はてなキーワード: 教習所とは
いや、車の教習所。
無理せずたまたま500円玉ができたら、程度だけど貯金箱へ入れる瞬間がなんか好きで外で500円玉ができたら使わないようにしたりしてる。
一杯になれば50,000円貯金できる貯金箱だけど、本当にコツコツ貯めているから数年前から始めてまだ一杯にはなっていない。
それでもかなりの重量を感じるようになり、嬉しくなった。
さっき、また500円玉を入れた。
この500円玉貯金からはお金を出さないようにしてるから減るはずがない。
不思議に思って貯金箱から全て出してみた(底に蓋がついているから簡単に開けられる)。
おかしい。
最近は一杯になるまで数えないようにしようと思っていたから最近の枚数は数えていないが、数ヵ月前に数えた時は少なくとも20,000円はあった。正確には覚えていないけど30,000円近くはあった気がする。
私は使っていないのに減っている。私以外の誰かが使っている?
兄だ。
大学中退して数年ほぼ引きこもり、アルバイト経験は計2~3年あるが、今はしばらくまたほぼ引きこもり状態(外出はするから完全な引きこもりじゃないけど仕事は正規非正規なにもしていない)。
お金がないのだ。何か入り用の時は母からもらっているようだが当たり前だが必要分だけ。
おまけにこの人金がないくせに煙草を吸う。
金がないくせに煙草を吸うから金なんて余るはずなくいつもいつも金がないのだ。
そんな中私の貯金がなくなった。
直接言ってどんな反応されるかわからない。
兄との関係は悪くない、むしろ仲はいい方だし、前に教習所に通うのに必要ということで80,000円貸しているので、言ってくれたら全然貸すのだ。
兄の面子とかあるのかもしれないけど、毎日お休みで好きな時まで寝てられる金を一切稼がない兄と、朝5:30起きで帰宅は20:00近くで仕事をして金を稼いでいる妹という時点で、面子も威厳もないわけですよ。
で、問題はどうやって聞き出すか。
兄に直接か、母経由で聞いてもらうか。
お金が必要なのなら貸す(あげはしない、貸す)のに、お金がなくなったことも辛いけど何より黙って人の金に手を出すことにショックを受けた。
なんとなく日々の楽しみにしていた500円玉貯金なのでその楽しみを崩されたこともショック。
最終的にはちゃんと話して返してもらうけど、なんかもう辛い。
事故ったジジババの言い訳は「踏み間違えた」「ブレーキが効かなかった」「エンジンの調子が悪かった」
踏み間違えたなんてのは、もはや理由にすらならねえ。
ブレーキが効かなかった?問題はアクセル踏み込んでるってとこだろ。
もしくは、教習所で適性検査を厳重に行なえ。ジジババは年金使ってでも自動ブレーキの車を使え。
本来ならもう二度と乗るなって言いたくなるけどな。
わかってるじゃん。
学校で教えてるのに正しい道具の扱い方ができてないなら問題だろう。
できてないなら親は指導すべき。
手に合わないならアレンジは認められるべきだと思うけど、それは正しい扱い方が背景にあってこそだろう。
義務教育で教えられて、毎日使うような道具の扱いをないがしろにするヤツらは、他の道具の扱いも蔑ろにする可能性が高い。
他者に危害を与える可能性がある道具でも、自分ルールで合理的(笑)な使い方をし始める。
なにかトラブルがあれば、知らなかった、習わなかった、誰も教えてくれなかったなどと言い出す。
マニュアルも読まずにコンピューターを使って「何もしてないけど壊れた」と言う。
刃物の扱いは学校で習うが、危険な扱いしてる人をみたことない?
教習所で車の扱い方ならったはずだけど、片手で運転したり、手を離してハンドル戻してたりする人みたことない?
横断歩道で停止しなかったり、交差点内で追い越しする車、山のようにいるよね?
