はてなキーワード: 呼び方とは
政権になった時の、今時点で想定されうる各大臣を提示すれば良えんちゃうか?
やっぱその程度の支える人がいないと漫画とか文章に昇華できないのかね
「よし、漫画にしよう…!」という域に達しなかった屍の山みたいなのがあるんじゃないかって思っちゃうんだよね
先月会社の同期にグループLINEで「あいつ躁鬱病だから頭おかしいwwwww」って書かれて
うーわキッツ…なんかもうイライラして咄嗟に出てくる言葉がそれって怖、呼び方も古いし診断降りてないし双極性にも幅があるのに精神疾患全部一括りに入れてるんだろうなあ…しんど…って。
ちょうど座間とか息子殺しとか某議員の診断書提出とかあったから頭おかしいとか絶対精神病だろとか不良品だなんだ色んな言葉が散らかっていて、一緒にしちゃいけないと頭でわかっていても1つにまとまって殴りかかってくるわけで。
「ああ私は現場がしんどくて半日ばかし部分的に身体が動かなくなって数ヶ月休んだだけで精神病ってカテゴリで一生間接殴打されていくのか」と憂鬱になった。テレビはとっくの前に切ってる。それでも記事となって目に入ってしまったけど。
それに伴い現状を知ってほしい〜〜と漫画が流れてきたけどやっぱりいるんだよなあ、理解者。
家族もそんなに心配かけたくないし重たい話のためにわざわざ周りに声をかけるのは気が遅れるし、乗ってくる奴がいてもただの面白サンプルとしか思ってなさそうだし、どんな拍子で傷つくかわからないし先生は2週に1回だし
全部話してたら相手が潰れるから使い分けてると思うけど、それでも自分をほぼ確実に肯定してくれるひとがいますって超でかいじゃん、十分じゃんとか思っちゃう。8ページ目ぐらいに出てくるのほほんデフォルメのあいつくれよ。いつも離れず後ろに書き込まれてるあいつ。途中から「この病気はこう大変なんです」じゃなくて「こんなに支えてくれるひとたちがいるんです〜」とアピールしてるような気になってくる。んなわけないんだけど。やっぱそういう存在がいないと救いがなさ過ぎとかシビアすぎて商業化できないのかな。そんなの売れないもんね。
バカはバカと割り切れと言われたし当然自分にも言い聞かせつつ、未だに2日に1回以上は思い出す。1人で処理してる。薬も適度に飲みつつ。
相手は覚えてないだろうね。そういや身体が動かなくなる前の週かな
「現場厳しいから異動したい、人間的な生活の遅れるおすすめの非現場教えてくれ」と尋ねた時も「知らん。非現場もしんどいからそんな異動をするなら辞めた方がマシ」って1時間ぐらい叱咤されたな。あのとき私が飄々としてたから後から躁だと思ったのかな。数ヶ月して非現場で普通に働いてるのが気に入らないのかな。病んだ人のイメージにそぐわなかったのかなあ。「切り替え早すぎ」みたいな。
そりゃ話すころには頭の中でまとまってるしオチもつけるし聞ける程度にはユーモアも挟みますよ。にしても休んでる間も誰とも連絡してないのに内示すぐ広まって気持ち悪かったなあ。死んでおけば良かったのかしら。死なないけど。
一般的には結構なフィルターがかけたつもりなんだけどこれでダメだったから、どこまでのひとが同じようなことを言えちゃうのか全く見分けがつかん。それを探るのもしんどいし、そういうことがあるかもと前提にして態度や発言に細心の注意を払うのも無意味な気がする。
さて、寝るか。
例えば、相手を名指しで呼ぶ時。
「マスダ、お前の番やで」
基本は呼び捨てであるが、学年が上の相手へは少しだけ気をつかって「くん」付け。
「ちゃうやろ、マスダ弟ぉ」
「え?」
「ワイのことは“カン先輩”と呼べ。“カンくん”とか、むず痒くてかなわん」
「先輩呼びだったら痒くないの?」
「あ~?……なんや、不服なんか? そこまでして“カンくん”って呼びたいんか?」
「“カンくん”呼びやめろとは言うたけど、ディスってええわけちゃうぞ」
「ねえ、マスダ」
「ん? どっち」
「弟の方。マスダの兄さんじゃない」
俺だったら「マスダ(くん)」または「マスダの兄さん(ちゃん)」。
