はてなキーワード: 仏壇とは
まず鼻くそ。使わなくなった定規に半年くらいは貯めたと思う。乾燥すると剥がれるので慎重に拭ってた。最期は親に掃除された。
2つ目は歯垢。歯医者で歯石を取ってもらったときに歯垢が歯石になると聞いて興味本意でフロスと爪楊枝で毎日朝夕の二回ずつ例の定規に塗っていた。歯垢はどれだけ集めても乾燥すると見えなくなってしまう。子供なりにマジックペンで印を付け、そこに塗るようにしていたが、中々思ったような歯石にならず実験は自然消滅した。
3つ目はフケ。これはすぐに集まるので色々やった。こんもり溜まったフケに仏壇からとった線香で火をつけようとした。風で飛ぶし中々燃えず祖母に見つかりそうになったので中断した覚えがある。あとは、金魚にあげた。鼻くそは吐き出したがフケは食べていた。
誰に話していいのかわからず、悶々としている間に10年も経ってしまったがようやく心の整理ができたので書き記しておこうと思います。
ネットを調べると辞め方というのがあったんですけど、住所を記入して送ることや彼らと再び関わりを持ってしまうことが怖くて提出することができませんでした。
もう一切信じてはいないし、誰も自宅に尋ねては来なくなったので籍が残ってしまっているのは癪だけど辞めたということにします。
私は創価学会員の二世でした。生まれた時から親が勝手に入会させており学会員です。(酷くありませんかw)
母は熱心な学会員でした。父は特に信じてはいませんでしたが、学会員になっていました。
下の兄弟も創価学会の二世でした。弟は生まれながらに知的障害者で途中から大学を中退してしまいました。その頃からなぜか創価学会を盲信し始め、私はなぜか今も嫌われています。
「学会」「勤行会」「勝利」「池田先生」などの文字が並んだ新聞を読まされ、家には仏壇がありなぜか母親は毎朝毎晩何かをつぶやき祈っていました。
私はこれが普通のことだと思っていました。
新年には必ず新年勤行会という行事に行き初詣には中学まで行ったこともその文化があることも知りませんでした。
私は体が弱く、学校は休みがちでした。しかし、勉強は人一倍でき、小学校の頃から特に苦もなく高得点を取り続けました。
得点の高い友達はそれだけ御本尊様に祈りを捧げたんだと信じていました。
しかし、小学校の高学年になり創価学会の信者である自分はマイノリティーだと知りました。そして宗教のことを口にすることはよくないのだと思いました。
中学になると少し勉強を自分でしないと上位に上がれなくなった。部活を始めたが、なかなか難しかった。
勉強しつつ部活をやりつつ祈りを捧げると成績は良くなるのだと信じていました。しかし、ある日気づいた。「この時間、勉強や部活をしたほうがいいな。」と
親になぜ祈りを捧げるのか聞いても意味が全然わからず、なぜ信じているのか不思議でした。
でもきっと理由があるのだと思っていました。これだけパワーを注いで時間を割いているものの意味を私は知りたかった。
任用試験という試験があるらしいことを知った。今はあまり覚えていないが、創価学会検定みたいなもんで上の位を受理されていると教えることができる資格っぽかった。
でも全くわからなかった。
なぜ時間を割いて勉強したのかもわからなかった。それくらい当時の自分にとって理解不能で単純なテストだった。
私は可愛くない子供だった。
クラスメイトが信じている朝の占いは大人たちが適当にそれっぽいことを書いているため信じなかった(今だに12星座がわからない)。
人造人間18号はなぜ後継機なのに16号に劣るのか理解不能だった。
でっち上げられた歴史の教科書のパチモンみたいなので勉強させられた。
要するに、創価学会を盲信し続ければ幸福になるということがあの手この手で書かれているらしかった(詳しく覚えていない)
私は「なぜ信じるのか」を知りたかっただけなのに誰も知らないらしいことに愕然としてしまった。
それから創価学会は親との付き合いのためだけに仕方なく行くことになった。
私を創価学会二世にした親は何の疑いもなく登録して何の疑いもなく、幸福になることを望んだのだから裏切ってはいけない。
創価二世はつらい「誰が生めと頼んだ! 誰が造ってくれと願った!」というミュウツーのセリフが心に沁みた
要約すると「○○さん大勝利!勝利の裏には1日○時間唱題をしていた!」ということがあの手この手で毎度出てくる。
ちょっと待って冷静に考えてほしい。
「その時間別のことやったらもっとすごい成果が得られるのではないか」
唱題(御本尊に向かって題目を唱えること)の時間も半端じゃない!一日10時間!
