はてなキーワード: 教養とは
私は昨年4月東京大学理科一類に入学、意気揚々と授業に臨むが……。
Sセメスターでぽつぽつと、Aセメスターでごっそり単位を落としたので自主留年した。
様々な授業に苦しめられる。
ALESSは毎週毎週締め切りギリギリに徹夜して課題を提出していた。当然内容の理解なぞできるはずもなく、リスニング力不足のせいで授業で教員の英語も全く聞き取れず、ただひたすら苦痛の時間が続いていた。
そんな中で二外の勉強に身も入らず最終的に授業に行かなくなってしまった。当然二外は落とした。
力学は未知の数学的処理を既知のものとみなして授業が進行していた。板書も死ぬほど早い、理解するより早く授業が進む。
またも授業に苦しむ。
二外は当然意味不明になって授業に出なくなる。
そしてなにより物理実験がゴミすぎる。ただひたすら実験ノート写経させて何が身につけさせたかったのでしょうね。
そんなこんなでA2ターム始まったあたりから普通に学校に行けなくなってしまい派手に落単。実験担当者にはとてもここには書けないような感情を抱いている。
英語中級が意味不明すぎる。オール英語の授業とか拷問ですか? 普通に教員の英語が聞き取れない。
二外はALESSが無い分まあまあ勉強する余裕ができたので良かった。ALESSはクソ。それはそうと二外にはとてもここには書けないような感情を抱いている。理系で二外やる意味あんのか。
ついでに下クラに落ちたが下クラとの関係性は最悪である。まあ別にどうでもよいんだけど。
何だかんだで英語中級以外はそこそこ楽しく過ごせて、結果的にフル単できた。やっとのことで勉強の楽しさを思い出せたので頑張れそうかなーって。
実験の単位が取れていた分かなり心穏やかに過ごせている。やはり実験が諸悪の根源なので滅ぼさねばならない。
まあまあ今のところ順調にできている。心穏やかに過ごせている。
ALESSと基礎実験は滅ぼさねばならない。
この手の絵のアンデルセン童話やグリム童話の絵本って自分の子供の頃にはすでにあったな
アンデルセンやグリムも前世紀以前の欧州では教養ある中流以上の家庭の読み物だったでしょ
ごく自然な流れだと思うけど
「あ、鳴つた。」
と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。
「近いやうだね。」
「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」
「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」
「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」
「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐるから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます。
母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ。
本当だ。
社会学者が間違ったことを言ってるときに、外部からの批判より同じ社会学者からのほうが聞いてもらえるんじゃないかなあ
と思ったけど、文系の場合は指導教員のエピゴーネンに徹しないと博論も受け付けてもらえなさそう、という偏見がある
駒場の進振りは文系がどうなってるかは知らないけど、後期教養とかのそっち系はD進する人も少ないし、指導教員の寵愛を受ければ社会学のインナーサークルでコスパの良い人生が送れるんだろうなあ
親離れの時期かもね。あなたの人生だからあなたのやりたいことをすればいい。
クラシックやジャズをプレイヤーとして楽しめるなら、周囲の評価なんて関係なく、とことんそれをやればいい。
違うジャンルの音楽をやってみたいならそっちの方向にいけばいいし・・・
親が優秀すぎて、、、という気持ちは私にはわかるような、分からないような・・・
ただ、あなたは自分が「親の七光り」なんじゃないかと思ってるみたいだけど、音大入れるならそれなりに実力あると思うよ。
ほとんどの人は「七光り」とまでは言わないけど、ある程度は親の教養や経済力とか、社会的地位とかの恩恵にあずかっていると思う。
だから、あなたが今の境遇を自分のやりたいことのためにソレを使うのは全くズルくないし、とことん利用すればいいじゃん、って思う。
この道は違うな、と思っているなら、もう音楽をやめてしまって、保育系とか違う道に進んでもいいんじゃないかな。
アカデミズムには期待していますが、仮にも人文科学や社会科学や自然科学を学んでいるのに、専門知をもてあそんで相手を恫喝してその手前の教養や見識で醜態をさらしているツイッターでの自称学者の多さに唖然としています。
これ
https://note.mu/vino_cavolfiore/n/n98131f3f9bf5
を読んで、ブコメでもいろいろ書かれていたけど、お客さんの気持ちもわかるし、
結局のところ、これはお店とお客のミスマッチで、
元ツイートも要はただのミスマッチで事故みたいなものなので、気にせずに流せばよいのに、
なんで、こんなミスマッチが発生するんだろう?
