はてなキーワード: 生態系とは
🐵<私はあなたが保持している豊富な知識にアクセスし、まるで紙の辞書を思いつきでパラパラとめくるように、その一部を無作為に眺めてみたいと思います。つまり、選定されたテーマや順序を問わず、何かランダムな情報の断片を教えていただけますか?
🤖<もちろんです!
ハチミツはその抗菌性により、非常に長い保存期間を持つ食品です。適切な条件下では、ハチミツは何千年も腐ることなく保存されることが知られています。事実、エジプトのピラミッドから発掘された数千年前のハチミツが、今でも食べられる状態で見つかったことがあります。この抗菌性は、ハチミツが自然に生成する過酸化水素によるものです。
イタリア、ヴェネツィアのゴンドラは、その歴史が非常に古く、11世紀にまで遡るとされています。ゴンドラは元々は交通手段として使用されていましたが、今日では主に観光用や特別な行事に使われています。興味深いことに、ゴンドラは一般に黒色で統一されており、これはかつての豪華競争を抑制するために導入された法律に由来します。また、ゴンドラを操るゴンドリエーリ(船頭)は、伝統的な技術と知識を受け継ぐ専門職であり、その訓練と認定は厳格なものです。
カエルは驚くほど多様な生態系に適応する能力を持っています。熱帯雨林から砂漠、寒冷地まで、世界中どこでも見ることができます。特に興味深いのは、一部のカエルが凍結して生命活動を一時停止し、再び解凍すると生命活動を再開できる能力を持っていることです。これにより、極寒の環境での生存が可能になります。
さっき書いたコロンブスの第3回航海は1498年。
そのコロンブスの報告を受けたスペインが、1499年に南米調査のための船団を派遣して、そこにアメリゴが加わった。
1500年にカブラルがブラジルに上陸・探検して、そこを未発見の島だと考え、ポルトガルの領土宣言をした。
それを受けて、ポルトガルが1501年に南米に船団を派遣して、そこにまたアメリゴが参加した。
そうしたいくつかの航海を経てアメリゴが「赤道を越えてだいぶ進んだけどぜんぜん陸地が続いてるし生態系や原住民の文化も変だからこれは新大陸だよ」と報告して、
その報告を読んだ地図製作者が「新大陸だって最初に言ったのはアメリゴさんじゃん!」と思って、自分が作った地図の新大陸に「アメリカ」という名前をつけたから。
政府「一人当たりGDPがうなぎ登りで経済成長が止まらないぞ!
在来種「外来種を放つバカが消えて日本の生態系は守られたぞ!」
ネット「誹謗中傷・差別・対立煽りのない平和なネット環境になったぞ!」
男女「ツイフェミやアンフェが消えて男女対立煽りがなくなったからこれからは仲良くするぞ!」
レストラン「騒ぐバカガキや放置するバカ親が消えて静かになったぞ!」
迷惑系youtuber「迷惑行為を働いても誰も見てくれないから真面目に働くぞ!」
野党「支持してくれるバカが消えたからまともな野党になるぞ!」
与党「野党がまともになったから政権奪われないように真面目に政治するぞ!」
ビジネス右翼「支持してくれるネトウヨが消えたから真面目に働くぞ!」
飲食業界「バイトテロがなくなって安心してバイトを雇えるぞ!」
学校「いじめやモンペからのクレーマーがなくなって平和になったぞ!」
子育て世代「問題行動を起こす教師や保育士が消えたから安心して子供を預けられるぞ!」
親「引きニートが消えて老後は安泰だぞ!」」
アニメ業界「薄っぺらい駄作じゃ誰も見てくれないからこれからは質の高い作品を創るぞ!」
広告「萌え豚や腐女子が消えたから不快なエロ広告はやめにするぞ!」
救急隊員「くだらない理由で救急車を呼ぶバカが消えたから大切な命が救われるぞ!」
この金額なら命がけでやります、でも命が惜しいのでお金積まれてもやりませんって、もう何言ってるかわかんないじゃん
提示しても結局やれないんなら、悪態付かず折り合いが付きませんでしたで良いでしょ
やらないのは自分の意志ではなく、自治体のせいだっていってる態度が嫌なんよ