ツイッターで軽くバズっている動画が流れてきました。それについていろいろと意見がリプライでついていたのですがどうも腑に落ちなませんでした。
おそらく撮影主は自動二輪で、前方にはかなり車間を開けて(200mほど?)自動車が走っています。見通しのいい二車線道路で、対向車はいません。少し走ると、自動車が左に寄って減速します。このとき、おそらく撮影主は「先に行かせてくれるのかな?」と思ってそのままのスピードで右側に出ます。すると突然自動車が右折し始め、危うく事故になりかけた。という内容です。
予想通り、自動車のドライバーに批判が集中していましたが、私は撮影主にも非があると思います。事故を起こしかねないきっかけを作ったのは疑いようもなく自動車のドライバーですが、事故に発展する確率を上げたのは撮影主の方です。それは「譲ってくれているのだろう」という「だろう運転」に原因があります。私だったらこの場合どうするかと問われれば、「減速して安全に追い越しが可能か、状況を見極めてから追い越す」と答えるでしょう。そう答える理由は「ハザードやウィンカーなどの合図を出していない」ことにあります。前方の見通しがとてもいい状況なので、「後方のドライバーには死角になっている障害物などが地面に落ちていて、それを余裕をもって避けようとしているのかもしれない」という想定もできますし、「居眠りなどで運転操作がおぼつかない」ということも考えられます。いずれにせよ、「万が一とはいえ、追い越しをかけようとしたらこちらに危険が及ぶかもしれない」と思考したほうが自分の身を守ることを最優先に考えるのであれば安全であることは明白です。教習所で「だろう運転」ではなく「かもの運転」を心がけるようにと教える場所もあるようですが、私はここに本質があると思っています。この撮影主や、自動車のドライバーを批判している人たちが似たような状況を99回経験していて、99回とも安全に追い越しができていたとしても、100回目にはこういったことが起こる「かも」しれません。進路変更を伴う追い越しは基本的には危険と隣合わせですから、その過程で事故を起こしてしまっても仕方がない、そのリスクを犯せる程度には安全だ、と言い切れる時にしかしないのが得策だというのが私の個人的な信条です。
当然、悪いのは自動車のドライバーです、が、残念ながら過失も含めるとこういったドライバーは数多くいるように感じます。ウィンカーを出さない、突然進路を変更する、変な場所で突然止まる、標識・信号の無視などなど... そういう人々の中には日常的に交通ルールを破っている人もいれば、その時たまたま、操作や認識を誤ってしまったという人もいます。人間は人間です、たとえどんなに調子がよかったとしても間違いは犯してしまうものです。誰かがミスをしてしまっても、自分が気をつければ回避できることはたくさんあります。私自身そうやって事故を回避できたことも、危うく事故を起こしかけた場面で周囲のドライバーに救われたこともあります。他人がどうやって運転するかは変えられませんが、自分がどうやって運転するかは変えることができます。撮影主に限らず、この件で自動車のドライバーを責めるのは自由ですが、「自分の判断一つで事故は回避できることがある」という事実を心の片隅に置いておいて欲しい限りです。
徐々に近づいていってる気がする。
年金もらえないってニュース聞いてから、不安がどんどん膨らんで消えてくれない。近いうちに他人を巻き込んだ自爆をしそうで怖い。
今はただの事務員やってる。昭和の風潮がたっぷり残った零細で、数年連続赤字で業種自体の先行きも危うい。手取りは20切るくらい。事務員の代わりはいくらでもいると管理職がよく言っている。
残業数十時間とかめちゃくちゃ仕事が忙しいとかじゃないのに、毎日仕事に行くのがつらすぎていつも会社の最寄り駅でこのまま乗り過ごしたらどうなるんだろうって考えてる。たぶんもうすぐ実行してしまうと思う。
