ハギーワギーくんは最初、Bのドアを選んでいた。もちろん、場合によっては司会者がBのドアを「ハズレでした」と開けてしまう場合もある。
場合で答えが違ってくるはず。
このとき正解がA、B、Cそれぞれである確率は回答者の選択とは独立なので1/3。
次に「司会者がCを開けた」という事実から導かれるのは「正解はAかB」ということなのでA、Bともに1/2にしかならない(前者の場合との違いは、Aも司会者によってランダムに選ばれる対象にあるかどうかということ)ので選択を変えても変えなくとも同じ。
個人的に
あなたは当然、ハギーワギーくんにも選択を変えろと助言する。つまり、BのドアよりもAのドアのほうが確率が高いぞ、と言うわけだ
の部分が引っかかっていて、おそらく山形さんにとってはこの例を出して表現したいのは、「偶然」Cはハズレで司会者も選んだとき、司会者がドアを開ける前に何も知らない状態でBを選んだHW君だけ確率が2倍になるのはおかしいという考えなのだと思う。しかしその結果となる前提として「司会者がAを選ぶことはない」なら確かに2倍になるが、「HW君と山形さんのドアもハズレの場合、司会者が開けうる」なら確率は上がらないという直感は正しい。これがはっきり明文化されてないので山形さんがどちらを意図しているのかわからないというのが自分の感想。
こんにちは。確率論が大好きなJKです。 「モンティ・ホール問題」についての山形先生のブログ記事 https://cruel.hatenablog.com/entry/2022/10/30/214634 が面白かったので、アンサー増田を書きたい...
ちゃんと前提を共有していないと一つの答えにはならないはず。 山形さんのプログには以下のように書いてある。 ハギーワギーくんは最初、Bのドアを選んでいた。もちろん、場合に...
そう。 司会者が正解を知ったうえで行動していないと、モンティ・ホール問題は成立しない。
なるほどわからん
だいたい合ってる
司会者からは最初のAが除外されるのに大層な選択じゃないって元の趣旨よくわからんな。一人二役の想定のほうがわかりやすいだろうか
>「想う」だけでは世界は変えられず、ちゃんと言葉にして伝えなきゃいけないんですね。 この一文がとても偉い。 説明として正解であり、倫理として順当であり、皮肉として痛烈...
数学的なことはよくわからんが HWが選んだ扉だろうと外れだったら司会者は問答無用で開ける可能性があるよということか バラエティ的には二人が選んでないかつ外れの扉を開けるはず...