はてなキーワード: 二世とは
昔は老後、自分の子どもに面倒を見てもらえるのが当たり前だった。今ほど老人の寿命が長くなかったから可能だったが、今の現役世代はそれほどお金を持っていないし老人の寿命も伸びたため、現役世代が親の介護のために親と子供の二世帯で共倒れになってしまうこともある。
やはり、子供は結婚してしまうと親よりも配偶者や子供の方が大事になる。自分が稼いだお金は自分の親よりも自分のパートナーや子供のために使いたい。
もしも、私のパートナーが子どもよりも自分の親を優先するような人なら離婚という選択肢が頭をよぎる。
今時、富裕層でもないと自分の親の生活費を援助したり介護をしたりして親を支えるのは難しいと思う。
子供が独身で、親と同居しているならちょっとした介護はできるとおもう。
子供を作ったんだから、老後の生活を子どもや子供の配偶者や孫に支えてもらおうと期待するのはやめた方がいい。
子供だって、結婚したら住宅ローンや生活費や教育費で手がいっぱいだ。介護してもらおうと思うなら潤沢な資金を子どもに渡すべきだと思う。親からせっかく自立した子どもに「大金は渡せないけど、介護してください」と親から言うのは変である。大人になった自分の子どもに色々と負担をかけるために子供を作ったのではないだろう。
子どものほうから「介護したい」「大変そうだから支えたい」と言われれば甘えたらいいと思うが。
そういうことが言える子供は富裕層か、親が富裕層というパターンである。
金持ちの親は子供から大切にしてもらえる、心配してもらえる場合が多い。親が大金を蓄えていれば、子供も安心して「何かあったら支えるよ」と言える。
令和の時代、これから生まれる子供たちに老後助けてもらおうと期待しないほうがいい。親の生活のために若い人達が犠牲になってしまうのはかわいそうだ。
もちろん法的・形式的には日本国民扱いはされるけれど、それだけで日本人に受け入れられるかどうかはまた別の話
かつて戦時中アメリカに移民していた日系一世二世は、周囲からの疑いの目を晴らすために積極的に激戦区へと志願し勇敢に戦って、戦後のアメリカでの相応の地位を得たのは知られた話
もちろん今の日本に兵役はないし、戦争になるほどの大規模な軍事衝突は起きないだろうから、自分を身も心も日本人だとアピールする努力は別のところでやらなきゃならない
そんな格言があるそうだが、まさにその通りだ。言語と方言を隔てているのは何かと問われれば、国家によってそれに公的な地位が与えられているかどうかだけで、本質的な違いはない。現に、気仙方言に翻訳した福音書をケセン語訳聖書として発表し、時の教皇ヨハネ・パウロ二世から祝福を受けた例もある。
そこで気になるのが、出版との兼ね合いだ。よく、海外文学やミステリを手に取ると巻末に「翻訳独占権取得」がどうこうと書いてあるのだが、たとえば「オリエント急行殺人事件」か何かをケセン語に翻訳することはできるのだろうか。つまり、出版社から「私たちに翻訳独占権があります」と訴えられたとしても、「これは日本語ではありません。ケセン語です」と言って反論することは可能なのか。
どう考えても東北方言だって立派な日本語だろう。しかし、「今日は海さ釣りっこしさ行ぐべし!」ならまだしも、「おぼっこさおづっこあげろでば」「あぞごにあったちかいぼっこしてしまったのっさ」という文字列を見て、東京弁の話者は理解できるだろうか。東北方言の話者をおとしめるつもりはまったくない。ただ、神奈川県で育った私に取っては、仮名交じり文でようやく何を言っているのか推測できるのが実情だ。ましてや、母音の発音が大きく異なる地域の場合、口頭でのコミュニケーションはそれなりに困難になるだろう。現実的にケセン語版が出るかどうかは疑わしいが、出版されたとしても、独占権を持っていた側は、現実的にはそれほど懐は痛まない気がする。
さて、こうしてケセン語が立派な言語とされ、ケセン語で「オリエント急行殺人事件」が出版されたとしよう。そうすると、今度は関西弁で出版したらどうか、などという話になるかもしれない。関西弁は立派な独立した言語だろうか。大阪府の人口は八百万を超え、ブルガリアを超える。というか、近畿全体を含めるなら、チェコ語話者の一千万に及ぶだろう。ちょっとした規模の言語だ。いや、もっと深刻な問題がある。もしも、ウチナーグチを日本語とは別の言語として認め、翻訳も出版されることになれば、自治や独立の問題を含めた政治的な問題にまで発展するだろう。私たちは別の言葉を話す、別の民族である、と。