創価学会は努力をあまりできない人が努力した気になるシステムがある。
時間が長ければ努力したとカウントされる。失敗しても責任は自分にはないので楽なのだ。
そこで得られる報酬や結果の理由は「題目をたくさんあげたから」となる。
私は中学の頃テストで100点をとった。親はこう褒めるのである「よく頑張ってお題目たくさんあげたね。次も頑張ろうね」
この100点は自分の努力をした結果なので素直に褒めて欲しかった。
子供にとって親に自分の努力が褒められないことほど悲しいことはないと思う。
祈っている時間は1秒もなかった。祈りに屈する自分も悔しかった。
特にお金のことを心配しなくても一人で生きていけるようになっていた。
ある日見知らぬ人間が知り合いのような口ぶりで尋ねて来るのだ。
そこまで冷酷ではないので口ぶり合わせて軽くあしらっていた。
大学の頃アパートの1階に住んでいたんだけどなぜか窓から間取りややっていることを見られていた。
現場は見ていないけども、訪問時見られているとしか思えないような話をよくされた。
見知らぬ土地で自分が知らない人が自分の生活を見ているのだとしたら怖すぎる。
公明党をひたすら勧めて来る。
他党と比較して何がいいのか教えてくれない。なぜいいのかも説明してくれない。
とにかく勧めて来る。謎
「なぜ信じているのか説明できない信者」と「わかりやすい組織の利益」わかりやすくて大変よろしい
そんなこんなで努力して自分で目標を見つけることが大事なんだなぁとか普通によくわからないという感想が出てきて自分には必要なくなっていった。
人間努力して努力してどうにもならないときどうするのかというと、祈ります(笑)
神社に行ったり、神棚に祈ったり、そのとき信じるものに祈ります。
今私は世界中を飛び回り、いろんな国の人と話して物を作る仕事をしています。
宗教もいろんな人がいて、そういう人の境遇や想いを理解してあげるのは大切なんだと思いました。
人生何があるのかわからないので、今後私も宗教に入ることがあるのかもしれません。
でも大切なのは事実を自分で見極めて、自分で納得することだと思います。
悩み続けた信者生活でしたが、常に自分がどうあるべきかを考えさせられ勉強になりました。
これからどうするのか何も決めていません。結婚もどうしていいのやら
でも正しいことは自分で見極めてしかるべき努力を重ねていきたいと思います。
親は創価を盲信するあまり認知症の初期症状っぽいの幻覚ならぬ幻臭を感じているようです。
生きている人から成仏を願って拝んでもらわないと成仏できない。
死んでも拝んでくれる人間がいない者は死んでも救われないのだ。
逆に成仏したあとは、拝まれることが強くなるほどランクが上がっていく。
実はこの拝みシステムは生きている人間にも死んでいる人間にもメリットがあり
死んでいる人間が成仏してあの世のランクが上に行くほど拝んでる生きている人間の運が上がっていくシステムになっている。
自分が運が悪いと思うなら、特に金もかからないので先祖の墓や仏壇を拝んでみるといい。ただしよっぽどの場合でない限り即効性(即日等)は無いので、持続が大事である。
あと、神社のように金が欲しい等拝んでも意味がない。「安らかに成仏してください、そうしたら私も幸せになれます」等なら良い。
物心ついて間もない時期に、母から無理心中を迫られたことがある。
死についてよく分かってなかった自分は、「死にたくない」と母に答えた記憶がある。
母はその場で泣き崩れ、何とか死なずに済んだ。
後で詳細を描くかもしれないけれど、自分の生まれた家庭は不完全家庭だった。
とにかく、その日から、死ってなんなんだと考えこむようになった。
幼稚園に上がってしばらくした頃、悩みはピークに達してあまり眠れなくなった。
周りの子供に相談しても不安がらせてしまって、当時の幼稚園の先生からこっぴどく怒られた覚えがある。
書いてて思ったけれど、幼児が眠れなくなるって大ごとだ。
