はてなキーワード: 司会者とは
https://anond.hatelabo.jp/20221205215401
これでディスられている自称音楽チャートアナライザー()を観測しているが、最近は結構方向性がおかしいことになっている。
・ベストアーティストでジャニーズの司会者が他の事務所のボーイズグループに話題を振るかどうかをチェックするのが歌番組で大事なんだ!
・Adoの映像のワイプにキンプリがずっと映っていることはAdoに対する侮辱だ!
・ボーイズグループがパフォーマンスしているときにジャニーズがワイプに出ない、忖度だ!
・CDの大量買いでランキング1位になるのは社会を反映していない!オリコンはクソ!ビルボードこそ全て!(要約)
・紅白のブッキング担当者と会話したい!なんなら自分がブッキングしたい!
(ちなみに紅白に関しては言及先の記事で上がっている人のほうがずっと追ってる分詳しいしフラット)
・ビルボードがサーバー落ちをしても予算の都合上サーバー増強しないのはおかしい、読み手に配慮しろ!
・ビルボードの発表(無料)が数分遅れたのに謝罪がないのはおかしい、読み手に配慮しろ!
・音楽サイトの記事のタイトルがおかしい、アクセス稼ぎのために派手なタイトルにするのはだめだ!
・藤井風の楽曲が人気あるのに触れないのはおかしい(「死ぬ」って言葉を使ってるからだと思うけど)、報道しろ!
・レコード大賞に安住さんをつかうのは局に忖度する可能性が出る、やめろ!
・イーロンマスク辞めろ!
・青森ではフジテレビが映らないからワールドカップが見れない!
ビルボードジャパンへの運営に対して苦情に近い指摘(更新時間ちょうどに更新しない、サーバーが落ちるなど)をするわりにビルボードチャートを崇拝している。
確かに「社会へのヒット」はオリコンより反映しているのだけれど、結局再生キャンペーンやファンの対策()でランキングが操作されるので、それは絶対ではないと思っている。
ビルボードを優先するかオリコンを優先するかなどは運営によって決めればいいと思うし、ビルボードを選ばなかったからといって責められるものではないと思う。
しかしこれらのチャートアナライザー()は目標にビルボードではなくオリコンを選んだ場合はここぞとばかりにそのアーティストを批判する。
めいちゃんという歌い手が再生キャンペーンを用いて再生回数を増やした時の目標がオリコンだった時は本当にひどかった。
また、今度はこんなことを言っている。
今回のチャートポリシー変更がデジタルの充実に向かわせるのではなく、コアファンも含めビルボードジャパンを意識しないようになるのではと邪推してしまう自分がいます。その危惧に現実味を帯びさせないよう、音楽チャートの認知拡大やエンタテインメント業界全体での環境改善、また音楽ファンが監視の目を持つことは急務と考えます。
この人が行っていることは監視でも提案でもない、「自分が思い通りになること」と「思い通りになったときの承認欲求」でしかない。
こんなことを願うのは好きではないが、いつかどこかの界隈が大きく燃やしてくれることを願っている。むしろ今まで炎上していないことのほうが不思議だ。
ホットエントリに入っていたので。
せっかく愛知にすんでるし、最近なにかと話題だし、空いてるなら散歩がてらに行ってみようかと。
と、なんとなしに行ったんだが・・・。
空いてるって聞いてたのに普通にひといっぱいいるやん。
子連れファミリー、カップル、老年夫婦、オタクグループ、ソロプレイヤーなどなど多種多様な人が、そこにはいた。
