はてなキーワード: 威圧とは
自分はJK時代に売春(歳は伏せて成人として)していて、実際思ったのが「若くて抵抗できなさそうだから大人の威圧で好き放題傷つける人がまあまあいる」こと。
悪い人ばかりじゃなくて中には礼儀正しい人もいたけれど生脱ぎやプチ〜実技なんて最悪で、そういう行為は個室に入ってするわけだけど(多目的トイレや車内)
車内だったら知らないところまで連れていかれて知らないホテルで説教された挙句、「生はしない」ってメールでも会ってからも双方約束していたのに無理やり入れてこようとしたり(もちろんお金もくれず)、
ネカフェやトイレだったらやることだけやって服着替えてる最中に貴重品全部持ってかれたりする。これは自分の注意不足もあるけれども。
他にも大人の力や圧力で(子供を)ねじ伏せられることってもっとあると思う。
悪意を持って接する大人がわりと多いから傷つかないように(守るために)「売春はだめ」って言われてるんじゃないかな。
例えばだけど
「日頃から周囲を威圧していたヤンキーが教師に殴られた」という話と
「大人しく反抗もできないオタク男子が教師に殴られた」という話
どちらにも同じだけ怒り同じだけ抗議できるか?
ていう
これが法律なら殴るという行為についてはなるべく平等に判断しようとするけど
後者についてはネットで祭り上げられて教師が叩かれるかもしれないが
(厳密には法廷ならヤンキーがどれ程日頃から威圧的だったか、で教師に情状酌量は求められるが、ネット民はそこまで精密に検証なんてしないだろう)
もうこんなもんはどうしようもなくて
ある出来事に関する想像力や当事者を慮る気持ちや義憤に駆られる衝動なんて
きっとさっきのたとえばなしだってヤンキーに非がないならヤンキー仲間は理不尽を訴えるだろう
増田はそれをどれだけ真面目に聞いてやれるだろう
ヤンキーにもおとなしいオタクにも公平でいてやろうと増田が思えるならそれは素晴らしいことだけどそれほど簡単ではない
それはもう本当にどうしようもないことで
森がセクハラされてかわいそうだと思える想像力が自分にあるのなら増田が抗議してやればいい
思えないのなら単に自分は公平な人間ではないと飲み込むしかない
そして増田も公平な人間ではないのだから、他人が公平ではないと言い立てたところでたいしたカウンターにもなりはしない
ただ他人の訴えを無効化するために別の問題をもってくるナンタラ話法と同じで
真面目に議論している人には捨て置かれるだけだ
戦前の内閣では陸軍、海軍からそれぞれ陸相、海相が閣僚に就任していたため、軍服姿が国会に登場するのが常。さらに、現役の軍人が国会の壇上に立ち、政党政治家を威圧していたのが当時の実情。武断主義で国を動かした結果が、昭和20年の敗戦である。
こうした状況を二度と再現させてはいけなかったはずだが、戦後70年の節目にテレビの国会中継で映し出されているのは、軍人政治家が戦争法案を賛美する光景だ。
14日、参院平和安全法制特別委員会で自民党を代表して質問に立ったのは佐藤正久参院議員(下の写真左)。「ヒゲの隊長」として知られる元自衛官だ。答弁する防衛大臣はといえば中谷元氏。こちらも元自衛官である。
ピーターラビットシリーズの中でも群を抜いて分かりづらいと(自分の中で)評判の一遍「こぶたのピグリン・ブランドのおはなし」
その理由というのは、動物中心のこのシリーズにしては珍しく何人もの人間ストーリーに関わるレベルで登場すること、
そして彼らの行動原理が(恐らく)当時の社会常識・情勢に沿ったものであり現代の我々からは理解が難しいこと、などにある。
主な疑問点はこんなところだろうか。ググって出てきた答えも書いたけどどこまで正しいのかはわからない。
→単に口減らし。一番デキのいい子1匹だけを残して残りは追い出したらしい
→比較的利口に描かれているピグリンも一番ではなかったという衝撃
→雇ってもらうため、らしい(ベーコンにされるためではなかったのか……!)
→豚を雇う、とは……?