小学校に上がってからの記憶はほとんどない、ただ周りに合わせてテキトーに振舞い続けた。
唯一記憶に残っているのは三年生だった時で、担任が超熱血教師だった。
うちに家庭訪問しに来た時、和室に入った時の言葉は今でも覚えている。
和室にある仏壇を見て、「ああ、創価学会員でしたか、うちは妻が幹部をやっておりまして。ちなみに私は共産党系です。」
当時はあまりピンとこなかったが、しばらく経ってから自分で調べてみた。
親に連れまわされて行っていた会館などの集いも、小学校に上がる前に全力で拒否して行かなくなっていた。
当然親からは殴られた。それでも反抗した。
父はそれほど熱心でもなかった、気が向けば仏壇に手を合わせている程度。
三年生だったころはその熱血教師とも気が合って、それなりに楽しく過ごせた。
でも家庭はぐっちゃぐちゃで、母からよくなじられた。
「お前が(ryから父さんもあまり家庭と向かい合ってくれない。」
父も父で、母に対して気に喰わないことがあると自分を経由して文句を伝えさせようとしてきた。
言わないとそれはそれで面倒なので、父の伝言を母に伝えた。
母は激怒し、私に当たり、そして父にこう伝えろ、と迫る。
そういう板挟みが続いたころ、もうどうしようもなく死にたくなって、自宅で包丁と飛び降りコンボを使って未遂を起こした。
ベランダの上に立って、首を切った瞬間に飛び降りようとしたのだった。
その時、家には誰も居なかったのだが、実行しようとしたタイミングで母が帰ってきていた。
私は母に気が付かず、後ろから羽交い絞めにされた。
母は号泣していた。
この人、昔心中を迫ってきたくせに泣くんだなと思った。
「あなたはこんなことする子じゃないでしょ、何があったの?」
いやいや、目の前でこんなことをしようとしてたのが、アンタの子だよ。
中学に上がってからの記憶もあまりない、気が付いたら中二の年越しで食物アレルギーを起こした。
唯一携帯電話を持っている友人が私の家族に電話しても全く出ず、友人たちは仕方なく私を自宅に運んでくれた。
寒い、寒い、とうわごとを繰り返す私に友人が毛布を掛けて温めてくれる。
両親が帰ってきたのはそれから2~30分後。宗教の集会に行っていたらしい。
そして病院に運び込まれ、友人と両親、私は病院で年越しをした。
「蕎麦アレルギーで年越しとは幸先が悪いね、ハハハ。ところで、その手首の傷は自分でやったの?」
思いがけない質問が飛んできたけれど、意を決して私は頷いた。
あとで知ったけれど、その医師は小児神経科も診ることが出来る人だった。
「…二時間くらい。」
「何とかしたいと思う?」
私は静かにうなずいた。
私につけられた診断名は自律神経失調症とそれで発生した鬱、そして重度の不眠だった。
治療内容は、ルボックスという抗うつ剤と、生活リズムを記録につけるように指示された。
治療は三歩進んで二歩下がるという感じの速度で進んでいき、気が付いたらリストカットをやめていた。
鬱がひどい時でも気合いのような何かで無理くり体を動かし、学校へ通った。
精神的に辛くて行きたくない時は、母が私をぶん殴って無理やり車に乗せ、保健室に突っ込まれた。
そんな凸凹でも何とか成績は維持していたらしく、高校入試は指定校推薦を受けることが出来た。
ちなみにこの時点でまだ鬱の治療は続いている。
「お母さんの信心が届いたおかげよ。」
この人は自分のやっている事しか見えていないんだな、と思った。
不思議なことに落胆はしなかった。
あきらめていたんだと思う。
高校は楽しい記憶で埋め尽くされていたけれど、相変わらず頭の中は生死の概念を掴むことに夢中だった。
高2の春休みが終わる頃に、自転車で日光に行き、華厳の滝に飛び込んで、すべて終わらせようとした。
夜の7時ごろに家を出て、携帯の電源を切って、ひたすら自転車を走らせた。
国道四号線をずっと北上し、もうそろそろ日光につく頃だったと思う。
東の空が明るくなった。
夜明けだ。
夜明けなら、夜はどこに行ったのだろう?
