はてなキーワード: どんくさいとは
23歳がおじさんに該当するかどうかはこの日記の主題ではない。
先日私は大学院入学試験に見事に不合格となり、春からの進路を失った23歳である。
まずは現状をつづりたい。
東大京大には及ばないものの世間一般からは高学歴といわれても差し支えのない大学の
卒論以外の取得単位を得たのち自大の院試を受け落ちてしまった。
その後、院試の筆記の結果やいままで5年間の期末考査の出来などから
「講義にはすべて出席し提出物もすべて出しているにもかかわらず筆記試験の点数が悪い。真面目なのはいいことだけどこの分野は向いていないと思う。就職した方がいい」
次は、大学入学後5年間は化学以外の勉強やインターン等のその他自身にとって有益となる活動を一切せず
滑り止めとなるような院試を受けずに油断していた私がこれから何をすべきなのか
自身の半生を振り返ることで考えていきたい。
小学生の時、私は体が弱く、そしてどんくさい奴だった。運動神経だけではない、会話の流れが早くなればついていけなくなるような頭の回転という面でもどんくさかった。
ただし、家庭環境は非常に良かった。
小学校6年間通して進研ゼミ(発展ワーク等のオプションを含む)を受講し、中学受験を控えた5,6年生の時には塾に通わせてもらったこともあり
学業で大きく後れを取るようなことはなく、
そして、中学受験、私は志望校に落ち公立中学へ進学することになる。
(一つ言い訳をさせてもらうと、一般的な私立中学を受験したのではなく、公立の中高一貫校のみを受験したため、滑り止めといわれるような学校は受験していない)
中学校では、受験に落ちた悔しさをバネにし勉強をしたため、かなり上位の成績を維持することができた。
今思うと学業において周囲の人間に頼りにされていたあの頃が最も自己肯定感に満ちていたように思う。
しかし、高校受験、再び第一志望に落ちてしまう。今思うと悔しさをバネにできたのは最初の1年間で残りの2年間は惰性で勉強をしていたような気もする。
ただ、それでも曲がりなりにも周囲の人間よりも勉強をしていたこともあり名のある進学校の一つには合格することができた。
(生来の身体の弱さから部内での活躍は底辺であったがそこそこ真面目に取り組んだため楽しかった)
したが、
その後あろうことか娯楽を覚えた私は自身の長所である学業の成績を大きく落とすこととなる。
その娯楽とはオタク文化なのだが、自身の集中力を削ぐ一番の原因は、当時大きく普及したスマートフォンがオタク文化と大きく相性が良かったことのように思う。
中学の時とは違い名のある進学校、1年という月日は周囲の人間と自分の学力の差をどうしようもないほどに引き離すには十分すぎる時間であった。
そのことに2年生時に気づくも3年に進学するまでの一年間では埋めることはできず、少し勉強に力を入れた程度では
その差をこれ以上広げないことしか出来なかった。
ここで私の当時の教科ごとの成績を確認したい。
英語、最も大きく成績を落とした科目、またどの大学を志望するにも必ず受験する科目でもあり、そして当時から現在にかけてまで私を苦しめる存在。
数学、中学当時最も得意だったが、平均以下にまで落ち込んでしまう。その後も学内平均を行ったり来たりを繰り返す。
国語、中学の時から苦手であり、膨大な文章を読むと眩暈がするため真っ先に大学受験から切り離した。今思うとこれが不得意であることが頭の回転が遅い一番の証明であるかもしれない。
理科、物理化学生物地学のなかで唯一化学だけが学内上位の成績をとれた。これが化学系の学部を志望する要因となる。
化学しか得意科目がない以上理系に進学する以外道がないように思い、進学校であることも相まって国立理系志望となる。ただし成績不振であることから東大京大は目指せなかった。