会場の前の広場にはキッチンカーがずらずら並んでいたり、アウトドアワゴンをゴロゴロと引いてる人がいたり。
フェス会場か、ここは。
ま、それはともかく。
せっかくなのでキッチンカーで軽食を買って中で食べることにする。
買ったのはジブリとは何の縁もなさそうなホットドックとフライドポテト。
俺はここに何をしに来たんだっけ?と若干思いつつ、美味そうだったので。(実際旨かったし正解だった)
その次に現れたのが、なんと愛知県の大村知事。会場が少しどよめく。
このおっさん、中々の入れ込みよう。どれだけジブリパークに賭けてるんだ?逆に不安になる。
知事の挨拶もそこそこに、ようやく真打登場、本名陽子が現れる。
え?それいいの?昨日井上あずみが歌ってたんじゃないの?と変な笑いがでたが手拍子しながらのんびり聴く。
さんぽが終わると自己紹介。プリキュアやったりガンダムでてたりました、とのこと。へーと思いながら、この会場に本名陽子の経歴知りたい人どのくらいいるんだろうと邪念がよぎる。
次に歌ったのがおもひでぽろぽろの曲と猫の恩返しの曲。ここで本名さんの歌が上手いことに気づく。補正なしのカラオケでこれだけ安定して歌えるのすごいなと感心する。
2曲終わると小休止。本名さんが27年前の生台本を持ち出してきてセリフ読み大会が始まる。
「今から3つ、セリフを読みたいと思います。どことどことどこのシーンでしょう?」と会場にクイズを投げかける。
挙手した観客から3人が選ばれ、登壇。わちゃわちゃとしたやりとりのあと、本名さんがセリフを実演して答え合わせ。
参加者にはおみやげにサイン色紙をプレゼントしていた。ちょっとうらやましい。
バイオリン弾きのおばさんが登場する。この人は天沢聖司のバイオリンを担当していた人らしい。
この人曰く、天沢聖司の演奏シーンはこの人の演奏を録画して、それをアニメーターが一枚一枚描き起こしたらしい。
指の運びなんかはもちろん、なんとなしに動かした肩の動きなどまで完璧に再現されていたとか。実質天沢聖司やんけ。
バイオリンのイントロが始まる。あーこれこれ!と眠っていた思い出がよみがえってくる。
本名さんの歌が加わる。少し音痴。そして直立不動。その歌と姿を見て、映画のあのシーンを忠実に実演してることに気づく。
ちくしょう、にくいねえ!と思いながら、いつのまにか自然と涙が流れていた。
2人が演奏する後ろにはジブリパークで再現された地球屋が見える。このロケーションとシチュエーションが感動させたのか。それとも単純にバイオリンの響きと本名さんの歌声が良すぎたのか。それはわからないがとにかく涙が止まらなかった。
こんなに感動するつもりではなかったのだが。
空いてそうだし散歩がてらに来ただけだったのだが。
ジブリパークにはまだ一歩も足を踏み入れられてないし、チケットも当分取れそうにないけれど、もう十分元は取れたと思うくらい満足してしまった。(無料のコンサートで元を取るとはいったいなんなのか自分でもよくわからない)
そうして曲が終わり、おおきな拍手がおこり、コンサートは終了。
引き続いて、映画が始まる。
久々にみると絵が古いし、設定から話の展開まで何から何まで平成だった。(当たり前だが)
なので良い作品ではあるものの、これを今の令和キッズたちが見て面白いと思うかは微妙なところなのかなと正直思った。
だから増田の懸念も少しは妥当なのかもしれない。今日は人がいっぱいだったけれども、3年後5年後どうなってるかはわからない。
くsssssssssssssssssssssssssssssっそ寒かった!!!!!