そう思って反対側を見るとまだ夜だった。
月と太陽が同時に見えた。
その時の自然の美しさに心を打たれてしまって、私はその場で泣き崩れた。
けっこうな時間泣いて、家に帰った。
そんなこんなで、そこから数ヶ月経過した高2の夏休みの最後に、小児神経科の主治医の判断により治療がひと段落した。
希死念慮だけは消えてなかった。
主治医の見立てでは、「まあ何とか乗り切れると思うよ、強いし。」とのことだった。
実際強かったと思う、よく耐えきれたと思う。
大学はかなり白熱した環境だったので研究や学業にのめり込んだ。
2年後の卒業を経て、私は教授のツテで食品物流会社に就職した。
仕事は楽しかったけれど、忙しい部署にいたのでしょっぱなから残業まみれになった。
今度の病名は統合失調症。
そこからは闘病しつつも、ちょくちょくバイトを始めて、そして体力的限界で辞めての繰り返しだった。
統失の治療を始めてから最初の5年の間に、母はがんで亡くなった。
悲しかったけれど、多分一般家庭の子供よりは悲しんでいなかったと思う。涙は一応出たけど。
そこから5年後に、当時所属していたコミュニティメンバーの誘いを受けて、ルームシェアみたいな環境に引越しをした。
そして実家に戻ってきたときに、もう一人友達付き合いが続いていた元恋人が自死。
私が実家に引っ越してから、父の治療は順調に事が進み、抗がん剤と放射線治療、本人努力の甲斐があって腫瘍が消えた。
これには驚かされた、父本人が一番驚いているけども。
あとは5年間再発が無ければ安心とのことだった。
そして現在に至る。
今日は暇だったので、思い出しながら勢いでバババっと書いてみた。
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。
お互い、人生を良い旅にしていきましょう。
自分が親より先に死んだ場合を除き、自分の遺体の後処理をお願いできる親戚などがいないため、自分で自分の後始末を準備しておかねばならない。基本的に日本の現在の行政は「誰も引き取り手がいない孤独死」を前提とした体制になっていないため、持ち家やクルマや財産、先祖の墓、仏壇、その他私物の処分について、あの手この手で事前に準備しておかないと、いろいろあとの人に迷惑がかかる。まあかかったところでわからないんだけれども。
そうなると、死ぬだけでも大変だ。そのためにいろいろ準備して準備万端で、よしこれで安心して死ねる!って感じで死にたい。おかしな話だがそのためには親を送ったあとも、健康やらいろいろ気を使って、身辺整理をする体力、時間や金銭的余裕が必要になる。
とりあえず、今はそれが目標。
あーでも、そのうち孤独死前提の法律や体制が整備されたら、自堕落してもいいと思っている。今はまだわからないので、まじめに頑張る。
自分が昔住んでいた街に、安くて速くて量が多い、店内は暗い感じのこじんまりとした中華料理屋があった。
自分が最初訪問した時は流行ってるとはいい難い。主人が一人で捌ける量の常連がいるような店だ。
店主はメニュー開発が好きなのかいろんなメニューを季節限定で提供していた。
その一つが冷やし担々麺だった。
その店は、細麺のちぢれ面に、濃厚なゴマダレと、ラー油。そして、麺の上にこんもりもられたキャベツの千切りと肉味噌といった感じの冷やし担々麺だった。
一人暮らしで、肉より野菜のほうがコスパが悪いことを知り、野菜をほとんど食べない自分にとって、まるでその冷やし担々麺は夏を健康的に乗り切るオアシスのようなものだった。