→不明。これがあれば市場に行ける、なければ農場を出てはダメらしい
→自由になれるなら市場行かず、逃げて自由に暮らせばいいのでは(というか、そういうエンディングだったけれど)
→しかも歌っているのも豚という
→歌は別件逮捕の口実のようなもので威圧できればなんでもよかった?
→横柄な警官が多くしょっちゅう弱者を踏みつけにして点数稼ぎをしていた、みたいな描写だろうか?
→「近所の農園で雇ってもらえてよかったね」と書いてる人がいた。そういう話だったのかな?
→不明
→監禁部屋が狭かったから1匹しか入らなかった?(ピグリンを捕まえたのは予定外だったので)
→先に食べる方を重点的に飼育してたのでピグリンは後回しにされてただけ?
→たぶん市で農場の作物とかがいい感じに売れたので上機嫌だった?
→売上で酒をしこたま飲んだせいでろれつが回ってなかった説
→終盤で「迷子の豚、盗まれた豚を見つけた方は、10シリングうんぬん」という会話があるので、盗むこと自体はダメらしい
→いま気づいたけど、市場で買ってもらうとか、移動に許可証が必要とかの話って奴隷制のメタファーだったのかな(的外れだったらごめん)
リモコンが嫌いだ。特にテレビのリモコンが嫌いで、家にはテレビを置いていない。
父は酔うとリモコンを投げてきた。あるいはテーブルに叩きつけて大きな音を出して威圧してきた。これから殴るぞ、という合図である。程なくして怒声が響き、私は父の前に正座させられる。今日は私の番らしい。まずは頰に一発、腹に二発。理由は知らない。土下座して身体を守りながら許しを請う。トップバリューの4L1500円の焼酎を片手に暴れ続ける父の姿はまさしく怪物だった。
翌朝リビングにはボロボロのリモコンが置いてある。破片をセロハンテープで繋ぎ合わせた、テレビ用の黒いリモコンだ。セロハンテープが何重にも重なり、触るとベタベタする。
壁には穴が増え、何やらドアも軋んでいる。しかし母は何事もなかったかのように私と妹、そして父のお弁当を作っている。
それでも、私はリモコンが嫌いだ。
これは煽りとか反論とかではなくて純粋に疑問なんだが、たとえば先生とか上司とか先輩とか顧客とかに理不尽かつ不愉快なイジリをされたとして、その場はつい反射的に「いや、まあ、、、そうですね、、、エヘヘ、、、」なんてハニカミ返事をしてしまい、あとから遣り場のない怒りなり自己嫌悪なりで悶々としてしまう、そういう経験をあなたお持ちではないんですか? こちとら人生の大半がそういう経験で埋め尽くされてるからこそ「即座にキレ返せるようになりたい」と、なして理不尽な扱いを受けたこっちがなお布団の中でまで悶々とせねばならんのかと、そういう話をしてるんだが。だれも良民を恫喝して威圧して不当に利益を得たいなんて言ってないよ。(と、文章なら書けるけれども、面と向かったら僕はこんな話はできないです。対面だったら、いやぁ、、、そっすよね、、、って言うだけ。インターネット万歳。)
割と仕事が好きなのは組織の順列に合わせた"儀礼"が守られるから
飲食店店員よ、正しくお仕事してれば相手のバックグランドなんかそもそも関係ねぇだろではあるのだけれど
まぁポカーンという対応をされないようには・・・したい?いや相手依存で無理かな
飲食店以外でのどうでもいい日常のやりとりでも「は?」(威圧)みたいなところは結構出しがちだと思う
とてもよくないね👎
自分よりもソーシャルランクが上の相手でも『機会があれば叩きつけてやるわ!!!』と思うし実際に叩きつけたことも何度かあるけど
ソーシャルランク上の相手に対する😡とソーシャルランク下の相手に対する😡だと
これは情けないので強く自覚を持った方がいいと思う
勝てそうな相手に強くしつこく😡しがちだと
極右の定義はwillとかhanadaとかの論調に同意する人たち、とする
自分らは散々世界中を侵略植民地化収奪しておいて正義ヅラしてんのはむかつくわな
列強がこれらの旧植民地に対して十分な補償をしてきたとは到底言えない
日本のやったことを擁護するつもりはないが、日本が醜行に走ったのはそもそもアメリカのせいだよな?
あんな威圧されて「奴隷にしなければ奴隷にされる」と思い詰めてもしかたがないよな?