もっとも、私が言いたかったのは、「おらおらでひとりいぐも」や「面影と連れて」みたいな方言文学、自分の日本語の境界がぐらぐらするような小説が読みたいな、みたいなことなのだ。特に後者は、池澤夏樹の世界文学全集の短篇コレクションで読んだのだけれど、東京方言とはまったく異なる語りを、感じ仮名交じり文にすることで、沖縄の言葉が全く分からない私にも理解できるようにするテクニックがすごかった。
そう言えば、円城塔が「プロローグ」か何かで、「古語とは外国語と日本語の間をふわふわ漂っているような印象だ」という趣旨のことを述べていた気がするが、僕にとって方言とは、そんな魅力を持つ存在だ。
トイレで下痢便をぶちまけた後日談ですが、祖母(二世帯)には便をおしっこに入れ替えて説明しました。
噴火とダム決壊の違いってある?被害的にはわからんけど尊厳的に格差ない気がするので。株、落ちちゃったな。わはは!どちらにせよ華の10代にトイレで漏らしたっていう事実は消えねえ〜
ちなトイレが詰まりそうで躊躇なく手突っ込んだのはいい思い出だし言うほど嫌悪感なかった。でもやっぱ自宅っていうのが大きいですね。公衆トイレとかでやらかしたら自殺する気がする。
数日たつと、頭が悪いのも働いてあれは本当に起こしてしまったことなのだろうか?私は悪夢を見ていたのではないか?と思うこともあるんだけど、はてなダイアリーに記録があるから、やっぱりあれは現実なんだなあ〜
コメント着いてて、大人でもやるんだ……と安心してしまいました。お互い気をつけましょう
もう夜も遅いので寝るよ
先日友人との何気ない会話でこの話をしたらとても意外だという反応が帰ってきて、その後他の友人にも話をしたら同様の反応だったので意外と知られてないのかなって思って書いてみる。
何の話かというと、韓国人による在日韓国人に対する差別意識は、日本人に対する差別意識よりもずっとひどいよということ。
もちろん全員がそうだというわけではないけど、自分が経験してきた限りでは少なくともそうだった。
例えば買い物なんかするとき、明らかに観光客ってわかると「どこから来たの?」とか「ジャパニーズ?」とか聞かれる。
そこで「キョッポ(在日韓国人のこと)」とか「ジャパニーズコリアン」なんて答えると、とたんに態度が冷たくなる。
兵役にも行かず、敵国でのうのうと平和に暮らしていると思われているようだ。
そりゃそうだ。在日が日本でどんな差別にあって、どれだけ苦労して来たかなんて知るわけがない。
日本人に対してはまだお客様という感覚がある。好きではないがお金を使ってくれる大切な存在という感じだろう。
友人たちからの反応は、一様に同じ国籍なのだからもっと受け入れられているものだと思っていたという感じだった。
とんでもない。
日本にいるときに感じる差別意識よりも、もっと露骨で冷たい差別にさらされるのが現実だ。
在日一世や二世であれば、まだ本土に知り合いや家族がいたりと変わってくるかもしれない。
しかし、在日三世の自分にしてみれば韓国も北朝鮮も、言葉もわからない知り合いもいない全く見ず知らずの外国でしかない。
別にこんなことを知ったところで何になるわけでもないのだが、在日に向かって国に帰れと言ったところでそりゃ無理な相談ですよってことくらいは知っておいてほしいかなと思った次第。
瀬戸市の愛知県陶磁美術館と瀬戸市美術館、瀬戸蔵ミュージアムに行ってまいりましたわ
事務員に送り返されたことに怒っていたりして、にゃんともかんともでしたわ
展示のため土偶にドリルで穴をあけた話も破壊にあたらないのか気になりましたわ
おそらく時代が違うのでしょうね
展示では驚くほど豊富な史料が展示されていて、そのボリュームに圧倒されましたの
土器に描かれたこぶ牛の絵などはゆるキャラに通じる可愛さがありましたわ
ピチピチの成魚ですわ
入るといきなり猫力士の土俵入り人形がお出迎えしてくれましたわ
招き鯖展も開く許可をさしあげましてよ?