映画の序盤くらいから寒さとの戦いに意識が半分以上持っていかれてた。
静かに座るタイプの野外イベントを11月の夜にやらないでください。
以上です。
その通り。
Bの扉は「司会が選ばなかった」ということによって情報エントロピーが下がっている。Aが正解だった場合は無関係だが(1/3)、2回目に選択を変えるときB、Cが正解だった場合は回答者は選ぶ必要がない(選べない)ので2/3(1/3以外の全ての確率)の正答率になる。強いて言うなら司会が「開示しなかった扉」を残した条件付確率だ。
で、山形の記事のことはちゃんとwikiにも書いてある。サヴァントの引用。
人間の出場者が最初に選んだ扉を宇宙人は知らずに司会者がまだ開けられていない2つの扉のどちらかを選択するよう宇宙人に勧めると、この時の確率が五分五分になる
山形はパワーバギーとか言ってまぜっかえしているが、宇宙人に関するサヴァントの説明と全く同じで、つまり何も理解していないし、それどころか自分がリンクを張ったwikiの記述すら読んでいない。
司会者は「答えを知っている」うえに「参加者に得をさせないようにプロデューサーから命令されている」ので、はぎーわぎーなんぞは最初から参加させないよ。
回答者がA、はぎーわぎーがBを選ぶと司会者はCをあけるしかない。そこに優勝商品がはいっていたらテレビ的にはもうね、台っ無しなんだ。
だから回答者とはぎーわぎーが参加するならDの扉もつくらないといけない。
ちなみに「テレビを盛り上げるルール」を加味してドアを50個くらい用意してヒントあげながら48回くらい移動していいっていったらもっと簡単だろ。
HWが選んだ扉だろうと外れだったら司会者は問答無用で開ける可能性があるよということか
バラエティ的には二人が選んでないかつ外れの扉を開けるはずという思い込みがあるわけだが数学的な設問ではHWが選んでようが何だろうが開ける可能性があると
ハギーワギーくんは最初、Bのドアを選んでいた。もちろん、場合によっては司会者がBのドアを「ハズレでした」と開けてしまう場合もある。
場合で答えが違ってくるはず。
このとき正解がA、B、Cそれぞれである確率は回答者の選択とは独立なので1/3。
次に「司会者がCを開けた」という事実から導かれるのは「正解はAかB」ということなのでA、Bともに1/2にしかならない(前者の場合との違いは、Aも司会者によってランダムに選ばれる対象にあるかどうかということ)ので選択を変えても変えなくとも同じ。
個人的に
あなたは当然、ハギーワギーくんにも選択を変えろと助言する。つまり、BのドアよりもAのドアのほうが確率が高いぞ、と言うわけだ
の部分が引っかかっていて、おそらく山形さんにとってはこの例を出して表現したいのは、「偶然」Cはハズレで司会者も選んだとき、司会者がドアを開ける前に何も知らない状態でBを選んだHW君だけ確率が2倍になるのはおかしいという考えなのだと思う。しかしその結果となる前提として「司会者がAを選ぶことはない」なら確かに2倍になるが、「HW君と山形さんのドアもハズレの場合、司会者が開けうる」なら確率は上がらないという直感は正しい。これがはっきり明文化されてないので山形さんがどちらを意図しているのかわからないというのが自分の感想。
https://cruel.hatenablog.com/entry/2022/10/30/214634
※ブコメでは、上記記事中における確率の議論が不正確なことを揶揄するコメントも多数見られますが、個人的には、こういう一見逆説的な問題設定を作り、それを上手に言語化されているのがとっても素晴らしいなと思いました。一般に、良い問題を作るには優れたセンスが必要で、それと比べれば、(私を含め) 単に問題が解ける人なんてのは大したことないのです。
以下では、該当箇所を引用しながら回答を書いていくので、先に上記の記事を読んでいただければ幸いです。
また、表記の都合上、以下ではプレイヤーの「ぼく」を「Y先生」、「ハギーワギーくん」を「HW君」と書きます。
(引用)
理屈はまったく同じだ。あなたは当然、ハギーワギーくんにも選択を変えろと助言する。つまり、BのドアよりもAのドアのほうが確率が高いぞ、と言うわけだ。それは……ぼくが最初に選んでいたやつだ。
結論から言うと、このときHW君は選択を変えるべきではありません。
Y先生は最初にAのドアを選んでいて、司会者はBとCのドアのうちCはハズレだと明かしました。
ここで重要なのは、Y先生が事前にAのドアを選んでいたという事実ではなく、司会者は必ずBとCのどちらかのドアしか開かない (Aを開くことはない) ということです。
であり、これらは同時に起こらない (排反事象である) ので、
となります。したがって、
ということで、「司会者は必ずBとCのどちらかしか開けない」という制約のおかげで、Aを選び続けるよりも、選択を変えたほうがお得になるという寸法です。
司会者はHW君がどのドアを選んだかとは関係なく「BかCのどちらかのドア」を開けます。一方、なぜBかCのドアしか開けないのかというと、これはY先生が最初に選んだドアがAだからということです。ここに、Y先生とHW君の非対称性があるわけですね。
ただし、Y先生とHW君との違いはこの点だけであって、仮にCのドアがハズレだと明かされたとすると、Y先生もHW君もBのドアを選んだほうがお得であることに違いはありません。
(引用)
でも……この説明だとハズレドアを一枚あけるという行為、あるいはそれがもたらす情報は、ぼくの選ばなかったカードにだけ影響するようだ。なぜ?
