はてなキーワード: ナーバスとは
40後半に突入しもう家庭や子供をもつ希望も出世への気力もなくなり、現状維持でとりあえずは食べてはいけるけどコロナで出かけることも友達に会うことも少なくなり、うるさい辛気臭いテレビなんかも観る気も起きない、で、っていう、なんか人生が急にフラットになっちゃった。
ふさぎがちな気分の時はランニングしてどうにか健康と気持ちを保ってるけど、時々世話しに行く年老いた親がいるので好きだったジムや水泳やはどうしても感染が気になって行けない。ナーバスになってしまう。気の置けない友人達に飲みに誘われて行ってみたが感染が気になって気になって終始引きつってビクビクしていた。親がいなければもっと肩の力ぬいてコロナと向き合えるのかな?コロナに楽観的な人達にはどうしても嫌悪感を覚える。性格か?
映画や小説、漫画を見ても描かれている内容が全て他人事に思えて頭に入ってこない。あんなに好きだった音楽も聴く気にならない。体を動かしたり自然を眺めるのは気分がいいので車で軽くドライブして川辺でぼーっとするのは好きだけど。わけもなく虚しくなったり溜息ばかりが出る日常。鬱なのか?私だけなの?更年期?皆経験するの?
今は個人情報の問題があって難しいと思うが、私が子供の頃は、担任の先生から必ず年賀状が来ていた。
よく考えたら、年賀状代はおそらく私費なんだろうし、40人分近く印刷するのだって、それなりに手間がかかる。
そんなふうに、プライベートな費用と手間まで費して、教員というのは本当に大変な職業だと思う。
その点ではむしろ、教員が生徒に向けて年賀状を出す習慣というのは、無くなった方が平和なのかもしれない。
さて、年賀状は来たら基本的に返信するものである。私も担任の先生に返信していた。
そして、担任から外れた次の年からは、感謝なのか慣習からなのか、年賀状は自分から出すようになった。
すると、いつ辞めるかが問題になる。私の場合は大学生になってようやく辞めた。
逆に言うと、大学生になるまで、担任だった先生への年賀状を延々と出し続けていたのだ。
初めてもらった年賀状は幼稚園の先生からだった。なので、一番長い先生だと10年以上やりとりを続けていたことになる。
そんなに長くやりとりが続いて、微笑ましいことだって?
なぜなら、担任の先生が年賀状を送るのは、おそらく「学級通信」の延長みたいなもので、
担任としてのコミュニケーションを円滑にするためであろう。そうであるならば、担任と生徒の関係が終わったあとは、
こんなに長く年賀状をやりとりするなんて望んでいなかったんじゃないかと思うのだ。
年賀状でしか接点の無い単なる一生徒から、10年以上も年賀状を送り続けられて、果たして嬉しかったのだろうか。
「○○高校に行きました」と報告されても、多数居る教え子の一例でしかないのだ。
そんな多数の中の一情報に「嬉しい」と感じられるものなんだろうか。私が教員なら無理だと思う。
それに、この件で何が一番たちが悪いかというと、私自身の対応の仕方だ。
大学生になるまで担任だった人に年賀状を出し続けるというのは、そもそも私の本意ではなかったのだ。
他人と年賀状をやり取りできる嬉しさで、10年以上も会っていない人に年賀状を出し続けたわけではなかった。
具体的には、「担任だった先生に年賀状を出さないなんて礼儀を失している」と親に怒られるんじゃないかと思っていた。
担任の先生を想ってではなく、親に怒られるのが怖いという一心で、出したくもない年賀状を出していたのだ。
先生も年賀状を作るのは手間だったろうが、当時子供だった私には、年賀状作りなんて冬休みが憂鬱になるほど面倒な作業だった。
30代を終えようとしている私が子供の頃は、PCなんて普及していなかった。
そのため、自分で干支のイラストをクーピーで書き、「高校では○○部に入り、云々」みたいな近況を知らせる文面を考え、
ペン書きなので、書き損じにならないよう(つまり、無駄になったと親に怒られないよう)、必死に気を使って書き付ける。
そんな、夏休みの工作みたいなことを大学生になるまで毎年繰り返していた。
高校3年生の受験シーズンでも、受験時のナーバスな時期だからこそ、親に怒られるなんて絶対に嫌だと思って、