いじめ学級のようにな
アメリカに威圧されなければもっと穏健な開国もあったんじゃなかろうか
ただ不幸にしてこの国ではイカれた極右が主流なので『言い分』がことごとく腐ったものばかり出てくる
言語道断の歴史修正主義やらあからさまな差別主義やら頭Qの陰謀論やら
まともな『言い分』を出すのなら俺だって日本人の一人として支持したいんだよ
まともな右翼どこ行った?
まとな右翼や~い
帰ってきておくれ~
まあ気持ちはわからないわけじゃないというか、「そのキャラを性的に見るのは違うだろ」みたいな二次創作が流れてきて不快になる気持ちは男の自分もわかる。今のSNSで完全に自衛することは難しい。
ただ、そういう解釈違いみたいな状況にキレるオタクは圧倒的に女オタクが多い。たまに過激派百合オタクの男が解釈違いにキレてるのは見ないこともないが、女オタク文化の影響が強いのではないかと思っている。
不快な存在を目にした時、男オタクは無視するか煽る。インターネットの最底辺の一つであるゲハ板やら増田やら棘やらを見ればわかるが、男オタクは基本「マジギレしたら負け」の世界で生きている。逆に言えば「相手をマジギレさせたら勝ち」だからこそ煽るのだ。なぜそんなことになっているかというと、男オタクにとってキレることと論理的破綻はほぼ同義になっているからだと思う。自分に破綻や瑕疵がないなら怒る必要がないからマジにならないしキレない。
一方、女オタクは「異教徒がのさばったら負け」という価値観に生きている。ナメられたら負け。無視されたら負け。だからキレる。論理的整合性と沸き立つ感情を両立させることが出来ると考えている(個別のケースででそうなっているかどうかは別として)。自分の解釈が自分の中で正当化されるかどうかではなく、そのコミュニティの中で自分の存在を叫ぶ必要がある。
男オタクと女オタクでは勝敗条件が違うのだ。故に男オタクは鈍感を装い、女オタクは意図的に過敏になる。
男の自分から見ると、女オタクは地雷があって生きづらそうだなと思う反面、そこまで愛情を注ぐことが出来る対象があって羨ましいとも感じる。まあ、なんだかんだ言って購買力行動力があるのは女オタクなので、彼女らの好きにすればよろしいと思うし、自分も出来るだけ口を挟むべきではないと思っている。
ただし男オタクの難儀なところは、男女問わず(!)キレている人を見ると不快になるところだ。つまり、「キレてるんだからお前は論理破綻しているはずだ、さっさと負けを認めて黙れ」と考える。負けを認めさせるためにこぞって煽る。
改めて整理すると、別にキレる=論理破綻だとは思わない。ただ、やっぱりキレている人間を見るとちょっと不快だ。感情的な昂りと論理的整合性の欠如は必ずしもイコールではないと頭では理解していても、直感的に駄々っ子が叫んでいるように見えてしまう。
ここまであえて男/女オタクに限定して話してきたが、SNSでのフェミニズムとアンチフェミニズムの対立にも同様のことが言えるだろう。
基本的に運動能力や体格に優れない男オタクは他人の論理的瑕疵をあげつらい鈍感になることで生き延びてきた。
男オタクは煽るし、威圧したりもするが、他人にキレたり他人の怒りを共有したりするのは苦手だし、「男も怒ってもいいんだよ」と言われた時の心理的な抵抗は一般的な女性のそれを遥かに上回る。
社会運動的な観点から見ればまるで役立たずだが、まあそういう生き物なのだ。許してくれとは言わないが、男オタクに何かを期待することもしないほうが良いだろう。
こうやって整理したからと言って何か提言があるわけではないのだが、お互いやっぱり違う価値観で生きてるんだね、ということがわかるとひょっとすると少しだけ世界が平和になるかもしれない。
(ただし対戦ゲームなどで負けた時にキレるのは圧倒的に男オタクが多いので、勝ち負けがはっきりするようなケースでは男オタクの方がキレやすいのかもしれない)
小康時代、ランドセルを背負ってコンサートで歌っていた場所は、喜劇劇場。ケープタウンのすぐ裏。古い町並みの中を走る国道沿いの大通りで、5時間に1本のペースでフェスを開催する。町中から中へ国道160号線に向かってその小ささなく大きな通り沿いの町のわけを、40分くらい歩く。市内から県道に乗るので、道路沿いも歩く道幅も23くらいある。