上記の説明で納得いただけた方には、この点は簡単かと思います。上の繰り返しになりますが、「司会者は、(Y先生が選ばなかった) BとCのドアしか開けない」ということが本質であるためです。
(引用)
「選んだカードを変えますか?」という問題ではなく「最初の選択をご破算にして、どっちか選びなおしてください」という問題設定にしよう。そうなったら、どっちかのドアの後ろに賞品があって、それは等確率だから、どっちを選んでも確率は1/2だ。それが、最初にぼくが選んだドアか、そうでないか、というのはまったく問題にならない。そうだよね? (上にあげたWikipediaページにもそう書いてある)。
残念ながらこの主張は誤りで、問題の言い方を変えただけでは話は変わりません。これも上記の HW 君と一緒ですよね。最初に何を選択していたとかは関係なく、「司会者がBかCのドアのうちハズレのものを開ける」という事実 (Aのドアは開けないという事実) さえ確かであれば、 BとCのうち残ったほうを選べばお得なのは変わりません。
※Wikipedia の英語記事をざっと一通り見ましたが、該当箇所は見つからず……
(引用)
どうもこの一連の話では、ぼくが最初に「Aの扉を選んだ」というのがずいぶんご大層な意味合いを持ってしまうようだ。でも、「選ぶ」と言ったって何かを変えたわけじゃない。「こっちかなー」と思っただけだ。
Y先生がAのドアを選んだことを「司会者に伝えた」というのが何より重要なポイントです。この行動によって、司会者は (Aを除外して) 必ずBかCのどちらかしか開けないという状況に立たされるわけです。
https://cruel.hatenablog.com/entry/2022/10/30/214634
多分この記事で引っかけたいのは
① ボクがAを選んで、司会者がCを開ければ、Bの「確率」が2/3になる
② ハギーワギーがBを選んで、司会者がCを開ければ、Aの「確率」が2/3になる
AとBがそれぞれ2/3になっちゃったー
あれれー、おーかしーぞー
という誘導だろう
①と②は別の話だからだ
全くもって正しい
① ボクがAを選んで、司会者がCを開ければ、Bの「確率」が2/3になる
② ①の後に、ハギーワギーが選ぶ場合、Bの「確率」は1/2になる
あれれー、おーかしーぞー
なんて言わないよな
物理世界の扉Bには変化がないのに「確率分布」が変わってる、すわ大事件だ、とか思わない
を書いた増田です
sds-page 一意性が担保されてればリアルと結び付ける本人証明は不要かな。匿名性も実現できるし。ガス代も登録時に100回くらい発言できるだけ配布すればあとは自身の発言NFTを売って稼ぐとかでもいい
少し考えてみた感じ、そのプラットフォーム自体に本人証明が無くても、発言した本人が任意で他のプラットフォームと紐づけて「誰がそれを言ったか(議論においては当面重要な要素だと俺は思ってる)」が分かるようになれば俺としてはオッケーな気もするので、ちょっと検討してみるよ
まあとにかく検討はする
発言NFTで稼ぐっていうのも最初は「ん?」ってなったんだけど、やりようによっては書籍とかでクローズドに主張を展開して稼がれるよりよっぽど健全かもしれないし、人も集まるかもな
正直個人的にはNFTまわりと元記事の要件絡めると(本人証明無いとしても)実現可能性が全く見えなくてすげえハードル上がるんだけど、要件は絶対じゃないし、面白そうだしやるよ
cinefuk 議論と言いつつチーム戦でワーワーやって、荒らし行為や恫喝・脅迫も出て「皆が立ち去ったあと最後まで立っていたものが勝利者」みたいなBBSが大多数。議論には公平な調停者・司会者が必要で、そのモデルは裁判所では
個人的にはプラットフォームの作り方・在り方次第かなと思うので、細っちょろい腕の見せどころ