干支の絵をお絵描きしていた。そしてそれを、例えば幼稚園のときの先生に送っていたのだ。
こうして、改めて今になってよく考えると、本当に頭のおかしいことをしてたんじゃないかと思う。
高校生になっただろう相手(男性)が、小学生みたいな干支のイラストで毎年年賀状を送りつけてくる。
きっと、なんでこんな稚拙な絵を延々と送り続けてくるのか、新年早々の疑問になっていただろう。
などと客観的に考え出すと、我ながら恥ずかしいことをしてきたと、枕に顔を押し付けて叫びたくなるほど後悔する。
受験勉強をセーブしてまで、やりたくも無いお絵描きを10枚近く、きっと存在しなかった親の怒りを恐怖するために書き続けていた。
そう、この恥ずかしい行動の原動力は「親への恐怖」だったのだ。ここがいまだに、自分のことながら意味がわからない。
どうして、そこまで親に恐怖していたのだろう。別にそこまで仲が悪いわけでも無かったのに。
12月になると、特に希望もしていないのに、親から毎年無地の年賀状を10枚渡されて、
それを無駄にすると怒られると思ったから?それにしたって、「もう高校生だから」と断ればよかったのだ。
本当に、私は頭のおかしなことをしてたと思う。「親への恐怖」という妄想で、かつて担任だった人々に迷惑をかけた。
まあそれでも、大学生のときには、担任だった先生への年賀状を辞めることができた。
大学生になったので、塾のバイトを始めて給料が手に入り、年賀状くらい自分で買えるようになる。
当然、親から年賀状をもらう必要も無い。「年賀状は自分で買うから」と、ようやく断ることができたのだ。
そして、自費で年賀状を買う段になって気づいた。気づいたことは2つある。
まずは、それなりの額を出せば、イラストが付いた年賀状が買えるのだということだ。
それまで、イラストと挨拶が書かれた年賀状は、大人が業者に頼んで大量注文しないと手に入らないものだと思っていた。
それが、大学生協に並んでいたのだ。これは、本当に救われた!という気分になった。
そんなの、コンビニやスーパーにも並んでるから大学生にならなくとも気づくだろ、と思われるかもしれない。
しかし、私は大学生になるまで、ろくにコンビニに入ったことが無かったのだ。
その理由は、私の家ではお小遣い制度が無かった(金銭は必要なときに必要なだけもらえる)というのが大きい。
学級帰りにコンビニに立ち寄ってパンでも買って帰ってくる、みたいなことをするお小遣いが手元に無かったのだ。
スーパーにしたって、中学生以降は親と行動するのが恥ずかしくなるわけで、ろくに立ち入ることが無かった。
まあ、そもそも田舎に住んでいたので、自宅から歩く距離にはコンビニもスーパーも無かったわけだが。
話が横道に逸れたが、とにかく、金を出せば年賀状に稚拙なイラストを載せなくてもよいと知ったわけだ。
そして、もう一つ気づいたことは、そもそも論になるが、担任への年賀状に意味はあるのかということだ。
それは大学生になって、担任というシステムから解放されたのが大きい。
(いや正確には、学年全体での担当教授は居た気がする。しかし、有名無実というか空気みたいな存在だった。)
大学では、自分の知識は多くの教員がバラバラと与えてくるものであり、担任という唯一の存在に依存する必要が無い。
(まあ、ここについても、研究室に配属されるようになると、考えはまた変わってくるわけだが。)
そう考えると、それまでの「担任」という人々に、こんな10年も経ってまで感謝を示し続ける必要があるのか疑問になってきたのだ。
そういうわけで結局、大学一年生のときに年賀状は完全に取り止めた。
ちなみに、当時は実家暮らしだったため、自分が年賀状を出していないというのは、親にも当然バレるはずだった。
正月以降に、毎年来るはずの担任の先生たちから年賀状が全く来ない、という形でバレるはずであり、戦々恐々としながら新しい年を迎えた。
しかし、親には怒られなかった。
今考えれば、親に怒られるなんて全て私の妄想だったので、当然の結果だったわけだが、当時は心の底からホッとした。
