はてなキーワード: 二者択一とは
ホテルニューオータニの件。立食パーティーの相場というものを分かっていない人たちが多すぎる。
よくやる。
大学生の卒業記念パーティーでも3500円~4500円でやったことがある。
案外安い。
まず、5000円という値付けだが、これは「5000円を超えるといろいろ会社や組織で参加したことを報告し、さらに総務と相談せねばならない」という人たちが山ほど出るため、5000円でやるというのはホテル業界や立食パーティー業界では、「あ、なるほどね」とピンとくる値段だ。
この値段でできないと思うやつは、素人か馬鹿かの二者択一である。
さて、ホテルのルームサービスの価格や銀座九兵衛の見積もりでもっとかかるはずだというのはどうか?
これも愚かである。
立食形式のパーティーの値段は大勢を一気に出すから安い。しかし、ルームサービスとなると同じ料理でもめっちゃ値段が跳ね上がる。誰がこんなの頼むんだよレベルに跳ね上がる。これも常識である。同じ料理を厨房で食べるのの値段とは比較にならない。
銀座久兵衛に至っては、「引き受けてません」というのだから論外である。
ホテルの厨房はプロであり、人数の規模と価格を決めてもらえれば、どんなホテルでも、使ってよい食材と料理の点数、会場を選定して出す。
唐揚げを増やすというのは常套手段で、「安い、ボリュームがある、揚げ物」という安いメニューの定番である。
ケチるときに唐揚げを出してくるので、唐揚げが出てきたら「あ、ケチったな」と思っていいのは間違いない所である。
しかし、
というか、もっと安くできる。
それだけは言っておきたい。
本当に。
報道や各種メディア、個人が様々な媒体で伝えているこの事柄に対して、私個人のごく私的な見解など、どうしようもない話の一部になるのだろうけれど、つらつら書いてみようと思う。
・検閲
今回発生した問題は検閲の問題ではない。現在紙面やネットで騒いでいる検閲という問題は、当事者の手を離れた部外者による場外乱闘であった。扇情的な展示に対して、権力を扱う不用意な政治家が、自制せず権利を侵害する発言を行ったことは大問題であるが、ここまでくるともはや展示云々ではなく、国家、自治体による権利侵害(の実行又は脅迫)という、大事な問題だが、別方向の問題として切り離して考えるべきで、後述する問題を覆い隠してしまうことになる。展示を取りやめたのは、大量の抗議や脅迫、犯罪予告により、芸術祭にかかわる方々の安全を確保できなくなったという状況に陥り、該当展示の実行委員会(実行キュレーター)の同意なしで中止に至ったという顛末と理解している。
芸術市場が大きい欧米諸国に対し、日本国は元々芸術品の売買に対して諸国のような減税優遇措置をとっておらず、バブル期を除き、民間のギャラリーを経由した売買や、流通操作で伝統工芸品を大型百貨店の展示場で、国内のみ通用する相場で販売する程度であったが、バブル期~90年代の大型公共投資の連続からハード面での地域振興策が資金、コンプライアンスの両面で実行が不可能になった自治体における「少額で、短期間で既存のインフラを活用でき負担が少なく、運が良ければ国際的な知名度を上げることができる。」ツールとして、この10年雨後の筍のように芸術祭が乱立する事態となった。そこでは、ノウハウのない自治体が、自称地域文化の担い手である新聞社に丸投げ、そこからコネ採用された力のないキュレーターは、自身の貧弱なコネクションで囲い込んだ微妙な作家しか呼べず、投下した税金の割に貧相な芸術祭になった場合。自治体が運悪く山師に金を預けてしまい、多額の不適切支出で泣き寝入りになった場合。など皆さんが思っている以上に税金を使用したイベントにはトラブルが多い。税金が投入されるイベントは前提条件として・補助金申請等の手続が煩雑・大小の自主規制や、地域ルールに縛られる・税金が原資なので、疲弊した財務状況の自治体では開催不能、批判を招く場合がある。税金は芸術より生活政策に資金が回されるのは当然である。所詮流行りの水物なのだが、皆さんが思っているより所謂コスパの良い地域振興策なのでなくならないだろう。
今回の問題では、アートと異なる展示がなされているという意見が多く出ているが、大きく表現の自由と括られる中でも、その自由の元に「どの媒体で」「どのような手段で」「どの程度の深度で」、成果物として表現しているかは人それぞれ、所属する社会により異なるという点。またアートは政治と不可分であるが、極端な扇情(アジ)を行わなくとも、その行為がそもそも自由を行使しなければ表現できない、自由で平和な状況でなければ創作活動はできず、人の創造性を発揮できない点が大前提であり、自由の中で個々人が世界との関わりの中で何らかの美醜混じった真理を見つけ、それを昇華したのがアートとすると、今も表に出ない問題の一つ、表現の自由を行使する媒体と手段の衝突という背景が見えてくる。