たぶん自分は決まった時間に起きて出社してっていうことに向いていない。何なら働くこと自体に向いていない。
いっそ在宅ワークにしてみようと思って色々調べてみたけど、大した技能もない人間には無理そうだった。増田で人気のプログラミングは昔齧ったときに致命的に向いてないと思ったし、車の免許は一応持ってるけど教習所時代に絶対自分は誰か轢くことになる確信を得たから、取ってから一度も運転してない。
資格は中学生でも取れるような国家資格ひとつと、MOSとか簿記三級とかありふれたものしかない。今の高校生は普通科でも授業でマクロやプログラミング習うって聞いた。ゆとりドンピシャ世代としては勝てる気がしない。
普通に転職しようにも手取り20以上もらえる事務正社員はほぼないし、給与の高い紹介予定派遣は愛嬌がないから採用される気がしない。そもそも派遣に対して不信感がありすぎて選びたくない。
今はまだ二十代折り返しで若さもあるから何とか人並みの生活を保ててるけど、あと五年、少なくとも十年経ったら転げ落ちていく未来しか見えない。
実家は両親離婚してて、父親は生活保護一歩手前状態だし母親は自分より低い手取りの事務員で何とか暮らしてる。母親は恋人いるからともかく、父親が要介護になったら簡単に詰むと思う。もちろん貯金なんてほとんどない。
結婚も考えたけど、自分は致命的に人と暮らすのに向いてない。実家にいたときは母親がほとんど家にいない人だったから何とかなったけど、他人の男と家事しながら一緒に生活するとか絶対無理だ。
そもそも男が苦手だし、向こうから選ばれるような顔も愛嬌もないしもう若さもなくなってきている。
子供も苦手だから産んだ直後に産後鬱で絞め殺してしまう気しかしない。
定期的に蕁麻疹が出るから肌はボロボロで風俗も無理だし、専門職につきたくても何をすればいいかわからない上に気力もない。
今までダラダラ生きてきたツケだし甘え200%の泣き言だと理解している。
こうやってデモデモダッテばかり言って動かないクズだから何も変わらないのだと思う。
でも職場で、実家が太くて当たり前に大学も行かせてもらってて、将来何の心配もなくて貯金もたんまり持ってる同僚たちの会話を聞いていると、こいつら巻き込んで死んだら楽になるのかなとか考えてしまう。
今ここまでの文章を読み返してみたけど、どうやらまとまりのある文章を書く能力も欠如しているらしい。
こういう底の底じゃないけど中底辺みたいな人っていないんだろうか。それとも自分で気が付いていないだけでもう底辺なのかな。
車は免許の取得難易度をもっと上げる必要がある。丸暗記で終わるような筆記試験に何度も落ちる異常者は弾くべき。裏校を使い受かったことを自慢げに話すような猿が同じ道を運転しているという事実だけで怖くなる。せめて3回以上落ちたら取得不可にすべきだろ。
痴呆老人から免許を取り上げる方法も増やすべき。自主返納じゃ意味が無い。自分は大丈夫だと思いこんでいる痴呆老人こそが最も厄介なんだから、そういう層から根絶する必要がある。
「岡山ルール」「茨木ダッシュ」といった田舎ルールを自慢げに話す田舎者もなんとかならないかな。教習所で習う全国共通の道交法より地方のローカルルールを重視する異常者は田舎から出てこないでほしい。狭い世界のしょぼいプライドのために人殺し運転も辞さない猿は狭い世界でイキっててほしい。
刃物も所有に免許が必要になるべき。安易に人を殺せる道具が安価でどこでも手に入るからこうなる。購入時に免許の有無と精神性のチェック、購入履歴による管理を徹底すべき。
アメリカの銃規制が一向に進まないのは銃規制反対派と全米ライフル協会のせいらしい。日本を第二の銃社会にしないために、規制はどんどんするべきだ。
自分たちの都合、我儘で人殺しに使える道具を人殺しに与えてきた結果がこの悲しい事件の連続だ。どうしてこんなことになってしまったのか、本気で考えるべき時が来たんじゃないか?