法曹とかの専門家じゃないので間違ってたら本当に申し訳ないしボロクソに指摘して欲しいんだけど、裁判所は議論の場として参考になるところとならないところがあって、一概にモデルにはできない
なんかは参考になる
なんかは参考にならない
一応補足しとくと、裁判所を悪く言ってるわけじゃないし、参考にならないところも「じゃあどうしよう」って考える材料にする
公平な調停者・司会者を獲得するには、まず「公平な調停者・司会者とは?」の議論をちゃんとするところから始めなきゃいけないと思う
それは議論の場を作った次のフェーズの話になるので、現状のフェーズでは個人的には不要
そもそもモデルって言葉自体がすげえ多義的だから、俺の解釈違いで「参考にできるところだけ参考にすればいいんだよ」っていう話なら承知した
俺みたいな色んな方面で素人な奴が一人で作るより、色んな人がそれぞれの立場で各々の考える「みんなに議論を促す場」を作って欲しいと思ってずっと増田に書いてる
なんでそんな議論させたいの?みたいな話は↑の元記事の方に書いてるので読んで欲しい
そんでツッコミどころあったら教えて欲しい
さっきYoutubeでabemaの沖縄基地問題を討論する番組をみてた。
ひろゆきVS基地反対派の論客3人で基地問題を議論する、みたいな番組。
上記4人にプラスで司会者と第三者的なポジのコメンテーターとしてヨッピーと若い女性とサヨクっぽい若者がいる、そんな構成。
番組の中身はひろゆきがひたすら詭弁を弄するだけ、一方の反対派論客3人はそんな中二論客ひろゆきすらまともに制せない話下手、グダグダと話が堂々巡りして時間切れ、っていうくだらないものだったのでどうでもいいんだけど。
ショックだったのはヨッピーがずっとひろゆきを擁護してたんだよね。
序盤で、最初にひろゆきが言い分をかたる、次に反対派論客が言い分をかたる、その次に第三者ポジのコメンテーターが感想をいうって流れで、
若い女性はひろゆきの理屈と反対派の感情、どっちも汲み取るわりと中立的なコメントをしてたんだけど、
その次に語り出したヨッピーがひたすらにひろゆきを擁護し始めるの。
「ひろゆきさんは本当はこういう風に考えててああいうことをしたんだと思うんですよ」
とか、ひろゆき本人を目の前にイマジナリーひろゆきを語りながら擁護してて、さすがにひいた。
イマジナリーひろゆきの大便ができるほど、ひろゆきのこと理解してるってどれだけ好きなのよ。
まさかこんなところで幻滅するとは思わなかった。
(その3)こういう企画について
そういうえば平日19:00から始まったんですよね、残業おつであります。
メーカー同士がバトったり険悪ムードになったら面白いのにとか期待しましたが、司会者全権の無難な進行だったのですごく平和だったです。
淡々としすぎて会議みたいだったので次回はもっとヒートアップしてほしいです。
・音声
マイクや収録環境の違いが如実に出ているので、できればリハーサルもして下限をさだめてほしい。数ヶ月前とかだとエアコンの音も入っていたであろうし、そんな音拾うと地獄
・動画
「お客様は神様です」について
https://www.minamiharuo.jp/profile/index2.html
「三波春夫」といえば、『お客様は神様です』というフレーズがすぐに思い浮かぶ方が少なくないようです。印象強くご記憶いただいていることを有難く存じます。
ですが、このフレーズが真意とは違う意味に捉えられたり使われたりしていることが多くございますので、ここにちょっとお伝えさせて頂きます。
三波本人が生前にインタビューなどでこのフレーズの意味を尋ねられたとき、こう答えておりました。
『歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払ってまっさらな、澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。ですからお客様は絶対者、神様なのです』