といえば、やはりおとなの週末のようなグルメ雑誌や食べログのような情報によって、
誰もが一流店を知ってしまうことにある。
たとえば、一人5万するお寿司屋さんに、自分の金で行こうと思う貧乏人はいないわけだけど、
「パチンコで10万勝ったから東京一の寿司屋に行くか!」だとか
「いままで東京に来たことないおふくろが初めて東京に来るから、田舎にはないフランス料理を食べさせてやるか!」だとか
そのときに、自分の住んでる家の近くの寿司屋や(ビストロくらいの)フランス料理屋に行けばいいのに、
変に情報がいっぱいあるがゆえに、検索してそういう身の丈に合わないところに行ってしまうわけだ。
私見では、ないと思う。ただし、貧乏かどうかが問題ではなくて、客とお店の間にリスペクトや信頼関係があるかが重要。
今回の例でいえば、申し訳ないけど、リストランテでパスタしか頼まないとか、
高級レストランで龍のスカジャンで来るとか、そういうのはやはりそのお店や料理の文脈に沿っていないと思うのです。
文脈に沿っている、ということはとても重要なことで、「はいはい、また空気を読めってことね」と言われるかもしれないけど、
その通りなのです。
でも、美味しいお店を紹介してくれる先輩とか、いろいろと教育してくれるお店とか、
そういう経験で、なんとか少しずつ学んでいる最中。なぜなら、美味しいものをつくっている人をリスペクトしているからね。
それは向こうにも伝わるので、「(あなたがいまお金ないのは知ってるけどお金ができたら)今度はこれ試してみてくださいね」と言ってくれるわけだ。
横浜の店長も同じで、スカジャンの彼自身がお店をリスペクトせずに来てしまったことを自覚していたからこそ、
「今度はこういう格好で来てくださいね」って言おうとしたんだと思う。
逆に元ツイートの親子は不幸なミスマッチではあったけれど、「こっちはお金払ってる客なのに、なんでこんなこと言われなきゃいけないの?」というのが顔に出てたんだと思う。
もちろん元ツイート主はこんなことツイートすべきじゃなかったと思うけど。
あー、めんどくせーなーと思った人。
それなら自分も相手もいい気分で仕事したいですよね。だから、そのお店の雰囲気や文化を大切にしなきゃいけないんです。
そうじゃないと、ファストフードやチェーン店でいいじゃないですか。
食事なんてどこでもできるわけで、ファストフードやチェーン店は十分美味しいどころか、コスパを考えたら最強ですよ。
コスパ度外視で、エンタメ目的で行くのがレストランなのであって、やっぱそこには個々の、独自のルールや文化があってもいいはずです。
で、最後に。じゃあ、どうやってお客はそれを学ぶの?って話。
一番いいのは誰かに教えてもらうことだけど、それは難しいので、
まずは家の近くとか、一番大きな最寄り駅付近のお店に行くこと。
いきなりおとなの週末やら、食べログやらで東京1位の店に行こうだなんて思わないこと。
これほんとに重要。
そこで、自分にとって美味しいものとか、好みとか、新しいものを試したときの面白さとか失敗とかいろいろ学ぶから。
で、新しいお店に入って、頼み方やルールがわからないときは、お店の人に恥ずかしがらずに聞こう。
でも、予算がよくわからない場合があるので、多めにお金を持って行った方がいいと思う。
次に、お店の人におすすめを聞こう。たぶん一番高いやつを進められるかもしれない。
そうしたら、それを頼めばよいし、それが美味しくなければ、その店はその程度ということで二度と行かなくてよい。
これが勉強代ってやつだ。
だんだんそうやって慣れていくことで、その手のお店に入っても、特に緊張することなく、自分の好きなものを頼めるようになる。
元ツイートのお店だって、もしよく通っていて、常連になっていたとしたら、
「今日はあんまりお腹すいてないから、軽めの食事がしたいんです。パスタだけ頼んでもいい?」って聞けば、
快くOKしてくれたんじゃないかと思う。だって、いつもはお店の文化を知ってくれてる良いお客さん(これは金払いがよいお客さんというわけではない)なので、
それくらいのわがままは聞くと思うよ。リスペクトされてることお互いに知っているわけで、信頼関係があるんだもん。
