はてなキーワード: 二者択一とは
https://news.yahoo.co.jp/articles/d51279755a3598e54f526aba0f213ed64e730f84
・「いいね」に対して法的責任→人によって機能の使い方にブレがあり広範の意味を持つアクションに対して自由度を極端に狭めることになる。提訴事実は重く受け止めるべきだが、それを「いいね」機能で判例化してしまうことはインターネットの自由の観点から極力避けるべき
・相手が杉田水脈→こいつ勝たせるとつけ上がって後々さらにやらかしてよろしくないことになる
ネット民にさらなるマナーとルールと責任を負わされるか、アッパラパー議員がまた調子に乗るかの二者択一
この裁判始まっちゃったらどう転んでも地獄にしかならないんだけど、どうにか裁判止めたり、提訴アプローチ変えさせる方法ないですか?
ネットニュースで存在を知った「昭和時代にサラリーマンをやりたかった 」増田について、
反論している人々が余りにも頭が悪すぎるので驚いた
元増田は、終身雇用と経済成長がもたらす国民の平均所得の向上が存在するから、
まさか雇用が不安定で、平均所得も下がっていく貧乏社会が素晴らしいと考える
一部のアンチ資本主義狂人以外、反論の余地はない。と思っていたら、
何とこの増田に反論多数だというから驚いた。そして、その反論の中身を見てまたまた驚いた。
あまりにも頭が悪すぎて。
曰く、昭和はパワハラやセクハラが横行して人権意識が低かった。だの、
何でこいつらは、昭和のクソさと平成・れいわのクソさの二者択一しかないと思い込んでいるのだろうか。
まさか互いがトレードオフの関係にあると考えているわけでもあるまい。
つまり、昭和の素晴らしい点を継ぎつつ、平成・れいわで改善された点も取り入れていけばいいだけの話だろう。
何でこいつらの頭の中には、パワハラに耐えつつ給料が上がっていく世界か、貧乏に耐えつつパワハラが存在しない世界のどちらかしかないことになっているのだ。
元増田に反論しているバカは一人残らず、この根拠ない二者択一思考を何の疑問もなく前提として思考している。
Q.敵NPCが人質の首にナイフをつきつけて脅迫したものの、プレーヤーは大人しくしなかったのでゲームマスターはNPCが首筋を刺して人質が死亡したと処理した。しかしルール上はナイフのデータでは即死しないとプレーヤーが抗議する。どうしたらよいだろうか。
http://hiki.trpg.net/wiki/?%BC%F3%A5%CA%A5%A4%A5%D5%CC%E4%C2%EA
テーブルトークRPG(TRPG)において、イベント的な意図とゲーム的な処理が噛み合わない問題。あるいは、ゲームマスターとプレイヤーの解釈が噛み合わない問題。
TRPGではイベント内も含めた全ての行動を共通のルールで処理する。そうすることでイベント中であってもプレイヤーのステータス、機転、判断が絡み、思いもよらぬシナリオが生み出されるのが醍醐味だからだ。
ゲームマスター(GM)のこのイベントでの意図は人質の命とNPCの要求の二者択一をプレーヤーに選ばせるものだが、プレーヤーは何としても自らの機転で最良の結末を選びたいものだ。(そして得てしてGMもそれを受け入れる傾向にある。)
そこで考える。「よく考えたらナイフの攻撃値と人質のHPを比べると一撃では即死しないじゃないか。なら一回刺してる間に奪還すればいい」。しかしGMは言う。「首に刺したら死ぬに決まってるだろ常識的に考えて」。
TRPGにおいてイベントとはどうあるべきか、ゲーム的な処理はどこまで適用されうるか、そしてGMとプレイヤーの理想的な関係はどうあるべきかといった様々な論争を巻き起こした奥深い問題。
「あゆルートにおいて奇跡の力が発動してない栞はどうなるの?」
https://lonestarsaloon.hatenadiary.org/entry/20090410/1239302357
エロゲあるいはギャルゲにおいて、選ばれていないヒロインの問題。あるいは、誰かを選ぶと他の誰かが不幸になる問題。
泣きゲと呼ばれる類では特に顕著だが、エロゲもしくはギャルゲのヒロインたちというのは、物語上何かしらの不幸や屈折を抱えていることが多い。