弟は「マスダ(くん)」または「マスダの弟(くん)」。
面倒くさがりな奴からは「マス兄」、「マス弟」とゾンザイに呼ばれていたこともある。
呼び方がまるで安定しないため、俺たちはしばらく混乱していた。
この独自の呼称ルールは、学童所に唯一存在する大人である指導員にもあった。
「なあ、マスダ」
「どっちのこと言ってんの、ハリセン」
名前にハリが含まれていたからハリ先生、略して「ハリセン」だ。
本名は知らない。
見た目から来る印象も朧げだ。
よく不精髭をたくわえていたので中年だと思うが、剃った時の顔は20代のようにも見えた。
声は妙に甲高かった気がする。
「ほら、こういうことになるから、肩を叩くなりして呼べばいいって言ったじゃんか」
「ああ、すまん、すまん。どうも忘れっぽくてな」
学童はみんなタメ口で喋ったが、ハリセンは咎めることもなくフランクに接した。
しばらく後になって知ったことだが、学童保育に就く人間は、学校の教員とは色々と勝手が異なるらしい。
俺たちのあんな態度を気にも留めなかったのは、むしろそっちのほうが自然だったからなのだろう。
現役の校正者です。出版社の校閲部所属ではありませんので、多くの出版社とお付き合いさせていただいてます。
幻冬舎の見城徹社長のインタビュー(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/05/post-12205_1.php)と、そのブコメを拝読していて、いろいろと解説できることもあるかもしれないな、と思いましたので、一般的な校正フローがどういうものか、ということについて、増田で書いてみようかなと思います。
この段階で、完成原稿扱い(を目指す)というのが一般的です。なお、上記の説明では「完成」の判定を誰が責任を持つのか、デザイナーとDTPオペレーターの職分の厳密さ、あたりがすっぽ抜けているんですが、そこの解説は省略させてください。パターンがいろいろありますし、枝葉の話かと思いますので。
とても高い正確性が求められる書籍(例えば辞書)の場合や、再校での修正量が想定以上に多かった場合は、さらに「修正指示が反映されているか」「もう一回読み直し」とサイクルを予定している/追加していく場合もありますが、だいたい多くの書籍では「初校・再校」の合計2回まででまとめていると思います。
『日本国紀』はあのあり方、ページ数などからみて、三校、四校まで実施しているかもしれません。遠くから眺める限り、いろいろと大物な予感がしますので、ちょっと再校まででは済まない印象がします。単なる勘ですけど。そういう意味では、インタビュー内の「通常の3倍以上」というのは、六校、七校まで実施した、という意味かもしれないな、と思っていたりします8-)
校正作業を行うにあたっては、「リスクを認識した場合、そのリスクをクリアするためのチェックフローを追加する」というスタイルがよく採用されます。実務に沿って言い換えると、まずは「編集者からの依頼としてチェック項目のリストが渡され、それを元に読み進める。そして、実際に校正作業を進めてみて新たに発見されたリスクについては、適宜、リスクに応じたチェックを追加する」という形です。言葉にすると当たり前なように聞こえるかと思います8-)
これを剽窃チェックにあてはめると、「この原稿にはWikipediaコピペが含まれていそうだ」と判断した場合に、「Wikipediaコピペを検知するための確認作業を追加する」ということになります。
Twitterで、小池みきさんが「社内校正のときに「ウィキのコピペをしてないかチェックする」って作業があった」とお話されていました(https://twitter.com/monokirk/status/1133240351123099648)が、これは、続きの「ネットに詳しくないおじいちゃんの郷土史家とかはけっこうやってしまうので」というのが重要なポイントで、リスクが高い状態がすでに認識されていたからこそ、コピペチェックが定型フローに含まれていた、ということだと思います。