この店との出会いは、入社したての自分をランチに誘ってくれた社長が連れてきてくれた。社長もこのお店の常連だった。
ちょうど引っ越しをした場所から徒歩で2分、会社からは徒歩で10分というアクセスの良さで自分はよくこの店に通った。
顔も覚えられて、着席すると水を持ちながら「いつもので?」と聞いてくる。いつものというのは担々麺+ライスのセットだ。ここの担々麺は酢が聞いて一度食べたらやみつきだ。
店主は、カウンター越しよく話しかけてくれた。自分がポロッと「最近、名古屋の方では冷やし担々麺っていうのが人気らしいっすよ。一度食べてみたいっすわ~」と言ったことがきっかけで店主なりにいろいろなレシピをみたりして作ってくれたのだった。
店主はメニューに出す前に「つくってみたんだけど、どう?」と無料で一回食べさせてくれた。初めて食べたから他のと比べられないけどとても美味しかった。
特に野菜がたくさん乗ってヘルシーだった。これでライスとセットで600円なんだから信じられない。自分は毎日のように冷やし担々麺を食べた。
メディア取材がきて、店は大繁盛、担々麺が美味しいお店と話題になった。自分も大繁盛して嬉しかったが、流石に平日に待機列に混ざるわけにもいかず、土日の人が収まってきた時にまだ昼を食べてなかったら行くぐらいになっていた。
それからどんどんと自分はその店に行かなくなった。店の雰囲気が落ち着けなくなったからだ。
それから、転職をし、社長に報告したら「最後に一回いっておくか!」とそのお店で送別会を開いてもらって、引っ越しをした。
今年の8月入った頃に店主が倒れた。そしてそのままお亡くなりになった。
社長からその報告を受けたとき、お世話になっていたから葬式ぐらいは…と思ったがやはり距離的に厳しいこと、お盆前の仕事の仕上げがあり行くのは難しかった。身内でもないから有給も取得しにくいし。
そして、このお盆に実家に帰った帰りに、香典を渡して、仏壇を拝ませたもらった。
前の会社の社長に連絡を取り、じゃぁ家まで車で送っていくよと送ってもらった。
店主の家に行くと奥さんがいて、香典を渡し、お店の方は、段々と人が増えていたので従業員を増やすために息子に戻ってきてもらい引き継いでいた、今はバイトを何人かいれていて営業はできるという事で営業はしていた。
お店の方に行くと前よりは落ち着いたものの、待機が2組ほどいるようだった。社長と待機列にはいった。
店内は息子さんと、女性の店員一人が切り盛りしているようだった。
女性の店員が注文を聞きに来る。社長はいつも担々麺とライスだ。
自分はメニューをひと眺めして冷やし担々麺とライスを注文する。
5分も待たない内に運ばれてくる。提供スピードは相変わらずだ。その冷やし担々麺をみてびっくりした。
あれ?おかしいなって顔をしていると、社長は思い出したようにいった。
「増田くん、よく店長と野菜が高い高いって話してたよね。店長ね、増田くんが注文するとき、なんでも野菜多めにしてくれてたんだよ。俺も冷やし担々麺何回か食べたこと有るけどキャベツ盛りは増田くんの特別オプションだったんだ。」
その話を聞いた瞬間、涙がボロボロとでてきた。
遺影を見たとき、いっつも笑ってる店主の顔が見えたとき、その写真が動き出して「いつもので?」といってきそうだなと思ったが涙をこらえた。なんというか、実はどこかにいて、店主と社長がドッキリでもしかけてるんじゃないかって思ったぐらいだ。
社長のその話と、キャベツが盛られていない冷やし担々麺を見たとき、「あぁ、店主は本当に居なくなったんだな」って実感をした。