お金が全てじゃないよ。
これらは「こだわり」でもないと思うよ。
そうではなくて、マッチ・ミスマッチをはっきりさせるための一つの手段。
10年位前にある先輩に連れて行ってもらったレストランのジビエは本当に美味しかった。
かなり背伸びしたお値段だったけど、払ってよかった。一つ自分のレベルが上がったなって思った。
たしかにそういう部分が多くある。美術館に例えるのは、格式が高すぎるかもしれないけど、
そういうところに行くのに、いきなり行っても面白いけど、
少し美術史を勉強してから行くと、もっと面白いじゃないですか。
よりすごさがわかるというか。
動画の種類
Youtube・・・成金がひたすら金持ち自慢してるだけ 注目あつめるためだけの嘘サムネ 詐欺タイトルデカ文字 テレビの真似事
ニコニコ・・・今となっては陳腐でも、 MMD杯やMADなどその当時なりに最先端の映像技術や面白さを追求していた 映像技術では比べるべくもない
動画の種類
Youtube・・・5分10分の動画だけ 商品レビューが大半 子供が喜ぶので派手な効果音をいれまくって変顔()をしまくりましょう
ニコニコ・・・教養系や考察系など普通に30分の文字動画をいくつでも見てられる 商品レビュー() なんてなかったし あってもだれも見ない
Youtube・・・テキスト垂れ流しニュース動画が数万数十万再生される
ニコニコ・・・そんなもの見向きもされない 再生ゼロコメントゼロで終わり
Youtube・・・なにもなし 注目あつめるために犯罪やいたずらしたりとかのクズが増えただけ
ニコニコ・・・・淫夢などのネットミームの遊びのプラットフォームとして機能 数々のスラングや名言が生まれる
youtube・・・ゴミ糞 ただひたすら糞 タグに意味ない なにかを検索すると「似たような文字列を含む再生の多い動画」が表示されるゴミカス
ニコニコ・・・・事細かく設定できる、がタグで見たい種類の動画だけをピンポイントに見続けられる というかタグで巡回するだけ 文字検索なんてしない
youtube・・・検索機能が実質的に存在しない為、初投稿者やビギナーの動画は存在しないのと同じ 本田翼とか芸能人はニュースやプレスリリースで視聴者をリンク誘導してから参入
ニコニコ・・・・登録者数なんて概念がない 誰が投稿したかなんて見ないし気にもしない 誰が投稿したから伸びるとかもない 動画の面白さそれ自体しか見られない 初投稿する奴とベテランが同じ土俵で評価される 先述のタグ機能で
Youtube・・・ただひたすら無差別目的に動画を再生させてCMを再生させて金を稼ぐのが目的 動画の質よりも動画を投稿する頻度のほうが大事
ニコニコ・・・先述のタグで 自分の動画を見たい層に見せるのが目的 それ以外の層に再生されるコメントされる必要がない カネは一切絡んでないし、絡んだやつが人気になったり注目されることもない
Youtube・・・企業の宣伝、ステマ、それから報酬もらったYoutuberなどが大半 なにかを宣伝する、なにかを売る、どこまでいってもただひたすらそれだけ 人気とされる投稿者は全てそう
ニコニコ・・・なんの利害もないアマチュアが、自分の動画を、見たい層に見せるのが目的 ただそれだけ それで面白い
Youtube・・・コメントにlike/dislikeがあるが、有名人がコメントしたらlikeが多いとかそんなもの likeが多いと上に表示される 「here is an english comment your are looking for」とかいう意味不明なのに使われたりする
ニコニコ・・・ニコるというコメントを評価する機能があった 誰が言ったかなんてまったくどうでもよく コメントとしての面白さだけが追求されていた
youtube・・・投稿者が自由に設定できる 数秒きざみにCM設置して1分の動画見るのに1分以上のCM見させたりとかも可能
ニコニコ・・・・youtubeほど多くない 最初と最後にちょっとあるだけ
総括
2015年あたりまでは日本国内では圧倒的にニコニコのほうが勝っていた