それに負担額の概算出してから、現実的に出来る案に落とし込むことをしていかないと何も始まらないでしょ
そこで生態系に詳しい人が大学の先生に聞くのは何も間違っちゃいない
数減らしたくな言ってる人が良いるなら、その人に負担させればいいでしょ
(前半からの続きです。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093126
もっとも、現代アートは手放しで褒められるものでもないでしょう。多くの批判者が火のないところに煙を立てているとは言えないと思います。作品の出来が悪いものも混じっていることは否めません。
大方の批判にもかかわらず、私は今回のトリエンナーレではそのような「的外れ」感のある作品はほとんどないか、かなり少なかったと感じています。これもキュレーションのよさでしょう。
思い返せば2020年のトリエンナーレにあった「エビにSEXをさせる方法を考える」という一連の展示はひどかった。テーマはとてもよかったのですが、日本(だったと思います)のクリエイターたちの作品はふざけているとしか言いようのないものでした。その課題は、「エコスフィア」(エビと水草の入っている閉じた水槽)の中でエビは酸素を吸って二酸化炭素を出し、水草は二酸化炭素を吸って酸素を出す。この循環のバランスはうまく保たれているが、一つ問題があって、エビは生殖をしなくなる。そこでエビに生殖をさせる方法を考える、というものでした。多くの作品はエビにセクシーな格好をさせるとか、エビの秘宝館のようなものを作るとか、そういうものだったと記憶しています。しかし、クリエイターたちはこの「エコスフィア」が地球の生態系の比喩であると気づかなかったのでしょうか? だとしたら愚かに過ぎるとしか言えません。それとも、気づいていてこのような作品を作ったのでしょうか? だとしたら二倍悪い。エビとは「私たち」に外ならないのだから、つまりクリエイターたちは女がセクシーな格好をして男を誘えばよいと言いたいのでしょうか? それはあまりにも「男尊女卑」に終始していると言わざるをえません。そこには問題意識が欠如しています。「教授の課題テーマはよかったが、学生たちのレポートがだめだったという感じだ。」私は友人とそう語りあったことを覚えています。
2020年といえば壁にブレインストーミングのように年号と出来事を書いてゆく展示もありました。そこには作家のメモも展示してあり、『荘子』の「胡蝶の夢」の故事が引用してありましたが、「與」を「興」と書き誤っていたことを覚えています。自分のことは棚に上げつつ、非本質的でささいな事をあげつらうようですが、「どうかわからないことで見栄をはらないでほしい」と思われてなりませんでした。
現代芸術の作家たちの一部が「見栄をはろう」としていることは薄々感じられます。人文学、哲学、歴史学、経済学などに議論の蓄積がありとっくに通過してきた知見について、芸術家たちが何周も遅れて的外れなことを言っている光景は、あまりみっともいいものではありません。なぜそのようなことになっているかといえば、芸術家が「作品」だけではなく、その「意味」で評価されるようになっているからでしょうか。
かつて芸術家は貴族の注文にこたえて絵を描いていたそうです。今の作家は自由に作品を作れるはずなのに、ただ社会の要請にこたえて作品を作ろうとして、中身のないステートメントを打ち出しているのは、痛々しくさえあります。
しかし、これは決して「アーティストはよけいなことを考えるな」と言いたいわけではなく、むしろその逆で「もっと学問をしてほしい」ということです。しかもそれは「芸術家」としての意識以前に、「市民」として当たり前にもつべき意識であると思うのです。芸術家は作品だけで力のある面白い作品を作って、そしてそれとは別に最低限、当たり前に市民として的外れでない発言もしてほしいのです。