瀬戸蔵ミュージアムでは瀬戸市の若宮地区で発掘された古墳時代の土器が展示されていました
福井の社会「嫁の犠牲の下に成立」 幸せ実感へ「不幸せ」に向き合う | 社会 | 福井のニュース | 福井新聞ONLINE
この記事の反応見るとはてな民の田舎像もだいぶ古いなーと感じる
もちろん田舎(に限らずだけど)今でも田舎のダメさが残っているケースはあるけれど
実はそういうのはかなり少数派になって来ていて、「田舎=男尊女卑で同調圧力激強の監視社会」みたいな価値観ってかなり古くて、そういうのは地域の特性じゃなくて各家庭の特性だと思う
そんなことを思うのも実は私自身が福井県に東日本地方から「嫁に行った」人間だからだ
義母を見てると確かにフルタイムで働きながらほとんど全ての家事をこなす完璧超人なので、きっと記事で言われてる通り「嫁が犠牲になる」のが当たり前の生活してたのかなーと感じる
ただ、自分自身や同世代(30代)の他の人がどうかと言えば全然そんなことはなく、男性側も家事育児に関しては当て付けか?と思うくらいこだわりが強く自分でやらねば気がすまないという人間が多い感じがする
男女協力して家事育児をすべきという価値観がインストールされた世代に完璧超人の母親像が悪魔合体した結果なのかもしれない
友人家族は未だに盆正月は女性が準備して男たちは酒盛りしているような家だが
そこの旦那さんは「俺ならもっと効率的にできるのに台所に入れてもらえずイライラする」と話しているくらいだ
親戚の干渉についても、最近は地方の長男だろうと核家族化が進んでいて、私の夫も長男だけど隣町の一戸建てで子供と三人暮らししてる
他の家族に関してもそういうケースが多く、同居している家でも敷地内同居や玄関以外は(下手したら玄関も)別々の二世帯住宅が多く、私達の世代では同じ生活空間で同居しているのは結構珍しい方だと思う
なので性格もあるだろうけど義両親は義両親で「息子の嫁に過度に干渉すべきではない」あるいは「自分自身が姑との関係で苦しんだ経験」がインストールされている世代なので
義両親からの干渉は少なく、なんなら実母からのLINEのほうが鬱陶しいくらい
東京で生活してたこともあるから、最初は田舎の不便さも感じたけど
ネットをうまく使えば日常生活は東京より快適なくらいだし、車必須なのもペーパードライバーだったから抵抗あったけど、子供生まれてからは「車ないと子育て無理じゃね?」と思うようになったので車社会(比較的容易に車を持てる地域)も悪くないかなと思った
雪は…まあ今はまだ物珍しさはあるけど、あと数年したらウンザリしそう…
なんにせよ私は福井に来て結構楽しくやってるし、「幸福度日本一」ってのもわからないでもないなーと感じているので
そこまでして使う理由は何?
それはおまえがそう思ってるだけだぞ。
というかこれマジレスなんだけどストロークの深いキーボードのほうが懐古厨御用達って感じしない?
その信者ってまさかiPhone以降にやってきた人たちのことじゃないよね?
Macbook Airで1.25kg、13インチMBPで1.37kgって、平均的と言っていい重さでしょ。
俺は「完成されてる」とは書いたけど「完成度が高い」とは書いてないからな。
ファンクションキーの機能をわかりやすく表示するための機能なんだから、それが出来てりゃ何かを追加する必要なんてないんだよ。
「そんなんだからこういう現状が〜」ってせめて20年前にタイムスリップしてから言ってくれ。
繰り返すけど昔からそうだよ。
Appleは「新しい使い方」を提示する企業であって「新しい技術」を提示する企業ではない。
先行していたはずのSiriはとっくに抜かれている
当初からGoogleNow(Googleアシスタント)のほうが優位で、Siriが先行していた時期なんてなかったと思うが…
「いまさら」って、Appleのマップが切り替わったのって2012年だぞ…7年前だぞ…時間止まってんのかよ…
ARKitがあるとは言えAppleはメインプレイヤーではないでしょ。
ま、AppleGlassに期待しようや。
むしろ手頃だからカメラ・センサー類を省略したり「飛び出し式」みたいな下品なギミックでごまかしたりできるんじゃないの。
touchbarもライトニングもfaceIDもペチペチキーボードも、全部時代遅れで使いづらい。どんな信者も逃げ出すような劣悪製品群になっているのに、それをどうして肯定できる?いつかよくなるから、なんて思っているならば、今の大学生にMacbookProを勧めてみろよ。検討候補にも挙がらないぞ。
俺の揚げ足を取っているつもりで、どんどん墓穴掘ってるよね。Appleは君のような「リサイクルアルミは(めちゃくちゃ重いけど)環境に優しいぜー」「touchbarは完成されているから使おうぜ」「拡張性なんてないんだから我慢して使おうぜ」という現実をみないビギナーが甘やかすからこうなってるんじゃないの?