Youtubeに比べてよく動画の重さシークできなさが引き合いにだされたが、それらを補って余りある魅力によって
Youtubeがタダで使えるにもかかわらず、年間6000円払う有料会員を250万人も擁する世界最大の課金動画サービスだった
特にオタク界隈ではニコニコ発のネタが殆どでYoutuberなんて空気でただのロダ扱いだった
Youtubeでニコニコの転載動画が再生数万数十万いくことはあっても
ニコニコでYoutubeの転載動画が注目集めたり話題になることはなかった
見ての通り最初に技術者が作ったサイト自体の機能性でYoutubeを突き放して何年間も人気だった
コンサルタント曰く、この婚活パーティの参加者は常連が約8割。
つまり結婚したくてもできない人間、“売れ残り”ばかりが棚に並んでいるんだ。
そしてこのお見合いパーティは、“一向に終わる気配のない閉店セール”のようなものだ。
人気の商品は早々に売り切れて、見栄えのしない商品ばかりがいつも残る。
たまに新商品を入荷させて誤魔化し、在庫を捌くためにズルズルと続ける。
だからそこに陳列された商品は不良とまではいかずとも、売れ残るのも已む無しなことが大半である。
タケモトさんが最初に話したのは、淑やかな雰囲気を持った女性だった。
しかし、あくまで雰囲気だけであり、いざ話すと中身は悪魔である。
「一説には、男性は“最初の人”に、女性は“最後の人”になりたい傾向があるようですね」
「ふふふ、言わせないでくださいな。セクハラで訴えますよ、もう」
冗談の意味が分からないが、タケモトさんはとりあえず追従して笑った。
「えー? あ……ははは」
柄にもない、不本意な笑い方だった。
「えー、どうでしょう、ね……ははは」
そのあとも終始ペースを握られたまま、よく分からない主語抜き会話が続く。
「わざわざ言うことじゃないでしょう」という文脈。
そんな話に対して、タケモトさんは愛想笑いを繰り返すしかなかった。
「お時間となりました。席を移動してください」
そして何とか体力を残しつつ、次のレースへ出場することができた。
「あー、助かった……」
「“助かった”……とは、何がです?」
「えっと、あー……言わせないでください」
まだ始まったばかりではあるが、タケモトさんは自分の心肺がもつか心配だった。
「学歴ってやっぱり大事だと思いません? 教養の違いが会話にも滲み出るというか。都心の大学はやっぱり違いますよ」
「はあ、そうですか」
単に巡り合わせの問題だと開き直るべきなのか。
「総資産は如何ほど?」
「え?」
「収入や貯金よりも大事なのは総資産ですよ。貯金は多くてもボロ家住まいの人と、貯金は少なくてもマンションを持っている人。甲斐性があるのは後者でしょう?」
「な、なるほど……」
望むように応えることはもちろん、上手く答えることすらできなかった。
「タケモトさんってダンディですね。ルックスもシュッとしていて。最近流行のアレとか似合いそう!」
「そうですか?」
「そうですよ。でも見た目で判断するなんて~っていう方は多いですよね。とはいえ、いうでしょ? 『性格よければいい そんなの嘘だと思いませんか』って」
「それは通説、霊験ってやつですか? それとも誰かの格言?」
「ご存知ありませんか」
「すいません、不勉強で……」
そんな調子で受け答えはロクにできていないのに、なぜか体力はどんどん奪われていった。
「私は結婚したいだとか、人生のパートナーが欲しいだとか以上に、子孫が欲しいんです」
「し、子孫、ですか」
「子孫を望み、慈しむ。生物的に正しい心の有り様でしょう」
「そうです、ね」
「そして家庭を持つことも繁栄のために必要なことです。この社会も、シングルマザーより扶養の方が色々と待遇が良いでしょう?」
「まあ、はい」
「字なんて誰でも書ける、絵は描けない」
痛いほどわかる。
すごくすごくわかる。
いままでテストの回答や読書感想文、私たちはどれだけの文章を書いてきたのか、どれだけの文章を読んできたのか、もうわからない。
それが面白いかそうじゃないかは知らんが、日本人が読んで意味を理解できる文章は書けるでしょ。
少なくともTwitterをやってる人たちならね。
では絵は?