歌手として歌を歌う、「セリフ入り歌謡曲」や「長編歌謡浪曲」で歴史上の人物や物語を歌い語る、その折の三波春夫の心構えを表現した言葉であり、お客様に歓んでいただくことを歌手人生の第一義として追及して生きた、三波春夫らしい心情を表したものでした。
また、三波春夫の舞台をお客様が楽しみにお越しになり、三波も一所懸命に舞台をつとめるといった、楽しさや高揚感がいっぱいの、歓び合う場での思いを表したものでした。
そしてその始めは、「お客様は神様です」という型にはまった言い方ではありませんでした。いきさつについての本人の著述を最後にご紹介いたしますが、“お客様を神様とみる”という心構えであることを舞台の上で話したことが始まりで、それは芸能生活としては22年目、歌手デビューから数えると4年目の1961(昭和36)年のことでした。
その後、漫才トリオのレツゴー三匹さんが「三波春夫でございます。お客様は神様です」という表現を流行させて、「お客様は神様です」という言い方が世の中に定着したというのが経緯です。
三波にとっての「お客様」とは、聴衆・オーディエンスのことです。また、「お客様は神だから徹底的に大事にして媚びなさい。何をされようが我慢して尽くしなさい」などと発想、発言したことはまったくありません。
しかし、このフレーズが真意と離れて使われる時には、「お客様」は商店、飲食店、乗り物のお客さん、営業先のクライアントなどになり、「お客様イコール神」となります。
例えば買い物客が「お金を払う客なんだからもっと丁寧にしなさいよ。お客様は神様でしょ?」という風になり、クレームをつけるときなどには恰好の言い分となってしまっているようです。店員さん側は「お客様は神様です、って言うからって、お客は何をしたって良いっていうんですか?」と嘆かれています。
また、クレーマーやカスタマーハラスメント問題を取り上げている番組などでは「“お客様は神様です”というのがありますからね」と、真意を紹介することなく引き合いに出されることもあります。
このようなフレーズへの誤解は三波春夫の生前から有りましたが、言葉や文章などでの短い説明ではこと足りないと思うのは、生前の三波春夫も、現在の私もです。説明となるものを挙げるとしましたら、三波春夫のライブをご覧いただいて心意気を感じ取っていただくことだったのかもしれません。
“雑念を払って澄み切った心で歌う”というような心構えに至ったのには、三波春夫のそれまでの人生経験が土台としてありました。
16歳で初舞台を踏んだ浪曲の世界は、芸がまずければ「下手くそ! 聴いてられないぞ!」と、お客様が舞台に上がって来てサッサと幕を引いてしまわれるような、目や耳の肥えたお客様ばかりでした。幸いに途中で「やめろ!」と言われたことはなかったそうですが、舞台に立つ時は常にお客様との真剣勝負でした。
20歳では応召して陸軍に入隊することとなり、戦場を駆け巡り、終戦後はシベリアで捕虜となり、4年間の抑留生活を送りました。
抑留中、絶望の中にある仲間を励ますために、また自分自身が希望を持って生きるためにも、時間を見つけては一所懸命に浪曲を語って聞かせ、皆で演劇も創りました。藝で、いかに人に喜んでいただけるかを徹底的に追及し始めたのは、このときからでした。
戦後は浪曲の世界に戻り、33歳で歌謡界に転向して歌手となったのですが、プロとして藝を向上させるには自分自身の心を磨き、鍛えてゆかなければならないと思い、“求道者”と言われるほど真面目に生きました。男性歌手初の和服の歌手であり、歌手が座長の芝居と歌謡ショーの大劇場の1ヶ月公演の一番手であったことを始め、前例が無いなどということは恐れずに、「常に新しい藝を、新しい作品を」をモットーにしておりました。