新聞社や論壇を中心とするジャーナリズムは、文字を用い、抽象化している諸概念を文章化し、権利と自由を、守り、啓蒙し、扇情したりするわけだが、小説などと異なり「直感的に察する/察させる」機能は弱く、相手を文字化、文脈という論理化してしまった問題に対し、「同意するか」「同意しないか」の二者択一を求めてしまう。そして問題となった展示は、実行委員会の多くが学者又はジャーナリズム出身という状況で、同じ表現の自由でも、性質が異なる表現を行ったことが原因にあり、一般市民が考える「アート」とイコールにならなかった。「これはアートではない」という声である。表現はしているが、アートではないと。
アーティストと名乗る作家にも問題がある、この「ステートメント芸術」と揶揄される表現は、業界に詳しくなれば詳しくなるほど根深く、呪いともいえる。
アートという行為、物質/空間/映像/音楽で意図が伝わるよう、意識を特定のベクトルへ向けるよう誘導し、表現しなければならない所なのだが、その実力がない作家の中に、延々とそれらしい説明文を付けて意味づけする行為や、文脈という補助要素を主要素に持って来て、実態だけを見ても理解不能となる。そのような作家は大体退場していくのだが、言葉が主戦場のジャーナリズム界隈と親和性が高いので、変な形で融合してしまうことがある。
「文脈を追うのが現代アートだ」という解釈の誕生である。一面では事実だが、全てではない。
ビジネスの世界でこの行為を言い換えた表現としては「ストーリー」という言葉がある、そしてこれを最大限活用した米国の企業、セラノスの末路は多くの人を巻き込み凄惨なものであった。
・何が問題だったのか
①監督が芸術キュレーターの経験がなく、自身の分野であるジャーナリズムの文脈で解釈した表現を、芸術祭にねじ込んだ為、酷く食傷を起こしてしまった。
②食傷を起こしてしまった後の対応が、構造を理解している人の不足で収まっていない。
①食傷を起こした理由は長々と書いた。経緯として自分たちが表現の自由の最前線で、他の作家は何も考えていない。ように捉えられてしまうキュレーション(自由の世界におけるジャーナリズムの優越性)をしてしまったのが原因にあると考える。結果、津田氏がFM番組で発言したように「自分一人ならナイフで刺されてもいい覚悟だが、関係のない人を闘争に巻き込んでしまった」という発言につながっている。
表現は自由であるから、闘争を持ち込むなとは言えないが、徹底的なゾーニングと仕掛(言語化できている主張表現に容易にアクセスできる導線を作る)ことが必要であった。言語化できている(と思われる)主張表現に対して、実態が追い付いていなかったのではないだろうか。
不特定多数の威圧行為は、少数で行う創作活動にとって凶悪な暴力であり、過去も多々あり、これからもなくならない。すべての事柄に寛容な社会など来ないし、永遠に付き合わなければならない。
②をわざわざ書いたのが、今回の騒動で最も被害を受けている、他の参加作家に対して謝罪と対策を行っているのかよくわからない状況だからである。
・誰が最も被害を受けたのか
昨日声明文を出さざる得ない状況に追い込まれた、他の参加作家である。それぞれの表現を深化させて今日を迎えているが、キュレーターがバランスを取らず、独自にプレイヤーとして創作活動を我田引水した結果。必要のない状況で、自身の作品を見てもらうという重要な事柄を達成されないまま原理原則論の確認や主張を行わされたのは、イベントの主催者として責任が重大である。表現の自由は大事だと言うに決まっている。また、作品を撤収せざる得ない状況に追い込まれた海外からの参加者に対して、展示機会を奪った結果になった事も忘れてならない。マスコミが何をキーヴィジュアルとして記事にするか理解して、扇情的な人形を配置しているのは明白で、記事を見た輩が抵抗/抗議を通り越して、挑発と解釈してしまった訳である。撤収した2人は、必要のない場面で・積極的に日本側の行為に抗議を行う・無視した場合に自国内で起きている扇情的民族主義の標的になることを避ける。2者択一の判断に迫られた。
昨日声明に協賛したのは参加作家全員でないだろう、検閲を受けたわけでもない、こういうキュレーターのミスによる騒動に対してのスタンスは作家ごとに異なるのは当然である。
・なぜここまで注目が集まったのか
芸術は本質的に生活必需品とは言えない。生活環境が改善し、可処分所得と余暇がある状況下で初めて人は関心を持つようになる。今の日本、問題は起きているが、ネットで百家争鳴する位この国は文化的に成熟しており、得体の知らない世界に関わりを持ちたい気持になったのは素晴らしいと思う。物事の全ては飛び込んでこそ妙が分かる。威圧や脅迫はださく醜悪である。そしてアートはこんな長文も飛び越えて一瞬であなたの感性に突き刺さる力を持っている。