主人公がそのルートに入ることによって問題は顕在化し、主人公の手によって解決するのだが、では選ばれていない他のヒロインの不幸はどうなるのか。
Kanonに限らずこういった論は意識されてはいたのだが、その構造が特に露骨に見えやすかったのがKanonだった。Kanonの世界においては、1度きりしか使えない「奇跡」によってしか救えないヒロインが複数人いる。
しかも、その選択権は主人公にある。一周目は誰のことも知らないからよかった。二周目以降、あの子の不幸がちらついて他の子が選べない。
エロゲや周回ゲーム全般、ひいては物語そのものに対する様々な解釈を生み、遡及的過去生成なんていう超絶アクロバティックまで提唱された根深い問題。
勝ち目が無くなったプレイヤーが、勝ち目が残っているプレイヤーの最終的な勝敗に、ゲームの最終目標とは無関係に、恣意的に関わってしまう
多人数対戦のボドゲや卓ゲ、TCGなどで、絶対に勝てないプレイヤーの問題。あるいは、最適解のない手番の問題。
既に絶対に勝つことができなくなったにも関わらずゲーム進行上手番が来てしまうことがある。Aを選ぶかBを選ぶか。どちらかを選ぶと、それに直結してこのゲームの勝者が決まってしまう。
どちらも自分の勝利に近づかない=理論上の最適解がありえない。それなら気分で選ぶか、ランダムに選ぶか、いっそ勝たせたい方を勝たせようかな。
それが、そのゲームをしゃぶりつくしたい理論派プレイヤーには我慢できない。お前の理論値はこうだ、たとえ勝てないとしても最大得点を取れる手はAなのだ。俺は全プレイヤーが理論値を目指すことを前提に戦略を組んできたんだぞ。
という感じで、さて誰が悪いんでしょうねと議論が始まった。
そもそも誰かが詰んでしまう仕組みになってるゲームが悪い、いや詰んでもいいけど第二の行動目標が必要なのだ、いやそもそもこれは問題でもなんでもない、究極理論値を目指さないプレイヤーがいたっていい。
やがてゲームそのものの理論や意義までもを考える人まで出てきてしまった闇深い問題。
推理小説における作中探偵の限界についての問題。あるいは、探偵が物語にとっての何であるかという問題。
推理小説がパズルであるなら、読者は問題から答えを導くことができる。しかし、探偵にとってはそうではない。作中にいる探偵には作者の出した「問題」が見えない。
つまり、前提条件がどこからどこまでで、今この瞬間には推理ができるのか?できないのか?それがわからない。
特に犯人が探偵の存在を知っていて、偽の手がかりなんかをばら撒き始めた日には、より顕著になる。何せ偽の手がかりが偽だと気付くための手がかりが必要だ。でもそれが偽でない保証は?
ちなみに、読者にとっては「これが推理小説であるという事実そのもの」&「ここから解決編が始まるよ!という作者の親切なほのめかし」によって、そこまでのヒントで必ず論理的に謎が解けることが保証されている。
ここから突き詰めて、じゃあそれでも解けてしまう探偵って何なんだ、超人なのか神なのか、単なる物語上要請されている機械仕掛けの役割にすぎないのか、いやいや探偵も人間だろう、推理小説も小説だろう、というような論争がなぜか日本でだけ始まった。
なんだかんだでその後の小説のテーマになったり斬新なトリックの基礎となったり、魅力的な探偵を生み出したりと後世に確実に影響を及ぼした、興味深い問題。
(第二問題である「作中で探偵が神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非」も面白い)
(本当はトロッコ問題とか心身問題とか異世界シャワー問題とかも語りたかったけど、アルバムとしてのコンセプトに合わない気がするからこの辺にしておく)
誰でもスクール行けば何とかなるとか、独学しないとダメとか、無理無理無理無理全部無理!
全部生存バイアス!お前は誰の意見を参考にしてもプログラマにはなれない!
他の職業を見てみろ。
そんな二者択一でプロになれるかどうか決まると思うか?技を極められるかどうかが決まると思うか?
どちらかを選べば、お前がプロになれると本当に思うか?
そんなわけないだろう!夢見てるんじゃないよ!そんな単純な話に騙されるな!