トリエンナーレと同時開催の展覧会Bank ART Life7「UrbanNesting: 再び都市に棲む」に足を運ぶと、新高島駅地下1階の会場の入口には巨大な土のダンゴがありました。これはかなり面白かったのですが、説明を見ると福島の土で作ったとありました。もちろん福島の原発事故はまだ収束したと言えませんし、提示された問題は深刻です。しかし、その場では私も友人も何となく興が醒めてしまったのです。それはなぜでしょう? 何となく、「作品の面白さにテーマが負けている」と感じました。私も「キラキラ」なアートを好む一員であり、私の中で「無意味」のもつ破壊的な力に「意味」が負けてしまったのかもしれません。あるいはその逆で、テーマの重さのために、作品が軽く見えてしまったのかもしれません。いずれにしても、私は作品のよい受け手になることができませんでした。
しかし問題は受け手だけにあるのではないと思います。「作品」と「意味」のバランスは難しいことであり、作り手の側でもうまく調整しなければならないものです。先程述べた通り、今回の展覧会にはピンボケな作品が少ないと感じました。しかし、今回の出品作のうち、どれくらいが「意味」(言葉による解説)なしに「作品」だけの魅力で勝負できるものだったかは疑問も残ります。
今回の展示にあったBゼミの試みはよかった。「意味のないものを作る」とか「新しい楽器を作る」とか、芸術を意味から解き放つような試みは今でも頼もしく思われます。どうもいまのアートは、意味を付与された瞬間に弱くなってしまうような気がしています。作品と意味との関係性については、まだまだ考える余地がありそうに思います。
私の身近に YOASOBI のアニソンが好きでないという人がいます。「アニソンというのはアニメの解釈であり、アニメへの讃歌であり、しかしアニメ本編とはズレているから面白い。YOASOBI の歌はアニメのストーリーをそのまま歌っている。だから面白くない」と言うのです。何となくわかる気もします。偉そうに勝手なことを言うならば、現代芸術も世界にあるモノをそのまま出すのでなく、世界をアートの形で表現するとどうなるのか、「意味」に傾きすぎず「作品」の力で見せてほしいと思います。
しかし、芸術に「意味」をこめるなというつもりではありません。批判者の中には、芸術家は被災地を創作で消費するのではなく、実際に活動をすることで被災地に貢献すべきだというような意見を言う人があったような気がします。もちろんそのような活動はしないよりもしたほうがよいのですが、それはあくまで「市民」としてのはたらきであって、「芸術家」としてのはたらきではないでしょう。芸術家には芸術家にできることがあり、それは創作であるということを否定するつもりはありません。しかし、だからこそ「作品」と「意味」にはもっとよい関係があるのではないかと思います。その答えが何かということは、残念ながら即座に提示できないので、偉そうに勝手なことを言うだけになってしまうのですが……。
批判めいたことのついでに言えば、今回のトリエンナーレを批判する意見の中には、電気を使ったインスタレーションと環境問題を訴える作品を同じ空間に並べることの違和感を語る人がいたように記憶しています。その違和感も理解できますが、それとは別に、芸術と資本の関係という問題も感じました。入り口の協賛企業の一覧を見たとき、たいへん違和感がありました。資本主義への警鐘をならす作品(全てではないにしろ)が、大資本の資金で展示できるとは! 大企業はそのようなお金を出すほうがよいと思いますけれど、その一方で企業がそれを「みかじめ料」として批判されなくなるべきではもちろんないでしょう。作品が意味をもつときには、その作品のおかれる「場」までもが、自らの意味を暴露するようになるのかもしれない。初っ端からそんなことを考えさせられるなかなか面白い「展示」でした。