なので、「『日本国紀』はWikipediaコピペのチェックもしていないのか?」という問いに関しては、「百田尚樹先生の文章について、なんらかの剽窃リスクが高く見積もられていなかったならば、編集者から提示された最初の校正依頼の項目に『コピペチェック』が含まれていなかったとしても、特別におかしいとまでは言えないと思う」という回答です。
そもそもとして、剽窃は絶対にしてはいけない・出版倫理にもとる、というのが大前提なので、「著述家として実績を積み重ねた方であれば、剽窃や不適切な引用はしていないはず」という認識を基本とするのはわりとベーシックです。例えば飲食店において「お客様は全員きっと食い逃げするに違いない」という強いリスク感を持つのがさほどノーマルではない、みたいなことで、「剽窃があるかもしれない」とは考えますが、「剽窃があるはずだ」と強く疑ってチェックを重ねるのはコストが嵩みすぎる、という判断をします。「存在する可能性が高いものを探すコストをかける」のと、「存在しない可能性が高い(と考えられる)ものを探すコストをかける」のは現実的には違うのです。校正作業にも締め切りや予算がありますから。
ですから、多くの校正作業においては、「この原稿、コピペが入ってるのでは? 剽窃かも?」というリスクをどこかではっきり認識したら、その時点からコピペチェックを追加します。「おそらくあるはずだ」に頭を切り替えるからです。「私の場合は」という但し書きはつきますが、おそらく多くの校正者がそうしているでしょう。
では、「最初は偶発的に発見するしかないの?」という問いに関しては、「はい。ある程度は偶然に頼ります」というアンサーです。ですが、ベーシックにファクトチェックを実施していれば、どのみち辞書・インターネット・専門書等を駆使して大半の単語や記述を見比べながら読むこととなり、「剽窃・不適切な引用が多数存在した場合、そのうちのどれかひとつを発見する」という可能性はそこまで低くないと思います。特にWikipediaからのコピペの発見は多少は期待できます。実際、私自身も何度もそのような経緯でコピペ事例を発見したことがあります。検索さまさまです8-)
一方で、参考文献のリストがそもそも共有されていなかったり、それが不完全だったりすれば、「どこから引っ張ってきたのか」の見当をつけることさえできないので、かなり発見が難しくなります。
校正作業(チェックリストの項目)は追加すれば追加するほど期間と金銭コストがかかるし、無限に時間をかければ当然ペイしなくなってしまいます。なので、特に校正フローの最初においては、クリティカルな点や、質への貢献が高い項目を重点的に校正する、というのが多くの場合の実情です。
作品固有の事情として、『日本国紀』がどういう売り方で、どれくらいの期間、どれくらいの利益を企画していたか、ということは外側からではわからないので、「通史で全部のファクトを細かくチェックしていけば、校正だけで5年はかかります」というコメントから、「じゃあ5年かけろよ」とだけ言って終わらせてしまうのは、理想的ではあるものの、現実的に可能かどうかはわかりません。
2019/05/31追記:「通史で」というところもポイントなんですよね。そもそも『日本国紀』を通史相当とみなすのか否かから検討されなくてはならない。一般文芸書と学術書では求められるレベル感が違いますもの。
金銭や時間が膨大にかかる理想をすべての書籍に一律に求めることはできない実情は既にあるので、「『日本国紀』という作品については、どれくらい理想を突き詰められたのか、突き詰めるべきだったか」という評価・判断と合わせての評価のほうが、現場にとっては建設的であろうと考えます。これは単に「校正現場にとっては」という話であって、思想云々、歴史云々の話は学術・芸術的な観点を含むため、また別枠だと思います。今回の増田でそのあたりを取り扱うつもりはありません。校正作業の話だけをします。