まあ、そこからようやく「親への恐怖」が自分の妄想であることに気づくようになり、
前述のとおり、これまで稚拙な年賀状を出してきたことをトラウマに感じるようになってしまうわけだが。
結局、自分の妄想で他人を振り回してしまったわけで、その点は今でも申し訳なく思っている。
そして何より、自分自身も稚拙なイラストを書いたり本当に苦痛だった。
そんなお互いに苦痛な習慣を、自身の勘違いで長年続けてしまったのは本当に黒歴史だ。
リアルな相手にはとても言えないけど、黒歴史な思い出は文章にしてちゃんと客観視しないと、
いつまでも「思い出しアー」になって苦しむことになる(実際、毎年年末に思い出して苦しんでいる)ので、一通り書き出した。
あとはこうして、匿名掲示板に記して供養としたい。
ちなみに、年賀状はトラウマになったので、大学生以来誰にも出していません…
となれば、お話し的にはキレイな展開なんだと思うが、高校のときの友人との年賀状は、数枚ながらもまだ続いている。
大学生の頃は、年賀状なんか一生出すもんか!とも思っていたのだが、卒業すると就職で散り散りとなり、お互いの近況を知りたくなった。
現在であれば、それはLINEか何かで実現できるのだろうが、15年以上前の話なので、そこはやはり年賀状でのやり取りとなった。
携帯メールはあったんだけど、何かこう、正月だとかのきっかけがないと、お互いやりとりしないよね。
って、やっぱり私も古い人間なのかも。
まあとにかく、子供の頃は色々やってしまったけれど、年賀状を誰かに出す習慣はまだ潰えていない。
今はさすがに年賀状はコンビニで買ってきたものを使っているけれど、その印刷された文面の端っこに、
第二次世界大戦で確かにドイツは負けたけど、厳密にはヨーロッパの国々はドイツに勝つことはできなかったんだよね。
アメリカとソ連の参戦によって、ようやくドイツを降伏させたわけで、フランスもイギリスも戦勝国の割には国際的な地位は大きく低下した。
ヨーロッパ諸国がナチスやヒトラー、鍵十字にあれだけナーバスになるのはドイツの潜在力が怖いからだと思う。
イギリスとフランスって核兵器を持っている以外には何もないし、そもそも核兵器の理論を作ったのはドイツ人のアインシュタイン、実用化したのはフォン・ブラウン博士だし。
長いこと恋人がいて、別れてからたった2日しか経っていないのに突然他の人とセックスをしてしまった。
自分でも何があったのかわからないし、全然お酒を飲んでいないけどなぜかした。
恋人との別れ話も自分からしたし、後半はウンザリしていたから別れたことで精神的にナーバスになっていた感じもない。
あーもう自由にセックスしてもいいんだ、と思ったらされるがままにしてしまった。
頭のおかしい女だと思われただろうと思って相手に謝罪したら不思議そうな顔をしていた。
こちらこそですが…と相手から頭を下げられ、妙な空気になってしまった。
以降相手からは毎日連絡が来るし、会いたくなったと電話が来て食事に行ったり、ホテルに行ったり、自宅に来たり行ったりしている。
自分は頭がおかしいのかもしれない。もうすこし余韻や空白の期間を作った方が良かった気もする。
仲良くしてくれている年上のお姉さん友達に話をしても「そんなもんそんなもん。次がすぐ来るもんだよ」と言っていたし
高嶋ちさ子も「男は山手線」だなんて言っていたのを思い出した。
なんというか自分には慎重さに欠ける部分がある。
仕事は精密機器を取り扱う専門職で失敗しないのに、人間関係ではこんな感じになってしまうものなんだ。
不思議な冬だ。
うちの母は直腸がんで死んだけど
医者の余命宣告が誤差1週間以内で的中して(もちろん偶然なのも分かってはいるが)医学ってすげぇなと思った。
もうすぐ死にま~す!って時はもう会話どころか意識がないし
そろそろ死ぬかもって時は体力もないしナーバスになってて会話どころじゃないし
フィクションみたいに病床で感動的な言葉を残すみたいなのは起きないんだな~って思ったわ。
変な民間療法吹き込むと どうせ死ぬなら「リスクのある正規の治療」より「リスクがない(効果もない)眉唾療法」の方がいいか っていう思考になって