3年生、国立理系志望、東大京大でなくとも名のある大学を第一志望にしていた私は自身の成績では到底足りないことを自覚し夏休みの40日間、22時就寝3時起床の生活サイクルを維持しながら合計600時間の勉強を達成する。このモチベーションを維持したまま大学受験に突入したこともあり見事現役で第一志望に合格。今思うと当日の入試問題にたまたま得意分野が出題される、苦手分野は誰も解けないくらいの高難易度などいくつもの幸運が重なった結果であり、
その後にすべてうまくいくわけではない。
大学入学後、5年間、この期間を振り返るとあまりにも無為に過ごしたと言わざる負えない。
大学生たるもの学業以外の活動も行うが、アルバイトはどれも長続きせず、サークル活動では自身のどんくささから後輩から説教を受ける始末。
何も成しえないがしかし学業においても多くの必修単位を落とし留年。1年後卒論以外の卒業単位をかき集めるも院試には落ちてしまう。
教授曰く、「講義にはすべて出席し提出物もすべて出しているにもかかわらずあらゆる筆記試験の点数が悪い。真面目なのはいいことだけどこの分野は向いていないと思う」
とご指摘を受ける。また、TOEICの点数も非常に悪く驚くことなかれ400点以下。救いようがないのは事実。
院試の結果が出た際、自身の親からは「大学受験の時ほどの必死さがなかった。」と指摘を受ける。
自分はもっと頑張れば院に行ける人間なのか。それとも教授が言っているように向いていないのか。
自分について
・○○県って人住んでないんでしょ?と言われるような田舎に住んでいる
・そろそろ30歳
・免許はあるけど遠近感とか内輪差とかを掴む力が著しく低いので車の運転ができない
・愛嬌なし ブス
・頭悪い
なぜ家を出たいのか
・母親と折り合いが悪いのとニートの弟が家にずっといてうざいので離れたい
・監視と噂が大好きな田舎のおばさんになることを強要されるのが嫌だ
・オタクなのでコミケやスパークやナンジャタウンや音響の良い大きな映画館やコラボカフェや特典つきの単行本が手に入るような書店に軽い気持ちで行ったりしてみたい
・ユニクロやGUに行くことですら自転車で1時間半や2時間くらいかかる人生をやめたい
・「普通の人でいいのに!」を読んでから都会人への嫉妬が心の内でますます増大して荒れ狂っている
ふらっと気軽にライブだの古書店だのに行って放送作家の知人がいるような環境にありながらあんなに不幸せそうに振る舞ったり経理を馬鹿にしたりできるってすごい世界だ
・「この割れ切った世界の片隅で」も読んだ あの子を責めるような反応の多さにもムカついている 都会人が憎い 田舎が憎い
・実家に犬がいるので犬がいるうちは出たくない
・地元が推しジャンルの聖地で(今はコロナで諸々中止になってしまったが)年に何回かイベントがあるのでそれに参加し辛くなるのがネック
・毎週漫画雑誌を買っているのだが一人暮らしをするとなると置き場所が…………推しのグッズの置き場もどうするか
・転職ができるのかどうか 体や心を壊したら元も子もないのでなるべく楽な感じの仕事がいいが選べる立場ではないと思うのでここが一番不安要素
・父親の遺産があるのだがそれを今から使わせてもらえるかどうか分からない(自分の貯金は当面はある)
・病気になった時誰にも頼れない
言うだけ!
上京して何年経つだろう?
私は、車の運転ができない。
免許はある。
浪人した時に親に言われて、
お母さんは30過ぎて自動車教習所通って苦労したからねー」と。
言われるがまま教習所に行き、
初めて車の運転をした時はとにかく怖かった。
それはもう20年前か。
免許取得後に親の車に乗ったけど、
隣で母親が「ぎゃーーー!」と叫んで、途中で代わってもらった。
友達が「運転してみる?」と言うので、デカい車の運転をしたら、
割り込まれ「ぎゃーーー!」ってなった。
運転したのは、その2回だけだな。
私は運転にむいてない。怖い。イヤだ。イヤだ。
なんであっちもこっちもみれるんだろう?