海猿の映画がすぐに思い浮かぶが、救命モノでよく見る「二者択一でしか命を救えないとき、あなたはどっちを選ぶか」
という議題がある。大体は「どっちも救う!」なんだけど、そりゃそうしたいよ、でも出来ないから悩んでんでしょ……って毎回もやもやしてしまう。
ハンターハンターの試験では「答えは沈黙」なんだけど、いや、悩んでるし……って毎回もやもやしてしまう。作中でもあったけれど、いつかは答えを出さなきゃいけない。答えを先送りにしてるだけじゃんと。
言いたい事はわかるんだ、いつも悩んで、何が価値かを考えろ、いつも悩んで悩み続けろって。でもやっぱり答えが欲しい。
みんなも同じ気持ちを持っていたんだろうと思う。だからこそ、進撃の巨人のように「何かを得るためには何かを犠牲にしなきゃいけない」という思想の作品が増えていったのだと思う。
でもそれが行き過ぎて最近、「犠牲を出せば何かを得られる」みたいな思想になっている。仮想通貨が流行った時も、「リスクをかけなきゃ利益を得られない」と言いながら、
崖から飛び降りてる人を何人も見た。そしてそれを自業自得と見つめる人も。二者択一という言葉を見た瞬間、「どっちかを切り捨てなきゃいけない」という強迫観念に支配されてるように思えた。
約ネバの孤児院脱出編は、それらに対する一種の答えを出してるんと思うんだ。
「二者択一でしか命を救えないとき、最後まで諦めない。最後の最後までダメだったら見捨てる」
簡単なようだけど、海猿は「最後まで諦めない」しかできていなかったし、それ以降はそもそも初めから諦めていた。
約ネバの主人公は、最後まで諦めなかったし、無理だったら自分たちだけで行くという決断も(友達によってだけど)できていた。
それでもアッと驚く方法で皆で脱出し、読者に諦めない事の大切さを伝えて見せた。それだけじゃなく、行く先々で出会う「二者択一で即切り捨てる人」の心を動かし、
「皆を救う」という選択によって、自分たち自身も救われていく事になる。
ある意味「皆を救わなければ自分は居なかった」という呪いをかける事で、救われてきた。もちろんそれによって全滅する恐れもある。
現実世界で、僕たちは皆誰かに生かさている事を忘れて、まるで何かを切り捨てて生き残っていたような顔をしている。
そもそも「皆を救う」事を諦めなかったからこそ、薬が出来て、一応植民地支配を免れ、一億総玉砕まで行かなかったんじゃないかと。(ここら辺はたとえとして、実際はどうかは今は置いといて)
それを忘れて何を切り捨てるかばかり考えたら、たぶん自分も、世の中も何も無くなってしまう。
勿論、アメリカのアフガンゲリラ戦で、アメリカ軍の「同胞は見捨てない」というルールでゲリラに突っ込み、さらなる被害を拡大してしまった事案もあるけれど、
そのルールによって救われた人も多分いるはずだし、同胞を見捨てた時点で多分その軍は、国の信念は終わってしまうと思うんだ。
甘っちょろい考えではあるけれど、そんな甘っちょろい考えが思い浮かぶたび、るろうに剣心の言葉が思い浮かぶのだ。
「けれども拙者は そんな真実よりも 薫殿の言う甘っちょろい戯れ言の方が好きでござるよ」と。
俺薫じゃないけど。思い浮かぶのだ。
辞めたら今度はきっと死にます。
ニートになればメンタルは戻るなんて言う人達は、転職できるスキルがあるか、単に年齢が若いか、貯金があるか、太いパトロンがいる方なんでしょうね。
私にはそんなもの無いので、収入がなくなったストレスと、これから始まる十月(就活の書き間違いでした)への不安でさらに死にたくなるだけで終わりです。
それなら「仕事を辞めなきゃいい」と言える人が本当に羨ましい。
子供の頃の私だったら「2000万円ぐらい貯めればいいだろ」と思っていたでしょうね。
「給料が少ないなら節約しろ。生きてればいいことあるんだから一先ずは長生きだろ」とか平気で言ったはず。
今は違いますね。
月に5万ずつ貯めて慎ましく何が楽しくて生きているのか分からない人生を400ヶ月積み上げるぐらいなら、ほんの僅かの楽しみを散財によって何とか手にしながら生きる方がまだマシですよ。
酷い2択に見えますよね。
詐欺師のよくやる手口のような、ろくでもない二者択一の限定にしか見えない人もいるでしょう。
でもね、給料の上がらないようなレールの上しか歩けなくなったポンコツには、その2つしか残ってないんですよ。
細く苦しく長生きする自分か、太く少しの幸せを必死に貪る自分か、そのどちらかを轢き殺さないといけないトロッコ問題なんです。
こんな話をされたら「そんなみっともない人生しかないなら、どっちも轢き殺せよ」とふとよぎった人もいるんじゃないですか?