絵を描く機会、文章を書く機会と比べてどれくらいあった?
ほとんどの人は図工の時間と美術の時間、後せいぜいノートの端っこの落書きくらい。
でもクラスに数人はいる、絵を描くのが大好きで、何度も何度も白いページを埋めてきた人たち。
そりゃ上手くなる。たとえ描いてるその時上手くなくたって。
私は絵を描けるようになりたくて高校の時にほぼ0の状態からワンドロめちゃくちゃ描いてみたりしたけど上手く描けない自分に嫌気がさしてやめちゃった。ずっと続けてたら今は見れるレベルの絵が描けるようになってたのかな。それはわからないけれど。
絵も文章もみんな何度も繰り返し繰り返し書いたり描いたりしてきたから、今上手になったんだよなぁ。
ただ文章は書ける人が圧倒的に多くて、絵はそれに比べると少ない。そういう話。必修じゃないから。
あれ、なにを言いたいんだっけ。本題とか何も考えずに書いてた。本題、なんだっけ。
ま、文章書けるって言ってもセンスの違いとかあるよね。「日本語として読める」文を書くことと「面白い」文を書くことってハードルの高さ相当違うわけで。
面白くない文章はその辺にいっぱい転がってる。この文章もそう。
でも誰かが、義務でもないのに、最後まで読んでくれる文章を書けたなら、それは誇っていい。人に興味を持たせる文章を書くことに成功しているのだから。
たとえ文章を書く能力を持っている人が沢山いて、自分がその中の小さな小さな一人だったとしてもそれは────ここまで書いてさ、文章書くの飽きたわ。ごめん。
最後まで完結させられる人、天才だよ。えらい。最後まで書けない人、多いよ。私みたいにね。
でもここまで読んでくれてる人がいるってことが、この文章が人の感情をマイナスかプラスかに1ミリくらい動かしてるって証明よ。
この文章を読むことは決して強制されたことではない、ここまで読んだ人はみんな能動的に読んでる。
最後まで読んでくれてありがとね!閉廷!
http://extra.pref.saitama.lg.jp/kyouinsaiyou/saiyouhappyou/index.html
この採用について、個人的に思うところがいろいろとあったので投稿した
②合格者は1次試験免除者しかいない(筆記試験なんてなかったという意味の部分はここ)
③そのた、思うところ
④最後に
埼玉県の教採の受験番号は、その番号をみると受験区分がある程度わかるようになっている(これも問題だと思うが...)