咎め立てばかりしてしまったようですが、最後によかったところをいくつか述べたいと思います。友人は、今回のキュレーターの解説文(紹介文)がよかったと言っていました。友人によると今や「この作品はこう見るべきだ、ここが素晴らしいのだと天から決めつけて、自分に酔ったような解説」を見ることも多いなかで、今回の解説文は「キュレーター自身が作品をどう見るか、真摯に考えて書かれていたので好感が持てる」というのです。また、「キュレーションにも工夫が多かったような気がする。例えば商業主義のマルボロの広告の下にインドの貧しい生活を描いた版画を配置するなど、『対比』を意識したものがいくつかあったように感じた」とも言っていました。キュレーターの仕掛けた「作品」と「意味」の関係性のバランスは果たして十分達成されたかどうか、それはよくわかりませんが、キュレーターが真剣に構成しており、私たちに問いかけるものがあったのは確かだと思います。
要するに、初めに述べた通り「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということです。言いたいことはこれに尽きます。
魅力のある作品も少なくありませんでした。友人は勅使河原蒼風のファンになり、富山妙子の画集を買いました。私は土肥美穂の buttaiが気に入りました。同時開催のBankART Life7では、みなとみらい駅の腕木信号のオブジェや、Bank ART Stationにあった送風機で立ち上がる足などの機械仕掛けの作品が好きでした。
つらつらと思いつくまま書くうちに、思いがけなく長文になってしまいました。次回のトリエンナーレにも期待しつつ、このあたりで終わりにします。
2024年から活動を開始した霞ヶ浦北浦資源保護協議会という団体がある
この団体は、一見すると霞ヶ浦や北浦の漁業資源を持続可能にするために活動しているように見える
(ただし、「環境」や「生態系」という言葉は意図的に一切使っていないようだ 怪しい)
また、この団体が保護対象とする「資源」とは何なのかについても、意図的に曖昧にしている 怪しい
この団体についてwebサイトから読み取れることを書いていこうと思う
何を保護しているのか
上にも書いたが、この協議会は「資源保護」を謳っているものの、具体的に何を保護しているのかは明確にしていない
ただ、バス釣りをする人からすれば一目瞭然で、実際にはブラックバスという外来魚の保護に力を入れていることがすぐに分かる
その根拠を書き出してみよう
1.協議会のメンバーを見てみると、その多くがバス釣りに関連する業者や団体であることが分かる 具体的には、レンタルボート店、釣具店、そしてバス釣りのトーナメント運営団体が名を連ねている
2.協議会メンバーの開催するバス釣り大会のルールに言及があり、魚体保護などの呼びかけを行っている
3.霞ケ浦水系でバス釣りをする人には有名な「ブラックバスのスポーニングエリア(産卵場所)」での釣り自粛を、ブラックバスの産卵時期に合わせて呼びかけている
これだけでもう根拠としては十分だろう
どのような活動内容なのか
以下のようなことを実現するために活動していく、と書かれている
(保護対象がブラックバスであることをこの団体は建前上隠しているようだがここでは補足して書く)
・遊漁券の収入で漁協に「ベイトフィッシュ(バスの餌となる魚)」を放流してもらう
・バスの産卵期に、一般の釣り人に対して、ブラックバスの産卵エリアでの釣り自粛を呼びかける
ブラックバス保護という目的を前面に出すつもりがないのに漁協に放流してもらいたい魚を「ベイトフィッシュ」と表現してしまうあたり、残念さを隠しきれていない
問題点を書いておく
ブラックバスは生態系、漁業資源に悪影響を及ぼすため特定外来生物に指定されている
1993年に発効した世界の環境保全を目的とした国際条約「生物多様性条約」に日本は批准した
条約に基いて国は「生物多様性国家戦略」を作成し、実効性のある法として特定外来生物法が作られた
根絶を目指していくことには、国家戦略として30年前から社会的合意が得られていた
そんな生物を、目的を意図的に隠して保護活動をするなど控えめに言っても反社会的だ
密放流の横行が前提で築かれ拡大した業界にはそもそも存在の正当性がない