現時点でAppleには他の企業を後追いすることしか選択肢がない。先行していたはずのSiriはとっくに抜かれているし、いまさらMap事業に乗り出すし、AR・MRは市場が活性化せずじり貧だし、他社はとっくにベゼル薄でノンノッチで手頃なスマホを出しているし、ARMで動くWinはでるし、Win10はWSL2なんていう二世代先にいってるし。
財政赤字が拡大してくると、政府は貨幣を発行して支出に充てる。貨幣を大量に発行すると市場には金があふれ、金の価値が低下してインフレが起きる。これがこれまで主流の経済の考え方だ。実際にジンバブエやベネズエラではやりすぎてハイパーインフレーションを起こして経済が大混乱に陥っている。MMTでは「財政赤字」と「民間の富」は借方と貸方のような関係なので、民間が豊かになるにはそれと同じ額の財政赤字を抱えているのが普通である、だから財政赤字を嫌がって財政支出を制限する必要はないと考える。MMT擁護派の一部の人達は「財政支出をどれだけしてもいい」と言っているがこれは誤解である。。MMTの特徴を理解してもらうためにあえて強調しているのかもしれないが、そんなことをすれば反発を生むだけだ。MMTでは「市場に存在する資源や労働力などの価値」と同じだけの財政赤字を政府が抱え、それと同じ額が民間の資産額となる。資源以上の貨幣を発行するとインフレが起きるので、インフレターゲットまで物価が上がってきたら追加発行を止めなければならない(貨幣を発行しすぎるとインフレになるという考え方は主流派経済学と同じ)。デフレの起きている現在の状況では財政赤字が膨らむことを恐れて緊縮財政にする必要はない、だからインフレが起きるまでは財政支出しろ、というのが正しい理解である。そしてこの考え方は正しい。ただし、50年前までなら。
昭和の時代、国民の大多数がマイホーム・マイカーローンで家計のやりくりにあえぎ、余裕がでればテレビ・洗濯機・冷蔵庫を買っていた。1960年(昭和35)に公務員の大卒初任給が12,000円の時、電気冷蔵庫は60,000円した。5倍である。現代の初任給20万円とすると冷蔵庫が100万円する計算だ。当時は氷を使った冷蔵庫が一般的だったし、洗濯はタライで、掃除はホウキとチリトリでおこなっており、家事を劇的に改善してくれる家電製品はみんな欲しがったのである。ご存知の通り、この時代は10年で物価2倍のインフレだ。公共事業で民間に金を落とし、経済が活発化し市中に出回る金が増えればインフレになったのである。公共投資も、例えば道路の舗装化や高速道路であれば流通の効率をあげ、上下水道や団地を整備すれば人が集まって地域が活性化したのだ。
現代はどうか。日銀はずいぶんと財政緩和しているがデフレが長いこと続いている。今は公共投資をするといっても、一通り需要の有りそうなところの道路は舗装されていて、道路を舗装しても流通効率はあがらない。既にある道路の水道管補修などでは利便性に変化がないので、経済の活性化には貢献しない。上下水道や電気もあって当たり前の時代だ。公共投資で市中に金を落とすことで若干購買意欲を高めることはできるがそれだけでは弱い。文化的にも成熟してきてマイホーム・マイカーを信奉するような時代ではなくなった今、多少金銭的な余裕ができても大きな買い物などはあまりしない。製造や流通も効率化され、安く生活しようと思えば100円ショップやスーパーの衣料品などでずいぶんと安く生活できるようになった。年金の先行きは不透明だし貯金がないと老後が不安である。このような状況では貨幣の供給が増えても、その分貯蓄に回るだけで経済は好転しない。
また、貧富の差は大きくなっている。戦後はGHQによる財閥解体などがあったが、基本的には金持ちはさらにお金を儲けるために金を使うので、富めるものはますます富むのである。貧するものは生きていくために悪条件でも仕事をせざるをえず、なかなか裕福になるチャンスは得られない。これは資本主義経済が抱える根本的な問題で、過去には革命や敗戦などで富の再分配がされることはあったが、平和な現代ではその圧力も少ない。いや戦争で殺し合いが起こるよりは遥かにマシではあるが。