セカンドオピニオンとかも一切拒否するようになるから気をつけろよ。
あれは全部死にゆく者がそのコミュニティ内で強固な発言権を得ることに漬け込んだ詐欺で、とにかくありもしない甘言をならべ現行医療をこき下ろすことで死人が易きに流れるようにしてる。
残された家族は「俺がもっとし強引に治療させていれば」って言う自己嫌悪だけが残る、もちろん「どうせ死ぬなら自分で選びたい」と言われれば強引になんてできるわけもないから無意味な後悔だが。
ちなみにうちは医者から「もうマジで死ぬから病室こいや」って言われてから1時間待たずに死んだ。
仕事中で色々片付けてから会社出て病院まで走っても間に合わなんだ、親戚一同揃ってて「息子間に合わなんだの?」って視線に晒され相当気まずいから高速移動の準備はしておいた方がいい。
10年来の友人が突然無理になりました。
箇条書きにします。
・会っても携帯をずっと触ってラインかツイッターかを見ている。(中学生の時はずっとイヤホンで音楽を聞いていた)
・物の受け渡しで会ってもすぐに帰る(玄関先でやりとりする)し近所に住んでるのに予定が合わない。
・相手から来ると言って、近所に住んでるのに時間通りに来ず、1時間後に「頭痛いから今日は無理」の連絡。
・観て欲しいと私が言って、相手が観たいと言ったDVDやCDを貸しても見ない。聞かない。
・数年前の2人旅行で前日に徹夜。行き帰りはずっと寝てるし旅行中はずっと不機嫌で話しかけても生返事で撒く勢いで歩き自撮りばかりしている。
・察してちゃん
・怒った時に口汚く罵る
・インスタグラムで他の人とのツーショットないしはスリーショットは投稿するけど私は無い
大きい理由はこのくらいでしょうか。
これだけ書きましたが、私にも悪いところはあったと思います。まぁ相手からは何も言われないので(察してちゃんなので)何が嫌だったかもわかりませんが…
直接言わない私も良くないと思います。でも、いつもなにかに怒った時はすごく口汚く罵るから言いにくかった。
あまりプライベートなことは話さないから聞きたくないのかと思って気持ち的なことは言いづらかったし…察してちゃんなので察してあげたら動きづらくなってしまった。
中高と一緒だったのですが、大学で進路が分かれて全然私とタイプの違うひとと遊ぶようになったりして相手も変わったのだと思います。
私といたら嫌なことがあったのかなと思うとすごく悲しい。
上記には書きませんでしたが、相手がすごく美人だったのもすこしコンプレックスでした。
同じバイト先だったので、どうしても比べられることはあったと思います。他人に比べられること自体はそれほど気にならなかったのですが、彼女から見下されてたらどうしようと思うのが嫌でした。
実習や仕事のことで愚痴を言ってしまうことが多かった時期があったので、それも嫌だったのかも。
私が嫌なことがあったらそれで頭がいっぱいになるタイプなのである程度はしょうがなかったと思うけど、毎回愚痴られるのはうんざりしていたと思います。
貸したDVDを見てくれないのも嫌だった。
私は彼女が見てほしいと言った漫画はぜんぶ読みましたぎ私のおすすめは全然みてくれない。
バイトで「普通こうするやろ」ってその時初めて言われたことを本当に常識が無いみたいに注意のがずっと引っかかってます。
私は「普通」なんて無いと思ってるので、彼女にだけは言ってほしくなかった。ていうか最初から言ってないことを「普通」という共通かも分からない認識のもと注意しないでほしかった。クソ上司みたいなこと言わないでほしかった。今おもえば、元々そういう人だったのでしょう。
再就職先に初出勤する前日に「彼氏ができた」と報告されたのも嫌でした。
うるせえと。
すごくナーバスになっていたので衝撃は5倍でした。
今は彼氏がいる彼女(ややこしいな)が気色悪いです。匂わせ投稿が……目にあまる…………
彼女が誰かとご飯を食べた、みたいなツイッター投稿をするたびに「私とは遊ばんのに…」みたいな気持ちになるのが嫌です。
まぁ遊んでも嫌な気持ちになる確率はフィフティー・フィフティーなんですけど……