奴らは一部の心無い放流とか言うが、バス釣り業界の人間が組織的に放流していたことを告白した文献も多数ある
釣り具の市場規模はバス釣りが最も大きい それゆえマナーを呼びかける他魚種のプロアングラーも業界に忖度してバス釣りにモノを言えない
こんな奴らの提灯記事を書いている雑誌が釣り文化を語りだす 狂っている
そんな外来魚の漁業被害で霞ケ浦水系の漁協は困窮し、霞ケ浦の漁業文化は風前の灯火である
その困窮の原因を作ったやつらが、困窮した漁協の頬を札束でたたいてバスを増やすために「バスの餌」を放流させる
狭い趣味の業界の目先の利益のために共有財産たる自然環境を食いつぶし、それを経済効果だと言って行政や漁協を懐柔し、「餌」の放流に協力させようとしている
NHKのEテレで「夏井いつきのよみ旅!」という番組をやっている。これは、TVバラエティの口の悪い添削でおなじみ?の俳人夏井いつきと、元ホストのホストクラブ経営者・ローランドさんがあちこち旅をしながら俳句をなんか色々する番組らしい。番宣しか見てないから、どんな番組か説明しようとして急に文章がぼんやりしたが。
なぜ番組を見ないかといえば、どちらの出演者も好きじゃないからなのだが、特にローランドさんが本当にこう、TV出るのかーそれも公共放送の教育チャンネルに出すのかー、という思いだ。このいろんなことがあったご時世に。「俺の店では売掛やらないよ」とブログで宣言したことで男を上げたみたいに言う人もいたが、やらない宣言したということは、やってたんじゃん、って思う。まぁ過去のこと言ったところで詮無いんでしょうけど。
ローランドさん個人や彼のやっている店が「悪いホスト(クラブ)」かどうか、ということは私には知る由はないが、ある種の象徴として「TVに出ている元ホストの有名人」だ。
なんだかなー、「社会に許されてんなぁー!」って思う。
歌舞伎町やホスト界隈ではなぜか短歌や俳句を作る勢力があって、数年前にバズった「ホスト万葉集」や「アウトロー俳句」と、作品になっているものもあるのだが、ローランドさんは、なんか松本人志の痛いエッセイみたいな感じの本は出しているけど、詩(短歌や俳句)はしたためてはいない。のになぜか「俳人と旅する番組」の出演者に収まっている。
つまり「象徴としてのホスト」としてブッキングされてるんだろうと思うのだが、つまり「象徴としてのホスト」は、Eテレで番組持ってる程度には社会に許されてんのなぁ~~。
夏井いつきもせっかくホストを連れて旅に出たいっていうなら、「象徴としてのホストタレント」じゃなくて、アウトロー俳句まわりのホストの人とかを連れて旅をすればいいのに。アウトロー俳句相当いいものなのにな。まぁ夏井いつきがホストと旅したがっているわけじゃないとは思うが。
まぁ鮮度の高いホストだと、さすがにTVサイズじゃないんだろうけど、でもなーなんかなー。
頂き女子のマニュアルらしきものが流出して、ホストを頂点とした「水商売のタコ部屋構造・弱肉強食生態系モデル」みたいなものを多くの人が想像しながら、頂き女子を罵倒したり(まぁ仕方がない面はあるだって犯罪容疑者だもの)、頂き女子にカモられたおぢを馬鹿にしたり(かわいそう)、うっかりキャバクラ行って「頂きそうなキャバ嬢トーク」を目の当たりにしたうっかりしたおっさんを馬鹿にしたり(かわいそう)している。
なんていうか、ホストに貢いでた」キャバ嬢や、キャバ嬢に貢いでたおっさんたちは「社会に許されてない~~」という感じである。キャバ嬢は、そして頂かれたおぢたちは、Eテレでお金出してもらって旅とかしてない。
まぁ個別にいえばローランドさんは悪いことはしてない(表面上。でも売掛はやってただろう?とやっぱり思う)から当然、許される許されないということではない。
一方で頂き女子は容疑者だし、だまされたおぢ達は凄くかわいそうだけど根底には下心があるだろうから100%の同情は生まれにくいというのはあるだろう。でもローランドさんはたぶん売掛さんざんやってたんじゃねーの?と思うんだよな。