さて、初めはいかにもHIPHOPバンド。とは言え、重厚感はない。当時、二十代だった私は、若いながらも、威圧感のない、個性のあるバンドが好きだった。して、そんなバンドが、50代になり、また今年、60代になった。
実は思うに、21歳くらいの時からロックフェスに足を運んでいる。
今や、「美」をテーマにしたフェスという基本の中の言葉を飾ってのフェスである。そもそもフェスに行く時には、「美」というテーマを取るバンドがここだったのだが、ノスタルジックで美しいフェスというゲームが存在する限り、何を1曲として伝えるのか、異端として映るフェスはない。
そんなときには、先月、60代を迎えたばかりの界隈の若手バンドと、30回目のさかえとで見比べてみる。ロック好きの目から見ると、他のフェスと比べて、ロックの熱は薄いように思う。
もちろん、他にはロックフェスにも、パンクやパンクロックやヘヴィロックやパンク色の濃いフェスがある。では、60代のロックフェスには、どんな意味合いがあるのだろうか。間違いなくそれが分かる。もしも、70から80年代前半、80年代のアイドル、80年代のクラシックを、ロックで解説してみたい。HIPHOPは一時代を通して、1980年頃から80年代にかけて爆発的に拡大した。その変遷は、令和の時代になってからも変わらない。毎年、夏、そして9月のどこかに出かけた時に、その熱はまだまだ冷めないのが目に見えた。
だが、今年、ノスタルジックになって、なおかつ、熱気に溢れんばかりの方が、画的にも、参加しているバンドも、ロックフェス育ちのオヤジたちは、新社会人になって、そして、新天地でロックフェスを楽しんでいる。今年が半世紀もの時を経て、フェスでお会い出来るというのだ。
最新作の数々、みじんも予想していなかった60年代のロックフェスが、60代の初夏になり、令和2年、令和2年になる。さらに、30年、60年という節目を記念するイベントも多数開催予定で、その一つになると言っても過言ではないと思う。ロックの民族楽器の演奏で、ぶっつけ本番で、ロックフェスを楽しむのが海辺のまちなのだ。
なお、今年のフェスでは、ビーチにバーベキュー、バーベキューや外遊びをする以外にも、パーティーフェスというユニークな形で開催が予定されている。(本稿は今年のフェスで話したいと思う)さて、今年のフェスに、一本だけでも、何本かある。まだ1本も見たことが無い方々は、ぜひ、観てきて欲しいと思う。とはいえ、40周年、60周年、このタイミングに合わせ、バンドやバンド同士の交流は、今の倍以上になりそうな気がする。まだ出たばかりなので、今年のフェスにも足を運ぶ予定があるのは、それからなのだ。
バンドはいつも、誰もが自由な解釈や曲、サウンドを奏で、そして、唄い、演奏しながら、声を張るという音楽の世界を行っている。それは、30周年を迎えたバンドにとっては、非常に大きなことだ。音楽性も、そして、時代によって雰囲気もどんどん変わってきている。いま、時代と共に周りの環境も大きく変わってきているが、それでも、時代に取り残されている音楽というのが、ロックフェスの特徴なのだ。60年以上も前からロックフェスの世界にいて、私たちの世代の憧れのバンド。どこかで見たような、ラテンっぽい、レトロな、EDM風なサウンド。独特のサウンド。そんなロック自慢の音楽が、20年、30年も、世界に多くのオーディエンスを誘って、地球の裏側で、フェスを行うことになる。
そして、令和2年も、今年で60周年。20年を超えるのに、すでにロックフェスで、しかも、60年を超える必要がある。70、80年のミックスアップ、98年のドック、96年の超結婚。そして、その超絶必勝の方程式。
やりたいことができない、やりたいといえば叩かれ、やれば更に叩かれる
嫌な世の中だよ
病気流行ってるから我慢しろだのなんだの、息苦しくてしょうがない
旅行行きたい、酒飲み行きたい、リアイベ参加したい
クソっ、楽しみが何もない