今の私は私に対してそういう思いでいっぱいです。
そうして思いつく贅沢の中で、一番コスパのいい贅沢が仕事を辞めることなのですが、この贅沢でもなお自分の心は満たされないでしょう。
こういうとき、お酒に逃げられる体だったらいいのにと何度も考えましたし、そうじゃなくて本当に良かったと何度も安堵して、そうして生きていると、酔生夢死のなんと素晴らしいことかと感じる次第です。
もっと曖昧に漠然と生きられたなら、無気力な無能が中途半端に理想を高めて無意味に繊細に生きることのなんと無駄なことかと。
ああすみませんこれぐらいでお開きです。
男女厨って性的アイデンティティしっかりしてるんやなって思う。
別にトランスジェンダーでも同性愛者でもないけど、「男と女も同じ人間で、性差より個体差の方が大きい」みたいな綺麗な言葉を信じて疑わずに育ったから、あんまり性別という二者択一なもので人々が分断されていると信じきれない。
みんな、男として女を叩いたり、女として男を叩いたり出来るぐらい、自分が男/女であると思えるのか、と驚く。
特に、クソオス、とかま〜んとか、性別を罵倒するためのレッテルとして使う人は、自分が男/女であるというだけで、人類の半分以上より優れていると思えるのか素直に疑問だ。そして、性別をそんなにも確固たるものとして信じ切れるところが、自分には理解が及ばない。
「性別が逆だったら叩かれる」とかも、自分と同性だから援護して、異性なら叩く、みたいな風潮から生まれているんだと思うけど、なんで、性別が同じというだけで共感しきれるのだろう?
読者の感想で作品が完成するくらいの「足りなさ」のある未完成の状態でわざと投稿します。
例えば、
・続きが気になるところで終了して読者に「この先、どうなるの?」と言わせる
・クライマックスを途中で切りあげて別のシーンにする。一番おもしろいところは読者の想像力で補わせる
・小さいボケを繰り返してから、むちゃくちゃな大ボケで終わらせて読者にツッコませる
・二者択一の選択で終わらせて「私ならこっちがいい!」「いや、こっちのほうが」と読者同士を討論させる
・ある世代では非常識だが、別の世代では常識となるジェネレーションギャップを描く
・謎と謎を解くヒントは書き、謎の答えは描かない(考察好きの読者を狙う)
・読者は他人から「こんなもの読んでるのぉ?」と後ろ指さされるような作品には感想を書きたくならないものです
・読者に名前を覚えてもらう。名前を忘れるほど長い期間を空けない
・自分の「好き」を読者に問いかけるというのを何度も繰り返す。作者の性格を覚えてもらう
・特定のひとりの読者のために作品を作る(その人からは必ず感想がもらえるように)
(4) 「読者のために書く」ということの大変さを理解する
・作者が楽しいと思って書いたものは、読者にはウケないことが多い
「描写がリアルにできた」「起承転結にキレイにまとめられた」といった作者の楽しさは創作者の目線であって、読者の目線ではない
・創作の知識やノウハウを身につけると、読者の目線から遠ざかる可能性が高まる
読者の目線を追求することが「読者のために書く」ことにつながる
・創作の楽しさ≠読者の楽しさ
・自分の中で意識して「創作の楽しさ」と「読者の楽しさ」を切り替えられることが大事
自分がただの読者だったときに何を楽しいと思っていたか?を思い出す
書いてて思ったけど、これだけじゃないな。もっとたくさんありそう
ココ過ぎたら中央工廠とアグニラータがスキップトラベル使えなくなると知ったからその前にと思っていろいろやってる
それにしてもクエストでいろいろ行ったり来たりするたびに思うけど、やっぱり最初のガウル平原の音楽が良すぎるわ
ほかが空気すぎる
せめてマクナ原生林はもっとジャングルっぽいBGMにするとかしてほしかったわ
雪山も地味に時間かかるわりに音楽しょぼいから楽しくなかったし
とりあえずクエストがんばるつもりだけど、マシーナのむらあたりからクエスト全部消化してもまわりの敵とレベル差がほとんどなくてスルーできなくなってめんどくさい
強敵と戦うときだけシュルクダンバンとかの1軍使うつもりで普段メリアリキの2軍ばっか使ってたら結局2軍が1軍みたいになってしまったw
リキのスキルが大事だって今更気づいたから一生懸命好感度あげようとしてる
めんどくせー