そして反省していない。
「ブレーキが効かなかった」
「車の調子が悪かった」
話題になるのは一部であろうが、ここ数年の高齢者の事故率はかなり高くなっている。
免許の返納を行えと言っても「俺は、私は年寄りじゃない」「注意して運転しているので大丈夫」「返納したら身動きが取れない」
そんな言葉を吐いては、人の命を奪う。
学科も行うべき。
そうでもしなければ、運転の何たるかを思い出すことも出来ないだろう。
一般的な人でさえ、教習所が終わってしまえば枷がないので交通ルールも自然と忘れがちになったりするのだから
そのくらいしないと、今後も同じような事は発生するし、また不要な事故で命を落とす人も増える。
なんとかしないといけないのだ。
パンティーの着用って難しすぎない? なんで社会で許されてるの? - 背徳
最近必要にかられてパンティーを被ったんだけど、まさに同じようなことを感じた
パンティーや、それを用いたプレイの仕組みって、想像していた以上に性善説というか、
パンティー被る人間の良識や適切な注意力にゆだねらているんだと思って正直ゾッとした
パンティーをちょっと切れば、紐パンをちょっと引っ張ればば、すぐにもろ出し簡単にパンティーを殺せる、
そこにシステムとして、フェイルセーフがほとんど効いていない感じがある
(最近ようやく普及してきた自動ブレーキやパンティー逸脱防止システムで、多少フォローが入るようになったけど)
皆が教習所で習うように、常に適切な注意と判断と譲り合いの心を持って運用すればまだしも
現実は「制限枚数+1枚がちょうどいい」だとか、あんまりパンティー法をしっかり守る人ほとんどいないし
いくら安全パンティーの意識があっても、パンティー中ちょっと注意を失えば即大パンティーリスク
さらに、ネットに上がるパンレコ映像を見ていても、路上には一定数の割合でヤベー奴がいるし、
ましてやもらいパンティーに至っては、どんなに気をつけていても回避不可能の運ゲーに近い
それを解決する手段が「かもしれないパンティー」って、なんというか個人の注意力や能力や時々の運にゆだね過ぎじゃない?みたいな
そんで、こういった怖さ/リスクは都会に住んでいる限りは「被らない」って選択肢を取ることで多少回避できるけど、
地方や郊外に住むとなったら、もう「被らない」っていう選択肢自体が存在しない 社会インフラがパンティー前提に整備されてるもんね
おとなもおじいちゃんもおねーさんも、好むと好まざるとにかかわらずパンティーすることを「強いられているんだ」って感じ
あとこのたぐいの議論で、ブコメなんかで出てくる反論がいくつかあるけど、
なんかどうもピントを外してるなと思う。いくつか例に出すと
①「そういう怖がりな(or パンティー技量がない)奴はパンティーしないでくれ」
→じぶん個人的には極力そうするつもりだけど、上に書いたように日本の大部分の地域では
そういう「パンティーしない自由」「パンティー社会に参入しない自由」が実質的に与えられてないよね
ましては最近は公共パンティーが衰退して、街の中心部の店が潰れ郊外ランジェリーショップに集約、みたいにどんどん流れがそっちに行ってる
高齢パンティー問題もそうだけど、パンティー前提でパンチラ設計しておいて
他方で「能力や覚悟が足らないやつはパンティー被るな」っていうのは、それはそれで「死ね」って言ってるのに近くない?
②「お前はパンティーの恩恵を受けていないのか?スキャンティーやハイレグやローレグも使うなよ」
→それはプロパンティーの仕事じゃん。パンティーの技量がある(大型なり二種免許をとっているような)人達が、業として行ってるわけで
例えばブラジャーの運行がプロのパイロットだけに許されているように、パンティーの運転もプロのみに許されていれば、
状況はまたちょっと違うことになっていたと思う
もちろん、現状のパンティー社会をすぐに転換することは現実的には不可能だと思う
だから、上記の記事などにも指摘されているように、現在の技術でできる限りの安全装備やシステムをどんどん義務付けてしまったり、
(具体的にはパンティーの右直分離・スキャンティー分離の徹底や、パンティー起動時の免許・パンティー状態のチェック、など)に変えて、
可能なタイミングがきたら、一気に完全自動パンティー社会に転換してしまったほうが良い
でも、おそらくそういうものには一定の感情的な反発があるだろうし、そううまく運ばない気もする
結局のところ、「パンティーは、身体を拡張し、自由を与えてくれる装置である」
「パンティーを被る楽しさ」「被る歓び」とかそういうやつ
そういう極めてスポーティかつハイリスクな行為を公共インフラとして存置させてくのはどうなのよ
エンタメは、サーキットや有料ランジェリーショップの中でやってくれよ、という感じ
免許取り立ての若者から80代の爺さんまで参入する「パンティー社会」に持ち込むべきものではないよね