時折無茶苦茶なことを言い始めますが、自分が怒りにとらわれていた時点での感情であって、日ごろから自分がそういった主張の人間というわけではありません。
ただ、そういう風な思考回路を辿ったよという事実が誰かの参考になるんじゃないかと思い記録しています。
また、タイトルの「理不尽な怒り」というのは、自分が勝手に理不尽に相手に怒りの感情を抱いたという意味です。
理不尽なのは私の考えがであって、叱責した側がではありません。
まずはどのような叱責であったかについて。
内容は、数日前の仕事においてある方にサポートしてもらったことについて、一言何かあってもいいんじゃないのかといった類のもの。
単純に私が忘れていたのが悪いので、叱責の内容自体はもっともなものだと思っています。
場所は職場の休憩所で、人が多く集まっている時間帯。非常に威圧的な態度での言葉で、言われている間私はすくみあがっていました。
いわゆる「人前で叱責する」というパワハラの一種みたいな感じです。上司ではなく先輩なのでパワハラとも少々異なる気がしますが。
申し訳ない気持ちと相手の威圧感に押されて頭が真っ白になった。
始業直後のことであったので、とりあえず仕事に取り掛かるもそのことが気になって頭が回らなくなる。この時点ではまだ叱責されたことを気にしている段階。
脳細胞の稼働率が普段と比較して70%ぐらいまで落ちているという感じがする。
思い返せば、あの日特に大きなミスを起こさなかった自分はよくやったと思う。
怒られたことを反芻しているうちに、言われた内容や場所、その時の相手の表情態度などパーツ分けをしてそれぞれに思いを巡らすようになる。
やはり仕事は片手間でやっている状態。脳細胞稼働率が70%で、30%ほどは常に怒られたことについて考えている。
「内容についてはわかるけど、何もあんな風に言わなくても」「そもそもあんな注目を集める場所で言うか」「挨拶を忘れていただけなのにあそこまで言われる必要はあったのか」「怒られたせいで仕事に手がつかない」
といった具合。思考が迷走を始め、相手自体への嫌悪感や怒りが混じり始める。
仕事が終わり余裕が出てきたことでさらに思考が迷走し、半ば個人攻撃、差別的思考のような内容が中心になっていく。
「そもそも日ごろから威圧感出しまくりで鬱陶しい」「前職が○○だって聞いたけど、研修で人間性を否定されたっていうんだったら人間のいるところに帰ってくるなよ」「普段から他の後輩も偉そうに見下してるしそんな態度で感謝してもらえると思ってるのか」等。
ベトナム帰還兵の悲哀を描いた名作で、母国に帰ってきても碌な仕事も貰えない青年、ランボーが感情を爆発させるシーンは映画史上屈指の名シーンだと思う。
私はそのシーンを見て帰還兵の苦しみに思いをはせた事があったが、ここで一つ実感した。
上下関係に異様に厳しく、威圧感があり、言葉はぶっきらぼうだが鋭く、暴力的で何をするか分からない。そのうえ何かあったときに物理的に制圧することも不可能。
前3つでも相当きつい。全部そろった帰還兵を自分が職場で受け入れられる自信はない。
考えてばかりで疲れたので、強めのアルコールを摂取し思考を吹っ飛ばす。
あまり気にならなくはなったがそれでも時折辛く感じる。
とりあず当日はここまで、明日は休日なので何とかなるだろうと考えて就寝。
テレビを見て気を紛らわそうとするが、一定間隔で怒られた時の声音と顔がフラッシュバックし始める。
傷が熱を持ち始めた時のようにじんじんと痛みとフラッシュバックが繰り返し、まるで自分の視界上に怒り色のペンキをぶちまけられたみたいだとか考え始めた時点で察する。
「やばいこれトラウマか、トラウマになりかけなのかこれは」なってる。
余りに繰り返し続けるので、発覚しにくい方向での嫌がらせの方法について考え始める。
あれでもないこれでもないと考えた上で「まだ陽性出てないコロナ患者がいたら、体液でも貰ってあの人中心にクラスター発生させたいなぁ」とか考えだした時点で瀕死だった理性が復活する。
ものすごく不毛だこの思考は。不毛だとわかっているのに思考がコントロールできない。