19世紀からこの問題の解決策を提案していたのはドイツ人マルクスであるが、マルクスのとなえた共産主義は失敗に終わった。ソ連は崩壊したし、中国も私有財産を認めて経済に関しては自由に商売をさせ、社会主義の名の下に共産党一党独裁体制を敷いて反抗する企業は締め上げるという独裁ぶりである。大きな組織に強い権力を持たせると、腐敗して独裁化して富と権力を独占化してしまう。理想をもって最初に体制を作った時は良いかもしれないが、指導者が数回交代した後には無様なものでる。
人間が欲をもった生物である以上、これは避けられないのではないだろうか。
貧富の差が根本問題である以上、是正するには富の再分配しかない。しかし例えば巨大企業を国有化してベーシックインカムで再分配しようなんてことになると、これは失敗した共産主義の後追い自殺になるのではないだろうか。国有企業は競争原理がうまく働かず効率化されずに無駄が多くなったり、働いてる従業員がなぜか自分個人が偉いと勘違いして業務が怠慢になったりする。ベーシックインカムを行うための企業だけが富を独占化し、そこの社員でないものの人権が蹂躙されるという社会主義国家になるのではないか。
財政的にはベーシックインカムも可能かもしれないが、導入後50年100年経った後の日本は競争力をもった国でいられるだろうか。リン鉱石でベーシックインカムをしていたナウル共和国では、国内の農業・漁業が衰退した後にリン鉱石が枯れて経済的に立ち行かなくなり外国からの援助に依存している。
筆者個人としてはもういい年齢なのでベーシックインカムもらって引退したいところではあるが、未来の日本が衰退して行くのは忍びない。ホリエモンはベーシックインカムを導入しても、もらえる金額が今の年金より少ないのでみんな頑張って働いてもっと稼ぐよ、という意見のようである。果たしてそうだろうか。彼自身はは思春期に高度経済成長期を経験しているし、才能もハングリー精神もあるから成功しているんだろうが、現代の若者のどれくらいの割合の人が同じように考えるのか。働かずに生きていけたら贅沢しなくていいやっていう人は昔より増えている。ベーシックインカム二世や三世の世代にはさらに労働意欲がなくなっており、ナウルのようになってしまうのではないか。
厚生年金の標準報酬月額みたいななんの生産性もないクソみたいな事務は一切なくしてベーシックインカムに一本化して、公務員や生産性のない事務員の人数を減らしてもっと生産的なことに時間を割いてもらうっていうのは良いことだ。生産的なことが苦手で定形作業しかできないような人もいるが、定形作業自体はなくならないだろう。AIやRPAで減ってはいくだろうが。
不況を改善するために「財政赤字を気にせず財政出動する」というのは資本主義が成熟した現代では解決策にならない。財政赤字はある程度あって問題ないが、破綻したときに爆発する爆弾を抱えているようなものであり小さいに越したことはない。破綻時には財政赤字相当額の民間資産が消えるのである。問題は貧富の差にあり、平和的公平的な解決策は今のところない。俺はベーシックインカムが欲しいが、国の制度として導入するのは日本の未来の為にならないと思う。
足りなくなった生活費を入れる入れないで母と言い合いになった。
足りなくなった分を入れることは構わない、でもその前に見直すところを見直してほしいとお願いをした。
何で足りなくなったかは明らかで、二世帯住宅で暮らす弟家族の分まで夕飯を作ることや無駄に援助するから。
母と私で済むはずの2人分の食費が倍以上になり、食費に10万以上かかっている。その上、月々10万の援助。
この状況で、足りなくなったから出せはないだろうと。その前に弟への援助の金額を見直してほしいと…。
でもこのお願いは間違ってるんだと。あなたは一人、弟には家族がいる。だから協力して当たり前。
協力って、援助してるだけで弟家族からの見返りなんて何一つないし、そのしわ寄せが私に来てるだけ。
何度も何度も同じ説明をしても母には通じない、息子のために援助して何が悪いと言い張る。
最終的には生活費を出すことを渋ってるくせに、ご飯は食べるとか心苦しくないの?だってさ。
だったらもう私のご飯は作らないでくれ。心苦しいので、もう結構ですと宣言して話し合いは終わったはず。
それなのに次の日には普通に話しかけてきて、普通にご飯用意して、食べないとキレるという…。
心苦しくないのかって言われて、平気でそのご飯食べられるほど私は図太くないんだけど。