なんかアメリカ人が、あれだけ乱射事件を起こしながら「銃を持つ自由」を手放さない、みたいなとこに近いのかもなあ
もちろんこういう状況は日本だけではないんだろうけど
車の運転って難しすぎない? なんで社会で許されてるの? - 拝徳
http://tokunoriben.hatenablog.com/entry/2019/05/18/211416
最近必要にかられて免許を取ったんだけど、まさに同じようなことを感じた
自動車や、それを用いた交通の仕組みって、想像していた以上に性善説というか、
運転する人間の良識や適切な注意力にゆだねらているんだと思って正直ゾッとした
ハンドルをちょっと切れば、アクセルをちょっと踏み込めば、すぐに死ねるし簡単に人を殺せる、
そこにシステムとして、フェイルセーフがほとんど効いていない感じがある
(最近ようやく普及してきた自動ブレーキや車線逸脱防止システムで、多少フォローが入るようになったけど)
皆が教習所で習うように、常に適切な注意と判断と譲り合いの心を持って運用すればまだしも
現実は「制限速度+10kmがちょうどいい」だとか、あんまり道交法をしっかり守る人ほとんどいないし
いくら安全運転の意識があっても、運転中ちょっと注意を失えば即大事故リスク
さらに、ネットに上がるドラレコ映像を見ていても、路上には一定数の割合でヤベー奴がいるし、
ましてやもらい事故、不意な飛び出しなんかに至っては、どんなに気をつけていても回避不可能の運ゲーに近い
それを解決する手段が「かもしれない運転」って、なんというか個人の注意力や能力や時々の運にゆだね過ぎじゃない?みたいな
そんで、こういった怖さ/リスクは都会に住んでいる限りは「乗らない」って選択肢を取ることで多少回避できるけど、
地方や郊外に住むとなったら、もう「乗らない」っていう選択肢自体が存在しない 社会インフラが車前提に整備されてるもんね
おとなもおじいちゃんもおねーさんも、好むと好まざるとにかかわらず運転することを「強いられているんだ」って感じ
あとこのたぐいの議論で、ブコメなんかで出てくる反論がいくつかあるけど、
なんかどうもピントを外してるなと思う。いくつか例に出すと
①「そういう怖がりな(or 運転技量がない)奴は運転しないでくれ」
→じぶん個人的には極力そうするつもりだけど、上に書いたように日本の大部分の地域では
そういう「運転しない自由」「自動車社会に参入しない自由」が実質的に与えられてないよね
ましては最近は公共交通が衰退して、街の中心部の店が潰れ郊外ショッピングモールに集約、みたいにどんどん流れがそっちに行ってる
高齢運転者問題もそうだけど、車前提でインフラや制度設計しておいて
他方で「能力や覚悟が足らないやつは運転するな」っていうのは、それはそれで「死ね」って言ってるのに近くない?
②「お前は車の恩恵を受けていないのか?荷物配送やバスやタクシーも使うなよ」
→それはプロドライバーの仕事じゃん。運転の技量がある(大型なり二種免許をとっているような)人達が、業として行ってるわけで
例えば飛行機の運行がプロのパイロットだけに許されているように、自動車の運転もプロのみに許されていれば、
状況はまたちょっと違うことになっていたと思う
もちろん、現状の自動車社会をすぐに転換することは現実的には不可能だと思う
だから、上記の記事などにも指摘されているように、現在の技術でできる限りの安全装備やシステムをどんどん義務付けてしまったり、
(具体的には信号の右直分離・歩車分離の徹底や、エンジン起動時の免許・ドライバー状態のチェック、など)に変えて、
可能なタイミングがきたら、一気に完全自動運転社会に転換してしまったほうが良い
でも、おそらくそういうものには一定の感情的な反発があるだろうし、そううまく運ばない気もする
結局のところ、「車は、身体を拡張し、自由を与えてくれる装置である」
「自動車を操る楽しさ」「走る歓び」とかそういうやつ
そういう極めてスポーティかつハイリスクな行為を公共インフラとして存置させてくのはどうなのよ
エンタメは、サーキットや有料道路の中でやってくれよ、という感じ
免許取り立ての若者から80代の爺さんまで参入する「交通社会」に持ち込むべきものではないよね
なんかアメリカ人が、あれだけ乱射事件を起こしながら「銃を持つ自由」を手放さない、みたいなとこに近いのかもなあ
もちろんこういう状況は日本だけではないんだろうけど
工場のエレカや、ゲーセンのマリオカートくらいしか運転したことないワイの疑問
急ブレーキって、あれ、めっちゃハンドリングが通常と違う挙動するじゃん?そういうのって教習所で練習しないの?
それとも練習してても忘れちゃってるの?
まあ、急ブレーキは車体の足回りに負担になるからやらないのかもだけど。
飛行機免許取る時はわざと錐揉み状態にしてそれから復帰する訓練はマストとか聞いたけど、自動車はそういう危機的な状況の際どうするかみたいな訓練はしないん?