そもそも相手の主張内容自体は間違っていないのに、相手の人格を否定するような考えや相手を貶めるにはどうすればいいかという想像が頭をめぐって止まらない。
ここでまた唐突にあることを思い出す。この展開、三国志で死ぬほど見たやつだ。
人前で叱責されたことを根に持ち謀反を計画するも、事前にバレて族滅されたり。
酔っぱらった状態でのパワハラを根に持ち、出陣前の上司を裏切り殺したり。
気に食わない上司に不満をもちそれを口にしたことを讒言され、庶民に落とされたり。
張飛と関羽の部下は悪者扱いされがちだが、その気持ちを不覚にも理解してしまった。
あの人も主君に酷い仕打ちを受けつつもその場は耐え、のちに謀反に手を貸し復讐を果たした人物だった。
よく耐えられるもんだと思った。自分ならその場で動揺して打ち首だ。マジリスペクト。
さらに「好きの反対は嫌いではなく無関心」という言葉を思い出し、そんなわけがあるかと叫びたくなる。
自分が忘れたくても関係なく興味を引き、頭の一部を支配して、マイナスの感情と心身への不調をもたらす感情。
完全に好きの反対だ。バフとデバフの関係であり、興味という原点から正反対のベクトルを描く感じだ。
「好きの反対は……」などといった小洒落た言葉に何の意味もない。好きの反対は嫌いだという事実を直視したほうがいい。
嫌いな対象に対してばかり思考が向いて建設的なことを考えられない状態というのはかなり堪えた。
とりあえずこの感情はろくでもないものだという自覚を持ったので何とかしようと思って、鬼滅の刃のアニメを見始める。
漫画は読んだけどアニメは見てなかった。今無限列車編の4dxが上映されてるらしいのでこの休暇中に全部見ようと思いマラソンをスタートする。
水の呼吸って映像化するとこんなに奇麗なのとかそういう今更感あふれることを想いつつ全話見てそのまま勢いで映画館に行ってみてきた。
前々から「こんなまっすぐな主人公が評価されるなんて凄い時代だ」と思っていたけれど、改めて炭治郎君凄いな。
相手のことを否定したり、食って掛かったりしない。伊之助との会話で特に顕著で、話の腰を折らずにうまく相手を動かす技術が突き抜けている。
これぐらい器用かつまっすぐに人付き合いができたら素晴らしいだろうなと思いつつ感動のまま映画視聴終了。
大迫力で素晴らしい体験ができたが、常に微振動が続くので、途中でトイレのために退室する客がいたのが印象に残った。
怒られた話? そんなものどうでもいいや。
あの××のために思考回路を割いたこの数日間は完全に無駄だった。
負の感情に思考のリソースを割くの本当に無駄でしかないよね。あー無駄無駄。
↑のような思考をするようになったらかなり精神的に楽になった。
それなりに落ち着いたうえで、休み明け、同僚に「この前のアレなんだったの?」と聞かれたので「仕事関係で気が利いてないってちょっと怒られてねー」と軽く話をして独り相撲終了。
独り相撲をさんざんやったけど、なんだかんだで人に話を聞いてもらうのも大事だよねという話であった。
・怒りは二次感情と言うが、困惑や恐怖が怒りに煮詰まっていく過程を確認できたのはよかった。
・ハラスメントが成立するにあたっての、内容以外の要素の影響の大きさを実感できた。
・嫌いという感情がいかに不毛なものかを理解できた。これからは嫌わず憎まず梯子を外すよう努力します。
・謀反ってこうやって起こるんだなというのを肌で体験し、スケールの大きい経験をした気になった。歴史は繰り返す。
怒りに囚われているときの自分の感情がまるで自分でないみたいに制御できないことが非常に厄介で印象深かったのでみんなにもっと知られてほしいなと思う。
自分は普段から、「嫌いな相手のためにエネルギーを使うのが勿体ない」という理由で他人を嫌わないことをモットーにしていたから、怒りを抱いている状態でもある程度理性が働いたが、本当に自分ではない何かを必死で抑え込んでるような感覚を覚えた。
「ごめん無理なのおおおおお必死でやってるけど無理なのおおおおおうおおおおお本来の俺はこんなのじゃないいいいいい俺の思考に侵入するなぁあ脳のリソースを奪うなぁぁぁぁぁ助けてぇぇぇぇマジ無理いいいいい」という具合で悲鳴をあげながら向き合いました。善逸かよ。