今さら何やってもどうにもなりゃしないんだよ。
できる奴の口車に乗せられるな。
他人はお前の苦しむ姿を見たがってるだけなんだ。
お前はな、もっとゆるく生きる方法を探さないといけないんだよ。
その先にお前だけのプログラミングをきっと見つけられるはずだ。
きっとお前ならできる。この人生に答えを見つけられる。
じゃあな。この世界の事、お前に任せたぜ。
フェミニズムを専門とする大学教授、千田有紀氏が『現代思想』という雑誌に寄稿した論考が、トランスジェンダーの方への差別を煽るとして批判を受けている。
(増田自身は、批判は誤解であり、千田氏に差別する意図はないと考えます)
フェミニズムや社会学を専門とする研究者からも、千田論考への懐疑・批判が出ているが、それに便乗して反フェミニズムのネトウヨもここぞとばかりに千田氏を批判している。
トランスジェンダーというマイノリティの人権を擁護するのか、フェミニズムを擁護するのか、という二者択一のトロッコ問題。
功利主義的に(最大多数の最大幸福)として考えれば、千田論考を黙認・擁護して、フェミニズムを守り抜くほうが、多数の女性の人権が守られるだろう。
千田有紀氏はフェミニズムの学会の代表幹事であるので、アンチ・フェミニズムの氏への批判に同乗することは、フェミニズムを後退させかねない。
またである。
定期的に日経新聞に載る「iPhone SE2発売か」のニュースみたいだ。
なんでも、別姓婚を希望するカップルは結婚しなければ良いと国会でヤジを飛ばしたらしい。
さらに、報道陣からその件についてのコメントを求められると無言で逃げているらしい。
なんじゃそら。
ところで、自分は2017年の衆院選を中国ブロック(岡山4区)で投票した。
なので、杉田がニュースで取り上げられるたび、自分も責められている気がして心がしんどくなる。
衆院選当時は今ほど杉田の悪名も広くは知られていなかった気がする。
それでも、なんとなく名前は知っていたし「こいつはないな」とは思っていたので、比例名簿に名前を見つけたときには「比例は自民以外で行こう!」と判断することはできた。
岡山4区は、与党候補の橋本岳と野党候補の柚木道義が毎回接戦を繰り広げる激戦区だ。
それまでの戦績はお互い2勝2敗。
正直どっちもあまり選びたくないなぁ……と思いつつ、かといって他候補に投票しても死票になるだけだし、悩んだ結果「僅差で橋本」という結論に至った(希望の党がらみで柚木の失点が大きすぎた)。
橋本vs柚木は、どうせ負けた方が比例で復活当選するし、どっちを選んでも結果は変わらないんだよな……悩んだところで無駄だったかもな……そんなことを考えながら帰路につく。
……ん?
……比例……復活……?
!!!!
ここで初めて、自分がとんでもないミスを犯していたことに気づいてしまう。
そう。衆院選の小選挙区は、落選しても比例に回ることがあるのだ。
橋本岳と柚木道義の対決は、この2人のどちらかを選択する投票に思える。
橋本vs柚木。その投票結果で変わるのは、比例候補の当落なのである。
——杉田水脈!!
もしあのとき柚木に投票をしていたとして、1票では結果は変わらなかったし、もし野党柚木が勝って与党橋本が比例に回ったところで、杉田水脈の比例当選は変わらなかった。
選挙制度についてもう少し自分に理解があれば、結果を変えることはできなくとも、杉田を議員にしたという業を背負わずに済んだわけで、非常に悔やまれる。
だけでなく、
ことを肝に銘じたい。
……比例上位の候補を落選させることの、いかに困難なことか。絶対に杉田を議員にするのだという自民党の強い意志を感じてならない。
ホテルニューオータニの件。立食パーティーの相場というものを分かっていない人たちが多すぎる。
よくやる。
大学生の卒業記念パーティーでも3500円~4500円でやったことがある。
案外安い。
まず、5000円という値付けだが、これは「5000円を超えるといろいろ会社や組織で参加したことを報告し、さらに総務と相談せねばならない」という人たちが山ほど出るため、5000円でやるというのはホテル業界や立食パーティー業界では、「あ、なるほどね」とピンとくる値段だ。
この値段でできないと思うやつは、素人か馬鹿かの二者択一である。
さて、ホテルのルームサービスの価格や銀座九兵衛の見積もりでもっとかかるはずだというのはどうか?