痛ましい事故が起きると高齢者から免許を取り上げろという声が挙がる。
果たして、そうして声高に叫んでいる人の中で、どれくらいの人が実際に自分の両親に運転をやめるように伝えることができているのだろうか。
そんな父の運転をわたしも好きだったし、今のわたしの運転の見本になっているのは教習所の教官でも車好きの友人でもなく、紛れもなく父の運転だ。
そんな父に、わたしからもう運転はやめるように伝えたのは父が70のとき、5年前のことだ。
とっくに車を手放していた父は、こうしてお墓参りに行くときや年数回のゴルフや旅行に行くときにわたしの車に乗ってハンドルを握った。
毎年通る道、毎年変わらないはずの道が、その年は区画整理を兼ねた大きな工事が行われたことで、いままで見たことのない風景に変わっていた。
いつも使っていた道は閉鎖され、見知らぬ信号機に見知らぬ交差点ばかりだった。
それでも父ならば大丈夫だろうと、娘を脇に抱えてぼんやりと風景を眺めていた。
しかし、その時の父は違った。
今まで一度も見せたことのない様子で焦り、苛立ち、わたしがなにか言おうにも頭ごなしに遮り、運転そのものすら見たことがないほどに荒々しいものになってしまっていた。
極めつけは、道のど真ん中で急に停車して、クラクションが浴びせられる中での急なUターンだった。
ようやくの思いでお墓までたどり着いた頃には、母も見るからに苛立つし娘も泣き出すしで、さんざんな状況になっていた。
「わたしの運転だと不安かもしれないけど、帰りは代わろうか?」
一応進言してみたものの、父はそれをきっぱりと断った。
これ以上何かを言えば父を信用していないみたいになってしまう。父を傷つけてしまうような気がして、それ以上はわたしから何かをいうことはできなかった。
それからも、迷いがありながら、父がゴルフや旅行に出かけるときは快く車を貸し出した。
しかし、たまに同行する母からは、その度に曲がり角を間違って苛立つ父の話や、高速の出口を間違えて何故か母に強くあたる父の話を聞かされるばかりだった。
これ以上父に車を貸し続けていていいのだろうか。車を貸し出す度に迷いが募っていった。
そんな時、とうとう父が事故に巻き込まれたという連絡が警察から入った。
幸いながらもらい事故だった。
いざ迎えに行ってみると、父はただひたすらに如何に相手に非があって、如何に自分が悪くないかを繰り返した。
聞けば相手側の不注意による追突事故らしく、過失はほぼすべて向こう側にあるらしい。
思いもよらない父の一言に唖然としてしまった。その後も父の口から事故を起こして申し訳なかったという一言は最後まで聞くことはできなかった。
父が走行している間、事故を起こした相手は不安定な運転を繰り返していたらしい。
一昔前の父なら、そんな相手がいるなら絶対に近寄らないし、ましてやその車を後ろに背負うことなんて絶対にしなかったろう。
それなのに、ただひたすら相手が悪いと繰り返し言い続けている父を見ていることはただただ悲しくて辛かった。
それから程なくして、結局少しの持ち出しとともに新車に買い換えることになった。(くわしくはわからないが車軸が曲がっていた?とかいうことらしい)
「保険の種類が変わったことで、父が保険の対象外になってしまった。」
そのかわりに、父が車に乗りたいと言い出す前に今まで以上に両親を旅行に誘った。
出費や親のために使う休暇も増えたが、父が事故を起こすことに比べたら何でもないことに思えた。
ある時、隣に乗っている父が「老後は小さなスポーツカーで色々なところに出かけるのが夢だった」と独り言のように話し始めた。
父はまだ運転を諦めていない。
「それは素敵な夢だね。だけど、もしそれで娘と同じくらいの子供を事故に合わせてしまうようなことがあったらわたしはどうしていいかわからないな。」
父は一言「そうか」とだけ口にしただけだった。
高齢者による事故が起きれば、あのときの自分の判断は間違ってなかったと自分に言い聞かせる。
でも、ただ取り上げることを声高に叫び続けるだけではなく、それによって失われるものを埋めるための努力が本人以外にも必要なのだ。
