2019-10-01

ゲームという娯楽の中で他者意識比較してしまうのが辛い

一人で遊んでいても、そこには「難易度」という形で他者が介入してくる。

難しいステージに躓いて何度もクソゲーと叫ぶとき、それぐらいのステージを丁度いい歯応えと認識して楽しく遊ぶ人間の姿が浮かぶ

解けっこないと決めつけた謎解きを解くために攻略サイトを見るとき、その攻略サイト最初に書き込んだ人間はその謎を自力で解いたのだと突きつけられる。

ゲームとは、与えられた課題をこなす能力自動的に計測してくれる装置だ。大部分のゲームはある種パンチングマシーンのような性質を持ちあわせている。

ただボタンポチポチ押すだけのノベルゲームの中にさえ、ゲーム中に使われた比喩引用理解する教養物語を読み解く理解力、キャラクター世界観を覚える記憶力、心を動かされるための感受性、あらゆる能力が求められてしまう。

ランキングPvP存在せずとも、ゲームは否応なしにその人間の力を映し出す。

そうして暴かれる能力の中でも、最も残酷ものが、学習能力である

同じ局面で同じようなミスを何度も繰り返す自分の姿を前にすれば、誰だって自分限界に気付かされる。

目の前に与えられた課題本質を知る努力を投げ出し、総当りの運任せを繰り返しては、同じような所でいつも失敗する。

試しにとポーズボタンを押してよくよく画面を見つめてみれば、成功するための道筋論理的に炙り出せたことに気づいては、自分が闇雲にただボタンを押していただけだと突きつけられる。

タイプライターモンキーズ無限の猿が存在すればシェイクスピアを書き上げることが可能だという言葉の裏にあるのは、猿とシェイクスピアを分けるのはその打鍵一つ一つが確かな方向性を持って行われているかどうかであるという事実だ。

バガチャによって難局を乗り切ろうとするものは、シェイクスピアと猿のどちらに近いのか、答えは明白だ。

ろくにPDCAも組まない純粋な総当りによって答えを探すのは人間がやることではない。

そうしてゲームというもの容赦なく突きつけてくる、お前には人間と名乗るに値するだけの知性がなく、お前はその無知性の繰り返しの中でほとんど成長することも出来ず同じように失敗し続けるのだ、と。

その間に、きちんと答えを模索し、意味を持ってボタンを教えている誰かはずっと早く遠くにたどり着く、人生のすべての局面において、きっと一事が万事そうなのだ

『ソレ』を突きつけられることがとても辛い。人生のすべてを否定され続けているような気分になる。

いつからかは分からないが私にとって「ゲームを遊ぶ」という行為は「『ソレ』を突きつけられにいく」行為になっていた。

その気付きは日に日に強くなり、もはや『ソレ』を意識することはやめらず、目の前の課題光景に没頭することは不可能になっていた。

私は、ゲームの魅力とは没頭できることにあると思っている。

そして、それが失われた。

とても苦しい。

いつからだろう。

ゲームが私にとって苦痛を生み出す装置へとなっていったのは。

気づくべきでないもの人生にあると教えてくれた、偉大な存在だ。

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