これも愚かである。
立食形式のパーティーの値段は大勢を一気に出すから安い。しかし、ルームサービスとなると同じ料理でもめっちゃ値段が跳ね上がる。誰がこんなの頼むんだよレベルに跳ね上がる。これも常識である。同じ料理を厨房で食べるのの値段とは比較にならない。
銀座久兵衛に至っては、「引き受けてません」というのだから論外である。
ホテルの厨房はプロであり、人数の規模と価格を決めてもらえれば、どんなホテルでも、使ってよい食材と料理の点数、会場を選定して出す。
唐揚げを増やすというのは常套手段で、「安い、ボリュームがある、揚げ物」という安いメニューの定番である。
ケチるときに唐揚げを出してくるので、唐揚げが出てきたら「あ、ケチったな」と思っていいのは間違いない所である。
しかし、
というか、もっと安くできる。
それだけは言っておきたい。
本当に。
報道や各種メディア、個人が様々な媒体で伝えているこの事柄に対して、私個人のごく私的な見解など、どうしようもない話の一部になるのだろうけれど、つらつら書いてみようと思う。
・検閲
今回発生した問題は検閲の問題ではない。現在紙面やネットで騒いでいる検閲という問題は、当事者の手を離れた部外者による場外乱闘であった。扇情的な展示に対して、権力を扱う不用意な政治家が、自制せず権利を侵害する発言を行ったことは大問題であるが、ここまでくるともはや展示云々ではなく、国家、自治体による権利侵害(の実行又は脅迫)という、大事な問題だが、別方向の問題として切り離して考えるべきで、後述する問題を覆い隠してしまうことになる。展示を取りやめたのは、大量の抗議や脅迫、犯罪予告により、芸術祭にかかわる方々の安全を確保できなくなったという状況に陥り、該当展示の実行委員会(実行キュレーター)の同意なしで中止に至ったという顛末と理解している。
芸術市場が大きい欧米諸国に対し、日本国は元々芸術品の売買に対して諸国のような減税優遇措置をとっておらず、バブル期を除き、民間のギャラリーを経由した売買や、流通操作で伝統工芸品を大型百貨店の展示場で、国内のみ通用する相場で販売する程度であったが、バブル期~90年代の大型公共投資の連続からハード面での地域振興策が資金、コンプライアンスの両面で実行が不可能になった自治体における「少額で、短期間で既存のインフラを活用でき負担が少なく、運が良ければ国際的な知名度を上げることができる。」ツールとして、この10年雨後の筍のように芸術祭が乱立する事態となった。そこでは、ノウハウのない自治体が、自称地域文化の担い手である新聞社に丸投げ、そこからコネ採用された力のないキュレーターは、自身の貧弱なコネクションで囲い込んだ微妙な作家しか呼べず、投下した税金の割に貧相な芸術祭になった場合。自治体が運悪く山師に金を預けてしまい、多額の不適切支出で泣き寝入りになった場合。など皆さんが思っている以上に税金を使用したイベントにはトラブルが多い。税金が投入されるイベントは前提条件として・補助金申請等の手続が煩雑・大小の自主規制や、地域ルールに縛られる・税金が原資なので、疲弊した財務状況の自治体では開催不能、批判を招く場合がある。税金は芸術より生活政策に資金が回されるのは当然である。所詮流行りの水物なのだが、皆さんが思っているより所謂コスパの良い地域振興策なのでなくならないだろう。
今回の問題では、アートと異なる展示がなされているという意見が多く出ているが、大きく表現の自由と括られる中でも、その自由の元に「どの媒体で」「どのような手段で」「どの程度の深度で」、成果物として表現しているかは人それぞれ、所属する社会により異なるという点。またアートは政治と不可分であるが、極端な扇情(アジ)を行わなくとも、その行為がそもそも自由を行使しなければ表現できない、自由で平和な状況でなければ創作活動はできず、人の創造性を発揮できない点が大前提であり、自由の中で個々人が世界との関わりの中で何らかの美醜混じった真理を見つけ、それを昇華したのがアートとすると、今も表に出ない問題の一つ、表現の自由を行使する媒体と手段の衝突という背景が見えてくる。
新聞社や論壇を中心とするジャーナリズムは、文字を用い、抽象化している諸概念を文章化し、権利と自由を、守り、啓蒙し、扇情したりするわけだが、小説などと異なり「直感的に察する/察させる」機能は弱く、相手を文字化、文脈という論理化してしまった問題に対し、「同意するか」「同意しないか」の二者択一を求めてしまう。そして問題となった展示は、実行委員会の多くが学者又はジャーナリズム出身という状況で、同じ表現の自由でも、性質が異なる表現を行ったことが原因にあり、一般市民が考える「アート」とイコールにならなかった。「これはアートではない」という声である。表現はしているが、アートではないと。