1秒でも早く売却処分したほうがいいし、持たないのが最も利口。
資産1億円以上を有している堀江貴文や上念司、西村博之なんかも車は負債なので持たないのが実情。
あなたがお金持ちになれるかどうか一瞬でわかる質問/「自動車は資産と負債どっち?」
http://www.goodbyebluethursday.com/entry/to-be-rich
回りくどい説明は後回しにしましょう。お金持ちになれる考え方における正解は、「負債」です。
会計に詳しい方や、簿記を習ったことのある人は、異議を唱えるかもしれません。確かに、会計学上、自動車は「資産」の欄に計上されます。
なぜならば、お金持ちの考え方における資産と負債の考え方は、「それがお金を生み出すかどうか」で判断するからです。
その判断基準を持って、「自動車」をもう一度考えてみましょう。
新車で買うと数百万、車検に保険にガソリン代がかかります。月日が経てば、メンテナンス代も嵩むでしょう。
ゼロです。
・車両代金 ・カーナビ、チャイルドシート等のオプション費用 ・消費税
・駐車場代金 ・オイル交換等、諸々のメンテナンスコスト ・燃料代
・自賠責保険(強制) ・自動車保険(車両、対人、自損 etc.)(任意)
その上、交通刑務所リスクや自他の死傷リスクも極めて高い乗り物・・・自動車
実名公開、顔の公開、懲戒解雇、刑務所懲役につながる場合も多いのが自動車交通犯罪。
自動車運転手及び同乗者の年間死者数は1200人以上。これは自転車の約3倍も車内で死者が発生している事実を示している。つまり自動車依存者は自転車利用者より短命。早死に。そして車は馬鹿しか買わない負債。
世田谷区と言えどお世辞にも華やかとは言えず、駅前唯一の商店街はもう何年も前からシャッターが閉まったままの店が多い、寂れた駅だ。
駅前の桜が有名ではあるものの、駅から伸びる道沿いに木が映えているだけなので、満足に花見も出来やしない。
他に特筆すべきは、自動車の教習所があるとか、色々な逸話のある巨大な精神病院があるぐらいで、日常生活で楽しめるような施設は本当に少ない。
僕がそんな上北沢に住んで、もう18年になる。
上北沢について聞かれた際に、僕はいつも自虐を込めて「下北沢と間違えられる為に存在している駅さ」と応えている。
事実、金の無いバンドマンだった僕は電車代すらも惜しんで当時仲の良かった女の子たちに上北沢まで来てもらうことも多かったのだけれど、初めて来る子が「駅に着いたけれど何処に行けばいい?」と電話を掛けてきた際に、その後ろに喧騒が聞こえたりしようものなら、大概は下北沢にいるのだ。
この下北沢というのが曲者で、どちらかと言えば下北沢にとって上北沢が曲者というのが正しい表現かもしれないが、二つの駅は隣り合う駅などではなく、上北沢は京王線、下北沢は京王井の頭線と、乗り換えも必要な結構離れた駅なのである。
この二つの駅が離れているのは、どうやらこの辺りには地下を通る北沢川という川があり、その上流と下流に位置しているかららしく、その北沢川をずっと辿っていくと目黒川まで通じているらしいのだ。
こんな豆知識も、住みたい街ランキング上位に名を連ね、音楽の街だの古着の街だの様々な二つ名を持つ下北沢に対するのが全く無名の上北沢では、話したところで「そもそもそんな駅あるんだ」で終わってしまうのである。
散々なことを書いてきたが、僕はこの上北沢という場所が嫌いではなかった。
駅同士の間隔が狭い京王線の新宿寄りの区間において、上北沢は急行まで止まる桜上水と快速まで止まる八幡山に挟まれて、乗り降りする人は朝のラッシュ時ですら疎らだ。
意味も無く学校をサボりがちだった高校生の頃、二度寝した後の昼過ぎの上北沢駅のホームは端から端まで人の姿が無く、蝉の声や風で揺れる木々の音がいつもより大きく聞こえた。
終電を過ぎた時間になれば、コンビニこそあれど休日のオフィス街より静かな駅前で、集まった音楽仲間と無駄に大きい銀行の駐車場に座ってカップラーメンを啜りながら叶いもしない夢について語り合った。
