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2018-09-26

anond:20180926154755

新潮休刊となったそうです。この先、杉田氏にも相応の処分が下るかもしれません。しかしこれは勝利なのでしょうか。杉田氏や小川氏やその支持者は、持論を撤回したのでしょうか。

新潮休刊に追い込んだポリコレ勢を言論封殺と詰るのではないでしょうか。砲撃は未だ鳴り止まず、勝敗は彼方にたゆたっているのではないでしょうか。

事実言論封殺からしょうがないね

この一件を以てしてもLGBT在日云々みたいな眉唾を通り越し、健常者の言論の自由を奪う明確な敵だと言える。

ゲイはザイニチなんだから杉田水脈を叩くのをやめろ

杉田水脈氏の「LGBT生産性はない」から、先日の新潮45擁護論文に至る流れについて。

そもそも立ち返ってみれば、杉田論文の主張は

LGBT生産性はない」「故に税金を注ぎ込む必要はない」

といったものでした。前段が差別的であるためそこにばかり焦点が当たりましたが、本来の論旨は後段であったと思われます。雑に言ってしまえば、「(生産性がない)LGBT国民血税を掠めとるのを許すな」ということでしょう。

これは「在日特権を許さない会」とよく似た構図のように思われます

せっかく匿名日記があるのだし、陰謀論に踏み込んでみますと、杉田氏が自民党から大きな叱責を受けなかったのは「国民間の分断を煽り権力に都合の良い状況を作り出す」方向にあるから、といった見方もできようかと思います。また、その背景にアメリカのような「ポリコレへの反発」があるのだとすれば、ターゲットLGBTのものではなく、その支援者理解者、あるいは「直截の利害関係には無いが政治的に正しくあろうとする市民(以下ポリコレ勢)」、ということになるのだと思います


在日特権」ならぬ「LGBT特権」を想定し攻撃を加える。その結果、特定層の溜飲を下げたり、権力への批判をそらすことができる。何よりも、特定層とポリコレ勢は分断され、両者はその党派性から団結した政治活動ができなくなる…。

今後、杉田氏が「子育て支援もっと手厚く」といった主張をした時に、「杉田LGBTに謝るまで認めない」とのブコメはつかないのか。逆もまた然りで、杉田氏を支援するである「若くてお金のない夫婦」が、ポリコレ勢と手を取り合うことができるのか。そう考えると、分断がもたらす「大きな政治機運の成立しにくさ」は、権力者や富者といった既得権益層の意向にかなうものではあるでしょう。今回の流れは安倍晋三こそが黒幕!、などといった陰謀論的飛躍は自重し、偶発的なものと考えるにしても、自民党安倍政権はその受益者の一人であるとは言えそうです。



陰謀論を続けちゃいますけど。

差別発言をまといつつも、目的LGBTへの差別感情社会敷衍することではなく、分断そのものにあるのであれば、「差別やめろ」「特権などない」といった反論は、問題解決には寄与しないということでもあります在日コリアン問題においてそうであったように。

杉田論文に対しては

https://www.buzzfeed.com/jp/shibunnagayasu/sugita-stop-lgbthinan?utm_term=.qtWenBANE

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/14032

のように、「LGBTへの支援は度が過ぎるというが、そんな支援はないぞ」といった反論もありました。きちんと構成された丁寧な内容だと思いますしかし、「分断を喜ぶ悪い奴ら」の目的は、国民を分断し政治的に無力化することです。特権実在や、論理ファクト、正しさは関係ありません。むしろであるほど、一種の「ツッコミ待ち」」として反撃を誘いやすいとも言えます攻撃と反撃とが1往復すれば、その時点で分断は明らかになり、目的は達成されています。「黒幕」は論戦に勝利してLGBT在日コリアンから特権剥奪することに、大して興味はありません。はした金ならくれてやってもいいだろ、と考えているかもしれません。

上の記事には論理ファクトも正しさもありますが、同時に攻撃性が隠れていない「反撃」です。LGBT当事者が「生産性がない」などと中傷を受けた心情を慮ればやむを得ないにしても、それもまた分断を煽る側にとって喜ばしい結果に収斂するとすれば、残念としか言いようがありません。