浪人した末、東京の大学に合格し、上京したが、運転する事は一度もなかった。
車の運転をしなくてもどこにでも行ける事だと思う。
幼少期からどんくさく、
出会った男性や地元の女性が車を運転できるだけで「すごい!!!」と思ってしまう。
ごめん。本当にごめん。車なしじゃ暮らせないもん。ごめん。
4月に入学した学校が、入学から2ヶ月しか経っていない今、「就職活動を始めるべき」とメールを送ってきた。
就職について意見交換しようと家族会議をしたら、家族との認識の違いに気づいた。
私はクローズ就労をするつもりだったけど、家族は当然のようにオープン就労をさせるつもりだったらしい。
クローズ就労というのは、障害を会社に隠した就労のことで、オープンは障害をカミングアウトして障害者枠で雇用されること。
親が言うには、クローズ就労はバレたときに会社に嫌われるだけだ。そもそもシステム上隠し切るのは難しい。せっかく手帳が取れたのだからそれを生かして就活するべきだ。
私は正直思ってもなかったことで、困惑している。発達障害者がクローズで働いているという話をネットで読んだことがあって、自分も同じことができると思っていた。
親が言うには、私は「不器用」らしい。時間の使い方が下手。物忘れが多い。どんくさい。だから障害者雇用で、「そういう人」だと理解されて働くべきだと。
私はコンピュータの専門学校に通っている。コンピュータのことは昔からよくできた。専門学生でも結構いい成績を出してて、調子に乗ってた。
自分が鈍臭くてトロくさいことは知っていた。でもそれは何かで取り戻せることだと思っていた。勉強をするのは楽しかった。馬鹿がごまかせる気がしたから。
親は、障害者として健常者の理解を得るべき、と言うけど、理解ってなんなんだろう。「こいつダメ人間だな」って思って貰わなきゃダメってことなのかな。健常者のフリもできない出来損ないだと自覚しないといけないのか。
私は障害者雇用枠を使わないと仕事ができないんだと思わされた。どれだけ調子に乗ってても健常者ではないんだと。
就活と障害者雇用のことで頭がいっぱいで、最近は授業の時間以外はほとんど、障害者雇用についての情報を集めたり、障害者雇用の面談サイトの予約を取ろうとしたりしている。
そうすると、予約のスケジュールの管理とか、タスクの管理とかが下手な自分に気付かされる。
やっぱり私は人間未満なんだなと思う。
中学で診断がついてからは、やる気があってもできないバカだということになった。
しばらくは、クズ扱いされないことに安心してたけど、今ではクズ扱いが懐かしい。
どうしても自分は健常者にはなれないと受け入れなければならない。
2020.7.9 追記
たくさんコメントありがとうございます。
全て読ませていただきました。
ネットに障害のことを書くと「ガイジ」とか叩かれることが多くて、書き込むかどうか悩んだのですが書いてみてよかったです。
いろんなコメントを読むうちに、私は単に雇用形態に悩んでいるのではないと気づきました。「障害を持ってどうやってお金を稼ぐか」の前にある、「障害を持ってどうやって自分の人生を過ごすか」が固まっていなかったんだと思います。
障害というもののことが前からよくわかっていないところがあります。発達障害の諸症状のことは知っていても、障害というものを自分の価値観の中にどう置くかが決められていないのだと思います。
また、実際にクローズで働くか、オープンで働くかについてもよく検討していこうと思います。実体験を交えて書いてくださった方々もありがとうございました。
それから、身体障害をお持ちの方が、私の文章に「障害者を見下しててむかつくわ」とコメントされているのを見て、反省しました。
自分自身を差別することは他の人を差別することでもあるんだと気づきました。
私は今まで現実逃避ばかりしていて、大事なことと向き合うのを避けてきたんだと思います。
この機会によく考えてみたいと思います。