上記にあったように、私と撮った写真だけインスタに上げられないのも、「私は大学の友人やには見せられへんほど見苦しいのか?オシャレインスタグラムにはふさわしくないほどダサいのか?」と思って嫌でした。わたしは第一級のオシャレをしてるつもりなんですけどね。
無言でやるのが感じ悪いですね。
所詮近くにいてもソーシャルネットワーキングサービスに繋がれた友情だったのかもしれません。
私たちには対話が足りなかった。旅行に行くたびにくれるお土産なんて欲しくなかった。誕生日プレゼントも買いたくないならくれなくても良かった。
ほんとうに、対話が足りなかった。
今からでも話せたら、何か変わるのでしょうか。
コロナが流行り、様々なイベントやライブが中止になって大体1年経った。
そんな中、徐々に大きい会場でのコンサートも再開されている。
コロナ禍以前は地方に住みながらも頻繁に様々な場所まで遠征し、オタ活を楽しんでいたが、今はそうもいかない。
私の仕事は広義で言えば接客業に入る。首都圏等に比べると私の住んでる県は感染者なんてほとんど居ないに等しいのだが、それでもかなりの縛りがある。
外食は家族以外とはNG。必要最低限の外出は控える。自分だけでなく同居してる家族も、県外に出る際には必ず理由を明記の上届出を出す。
届出を出せば県外に出ても良いのなら、コンサートに行けるのでは?というのは建前だ。
また家族とも同居しているが、私の家族は上記の条件+家族に熱があった場合はコロナで無くとも仕事を休まなければならない。
ジャンルによるとは思うが、私の居る界隈では現場に行った者にしか人権がない。
去年から徐々に現場が再開し、応募すら出来ずにTLを眺めているが、そろそろ嫌気がさしてくる。
仕方ないのは分かっている、地方で住むこともその職を選んだのは自分だから自業自得、というのもそうだと思う。
が、就職した時点ではこんなことになるなんて、誰も想像出来なかったのだ。
楽しそうに現場に着ていく服を選ぶ人。申し込みの協力を頼む人。チケットが当たった人。チケットを譲ってくれる人を探す人。
誰も悪くないけれど、見る度に自分の不自由さを実感して泣きたくなる。
こんな文を書いてる間にも、首都圏4都県のイベント参加人数の上限が最大1万人に緩和されたというニュースが流れてきた。
皆が楽しそうで何よりだが、これも現時点では私には関係の無いことだ。
だったら職を辞めて一人暮らしをすれば良い。首都圏に引っ越せば良い。最もだと思う。
言うのは簡単、でもそれが出来ないのだ。
それが出来ないくせにプライドだけはある。
こういう所がダメなんだろうな。
これを投稿したら、しばらくはツイッターから離れよう。インスタも削除しよう。
インスタに至っては、現場が無いので、1年くらい投稿しておらず、いいねを送るだけになっているし。
それで私が置かれている状況が変わることは無いが、しんどいと思うことは少なくなるのかな。分かんないけど。
僕はずっと女が羨ましかった。
普段は「女」なんて言い方はしない。「女の人」だ。
小さい頃から、「女の人は大事にしないといけない」「女の人は守らないといけない」という教育を受け、
漫画や小説の中でも「女子供だけは守らないといけない」と、男たちは苦難に身を投げ入れていった。
女の子は周囲から可愛い可愛いと持て囃され、大人たちはみんな女の子に優しかった。
クラスの女子とケンカをした時も、僕が一方的に悪いことになった。いつも頭を下げたのは僕だった。
どのサークルでも、どのグループでも、女の人はウェルカムだった。男はなんとなく放置された。
女の人同士もお互いを可愛いと褒め合い、仲良くしていた。
社会人になってからもそれは変わらず、みんな女の人には甘かった。
だからせめて僕だけは絶対に甘い顔はしないように、男の人にも女の人にも変わらず接した。
そうすると◯◯さんは怖いと言われた。
何か問題が起こると、決まって女の人はナーバスになり、ナーバスにならない僕の方が苦心惨憺を強いられた。
結婚した人たちは女の子が欲しいと言い、ペットを買う人たちもメスの方が大人しくて良いらしい。
人工妊娠ができるようになると、女性だけいれば良くて、男は要らなくなるそうだ。
そうしてずっと、男は要らないと言われ続けて生きていた。常に余り物としての振る舞いが身についた。