杉田氏の主張に対して、ポリコレ勢がとった反応は「差別主義者とは話さない」といった冷淡な態度に見えました。これを受け、杉田氏を擁護する小川論文は、LGBTと、犯罪行為である痴漢を同種と見なすなど、杉田論文と比べて攻撃性を増しています。つまり、「ザイニチを殺せ」ならぬ「LGBTを殺せ」に一歩近づきました。この行き着く先は泥沼と化した在日コリアン問題の二の舞、にしか思えません。自分観測範囲しかなく何らエビデンスの無い反知性的な総括、すなわち「※個人の感想」にすぎませんが。

新潮休刊となったそうです。この先、杉田氏にも相応の処分が下るかもしれません。しかしこれは勝利なのでしょうか。杉田氏や小川氏やその支持者は、持論を撤回したのでしょうか。新潮休刊に追い込んだポリコレ勢を言論封殺と詰るのではないでしょうか。砲撃は未だ鳴り止まず、勝敗は彼方にたゆたっているのではないでしょうか。


必要なのは攻撃ではありません。勝利でもありません。対話であり、相互理解です。自分が思うに、ポリコレ勢には、相手、つまり差別主義者や反ポリコレ勢の心情に寄り添う義務があります。そしてこの義務一方的自分にのみあることも、同時に理解されるべきです。差別主義者や反ポリコレ勢は「ポリコレ野郎はお家でミルクでも飲んでな」と放言したところで、その思想信条とは相反しませんが、多様性内心の自由を尊ぶポリコレ勢にとってはそうではないからです。

あるべき姿は、相手が誰であっても、穏当に対話を続け、団結できる着地点を探し続けることです。ネットを見ていると、当初はそのような志を持っていたにも関わらず、あまりの「話の通じなさ」に放棄した人たちが、ウヨにもサヨにもいるような印象です。マンガアニメでよくある「闇落ち」的なね。しかし、「分断を煽る黒幕」にとっては、団結を模索し続けるプロセスこそが脅威であり、団結できたかどうかは、そこまで重要ではないように思われます


だとすれば政治的に正しくあろうとするのは修羅の道ですねえ。話の通じない差別主義者どもと結果の出ない対話を続けるしかなく、そこに相手論破したり、分かり合えたり、尊敬を得たりする、快楽や達成感など求めてはならないのですからAIあたりに代行してほしいところです。いや、そもそも人間にできることではないと諦めるべきかもしれません。


まあ釣りタイトルから陰謀論まで持ち出して長々と書いたのは、あんまり強い言葉攻撃するのは自重しましょうよ、というだけなんですけどね。ウヨさんもサヨさんもどっちもだぞ。真紅バスローブを来てブランデー揺らしてる「分断を喜ぶ黒幕」がほくそ笑んでるかもしれないぞ。

思うままに書いてみたら、なんだか「国民よ団結せよ、真の敵は他にある!」みたいな話になってて自分でも戸惑ってますが、言いたいことは以上です。

anond:20180926093442

いや全くその通り。

みたい、ですらない。いじめ言い訳のもの

だって、実際いじめをしていたんだからな。

いじめっていうのは、落ち度がある(とされる)ことをした奴を対象にするもんだ。

悪いことした奴を袋叩きにするのは、楽しい

それがいじめだ。

新潮いじめて我々は楽しんだ。

それがダメだとなったら、もちろん弁解は、いじめ言い訳と全く同じになるぞ。

新潮ブコメ見てるとイジメ言い訳みたいに見えるな。

イジメられる方が悪いとか、死ぬとは思ってなかったとか。

ちょっと言った程度でとか。

2018-09-25

新潮45部数2万未満

この売上で極端な事やって多くの作家や読者から新潮社へのヘイトを集めたんだから続ける方がびっくりだよ。

新潮寄稿してた人等も逃げてたし新しい穴埋め作家も探しにくいだろうし。

2018-09-22

anond:20180922222048

これオタクが言ってるのよく見るけど、何も悪い事をしてないのにキモいと言うだけで与党政治家自殺率を笑いながら話されたり、与党政治家周りの保守論客達に新潮タコ殴りにされたり、そう言う攻撃オタクにもいつでも向きそうなのに新潮擁護に走る意味わからんわ。