最初にお断りしたとおり、私は『日本国紀』をまだ手にとっていないので、どれぐらいの校正コストが支払われるべき作品だったのかについて、特に言えることがないです。もしもこの増田に反応が多ければ、その時は目を通してみようと思っています。その場合は見積もりのために数日ください;)
現に剽窃や事実誤認や誤記と見られる(らしい)記述が存在したそうですから、「『日本国紀』において校正フロー全体は正しく機能していなかった」は正しいと言えるとして、ではその原因は何か?については妥当な推測ができません。例えば期間や予算がなかった、あるいは校正者の実力自体の不足で、(作品としての理想、読者の皆様からの期待の両面から)求められる成果にそもそも達していなかった可能性はもちろんあります。また、あるいは部分的に達せられていたとしても、編集の方、著者の方にご確認いただく過程で、指摘が却下されている可能性もゼロではありません。
「校正者」という個人、さらにその校正力にだけ、校正フローの機能不全の責が向かうとすれば、必ずしもそうとは限らないですよ、ということぐらいは言わせてください。
……という感想はさておき、インタビュー内の「版を重ねて修正するのはどの本でも当たり前のようにある」は事実です。また、特段の事情がない場合、サイレントで修正するのもよくあります。
ただ、ごく短い期間で版が何度も更新され、さらに刷りを重ねているとなれば、最新の版以外を「古いもの≒正確でないもの」と認識した上で取り扱ってもらえるのが望ましいでしょうし、その必要性の度合は文芸小説等よりは高いと思います。広辞苑や記者ハンドブックなどを使用する際に「第◯版を使った」というのが重要視されるように、『日本国紀』第◯版読んだよ、みたいな感じで。
増田でこんなに長くていいのかって思いながら書きました。すいません。
何が美味しいのか俺には理解できなかった。
磯の香り?
馬糞雲丹って呼び方の、馬糞って部分はまさに匂いが馬糞だからだろうな。
いや、馬糞よりも酷いな。
公衆便所の便座の裏に溜まった抹茶色のカスを便所スポンジで擦って、それをしゃぶったらこんな味なんだろうなあ。
俺なんてこうやってウニの味を想像するだけで吐き気がしてくるが、ウニが好きな連中はそれを美味い美味いいい匂いだと言って高い金を払うから理解できん。
バカバカしい。
そんなに味わいたきゃ、公衆便所にでもいって便器の縁裏でも舐めてろよ。
きっと同じ味だぜ。
実際やったら感想聞かせてくれよ。
きっと、同じだろうけど、一応気になるからさあ。
久々にこっちで雑感。
ツイッターとかの明示されたアカウントで語るには取り扱いに困る、そんな話をしたかったのが理由。「お前は敵がつくりてぇの?」って聞かれたら、作りたくもないし、作る意義もないからね。とはいえ、やっぱり語りたくなる。今回の『青のフラッグ』の44話には、そういったパワーがある。
いやあ、ほんと。本作は漫画という媒体で、どこまで多元的な考え、人格を描写するつもりなんだっていう。面白いかっていわれると、愉快ではないんだけれども。安楽椅子状態での会話がメインって絵的には面白みが薄い。どうしてもセリフばっかりになるし、読者側にエネルギーを要する。しかも本作はスッキリしない。わかりやすく間違っている人間に対して、正しいことを言って溜飲を下げるだとか、そういった明瞭な快活さを与えてくれないのでストレスがたまる。それでも評価せざるを得ない話ってこと。
本作は各々が自分なりの考えを持っていて、そこに明確な是非を要求すべきじゃないってのを逐一訴える。今回の女子高生二人の言い分も間違ってはないんだよね。むしろ現代社会の通念上は、正しい寄りの考えと言ってもいい。じゃああの丸刈り君は偏狭な性差別者で、“普通じゃない、間違っている人間”なのかっていうと「ちょっと待った」ってなるわけ。私も同性に痴漢されたことはあるから分からなくもない。そういった経験から来る嫌悪感は普遍的な通念では拭い去れない。読者の中には今回の話を読んでなお、あの丸刈り君をただのクソ野朗で終わらせる人もいるだろうけれども、作中ではそれこそ狭量ではないかと指摘しているようだった。