僕も女になりたいなあと思いながら生きてきた。
それなのに、最近のインターネットではずっと「女は虐げられている」「男は加害者だ」と言われている。
頭では分かっている。
制度的に男性に有利なものは撤廃しないといけないし、守られていない女性の権利は守られないといけない。
当たり前の平等は、当たり前に与えられるべきだ。
それでもたまに、「なんでお前らの甘えに付き合わないといけないんだ」という気持ちがよぎる。
僕はここまで自分の足で立つ努力をしてきたのに、それをしようとせずに男を非難する言論を聞くたびに、女が嫌いになっていく。
頭では分かっている。
女性みんながそうではなく、その人がそうなだけ。
目立つ女の人が恩恵を受けていただけで、多くの人は普通に努力して生きてきた。
目立つ女の人も、そのことでたくさん苦労をしている。
頭では分かっているけれど。
僕も鮮やかな春色の服を着て、
仕事で軽んじられたら理詰めで言い負かし、
殴られたら指を噛みちぎり、
殺されそうになったら死ぬ気で刺し違え、
もちろん、宗教自体が組織を維持するために信者を一定数確保する必要があるのはわかるが、それはさておいて。
宗教への加入が、当事者の精神的問題から発生するとするならば、宗教はある意味で精神的治療のひとつだと言えるが、
それならば上述のように、宗教からの「退院」、すなわち脱会こそが最終目標であるべきように思う。
つまり、その宗教に頼らないで生活できることが「完治」という考え方だ。
そういう点で、代々信仰を続けている家庭というのに違和感を持つ。
それは、本人たちにとって伝統を受け継いでいるかのようなプラスのイメージがあるのかもしれないが、
上記の視点に立つと、自身の精神的治療を自身で完了することができずに、次世代に任せてしまったかのように見えてしまう。
再び病院で例えるならば、治療の必要の無い子供を、自分が治療を受ける病院がいくら素晴らしいものだからといって、
無理やり病院に連れていくことはないだろう。信仰の継続には、そういう違和感を感じてしまうのだ。
もちろん信仰は自由であるべきだと思うが、それは世代内でクローズすべきとも思う。
ちなみに話は変わるが、上記の特集では、親の立場になった宗教2世が登場していた。
発熱の話。最近は皆コロナでナーバスになってるからただ熱が出たってだけで受診したがったりするんだけど、主に若い女性がよく言うフレーズが「私平熱低いので37度でも高熱なんです!」ってやつ。あとは小児科でよく聞くのが、「40度もあったら頭おかしくならないですか?」ってやつ。みなさんあの体温計の数字に絶大な信頼を置いて振り回されているようで。
こちらから言えることは、あまりあの数字をあてにしない方がいいということ。便宜上37.5度以上を発熱と定めてるけど、じゃあ37.4度は熱じゃないとか変な話じゃないかい? 体温計の数字なんて寒い部屋で測るとか脇の挟み方が甘いとか朝なのか夜なのかで全然変わっちゃうもんだ。老人なんて熱自体出なくなるしね。
あと、平熱低いとかこちらとしては関係ないんですよ。本人は辛いんだろうけど、平熱35度の人の37.5度イコール平熱36.8度の人の39.3度、とはならない。別に数字だけ見て「37.5度? はい軽症ね」なんて雑な診断はしないから、だから平熱低いアピールは正直いらないんですよ。それくらいしんどいんですって言いたいんだろな、と受け止めるけどカルテには微熱って書いてる。
統計とかまだわからんしごく個人的な範囲でコロナ患者を見てると、一日だけ風邪っぽくて翌朝は平気だったから出かけたみたいのが多い印象。熱っぽいからコロナ?と思って測ったら37度なかったから安心して飲み会行きましたみたいなやつ。かと思えば39度近くが続いてインフルエンザ疑ったけど陰性で結局コロナ、って人もいる。年齢や基礎疾患、元々の体力や体調によるんだろうけど、わかりやすく高熱関節痛が出るインフルエンザよりもっとわかりにくい経過を取るようだ。今思えば数ヶ月前の「37.5度が何日続いたら保健所相談」ってやつで見逃された人いっぱいいたんだろな。