永六輔さんは三波春夫のことを「歌う学者」と呼んでくださいましたが、酒タバコは嗜まず、空き時間は本を読み、作詞やエッセイ、歴史本を書くために原稿用紙に向かっている人でした。
笑顔がトレードマークのようでしたが、いつも人に笑顔を向けられる自分であるようにと、心がけていました。日常、腹の立つこともありますし、不愉快な思いもしますが、そのまま仕事に入ってしまっては良い舞台はつとめられません。ですから、心の持ち方のスイッチをいつでも切り替えて笑顔が出来るように、と努力していました。
これらは、若い時に先輩から「普段の暮らし方が舞台に出るんだよ」と教えられたことを心におき、より良い舞台をつとめられるように、お客様に歓んでいただける歌手であるために、の切磋琢磨でした。
三波春夫が藝一筋に生きた姿勢は、DVDなどでお目にかける舞台などに表れているかと存じます。ご興味がおありになりましたら、どうぞご高覧くださいませ。
最後に、三波春夫自身が「お客様は神様です」について著述している文章をご紹介させていただきます。
三波春夫著『歌藝の天地』
(1984年初刊 2001年文庫化 いずれもPHP研究所)より
「お客様は神様です」の発端
お客様は神様です」という言葉が流行ったのには、びっくりした。よく、この言葉の真意はどこにあるのかと聞かれるが、私も、その答えに困ることがある。テレビなどで、短い時間で喋るには、うまく説明が付かない。
皆さんのほうでは、面白がって、「お客様は仏様」だの「うちのカミサンは神様です」とか、「選挙民は神様じゃ」などといった言葉になって広まっていった。いやはやどうにも賑やかなこと。
そのあげくに、「こんなふうに言われるのは、どう思います?」とくる。
しかし、振り返って思うのは、人間尊重の心が薄れたこと、そうした背景があったからこそ、この言葉が流行ったのではないだろうか?
私が舞台に立つとき、敬虔な心で神に手を合わせたときと同様に、心を昇華しなければ真実の藝は出来ない―――と私は思っている。つまり、私がただ単に歌を唄うだけの歌手だったらならば、きっとこんな言葉は生まれなかったと思うのです。浪花節という語り物の世界を経てきたからではないだろうか。
つまり、浪花節の台詞の部分は「瞬時のうちに一人で何人もの登場人物を的確に表現」しなくてはならない。そうしなければ、決してドラマは語れないのである。
われわれはいかに大衆の心を掴む努力をしなければいけないか、そしてお客様をいかに喜ばせなければいけないかを考えていなくてはなりません。お金を払い、楽しみを求めて、ご入場なさるお客様に、その代償を持ち帰っていただかなければならない。
お客様は、その意味で、絶対者の集まりなのです。天と地との間に、絶対者と呼べるもの、それは「神」であると私は教えられている。
あれはたしか、昭和三十六年の春ころ、ある地方都市の学校の体育館だった。
司会の宮尾たかし君と対談の際にこんなやりとりがあった。
「!?」
「こんないいところへ、何故もっと早く来なかったんたろう、と」
ここで、お客様はどっと笑ってくれる。ここまでは、昨日通りの対談内容。
すると、宮尾君はたたみかけて、
ウワーッと客席が歓声の津波!私ははっとしたが、宮尾君もびっくり。客席と私の顔を見比べて、
「カミサマですか」
「そうです」
「なるほど、そう言われれば、お米を作る神様もいらっしゃる。ナスやキュウリを作る神様も、織物を作る織姫様も、あそこには子供を抱いてる慈母観音様、なかにゃうるさい山の神・・・・・・」
客席はいっそうの笑いの渦。その翌日から、毎日このパターンが続いて、どこもかしこも受けまくった。宮尾君は、お父さんが落語家であり、本人も研究熱心だから、司会者としても一流。漫談もうまい。
こうして、このやりとりを続けて全国を廻るうちに、レッツゴー三匹が舞台を見て、おおいに流行らせたのである。
追記:
“翌日から、毎日このパターンが続いて…”とありますが、三波と宮尾さんが自発的にしたのではなかったのです。山陰地方を廻るツアー中のこの出来事でしたが、”三波春夫が、お客様を神様だと言う面白い場面があるよ”という評判がすぐに広まり、各地の主催者さんから「あの場面、必ずやって下さいね。お客様も待っていらっしゃいますから」と言われ、連日この2人のトークの場面をやらなければならなくなった、というのが真相です。
少し前から母は「手をかざせば病気が治る。病院は人間を薬漬けにして金を貪っている」と度々息巻いていた。その日は日曜日だったので家でゴロゴロしていると、突然「今からセミナーに連れていってあげる!」と外出を促された。
「興味がないどころか普通に気色悪い、キモい宗教ぽいし。」と言うと、母は「宗教じゃない!!」などと烈火のごとく怒り出した。こちらも反抗期真っ盛りだったのでバチバチに言い争った。雌雄を決したのは母の「来ないなら今月お小遣い無しだから!!」発言だった。当然反論したが、バイトも出来ない中学生にとってお小遣い無しは非常に堪えるものだった。
セミナー会場は民家と少し離れた山の麓にあった。中へ入ると広いホールがあり、他の参加者は50人ほどで老若男女様々だったが私が最年少だったように思う。まず分かったことは、この集まりは「新規信者獲得キャンペーン」ということだった。既存信者1名につき最低でも1人は知人を連れてこいというノルマだ。母は社交的な性格だったので友人は多いはずだが…。
司会者の挨拶が終わると、突如「では皆様、宇宙の創造主、天主様への祈りを捧げましょう」と言い出した。その後「我々の事をカルト宗教と呼ぶ人がいるが、それは全くの誤りです」と言っていた。次に壇上に男女5人ほどが上がり、「生まれつきのひどいアトピーがハンドパワーで治った」「それまで何年も病院に通っていたのがバカみたいだった」「病気が治って運気も上がり良い会社へ就職できた」「家族の癌が治って家族仲も深まった」とそれぞれが笑顔で語ると会場全体が拍手に包まれた。
セミナー開始前は「本当にパワーなんてあるの?」と不安げな様子の人たちも数人いたのだが、そんな空気は完全に消えていた。周りを見渡すと皆一様に笑顔で話に聞き入っていた。「何でも治るんだ!」「すごい!」と顔を見合わせて笑う人たちもいた。ああ皆洗脳されたんだ、とすぐに悟った。すぐにでも会場を飛び出したかったが、山の麓でバスもなく母の車でしか帰れない状態だった。そもそも会場を飛び出たら、信者たちに囲まれ、取って食われるのではないかという思いもあった。当時14、15の子供だった私にはこのセミナー会場が異世界や魔境のように思えた。私もしっかり心酔したように取り繕って、セミナーの終わりを待つより他には無かった。母がカルトにはまった理由が今なら分かる。兄が病弱で1年ほど入院していたことがある。それがちょうどこの頃だった。ちなみに70万円の受講料でハンドパワーを得られるそうだ。
セミナーから約1年後、叔父が亡くなった。末弟で歳が10ほど離れており、世話焼きな母はそんな弟をとても可愛がっていたらしい。叔父はまだ若かったが、癌が見つかったときには相当進行していた。母は叔父の病室で手かざしを行い「癌はこれで治るのよ」と病室にいた叔父の奥さんにも言ったようだ。当然そんなものの甲斐もなく叔父は亡くなった。奥さんは年も離れた義姉の奇行に何も言えなかったのだろう。葬式後、奥さんは私たち(=叔父家系)とほぼ絶縁状態になった。それでも母は甥っ子(叔父の子)を不憫に思い、クリスマスには甥っ子宛にお菓子を送ったりしていたが一度も電話すらかかってこないと言う。
今も母の洗脳は解けていないどころか、今度はコロナはただの風邪やら人類削減のための人工ウイルスやら支離滅裂な事を言っているが、もう私も疲れ果ててしまったので放置するより他には無い。最近は母が死んだら葬式には一体誰が来るのだろうかとふと考えてしまう。