アーティストと名乗る作家にも問題がある、この「ステートメント芸術」と揶揄される表現は、業界に詳しくなれば詳しくなるほど根深く、呪いともいえる。
アートという行為、物質/空間/映像/音楽で意図が伝わるよう、意識を特定のベクトルへ向けるよう誘導し、表現しなければならない所なのだが、その実力がない作家の中に、延々とそれらしい説明文を付けて意味づけする行為や、文脈という補助要素を主要素に持って来て、実態だけを見ても理解不能となる。そのような作家は大体退場していくのだが、言葉が主戦場のジャーナリズム界隈と親和性が高いので、変な形で融合してしまうことがある。
「文脈を追うのが現代アートだ」という解釈の誕生である。一面では事実だが、全てではない。
ビジネスの世界でこの行為を言い換えた表現としては「ストーリー」という言葉がある、そしてこれを最大限活用した米国の企業、セラノスの末路は多くの人を巻き込み凄惨なものであった。
・何が問題だったのか
①監督が芸術キュレーターの経験がなく、自身の分野であるジャーナリズムの文脈で解釈した表現を、芸術祭にねじ込んだ為、酷く食傷を起こしてしまった。
②食傷を起こしてしまった後の対応が、構造を理解している人の不足で収まっていない。
①食傷を起こした理由は長々と書いた。経緯として自分たちが表現の自由の最前線で、他の作家は何も考えていない。ように捉えられてしまうキュレーション(自由の世界におけるジャーナリズムの優越性)をしてしまったのが原因にあると考える。結果、津田氏がFM番組で発言したように「自分一人ならナイフで刺されてもいい覚悟だが、関係のない人を闘争に巻き込んでしまった」という発言につながっている。
表現は自由であるから、闘争を持ち込むなとは言えないが、徹底的なゾーニングと仕掛(言語化できている主張表現に容易にアクセスできる導線を作る)ことが必要であった。言語化できている(と思われる)主張表現に対して、実態が追い付いていなかったのではないだろうか。
不特定多数の威圧行為は、少数で行う創作活動にとって凶悪な暴力であり、過去も多々あり、これからもなくならない。すべての事柄に寛容な社会など来ないし、永遠に付き合わなければならない。
②をわざわざ書いたのが、今回の騒動で最も被害を受けている、他の参加作家に対して謝罪と対策を行っているのかよくわからない状況だからである。
・誰が最も被害を受けたのか
昨日声明文を出さざる得ない状況に追い込まれた、他の参加作家である。それぞれの表現を深化させて今日を迎えているが、キュレーターがバランスを取らず、独自にプレイヤーとして創作活動を我田引水した結果。必要のない状況で、自身の作品を見てもらうという重要な事柄を達成されないまま原理原則論の確認や主張を行わされたのは、イベントの主催者として責任が重大である。表現の自由は大事だと言うに決まっている。また、作品を撤収せざる得ない状況に追い込まれた海外からの参加者に対して、展示機会を奪った結果になった事も忘れてならない。マスコミが何をキーヴィジュアルとして記事にするか理解して、扇情的な人形を配置しているのは明白で、記事を見た輩が抵抗/抗議を通り越して、挑発と解釈してしまった訳である。撤収した2人は、必要のない場面で・積極的に日本側の行為に抗議を行う・無視した場合に自国内で起きている扇情的民族主義の標的になることを避ける。2者択一の判断に迫られた。
昨日声明に協賛したのは参加作家全員でないだろう、検閲を受けたわけでもない、こういうキュレーターのミスによる騒動に対してのスタンスは作家ごとに異なるのは当然である。
・なぜここまで注目が集まったのか
芸術は本質的に生活必需品とは言えない。生活環境が改善し、可処分所得と余暇がある状況下で初めて人は関心を持つようになる。今の日本、問題は起きているが、ネットで百家争鳴する位この国は文化的に成熟しており、得体の知らない世界に関わりを持ちたい気持になったのは素晴らしいと思う。物事の全ては飛び込んでこそ妙が分かる。威圧や脅迫はださく醜悪である。そしてアートはこんな長文も飛び越えて一瞬であなたの感性に突き刺さる力を持っている。