安易な善悪二元論の懐疑。ああいった問題で、正しいだとか間違っているだとかの線引きで考えたり、分かりやすい悪者を作り出すことの危うさを作者は知っているんだと思う。作劇として見た場合、言語化しすぎてて読み味も良くないんだけれども、本作はそういうのを妥協したくないんだろうなあ。『鈴木先生』を思い出す。大衆が受け入れがたい、スッと入ってこないであろう考え方を大げさに、だけど真っ向から長々と語る。
「好きって感情はいいけど、嫌いって感情はダメ」みたいなセリフが劇中に出てきて、私は「うげえ、また“ツギハギ論”かよ」って思った。「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」。『ツギハギ漂流作家』という漫画が打ち切り間際に描いたあのセリフ。あの漫画の顛末を踏まえた場合、逆ギレじみた言い分に近い。けれども、なんだかセリフだけ一人歩きしてしまって名言になった。なってしまった。だから私は“ツギハギ論”って呼んでいる。実際このセリフを安易に引用する人間の主張にはツギハギ感があるので、その点でも“ツギハギ論”って呼び方は適格だと個人的に思ってる。
で、ちょっとウンザリしたところで、「好きって感情は良い感情、嫌いって感情は悪い感情って考えは雑すぎる」といった指摘が入る。ああ、そこも言語化しちゃうんだっていう。もう完全に私はこの作品に踊らされている。「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」の歪さを分かってる。あのセリフが憚って10年以上も経っているのに、まだあれを正論だと思っている人がたくさんいる。あれが大した理屈じゃないことは、好き嫌いについて向き合っているのなら自ずと分かるはず。けれども、好きなものを他人に嫌いだって言って欲しくないという自己保身のために、あのセリフを都合よく使う人は後を絶たない。
好きという感情を肯定する以上、嫌いという感情も肯定しなきゃ辻褄が合わない。まあ、肯定や否定は個人の感情によるところも大きいので、各々がどういうスタンスをとるかまでは是非を問えないけれども。そのせいで、意見の不一致による衝突は出てくるし、それを避けたいのも人間の本能だしね。だから私だって、こういう話は後腐れのないところで書く。とはいえ感想書きは、結局この“好き嫌い”を様々な言葉で紡ぐ表現手法の一つなわけで。好き嫌いそのものを、片方だけ是としたり、有耶無耶にしたりすると評論としてはむしろ信頼できない。
そんなわけで評価はしているけれども、本作はかったるい。言語化しすぎというか、野暮ったいセリフ選びも多い。セリフの少ない場面とかはすごくエモいだけに尚更そう感じる。エンタメという枠組みで見たとき、あれは愉快な描き方ではないし、上手い描き方でもない。「悪役が何かエグいことをやっている」だとか、そういう“エンタメ的には良い不愉快さ”みたいな意味ですらなく。飲み物なしでビスケット食っているみたいな感覚。
例えば、同サイトで読めるのだと、『さよならミニスカート』は分かりやすい。あれは良くも悪くも複雑じゃない。いや、人によってはあれでも余剰過ぎるくらい複雑かもしれないけれども、訴えていること自体はすごくシンプルなんだよ、あれは。基礎的なジェンダー規範を取り扱って、それをテーマにしている作品。様々なマンガで、以前から脈々と語られてきたジェンダー論をメインに、現代の人たちに刺さるようドラマティックにリブートしている。だから陳腐とまではいわないけれども、やや表層的ではあると思う。ああいったテーマを多側面的に考えたことのない、一般大衆向け。それ故に刺さりやすいし、読み味も良い。『青のフラッグ』もウケてはいるけれども、作者が想定しているであろう理解力の読者はそこまで多くないと思う。