どれだけ理不尽差別を言われても黙ってろってんなら、オタクきんもー☆炎上させるべきではなかったしバイトの勤務する会社を潰すべきではなかった。

2018-09-21

anond:20180921104218

最近はまともな本より頭の悪いネトウヨ雑誌のが売れるんだろうか

ブランドイメージ落としてまではした金掴みに行く意味わからんけど新潮そこまで落ちたのかな

新潮本当に何考えてるんだろうな

作家漫画家知識人等々、出版社LGBT仕事相手も山ほどいるだろうに名前を冠した雑誌で殴りに行く意味がわからない。

2018-09-20

新潮LGBTの話って、新潮側も批判する側も噛み合ってなくて、お互いあさっての方向を向いて喧嘩してる。これってLGBTに対するイメージがあまり統一されていないからだろうな。

最近めちゃくちゃ頭悪そうなネトウヨだなと思ったら

与党議員だったり新潮から出版されてたりすんの日本落ちるとこまで落ちてきてる感あるわ

杉田水脈

勇者ライディーン」をカラオケで歌うときは、「悪魔」を「チャ◯ナ」に、「ライディーン」を「日本」に置き換えます。「たちあがれ日本」のテーマソングになります。お試しあれ♪

@miosugitaさんのツイート: https://twitter.com/miosugita/status/890709796055171072?s=09

小川榮太郎新潮45より

満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深ろう。再犯を重ねるのはそれが制御不可能な脳由来の症状だという事を意味する。彼らの触る権利社会保障すべきでないのか

新潮評論家の人は現に忌避されがちな性的な嗜好や行動だけではなく、

性に関わることはすべて、個人的不快か、

感性的には多数派だが、なんらかの理由で非常に悪いとかまで

いけば面白かったかも。

反出生、反結婚、反恋愛、一切の肌の露出や体形のわかる姿の禁止とか。

anond:20180920012553

性犯罪絶対さないでいいけど、新潮を叩くのはお門違い。

てかロクに文を読めてないのが分かる。

2018-09-08

プライベートでは一切勉強しない社長

たぶん9月中くらいには界隈でニュースになるだろうけど、とある知人が経営する会社が(事実上)先月倒産した。年初くらいか経営状態がやばいという話は共通の知人づてで聞いていたのだけど、その割に先輩経営者たちと飲み歩いてばかりいるようだったので訝しんでいたら、案の定というかなんというか。

というときタイムリー「プライベートでは一切勉強したくない」と言っていた社員のこと - 株式会社アクシア という記事炎上しているのを見て、その辺の事情経営者も労働者も案外変わらんのだなと思った。

その社長とは1年前くらいに会ったときに、一応5年来くらいの知り合いではあるので、社交活動重要だけどもう少し社内で事業に集中したほうがいいんじゃない?みたいなことをやんわりと忠告したんだけど、「〇〇さんと飲んで話聞くと凄い話が多くて勉強になる」だの「人脈の重要さを分かってない」だの、微妙に痛いところを突いてしまったらしく、猛烈に反論を受けて関係が疎遠になっていたんだけど、結局その散々一緒に遊び歩いていた人たちにとっては、しょせん遊び友達は遊び友達であって、やっぱり本当に会社が潰れそうなときに助けてくれるわけじゃないんだなと、すごい納得した。

かに秀でた実績を出している経営者の中にも、遊び歩くの大好きな人も多いし、そういう遊び友達から仕事につなげている人も少なくないけど、実際に遊び友達から仕事につなげてる人は、遊びのように見えて実のところ営業活動になっているというか、遊ぶのは目的でなくて手段なんだよね。もしくは遊びはストレス解消と割り切って、深夜まで飲んでるけど朝は9時にバチっと出社してバリバリ働いているか