夏休みの宿題で「お母さんと弟と市民プールに行ったけど休みでガッカリしたことが1番の思い出です」って作文に書いたら、お母さんに「なんで?」と怒られた。
そりゃそうだ。車の免許がないから行くところは限られていたけど、夏休み中、お母さんは電動でもなんでもない自転車の後ろに弟を乗せて、まだ自転車の運転に慣れない私に「車!」「赤!」と声をかけながら、サマーランドやら母方のおばあちゃん家やら、いろんな場所に連れてってくれた。それなのに、1番近場での1番楽しくなかった思い出を書かれたら怒るに決まってる。
私としたら「楽しかった」だけじゃつまんないかな〜と、おませなつもりで書いた作文だったけど、他の子たちの「帰省」や「初めての海外旅行」の思い出と一緒に、「仕方がないからモスバーガーを食べて帰った」思い出が夏休みの文集に綴じられているのはたしかにおかしくて反省した。
思えば、お父さん、お母さん、私の3人で借家に暮らしていた頃から、お母さんの自転車の後ろに乗って、保育園、大きなダイエー、よくしゃべるオウムがいる近所の家、いろんな場所に行った。しばらくすると弟が生まれて、父方のおじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らす新しい家に引っ越した。
保育園に通い始めるようになった弟と補助輪付きの自転車さえ乗れないどんくさい私を乗せたお母さんの自転車は、買い物や保育園の送り迎えの道中よくすっ転んでいた。最初のうちは弟と一緒に「ウワーーーン!」と泣きわめいて「ごめんね」とお母さんに謝られていたけど、そのうち「あっ、倒れるよー」と予告されるようになり、「はーい」と上手に受け身をとって、助けてくれる通りすがりの人に「だいじょぶでーすありがとございまーす」と返せるほどになった。
弟がぽっちゃりしてきた頃、私は後ろの席を卒業し、坂道で自転車押したり、良きタイミングで弟に「降りて歩け」と指示したりする裏方に回った。そのうち自転車に乗れるようになり、お母さんの良きパートナーとして行動の範囲を広げていった。
私がピチレモンを買うようになった頃、アウトレットモールがある南大沢へ電車でよく行くようになった。と言ってもアウトレットモールは素通りで、目的は南大沢駅から30分くらい歩いた場所にある激安洋品店「タカハシ」。貧乏ってわけじゃなかったけど、コールセンターのパートを始めたお母さんのお給料が出ると、私と弟の服を買いに3人で駅からてこてこ歩いて行っていた。
服に興味のない弟の機嫌をとるために、駅とタカハシのちょうど半分の場所にあるモスバーガーでよくお昼ご飯を食べた。市民プールが休みだったあの日もたしかタカハシに行くことになって、モスバーガーに寄ったんだった。
私が小学校の卒業を控えた頃は、母方のおばあちゃん家ばかりに行くようになった。そんなある日、お母さんに「家を出ようと思ってる」と伝えられた。その頃、お母さんは私の部屋でご飯を食べたり寝たりしていて、いわゆる家庭内別居状態だったからあまり驚かなかった。お母さんの元気がなかったし、その方が良いと思っていたから、聞いて安心した。
「お母さんとお父さん、どっちと一緒にいたい?」と聞かれて「もちろんお母さん」と答えた。「弟はお父さんと仲が良いし、お母さんのお給料じゃたくさん食べさせることができないから、一緒には暮らせないと思う」と言われて「そうなんだ」と返した。その日の夕方、2人でスーパーに買い出しに行ったとき、お母さんに「中学生になったら髪染めていい?」と聞いたら「髪を染めたいならお父さんと暮らしなさい」と返されて、どっちもやだなと思った。
それから私が中学校に入学するまでの間、お母さんはこっそり家を出る作戦を練っていた。お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、弟にバレないように荷物をまとめたり、アルバムから私と弟の写真を何枚か抜いたりと忙しそうにしていた。
