一人で遊んでいても、そこには「難易度」という形で他者が介入してくる。
難しいステージに躓いて何度もクソゲーと叫ぶとき、それぐらいのステージを丁度いい歯応えと認識して楽しく遊ぶ人間の姿が浮かぶ。
解けっこないと決めつけた謎解きを解くために攻略サイトを見るとき、その攻略サイトに最初に書き込んだ人間はその謎を自力で解いたのだと突きつけられる。
ゲームとは、与えられた課題をこなす能力を自動的に計測してくれる装置だ。大部分のゲームはある種パンチングマシーンのような性質を持ちあわせている。
ただボタンをポチポチ押すだけのノベルゲームの中にさえ、ゲーム中に使われた比喩や引用を理解する教養、物語を読み解く理解力、キャラクターや世界観を覚える記憶力、心を動かされるための感受性、あらゆる能力が求められてしまう。
ランキングもPvPも存在せずとも、ゲームは否応なしにその人間の力を映し出す。
そうして暴かれる能力の中でも、最も残酷なものが、学習能力である。
同じ局面で同じようなミスを何度も繰り返す自分の姿を前にすれば、誰だって自分の限界に気付かされる。
目の前に与えられた課題の本質を知る努力を投げ出し、総当りの運任せを繰り返しては、同じような所でいつも失敗する。
試しにとポーズボタンを押してよくよく画面を見つめてみれば、成功するための道筋が論理的に炙り出せたことに気づいては、自分が闇雲にただボタンを押していただけだと突きつけられる。
タイプライターモンキーズ、無限の猿が存在すればシェイクスピアを書き上げることが可能だという言葉の裏にあるのは、猿とシェイクスピアを分けるのはその打鍵一つ一つが確かな方向性を持って行われているかどうかであるという事実だ。
レバガチャによって難局を乗り切ろうとするものは、シェイクスピアと猿のどちらに近いのか、答えは明白だ。
ろくにPDCAも組まない純粋な総当りによって答えを探すのは人間がやることではない。
そうしてゲームというものは容赦なく突きつけてくる、お前には人間と名乗るに値するだけの知性がなく、お前はその無知性の繰り返しの中でほとんど成長することも出来ず同じように失敗し続けるのだ、と。
その間に、きちんと答えを模索し、意味を持ってボタンを教えている誰かはずっと早く遠くにたどり着く、人生のすべての局面において、きっと一事が万事そうなのだ。
『ソレ』を突きつけられることがとても辛い。人生のすべてを否定され続けているような気分になる。
いつからかは分からないが私にとって「ゲームを遊ぶ」という行為は「『ソレ』を突きつけられにいく」行為になっていた。
その気付きは日に日に強くなり、もはや『ソレ』を意識することはやめらず、目の前の課題や光景に没頭することは不可能になっていた。
私は、ゲームの魅力とは没頭できることにあると思っている。
そして、それが失われた。
とても苦しい。
いつからだろう。