それをみた社長も泣いて、笑っていた。
キャベツの乗っていない冷やし担々麺の味は、全然わからなかった。わからなかったけど、代わり映えしないようにおもえて安心する味だった。
無理言ってでも葬式に出ておけばよかった。
そんな後悔しても遅いんだけどね。
あぁ、せめて、店主に冷やし担々麺のレシピ教えてもらえばよかったなぁ。エビチリ、麻婆豆腐、青菜炒め、いろんな中華料理のレシピを教えてもらったんだけど、なんで冷やし担々麺のゴマダレは聞かなかったんだろうな。
増田と似たようなことを長年言っていた友達が昨年の春、10年以上同棲していた彼女と突然入籍しました。
「なんでまた今更?」ってみんなが首を傾げる中「いや~なんとなくね~」としか答えてくれなかったんですが、先日飲みに言った時にぽろっと教えてくれました。
友人の両親は揉めに揉めた挙句離婚をしており、それを見ていた友人と、友人のお姉さんも結婚には懐疑的でした。なのでお姉さんも彼氏と長年同棲していました。もう殆ど夫婦みたいな感じだったそうです。
ところが、お姉さんの彼氏が帰省先で急性心不全になってしまって、そのまま逝去。お姉さんが彼の死を知ったのはお通夜が終わった後のことでした。
同棲相手の死に目に会えず、お通夜にも出れず、お葬式にも「ただの友人の1人」としてしか参列できない。お骨も拾えない。
更に、お葬式のときに彼の両親から「あなたと同棲していたせいで、私達は孫に会うことも叶わなかった」と責められたらしく、家に上がらせて貰えず。お仏壇に手を合わせることも未だできていないそうです。
そんなお姉さんの様子を見て、即、結婚を決意したと友人は話していました。
心身ともに健康で、金銭、時間に余裕があるとき、人は他人の生き方に寛容になれるし何か起きてもどうとでもなります。
しかし時間や金銭的に余裕のない状態で、万が一のことが起きた時、人は他人の心まで思いやることはできなくなるし、トラブルを防ぐために杓子定規な対応しかできなくなってしまうと思います。
法律というのは「最悪の中の最悪」を回避するためのセーフティネットであり、杓子定規の最たるものです。
増田が、それが無くてもなんの問題もなく、心を壊すことなく生きていけると確信できるか、ちょっと考えてみてもいいかもしれません。
ちなみに法律婚をしても心が壊れることは沢山あります。でも時間が味方してくれことが多いし、基本的に「配偶者」として、第三者から意思表示を認めて貰えます。
これってとても大きいことですよ。
はてな民なら、極端なハックを寄せてくれるのではないかと期待しています。
または、はてな民のおもしろい罵詈雑言を浴びて、気分をリフレッシュさせたいです。
特定はやめてください。
彼に関する最古の感情は以下。私が年長さんか、小学校低学年の頃だと思います。
「3才年下の彼の行為は、3年前の私がやったらこっぴどく怒られた行為。何故彼はえこひいきされているのか?」
「3年前の私が出来た事を、今の彼は何故出来ない」
「彼と同い年の従兄弟が出来ることを、彼は何故出来ない」
彼が小学生の頃、彼の夏休みの宿題を、家族全員で手伝うイベント。
宿題がほとんど未完の状態を母が検知し、母が「全員でかかれ」を発令。
私にインセンティブはありませんでした。
父母の財布から金を盗んで。
工業高校を卒業した彼は、母の薦めで、母のコネで、塗料関係の企業に就職しました。
実家に戻った彼は、母の薦めで、情報処理専門学校に通いました。
Windows95がまだ出ていない頃。