その点で『さよならミニスカート』は多くの読者に色んな意味で優しい。まあ、テーマ的に何かすごいことをやってる~みたいに持てはやしだしたら危ないと思うけれども。『サウスパーク』とかで登場する、ソーシャル・アジェンダに踊らされた大人たちみたいになってしまう。「私たちはそういうのに理解があるよ」といったスタンスをゴリ押すことに一切疑問を持たない、実際のところ無理解な人間。「社会正義だから」、「一般の善良な考えだから」といった、誰かがあらかじめ作っておいた前提で理屈を紡ぎ出す。だから一見すると尤もらしいんだけれども、ちょっと小突かれただけで論理が破綻してしまう。
とはいえ、そういった指摘をフィクションの世界でわざわざ言語化しても、ほとんどの人はそこまで様々な視点から物事を考えないので伝わりにくい。一般社会の善良そうな考えで生きれば支障はまずないから、考える必要がない。むしろ考えすぎて自我が袋小路に入ってしまうこともあるから、ちょっと無思慮なくらいが丁度良いまである。色々考えていたとしても、個々人の規範と一般社会の規範をすり合わせる他ないから。『青のフラッグ』のセリフからとるなら「お前は敵がつくりてぇの?」となる。私は御免こうむるし、多くの人も「そんなつもりはない」と言うはず。自覚しているか、実際の行動と矛盾しているってパターンは多いけれども。敵味方っていう構図の作り方が、そもそも履き違えているのを大体の人は分かっている。前提を共有をしていなければ主張の押し付け合いにしかならないし、かといって論理ゲームは本質から遠ざかっている。
そんな感じで、私の中でもまとまっていないので、ここで雑感は終了。ここまで語っておいてなんだけど、こういう特定の作品を基に社会論をアレコレ語るのは、どこぞのサブカルくそ野朗みたいで我ながらアレだと思ってる。自分のツイッターじゃあ、絶対こんなこと呟けない。あれこれ考えてしまうから吐き出して解消したいだけで、漫画はもっと気楽に楽しみたい派。ぶっちゃけ私は『むとうさとう』レベルの軽いノリでジェンダー取り扱ってる漫画の方が好きだ。
●捜査関係者「ネット上の批判は把握している」 池袋暴走 - 産経ニュース
https://www.sankei.com/affairs/news/190423/afr1904230024-n1.html
●“上級国民”だからあえて逮捕することも 高齢者逮捕・勾留の現実 - FNN.jpプライムオンライン
https://www.fnn.jp/posts/00046400HDK
●池袋暴走 母子死亡事故…なぜ逮捕されない?“上級国民”説の真相 元院長の今後は? - FNN.jpプライムオンライン
https://www.fnn.jp/posts/00044953HDK
●被疑者の身柄拘束について、メディアはもっと丁寧な取材・報道を!~池袋母子死亡交通事故などから考える(江川紹子) - 個人 - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20190520-00126655/
●池袋暴走事故 なぜ運転手は逮捕されないのか 元警察官僚、古野まほろ氏が分析 | デイリー新潮
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/05100700/?all=1
なんかFGOのシナリオが『探偵映画』っぽいとか噂になっているようなのでついでに宣伝しようと思ったが、中古でも新書版しかないってどういうこと? 講談社文庫も文春文庫もあるはずなのに…まあせめてKindleでどうぞ。 https://t.co/jejAX1otKs @amazonJPさんから— あびこ (@sukiyapotes) May 17, 2019
「惑う鳴鳳荘の考察」と探偵映画が似ているという、我孫子武丸氏のこの指摘を読んで、私は訝しみました。
ですが、京大ミス研出身で、講談社からデビューして、麻耶雄嵩に受肉させられたような人間が、こんなベタな作品とネタを被らせるでしょうか?