準備が整って、ついに出て行くことになった。最後まで「本当にお母さんと一緒でいいの?」と聞かれて、大事なことをたくさん伝えられて、「大丈夫」「わかった」とたくさん返事した。さみしい気持ちより、緊張でいっぱいいっぱいだった。
夕方、タカハシで買った洋服とか、夏休み中に撮った写真とか、いろんなものをお母さんの自転車に積んで、よろよろと倒れそうになりながら、母方のおばあちゃん家に向かって押して歩いた。お母さんの自転車でいろんなところに行った思い出はこれが最後だった。
それからいろいろあって、私はお父さんに引き取られた。中学生の間は弟と一緒にワンルームのお母さん家に週末泊まりに行ってた。うれしい気持ちが裏目に出て、お母さんの前で弟とよくケンカをしていたら「お母さん悲しいな…」と言われてしまって2人でシュンとしたこともあった。
だんだんペースがあいて、外でしか会えなくなって、病気がちであまり会えないって聞いて、ひさびさに会ったら「お母さん、対人恐怖症になっちゃったんだ」って手を震わせながら私たちと話してくれて、その姿を見るのがキツくて、会うのが辛くなって、今は連絡も取らなくなってしまった。何やってんだろう、私は。
最近よく「母親になったとき子どもに同じことをしてあげられるかな」って考える。お母さんがお母さんとしてしてくれたたくさんのことを思い出して、幸せな気持ちになる。今なら1番楽しかったことだけを書いた良い作文が作れそうなのに。何やってんだろう、お母さんは。
私の周りだけなのかもしれないが、本来全く関係ないはずの能力に相関性を持たせて人を評価しようとする人って多いと思う。
何言っているのか自分でもわかりにくいと思うので、例を挙げる。
1, この子はあまり勉強が得意ではないが、そのぶん人の気持ちがわかる優しい子なんだろうな
2, 勉強は得意だが、そのぶん頭でっかちに物事を考えがちでどんくさいんだろうな
のように、勉強と社会的知性を結び付けて考えたりする人が多い。
私が大人になってもいまひとつ家族(両親と祖父母)を好きになれないのは、そんなレッテルを貼られて育ったからなのかなと思う。
私には弟がいる。自分で言うのもアレだが、私は頭脳明晰なガキで、弟は全くと言っていいほど勉強が苦手だった。
例に挙げたように私は、ちょっと大袈裟だが、物心ついたころから"真面目なコミュ障"というように両親に扱われてきた。
対して弟は"勉強はできないがそのぶん上手く立ち回れる"というような評価を受けていたと思う。
「そんなのお前の被害妄想だろ」とか「マジで内気だったんじゃねえの」って声が聞こえてくるね、そうかもしれないけれど。
勉強ができるってことは何か欠けてるって思われ、逆に勉強ができないと人たらしになれると、私の両親は本当に思っていたと思う。
そういう環境で育ったから、私は両親に対して交友関係や学校での出来事などをほとんど話したことがない。
私にとって両親は「陰キャのレッテルを貼ってくる人たち」だった。そういう人たちに自分の交友関係の頑張りを発表するってのが無理だった。
学校の出来事なんかを話したりしないことが余計に「頭がいいだけのコミュ障クソガキ」に拍車をかけているとは思う。
兄弟なんだから、良いところがあって悪いところがあって・・・宇宙兄弟的に言うと「グーみたいなやつがいてチョキみたいなやつがいて・・・」って思いたかったんだろうな。
どっちかが優れているって思いたくなくて、異常に物覚えの悪い弟を肯定するために俺のことをコミュ障陰キャとして扱いたかったんやろうな。
なんでいつまでも俺にだけ「ちゃんと〇〇さんにあいさつした!?」って聞いたんや?
そんなに引っ込み思案で内気なガキに見えたんか?脳裏にこびりついて離れない。
だから弟がネットゲームにはまって半引きこもりみたいになって辛うじて入学できた大学を中退したことを知った時、なぜか救われた気がしたよ。
ほらな、関係ないだろ。頭は悪いけれど人なつっこくて人に囲まれて助けてもらって生きていけるはずだった弟は今どうなってるん?