サイバーエージェント藤田社長なんかも割と「遊んでる」方だと思うけど、これまたタイムリー記事だけど、これなんかAbemaTV島田紳助に出てもらうためにわざわざ口説きに会食に大阪まで行ってるわけで。

【引退から7年】ホンマ、平和な日々ですわ……庭いじりで日焼け「62歳 島田紳助」隠居生活を語る | デイリー新潮

ネット業界に出入りするようになってからもう20年近いけど、やっぱりコンスタントに成長している会社経営者は勉強熱心な人が多いよ。ちょっとした人事制度1つとっても、取材記事とかを見て興味もったら、facebookで話聞きたいんだけど今度飲まない?みたいのをすぐに連絡とってきて「実際どうなの?」みたいのを詳しく聞いてくるし。女の子がつくようなお店に行っても、女の子ガン無視で話してるのはひたすら事業の話、みたいなことも多い。本とかも本当によく読んでる。

経営者なんかは分かりやすく「勉強不足」「努力不足」が、業績不振に直結するし、ちょっとした情報が数億・数十億円の価値を持ったりするので、勉強がより「自分事」なんだけど、労働者はどうしても勉強努力給料リンクするのを実感しにくいので、どうしても「他人事」になりやすくて、下手すると勉強重要さに気が付いたときには人生手遅れになってそうで、これはこれで大変だなと思った。

しかし一昔前に比べると、ベンチャー系のサミット/カンファレンス増えて、それ自体資金調達の活発化にもつながってていいんだけど、まだ何も成し遂げてない若手経営者が、そういう場に参加しているだけで、自分をイケている経営者だと勘違いやすなっちゃってるのは本当に良くないと思う。賢い連中は資金調達のためにだけそういう場を使って、あとは社内に引きこもってプロダクト磨きに専念しているけど、社交活動経営者の仕事だと勘違いしてしまった連中は本当に救い難いことになってる。

2018-08-25

anond:20180825065754

大阪ではバッタモンっていう言葉があるんやけど、それって紛い物のこと。

紛い物が粉々になるって高校で習う感じ)〜(漢字)なんかな。

漢字ドリルでべんきょせなあかんわ。うんこドリルはあれ幼稚園向け屋から粉々の紛い物は

書き取り問題にするのは可哀想や。そうや、パワハラ問題新潮レポートされてたけど

週刊誌キッチリ裏とりしてんのかえ。そやないと、名誉毀損屋で。

で、話を元に戻すと君ラ濱松恵の黒い薔薇読んだ?

2018-08-08

新潮爆問太田裏口入学記事だが

あれって単にヤクザが各大学から事前に入試問題を手に入れて、それを周辺の金持ちに売りつけるシノギをしていた、という話でしかないでしょ

証言している「日大関係者」って「日大から試験問題を事前に貰い受けていたヤクザ」ってことでしょ

東京医科大学の件から想像できる裏口入学とは別個のものだし、爆笑問題太田疑惑は「漏洩入試問題を購入」したことである

 

交渉から金払ったのは全部父親がやってたことだから太田本人が知らない、分からないというのは納得できないことではない。

父親が亡くなっている以上、太田記憶頼りで、太田入試直前にホテル缶詰にされて一夜漬けをやらされた記憶が残っているか、が重要である。かといって父親のしたことを知らなければ忘れていたとしても仕方のないことである

なお新潮リークしたヤクザ側の証言は、ヤクザである以上、信用性は相応のものしかいか事実担保するものにはならない。

2018-07-27

彼女持ちレズの私が思ったこ

杉田氏の新潮全文読んだ。

 

色々突っ込みたいことはあるけど、確かに別に私は保護されたいわけではない。

結婚させてくれれば別にそれでいいんだ。

 

私事になるけど、もう彼女と5年一緒に住んでる。

どちらかが戸籍上男なら入籍していると思う。 

もし今この瞬間、私が死んだら、彼女が死んだら、と考えると怖い。

会社にはカミングアウトしていない。

だってわざわざ「私同性愛者で女と付き合ってるんです。」なんて言う機会はない。

親にはカミングアウトしているが、「気の迷いだろう、否定はしないができれば異性と結婚してほしい」という感じだ。

 

ただ、結婚できていたら?

