理。クレカや各種決済で気軽にかえて現金化することができるという点だけはよい。ギャンブル中毒でも末期患者向けギャンブル。
オート→そもそもやってんのか?
オンラインカジノ→自力感がほどよくあって面白い。なに考えてる馬やカス共の思考を読むとかいうクソゲーやらなくてもいい。決済も簡単で100円いかの単位で遊べるので、3000円もあれば一日遊べる
少額投資非課税制度(NISA)の拡充で「貯蓄から投資」の機運はある。ところがこのままでは国内金融の空洞化を促すだけになりかねない。楽天証券の調査では、直近の投資信託の買付金額ランキングの首位は「eMAXIS Slim 米国株式(S&P500)」で、上位10ファンドのうち日本株に連動するのは2投信しかない。世界の成長を日本の家計が取り込むという観点でみれば、海外株投資は正しい。問題は日本の運用会社が海外株投信を自力で運営しているわけではなく、米欧金融機関に多くを委託していることにある。
国内大手運用9社の「委託調査費」は1125億円(22年3月期)と前年度比25%増え、9社合計の純利益(1040億円)を上回る規模になった。日本勢には海外株の高度な分析ノウハウが十分にはない。「貯蓄から投資へ」の流れが強まれば、国内運用部門の空洞化も強まる皮肉な構図にある。遠い道のりにみえる「資産運用立国」だが、方法はあるのか。金融庁は4月に「資産運用業高度化プログレスリポート」を公表して、運用ビジネスの問題点を指摘した。ただ、その提案は資産運用会社トップへの親会社からの「天下り」の改善や、経理事務の共通プラットフォームづくりなどにとどまり、とても資産運用立国には行き着かない。
インスタグラマー(900万フォロワー)、Youtuber(97万登録者)、ボディビルダー。
動脈瘤の破裂が原因とされている。
大胸筋をピクピク動かすことができるボディビルダーは少なくないが、
彼は筋繊維をバラバラに波打たせるように動かせることで有名だった。
昨年に一度ステロイドを完全に止めたが、
ステロイドを使用することで強制的に男性ホルモンを増加させることができるが
使用を続けることで、身体が「男性ホルモンみちみちやからもう作らんでええな」と
結果的にステロイドなしで正常なホルモンバランスを維持することが不可能になる。
血液がより濃くドロドロになる。
彼の血管がいかに酷使されていたかはみんなも知っていたと思う。
とコメント。
ステロイドと死亡の直接的な関りは不明だが元新日ヤングライオンでRIZINでボビー・オロゴンと試合もした北村克哉も昨年死亡。また自身も長年ユーザーを続けており、ステロイドパーソナル系Youtuberとして注目を集めていたビッグアーム氏も今年死亡している。
開発現場なら経験者だろうが未経験者だろうが「現場が変わったら1から学び直し」が常だから、誰が来てもとりあえず仕事振るだけ振って「どこまで自力で対応できるか」を最初に見てる。ある程度自力で調べてなんとかできるタイプならそのまま任せるし、できないなら人をつけたり雑用仕事にスライドさせる。
まあなんも考えてない人間もいるけど。
8050問題が見えてきたワープアこどおじ40代俺、地方の実家で70代父親と二人暮らし。
親父には毎月、光熱費に通信費、固定資産税と親父の生活費を含めて手取りの5割を渡している。
その分と年金+バブル直撃世代の貯蓄をもってすれば老後の心配などどこ吹く風……
のはずなのだが、先日親父から「借金の支払いが追い付かない」との理由で
この半年で俺が貯蓄できた分の同額に相当する金の前借りを求められた。
飲む・打つ・買うを地で行く父親は定年間際まで借金まみれだった。
生前の母や祖母の尽力により、なんとか近縁への借金はほぼ片付いたのだが
その2人がいなくなった今、貧乏くじはその時たまたま都落ちして実家にいた俺に回ってきた。
こどおじとは言ったものの元々自分の部屋は無く、実家に帰ってきた時に空いていた祖父の部屋を使っているので
厳密には子ども部屋おじさんではない。俺の学習机は今も居間の片隅に置かれたまま。だから何だよって話だが。
東京で鬱やって退職して、30代で実家に帰った時は自分の部屋ができて嬉しかったのを覚えている。
程なくして祖母と母が立て続けに亡くなって自分が家計を支えることになるなんて当時は夢にも思ってなかったし。
(母が生きていた頃は母に手取りの3割くらいの金を収めていた。銀行行く機会が減ったと喜んでいた)
祖母が亡くなった時は母が、母が亡くなった時は俺が遺産の管理を引き受けた。
親父は以前その両方の口座の管理人だったが使い込みが激しく、家族会議の末権限を剥奪した過去がある。
母も「何かあった時の為に」と俺にだけ口座の暗証番号を教えていたくらい。
相続したその口座も、平均的な同世代夫婦の貯蓄の半分程度の資産だった。
母は父に代わって二世帯分の家計、子ども3人の教育費を主に自分の給与所得で切り盛りしていたので
父の借金を肩代わりしながらよくこれだけ残せたなと思うほどではあったが。
(なお俺が高校を出てからの学費はバイトと奨学金で自力清算した(自慢)。きょうだいの分は知らない)
親父には基礎疾患があり、今はまだ元気で車も運転できるが段々怪しくなってきている。
寡夫となり若干丸くなったとはいえ浪費癖は変わらずだし、今後の医療費も増えこそすれ減ることはないだろう。
きょうだいは皆所帯を持って県外に出ているしそちらの暮らしぶりもよくないようなので援助も見込めない。
自分の甲斐性の無さも含め、先のことを考えると暗澹たる気持ちになる。
「実家住まいは甘え」「老後のために2000万」とか見るたびに自分と父がどれだけ不出来であるか痛感させられる。
働き盛りの現役世代なら親と自分(+所帯)の面倒を見切れるくらいの稼ぎはあって当然、なのか
そもそも親は親で自活してるから子が面倒見る必要はない、なのか
それが分かれば自分に対して思うことが「甘えんなカスもっと頑張れ」か「不憫だがまあ頑張れ」のどっちかに決められる。これは気の持ちようとして結構でかい。
はてなーは40代以上多いし所帯持ちも多いだろうから参考までに教えてほしい。
【2023-07-04 18:30ごろ追記】
皆いろいろあって何が普通とかないかもしれんね。よそはよそウチはウチの基本に立ち返ってがんばるよ。暖かいコメントありがとうございました。