俺は大学でも成績優秀、ボランティアサークル代表で取材も受けたし、彼女もいるし、2人の親友と50人くらいの友達と200人の顔見知りもできたし、大学院では研究会で奨励賞もらったよ。
学校に行きたくなかった。
少なくとも破滅的に悪い人は居なかった。
体育の授業が苦手だった。
運動神経が悪くてつらかった。
でもそれだけならそれ大変だってだけだったと思う。
ドッジボールが駄目だった。
①逃げなくてはいけない
どんくさい私には難しかった。逃げられずにチームの足でまといになるのがいやでいやで仕方なかった。
②ボールをぶつけられる
痛い。単純に痛い。人からボールをぶつけられるの怖くてたまらなかった。バレーボールがたまたま狙いが外れて当たるのとは訳が違う。
明確な意思を持って人に狙わられるその心理もボールの重さも痛くてたまらなかった。
③ボールをぶつけなければいけない
嫌だった。誰かを狙うなんて嫌だった。強い子を狙後々が怖かったし、弱い子を狙うのは自分が狙われてる時を思い出して心がぐちゃぐちゃになった。自分と関係が良くないクラスメートも狙えない。仲が良くて強い子なら狙えるけど、そんな子が味方チームだったり外にいたりすると何も出来なくて、パスを回してブーイングされたりした。つらかった。本当に辛かった。
体育の授業でだけならまだ耐えられたかもしれないけど、毎日休み時間にやらされた。
体育の授業は毎日じゃないけど、ドッジボールの練習は毎日だった。
昼休みつらかった。
楽しい座学授業も給食もドッジボールがあるというだけで心が黒く重く塗りつぶされてつらかった。
大人になったらもっと大変なんだから子どものうちに我慢することに慣れなくちゃって思って頑張ってた。
こんなに嫌だったこと、大人になったら笑い話なるんだろうなと思ってた。
大人はすごく大変で、自分はこんなドッジボールごときでくじけて弱音を吐いてはいけないのだと思ってた。
後悔している。
我慢するべきではなかった。
大人になって大変なことはもちろんあるけど、子どものつらさより大人のつらさの方が「偉い」なんてことはない。
ある程度の我慢はもちろんしなくてはならない。わがままばかり言うことは出来ない。
でも心が歪むほどつらかったのならそこから逃げ出していいのだと昔の私に言いたい。
大変だね。頑張ってるね。つらかったら逃げていいよ。
大人はもっと大変とか、私より貧しい人はもっと大変とか、私より頭悪い人は大変とか、私より鈍い人はもっと大変だから、とか我慢しなくていいよ。
「普通」か「普通より少し恵まれている」あなたの大変さはなかなか理解されにくいけど、だからって大変じゃないってことにはならない。
でも学校から逃げて将来生活していけるのか?って不安あるよね。
死ぬくらいなら不登校で良いよって言う人は多いけどそれで将来どうすればいいのか提示してるひとは少ない。
もうすぐ11月が終わる
12月が始まる
恐怖のクリスマスが待っている
クリスマスに怯え震え隠れるように生きなければならない一ヶ月が始まろうとしている
相手はいないんじゃなく作らないんだからという顔をして生きなければならない一ヶ月が始まる
初詣がある
手袋忘れてきちゃった、なんだよお前どんくさいなほら、とかなんとか言いながら手を握り合いウキウキしてるカップル厨があちこちと湧き出してくる
占いを見せ合いっこして一緒にたこ焼きを食べてニコニコしてる家族厨やカップル厨がわらわらと湧いてくる
よーしパパ、初笑いしちゃうぞとか言い出す2ちゃん脳パパだってたぶん出てくる
みんな浮かれてんだ
浮かれてない層はこの時期表に出ちゃいけない
「これ(A)とこれ(B)どちらが安いの?」と問いかけていた。
このおばさんは馬鹿なのか??????????????????お前が値段を見て自分のかごに入れたのではないのか???????????
レジの人「Aは200円で、Bは50%割引の150円なのでBの方がお安くなっております」
はあああああああああ??????????スーパーでそんな買い物方法ある????????