そこで私は、思い出してしまったのです。
数年前、同じように探偵映画の盗作をして話題になった「ホタエナッ!!」という演劇のことを……
これは、伊福部崇さんが「ホタエナッ!!」を盗作として断罪されてしまったことのリベンジとして「惑う鳴鳳荘の考察」を書いた。
そう考えれば、すべてのパズルのピースが綺麗にハマるのです!!!!
なお、この理論により、辻村深月とかかずゆみが同一人物になりますが、どちらもドラえもんに関係しているのだから、同一人物に決まっています。
放送作家が何をする仕事かわからないけど、どちらも作家とついているのだから、違うはずがない。
なお、この理論により、森見登美彦とふかわげんきが同一人物になりますが、この二人はどちらも「よく可愛い女の子に囲まれてて羨ましい」という、逃れようのない事実としての共通項があるため、同一人物です。
下二桁目と下一桁目が同じ「3」である。
これは偽名を名乗るときに自分の名前から取ってしまうのと同じ現象。
なお、この理論で、似鳥鶏(38歳)と田村ゆかり(43歳)が同一人物になりますが、この場合どちらも「世界一可愛い」という共通点があるため、証明不要です、世界一は一人だけです。
どちらも関西にある変人があつまる大学なので、大阪芸大に入れる人間は京大にも入れるに決まっている。
なお、この理論により、梶井基次郎と庵野秀明が同一人物になりますが、偏食の庵野秀明と檸檬大好き梶井基次郎が同一人物のはずがありません。
奈良には鹿がいて、北海道には熊がいる、どちらも音が二文字で漢字が一文字と非常に似ている、おそらく同一の生き物の別の呼び方にちがいない。
同じ生き物が住んでいるのだから、これらは同じ場所に決まっている。
なお、この理論により、森見登美彦(奈良県出身)と田中理恵(北海道出身)が同一人物になりますが、二人とも配偶者が可愛いという疑いようのない真実が合致しているため、この理論を適応しなくてもよいです。
逆転裁判 時間旅行者の逆転は巧舟のモノマネで、ブルコンのテーマには神谷明や小野坂昌也などのモノマネをするパートがある、モノマネなんて聞いたことも見たいこともない芸を披露できるのは同一人物だから。
なお、この理論により、北村薫(女子大生のモノマネをしていた)と青木佑磨(鷲崎健のモノマネをしている)が同一人物になりますが、どちらも学生時代への強い憧れがあるという気持ちを抱えているので、同一人物なのは一目瞭然。
谷川ニコは作画と原作の二人組で人間は二人いると必ずセックスをするし、天使もえはセックスをするのが仕事なので、同一人物。
なお、この理論により、岡嶋二人とみくちゃんが同一人物になりますが、クラインの壺も素人図鑑File-07も同じ胡蝶の夢をテーマにした作品なので、この理論によらずとも、同一人物です。
青崎有吾は「青がつくミステリ作家のじゃないほう」で、天津向は「天津のじゃないほう」で、どちらもじゃないほうなので同一人物。
なお、青がつくミステリ作家こと青柳碧人と、天津こと木村卓寛は、多作の売れっ子作家と一発屋芸人なので同一人物ではありません。
「うゆーさん」だの「うゆうさん」だのなんて表現は、ライトノベル以外の何物でもない。
すべてのライトノベル作家はあかほりさとるなので、麻耶雄嵩も同様にあかほりさとるである。
松屋にも辛いものは置いてあるが、伊福部崇が満足するほど辛いものは置いていない。
好きな食べ物がまったく違うのに、二人を同一人物として扱うなんて狂っています。
なお、そもそも、別に「惑う鳴鳳荘の考察」は探偵映画のパクりではありません。
また、我孫子武丸と関智一は怪盗不思議紳士という作品などで交流があり、あの件は終わっています。
なので、もう良い加減に「探偵映画」という言葉を見かけるたびに「伊福部さんがパクったやつだ!!!」とテンションを上げて、このような駄文をしたためるのはやめたほうがいいのです。
以上です。