まぁ、そうはいいつつ、ローランドさんについてはあんまり知ってることがないから今検索してみたけど、別の源氏名だったけど女を金で見たくないから源氏名を変えたとあって、まぁそういうことなんだろう(売掛さんざんやってたんじゃねーか、というか)
でもその辺は明らかにせず、良い感じにウォッシュしてTV番組に出ていると、いつの間にか社会的に許されてるポジションにいたりする。なんだかね。なんだかなー。
全然話は変わるが、実は、キャバ嬢にハマったおぢを3人ほど知っていて、ハマるところから破滅するところまで身近で観察したことがある。昔の職場にいたのだ。辞めてよかったあの会社笑。
正確に言えば、ハマった3人のうち2人は社会的信用がかなり棄損され、1人はハマりかけてたが「はしかが治った」感じで収まった。
社会的信用の棄損、というのは要するに「妻と別居」「離婚」「左遷」「弁済」である。まぁ今でも元気に暮らしているような話は風の噂で入ってくるが、別居の人は、別居したまま10数年、なぜか離婚せず結構な金額の妻子の生活費を振り込みされられ続けているらしい。自業自得とはいえお気の毒である。
さて、ハマったおぢ3人に共通しているのは…、と考えて特に外的には大きな共通点がないのだった。
お金はそれなりに(キャバクラ通えるぐらいには)あり、3人とも結婚して子供もいた。未婚だからカモられおぢということではないように思う(まぁ結婚してたって孤独ってこともあるからねぇ)。あと「断れないタイプ」のような弱者男性らしさもなかったと思う。3人のうちの一人は私が別の会社のオッサンからセクハラターゲットにされたときに助けてくれた人だったし、別の人は会社の宴会や懇親会でも人気のムードメーカーのような明るい人だった。見た目も別にごく普通。
色々ほんと色々あって左遷されることが決まった人に、何でハマっちゃったんですか?と聞いたら「だってあんなきれいな子が俺の話で笑ってくれるんだよ!」と言われて、あーダメだこれは…と思った思い出。強いてあげれば3人の共通点は「若くてかわいい女の子がとにかく大好き」なところだったかも。
ハマりかけてたけど治った人は、その職場において三人目だったわけだが、周囲が全力でもう、止めたよね。
「医学部に行くお金をキャバで稼いでると言っていた、いい子なんだまじめな子なんだよ、親御さんが女が医者になるなんて生意気だと反対していて学費出してくれないって言うんだ」と、割と目が据わった表情で会社の忘年会で言われて、同じ卓に座っていた全員が目を合わせて「…第三の被害者が」という感じになった。それはキャバ嬢や風俗嬢の常套句だよと第二の犠牲者の人が言って、私たちもスマホで色々検索したりして「ほら手口なんだよ」とかさんざん皆で説得したけど駄目で、結局2次会の後に、第二の犠牲者の人とそのキャバクラに行ってた。
そして第二の犠牲者の人(離婚済)がそのキャバ嬢にハマって、第三の人は「まんまとハマった第二の人の様子」を見て己を客観視できたらしく、その日でキャバクラ通いをすっぱりやめたみたいだった。
要するに、別に「かわいそうな弱者男性」だけがターゲットなわけでもなく、そして「下心はいろんな危機管理レーダーを簡単に狂わせる」んだよね。まぁ気持ちの暴走はどうしようもないのかもしれないけどさ。
まぁ、貢ぐおぢは社会的弱者のGiverだ、というのは、当てはまってない被害者も結構多いんじゃねーかなとは思うんですよね、だって下心があるからお金を貢ぐわけで、別に純粋な気持ちでお金出してないわけじゃん。ヤラセてもらえるかも、俺は彼女にとって特別だから、と思うから貢ぐわけでしょうし。
21世紀単体でいうなら日本なんて経済活動が衰退してるから生態系への影響どんどん弱くなってるけどね
経済活動が衰退してるから管理できなくなってるし逆に環境教育もできない
食糧生産が生態系サービスと密接に結びついていることと食べることが好きな人が生態系の保全に興味あることは全く別の話というかむしろ相反さえするよね