こんなお客様を相手にしないといけないなんて客商売って大変じゃん・・・。レジの人は満面の笑顔だった。慣れてるのかな。
せめて「すみません~」とか申し訳なさそうにいえばいいのにさ。その尊大な態度はなんなん。
客はそんなえらい存在ではないだろう。
みんながほんの少しの我慢・気遣いをすれば社会は少しずつ悲しいことが減るということに気が付いていないのか。
ちなみにこのスーパーは支払いだけ機械で行い、一つのレジに二つの会計機?があるのだがこの馬鹿はなんだかもたもたして後から別の機会で支払いに入った俺と同タイミングで終えていた。
もうそんな風には思いません。なので勘弁してください。
特に理由はないけど、何故か僕を好きらしい女子が12人いるとか。
なんて、思っていたけどここにおけるモテるって大事な前提があるんだよね。
職場のメンバーで少しどんくさい人がいて、その人と一緒に仕事をしなければならなかった。
どんくさい人だけど、サポートしてあげないと仕事が回らないなって思って
都度サポートしていた。
惚れたらしい、というか惚れたという相談を別のメンバーに相談した様で
ていうか、そのどんくさい人は不器用でもあったので、分かりやすく好意を示してきた。
ここまでくればお分かりかと思うけど、僕はその人に好意は持てなかった。
見た目もタイプではなかったし、何より考え方や性格が嫌いだった。
それが、何故…。
不要におやつのおすそ分けだとか、ランチに誘ってきたりだとか。
その手のお誘いはやんわり断るけど、それが止む気配もない。
このところ、それがストレスだ。
好きでもない、いや嫌いな人から日々受ける好意がここまで心に闇を育むとは。
かといって、お前のこと嫌いだから、なんてヘイトを直球でぶつける勇気もない。
で、先の話に戻るわけだ。
モテたいだなんて思っていたのは
何の努力もせずに、好意をもらえるっていう都合の良い話だったんだ。
望まない人に愛されることがこんなに苦痛とは。
多分、イケメンのモテ男君はこういう苦痛を何度も味わっているんだろう。
表面上、きれいな女子にモテモテの彼もその裏では苦痛を抱えている。
そう、優雅に浮かぶ白鳥もその水面下では必死に足をもがいているがごとく。
(実際はそこまでもがいていないらしいけど、例えとしてね。)
そう思うとモテなくていいな。
というか、今のこの望まぬ行為を受ける日々を穏便に解消したい。
アトピーじゃないけど、つま先の皮膚が割れまくってずっと血だらけになってた。
皮膚科で油薬貰ってつま先に包帯巻いてそのうえに靴下穿いてた。
学校ではそんな事話さないので、体育の教師にはどんくさいやつと多分思われてた。
親はぼーっとしてる人たちなので、娘がつま先が痛くて、帰ったら血だらけの包帯かえてるのを、面倒くさそうにみてるだけ
教師にそういうのを話してくれたりもしないので、つま先が痛くて早く走れないのは、どんくさいためと思われて、さらに辛かった。
他の友達にそんなこと言ってる子はいないようだったので、「人と違うトラブル」は「話すだけ無駄」と知っていたため話さなかった。
「可哀想」という共感力は、小学校低学年になんて、そんなにないのだ。「人と違う」は「気の毒」でもいじめの対象になる可能性だってある。
死ぬほど嫌いだった体育。
先生に「化学繊維にかぶれるので、綿・麻・絹100%のくつしたにしてください、10%でも入ってたらダメ」
たいがいのものにはナイロンやポリがはいってて強度が高めてあったので、探すの大変だった。
大人になったら、OLになったらストッキングどうしよう、絹とか高いんじゃないのかな……。
友達にも教師にも話さず、つま先はずっと痛くて、あかぎれみたいに割れて最悪だった。
ところが、第二次性徴で治った。嘘のように。
当時の体育教師は、どんくさいけど柔軟体操のときだけ変に体に柔らかい、太めの生徒と思われていたんだろう。
つま先は体重がかかるので、あかぎれの酷いやつみたいに(カッターで切り付けられたようにバンバン割れる)なるので本当に血だらけだった。
夏はほぼ大丈夫。
可哀想、とときどき母が言ってくれたけど、油薬と、割れた傷跡の血が混じるとぬるぬるしてさらに気持ち悪い
父が若いころ結核して、マイシンで奇跡の生還した人なので。多かれ少なかれなにか子供の私にも影響があったのかも知れないと今では思う。