それをみると今回の高校の情報は「3001」と「4001」の人が受かっていることから
この受験者は「経験者特別選考」か「臨時的任用教員経験者特別選考B選考」、「障碍者特別選考」、「大学特別選考」のいずれかである
http://www.pref.saitama.lg.jp/a0001/news/page/2019/documents/191008-0701.pdf
このことから
このことから、高校の情報は「臨時的任用教員経験者特別選考B選考」、「経験者特別選考」の人しか受かっていない
つまり、「すでに教員として働いている人」しか受かっておらず、新卒者が一人もいないのである
これが今回の一番の問題だと思うのだが、
1次試験は、埼玉では「教職・一般教養」「専門教養(専門科目の知識がとわれる)」の二つであるが、
上記の受験者について、これらの選考は「一次試験が免除される」のである
つまりどういうことか
高校の情報の合格者に今年の1次試験に合格したものが一人もいないのである
これは「今年の1次試験は全く無意味であった」ということに他ならないのではないだろうか
(ここは呼び飛ばしていただいてもかまわないです)
・集団面接について
ほかの科目の人たちは同じ科目同士でうけていたが、情報は7人であった
普通なら「3人、4人になるか」と思うが、実際は看護の3人と情報2人、情報5人という分け方であった
ほかの科目は公民などは高く19倍であるが、国語や英語、数学、理科などは3~7倍と比較的に低い
とこのようにばらつきがあるが、情報は比較的に高い方で採用数も2人と少ない
しかし、それでこの情報教員の採用数というのは少し感慨深いものがあった
昨今、教員の人間性が問われ、人物重視の採用をするといわれているが、
1次試験通過者を一人も採用しないというのはあまりにもおかしくはないだろうか
匿名ダイアリーであるが、内容が内容なので、見る人が見たら確実に身バレをする
しかし、その危険性があったとしてもこの内容を投稿したかったので投稿した
一人で遊んでいても、そこには「難易度」という形で他者が介入してくる。
難しいステージに躓いて何度もクソゲーと叫ぶとき、それぐらいのステージを丁度いい歯応えと認識して楽しく遊ぶ人間の姿が浮かぶ。
解けっこないと決めつけた謎解きを解くために攻略サイトを見るとき、その攻略サイトに最初に書き込んだ人間はその謎を自力で解いたのだと突きつけられる。
ゲームとは、与えられた課題をこなす能力を自動的に計測してくれる装置だ。大部分のゲームはある種パンチングマシーンのような性質を持ちあわせている。
ただボタンをポチポチ押すだけのノベルゲームの中にさえ、ゲーム中に使われた比喩や引用を理解する教養、物語を読み解く理解力、キャラクターや世界観を覚える記憶力、心を動かされるための感受性、あらゆる能力が求められてしまう。
ランキングもPvPも存在せずとも、ゲームは否応なしにその人間の力を映し出す。
そうして暴かれる能力の中でも、最も残酷なものが、学習能力である。
同じ局面で同じようなミスを何度も繰り返す自分の姿を前にすれば、誰だって自分の限界に気付かされる。
目の前に与えられた課題の本質を知る努力を投げ出し、総当りの運任せを繰り返しては、同じような所でいつも失敗する。
試しにとポーズボタンを押してよくよく画面を見つめてみれば、成功するための道筋が論理的に炙り出せたことに気づいては、自分が闇雲にただボタンを押していただけだと突きつけられる。
タイプライターモンキーズ、無限の猿が存在すればシェイクスピアを書き上げることが可能だという言葉の裏にあるのは、猿とシェイクスピアを分けるのはその打鍵一つ一つが確かな方向性を持って行われているかどうかであるという事実だ。
レバガチャによって難局を乗り切ろうとするものは、シェイクスピアと猿のどちらに近いのか、答えは明白だ。
ろくにPDCAも組まない純粋な総当りによって答えを探すのは人間がやることではない。
そうしてゲームというものは容赦なく突きつけてくる、お前には人間と名乗るに値するだけの知性がなく、お前はその無知性の繰り返しの中でほとんど成長することも出来ず同じように失敗し続けるのだ、と。
その間に、きちんと答えを模索し、意味を持ってボタンを教えている誰かはずっと早く遠くにたどり着く、人生のすべての局面において、きっと一事が万事そうなのだ。
『ソレ』を突きつけられることがとても辛い。人生のすべてを否定され続けているような気分になる。
いつからかは分からないが私にとって「ゲームを遊ぶ」という行為は「『ソレ』を突きつけられにいく」行為になっていた。
その気付きは日に日に強くなり、もはや『ソレ』を意識することはやめらず、目の前の課題や光景に没頭することは不可能になっていた。
私は、ゲームの魅力とは没頭できることにあると思っている。
そして、それが失われた。
とても苦しい。
いつからだろう。