何も無い、人もいない上北沢にも、唯一自慢出来るお店が在って、いつの間にか出来た駅前のベーグル屋だけはそれなりに有名で、インターネットの情報によると国内でも随一の実力派の店舗らしく、確かに美味しかった。
バンドマンという肩書きに騙されてクズ男の実家にこそこそと泊まりに来る女の子を連れては、朝食代わりにベーグルを一つか二つ買って、上北沢駅は素通りして隣の桜上水まで歩きながら食べるのがたまの楽しみだった。
社会人として働き始めてからは日々が過ぎ去っていくのはあっという間で、僕がくたびれたおっさんになっていく一方で、件のベーグル屋は同じ上北沢の中で移転して大きく綺麗になっていた。
因みに、移転先には元々和菓子屋があって、カフェオレ大福という何だか不思議なお菓子が名物で一度食べた記憶はあるもののそれが美味しかったのか美味しくなかったのかは定かでは無いが、まぁ、そんな些細な変化があった。
上北沢と同じように大した変化は訪れないと思っていた僕の人生にも意外や転機は訪れるもので、結婚という人並みに幸せそうなイベントや、就職した際には一生この仕事を続けるなんて思っていた癖にすんなりと決まってしまった転職で、僕はこの上北沢を、東京を、関東からも離れることになったのだ。
離れることが決まると、大した思い入れもなかったはずの上北沢という街が、急にいとおしくなってくるのが不思議だ。
大学時代に長期休みが来ると故郷に帰る友人を羨ましく思っていたが、この山も海も無い、何も無い街が、僕にとっての故郷なのかもしれない。
踏切である。電車が来る頃合いを見計らって突然に警報が鳴り、遮断器が降り、電車が通過すると何事もなかったかのように日常に戻る。遮断器がなかったらどれだけの事故が起きているか想像すらしたくない。
踏切が日本でどのくらい存在するのかわからないが、誤作動が起きていないのがすごい。「踏切が鳴らなかったので死亡事故が起きた」って聞いたことがあるか?「電車が通過しても遮断器が降りたまま1時間が経った」って聞いたことあるか? 自分はない。毎日、数え切れないほどの踏切たちが正確に仕事をこなしている。私たちを守ってくれている。
電車が遅延したとしても、踏切は正確だ。きちんと電車が通るタイミングで警報を鳴らす。臨機応変さも兼ね備えているとは頭が上がらない。
一体どういう仕組みになっているのだろう? 人が遠隔操作しているのだろうか? だけど、人ほど間違える労働力はない。ヒューマンエラーによる悲劇は日常茶飯事だ。いくら優秀な人材が運用していたとしても、間違えるときは間違える。しかし、踏切は間違えない。
電車の通過を察知して自動的に遮断器が降りるようになっているのだろうか? だとしてもだ。全くエラーが起きていないのはすごい。スマホの通信障害なんてよくあることなのに、踏切の通信は決して障害しない。独自の通信網を使っているのだろうか?
そして、警報と遮断器がきちんと機能しているのがすごい。踏切は一見もろい。風景のド真ん中に頼りなく立っている。守ってくれるものは何もない。豪雨の日も豪雪の日も炎天下の中でも強風の日も、そこに一人で屹立している。そんな過酷な状況下においてさえ、踏切が壊れているのを見たことがない。
例えば、警報は鳴るけど遮断器が降りないとか、その逆とか。もし、その二つが偶然にも同時にやってきたら、鼻歌を歌いながら浮かれ気分で踏切を渡る注意力散漫な私は一巻の終わりだ。しかし、そのようなことが起こったとは寡聞であるし、私は今生きている。踏切はアンブレイカブルなのか。
「踏切を渡る際は一旦立ち止まって電車が来ないかよく確認しましょう」と言われただろう。「踏切の手前では一時停止」と教習所で習っただろう。だけど私たちは鼻歌を歌いながら浮かれ気分で踏切にダッシュで突入する。自動車の場合、どこで警察が見ているかわからないので仕方なく一時停止する。遮断器の降りていない踏切に電車が突っ込んでくるなんて夢にも思っていない。前例がないからだ。踏切を過信している。もちろん、踏切は奢ることなく淡々と警報を鳴らし、遮断器を降ろす。
この踏切というメカニズムは一体どうなっているのだ。この憎悪と裏切りの蔓延る不信の世界における唯一の奇蹟としか思えないのだった。ありがとう、踏切。