彼は、卒業はしたようですが、コンピューターを嫌いになったようです。
彼は半導体の製造工場に勤務しては雇い止めに遭う、を繰り返します。
そのうち、田舎では働く場所がなくなって、東京のハズレの方に勤務します。
上記は珍しく、彼の意志での赴任でした。2005年ぐらいだったように記憶しています。
2008年のリーマンショックで派遣切りにあい、企業の寮を追い出され、その後数年間無職になります。
寮を出てアパートを借りる金、無職の間の生活費を母が送金していたことを、父と私が知るのは2015年暮頃。
母→彼への送金がバレるきっかけは、母がボケて金遣いが荒くなったためです。
彼を地元に呼び戻そうと、父母は考えました。
東京で無職をするより、実家で無職のほうが経済効率は良いためです。
しかし彼は応じません。
提案に応じないのではなく、電話に出ない、手紙の返事もよこさない。
東京に住む叔母が訪問して、一度は会ったようですが、以後居留守を使っているらしいとのこと。
「返事すらしないのは家族ではない」父と私で見解を統一しました。
母からも連絡が行ってるはずですが返事はないようです。
遺産分割するため{レターパック、書留、裁判所からの通達}を送りましたが全て無視されています。
彼は警察に保護されて、東京に住む叔母が身元引受人になって警察に赴いたとのこと。
と言う連絡が、私に、東京に住む叔母の息子(つまり私の従兄弟)からありました。
これが数日前です。
「彼を地元に連れ帰ってくれ」
私は断りました。
母の要請で彼の世話をしたくありません。
43歳で、工場をクビになって、ホームレスになって、食うや食わずで行き倒れる人間は、この先どうすればまともに生活できますかね?
あるいはマスゴミが
「ここが彼の生家です!!!!」
と殺到するかも知れません。
生きてて楽しい事もない。いつ自分のスペックが要求スペックに追いつけなくなるかヒヤヒヤしながら、楽しくもないタスク。
友人はいるけど、別に命這って助けられるような自信があるわけでも、死ぬときの心残りになる訳でもない。
ただ辛い毎日。別に今この瞬間に事故でも天災でも、殺人でも巻き込まれてしまってもいいのかな…って思ってる。
もし、その時になったら瞬間的な死の恐怖とかでチビッちゃうかも知んないけど。でも、長期的に見て構わないかな。
仏壇のご飯が腐ってても、米を炊いてないって蝿にたからせてる政治だと思ってたけど、色々見てても持論が否定されたり、分からなかったりで、最近、自分が間違ってるんじゃないかって思えてきた。端的に言えば疲れた。
だから、別に変えようって気張らない事にする。今のままで、どういう結末に皆行きつくのかボーッと見てるわ。
それまでにぽっくり死ぬかも知んないけど。
「だろうな」
「それで会社ではどうやって将来の収益を上げるかみんなで考えていきましょうって話になってる」
「数百社はあるらしいけど」
「知らず知らずの内に自分の嫁が仏具屋大手に勤めておったわw」
「数百社もあるなら在庫系や勘定系のシステムインフラ作って無料で取引先にバラ撒いて依存させたら良いんじゃない?時代はインフラ支配だよ?」
「物凄く悪い笑顔で嬉しそうに言うのやめてw」
「いやまぁホントなら楽天市場で仏壇売られる前にIT参入すべきだったけど、統合的な神具仏具オンラインマーケットや勘定系のシステムが無いならやる価値はあると思うけど」
「その辺は経営者が考えることだわ。会社のみんなで考えて欲しいのは仕組みだろうしね。具体的な仕組みでなく糸口になるレベルで良いと思うけど」
「なるほど〜言ってみるわ」