40度で頭おかしくなる? の例に戻るけど、体温が何度だから重いとか軽いとかそういうもんじゃない。43度とかあればたんぱく質が変性して死ぬらしいがそこまでは出ないでしょ。大事なのは、発熱そのものよりも他の症状と全身状態。40度あってもミルク飲めて元気ありゃ大丈夫だし平熱でも飲めなくてぐったりしてりゃ非常事態だ。コロナで言えば熱よりも呼吸器症状。なんだか息がしにくいなあ、程度でもこのコロナ流行期ではおかしいと思ってくれ。息苦しいから寝るより座ってる方が楽とか、胸や肩が上がり下がりするほど呼吸が荒いとか、唇の色が悪い、だるすぎてスマホすら見れない、家族が話しかけたら返事が遅いとか、そういうのももちろんやばい。一つ一つ徴候を上げたらキリがないけど、とにかく体温計の数字より自分や家族の「いつもと違うな」を信じて。熱があるんだから呼吸苦しくて当たり前だよね、とか楽観視するな。
逆に熱しか症状無いけど受診すべき? って聞かれるけど、答えはノーです。コロナは有効な特効薬がないから、受診が早ければ治療間に合うとかも無い。望むままPCR検査を受けられるとも限らない(これは病院や自治体の方針で違う)。受診の行き帰りで他の人にばら撒くリスクを犯して得られるメリットがほとんど無い。上に書いた症状に注意しながら家族から離れた部屋で寝てるしかないと思う。インフルエンザだったら困るから受診したい、ってのも聞くけど今はインフルエンザ検査も絞ってます(検査をすること自体が医療者へのコロナ感染リスクだから)。ちなみにタミフルは特効薬だと思ってる人いるけど、抗インフルエンザ薬はウイルスを退治するんじゃなくて増殖を抑えるだけだから発熱期間を一日くらい短くするだけなんですよ? タミフルなくてもちゃんと治る、飲まなきゃやばいのは重症例だけ。
でも一人暮らしの人とかは熱がある中家で寝てるだけって不安ですよね。わかるわかる。でも辛い思いして受診しても検査受けられなくてがっかりしながらとぼとぼ帰る、ってのも可哀想なので受診タイミングはしっかり見極めましょう。この年末年始、救急外来に「コロナかも? 」の発熱患者がわらわら集まっちゃったら非常にまずいことになる。そこでいらんコロナもらったりうつしたりしないようにお願いしますね。
どちらかというとそうだったらどうしよう?という感じなのでここに吐き出しておく。
恋人は明らかに喪デブな自分に対して「理想的」「もっとお肉ついてもいいくらい」「大好き」ともうめちゃくちゃに褒めてくれるありがたい存在だ。
見た目もオシャレに気を使ってるのが分かるし顔自体もそんなに悪くない。似てる芸能人がいるタイプ。
でもトキメキというのが感じられない。
なんとなく「いい人だな」「好きだな」と思う程度。
好きだとアピールしてくれるから付き合って、自分もまあ嫌いじゃないので「好きだ」とは言っているが、正直愛してるかと言われると首を捻ってしまう。
二次元の嫁はそれはもう可愛くって一途で献身的で料理は…まあ炒め物ばっかりだがそこもいい。
いわゆるヤンデレだがもう本当にそこがいい。かわいい。愛しい。
そう、本気で愛しいし結婚したいのだ。嫁と。
そんな自分が本当に三次元の恋人と付き合っていけるのか、今不安でしょうがない。
付き合ったばかりだからまだ実感が湧いてないのかもしれないが、どうなんだろう。
似たような経験持ちの既婚者や恋人持ちがいたら話聞かせて欲しい。
長かったのに読んでくれてありがとう。
[追記]
キスとか手を繋ぐとかはまあ出来るな……嫌じゃないし気持ちいいな……恋人がいるってこんな感じか……って感じだけどやっぱりときめかないんだよな。
これが嫁だったら一緒にいるだけで幸せでトキメキがやばいんだと思うとなおさら申し訳なくなる。
相手にも失礼っていうのはわかる。
相手を傷つけないうちに別れたほうがいいのかもな。
[追記2]
気をつけるよ。
相手のことは大事にしたいと思ってるし相手も自分を大事にしてくれてるのが伝わってくるからそれに応えたいと思う。
今の恋人は…という話だが、恋人は正直いわゆる「重たい恋人」というやつで結婚を前提に付き合いたいと言ってきたので、もしかしたら結婚するかもしれない。