入籍の報告として伝えることができる。

扶養とか控除とかそんなものはなくても良い。妻が病気とき、死んだとき会社申請ができることにかなりの安心感がある。

また、相続についても安心できるし、「気の迷い」と言う親族に対して大きな説得力となる。

 

もし今彼女が死んだら、私はカミングアウトするかどうかの選択からはじめなければならない。

「実は同性愛者で、長年連れ添った相手がいて、その相手が死にました。」と会社に伝え、

会社のさじ加減によって忌引や何かしらの配慮をしていただく。

あるいは、「他人から」と何もない可能性もある。

カミングアウトをせず、彼女のことを隠し通すかもしれない。実際、こういう選択をする人もいる。

その場合は、人知れず最愛の人を亡くすことになる。

ちなみにパートナーシップ結婚のような法的効力はなにもないので、

結んだとしても会社には報告しないと思う。

まあもしものときどうしてもカミングアウトする場合に本気度を示しやすくなるアイテムではある。

 

私は、保護されたいわけじゃない。異性愛者の持っている、「愛する人に何かあった場合リスクの軽減」を求めているのだ。

かに日本同性愛者はさほど差別はされていない。けれど、差別されているわけではないからこそ、ないものとして見られていることのやりにくさがある。

2018-07-16

anond:20180716171442

上祐さんって自分死刑になっててもおかしくない立場だったのに、まるで他人事みたいに批判していて、どういう思考回路なんですかね?

https://twitter.com/joyu_fumihiro

 

うまいこと言っても結局は、自己保身のためのポジショントーク、という以上の印象がないですね。

 

https://twitter.com/nishidak0705/status/1017930484561543168

"オウム信者こころが伝わりますhttps://t.co/kk8ewYg2bo 「悲」全部です。もうシェアメールもなにしてもいいってことです。是非シェアを。"

2018-07-08

三島由紀夫金閣寺」について


金閣寺』という小説が何を表しているのか、単刀直入に語るとすればどのような言い方になるだろうか? それについて敢えて率直に語る事はすまい。

 とは言え、勿論その文章の中心的な部分は割に簡単言葉で表す事ができる。つまりは「美しさ」と「地獄」という二語によってである。ただし、これだけだと余りにも簡単説明でき過ぎてしまう。実は、金閣寺はこの二語のみによって説明できる小説なのであるが、それではあまりにもざっくばらんすぎて、説明が詰まらなくなってしまいかねないのだ。その為、少しだけ読者を焦らす事にする。


 金閣寺1956年雑誌新潮』に掲載され、年内に単行本化し15万部のベストセラーとなった――また、現在に至るまで文庫を中心に300万部以上を売り上げる日本の伝統近代文学の内の一つである海外においては複数言語翻訳され、日本文化を緻密に描いた三島由紀夫文章は各地で絶賛を浴びた作品でもある。しかし、無論この小説には難しい部分がたくさんあって、一朝一夕で読み解くにはハードルが高い。

 しかし、繰り返すようにこの小説は二つのポイントをさえ押さえるならば十分に理解することができる。

 つまりは「美しさ」と「地獄である

 この言葉はあまりにもこの小説を語る際に便利過ぎる。

 金閣寺は美しさの象徴であると同時に地獄象徴であった。これが三島由紀夫がこの小説において語ろうとしていた全てである小説金閣寺』は1950年に発生した、青年僧侶による「金閣寺放火事件」を下敷きにしており、三島由紀夫はこの青年僧の犯行根底に「美への反感」があることを読み取った。そして、そのコンセプトを元に書き上げられたのが、当の大作『金閣寺』なのである


「美への反感」。

 つまり、人は美しいものを時に憎むのである。そのような感情一言に言って地獄の現出に他ならない。

 何故ならば、人は美しいものに中々なれないかである

金閣寺放火事件」の主犯となった青年は幼少より吃音の症状を呈しており、恐らくそ吃音症は彼の人生に薄すらとした重たげな影を投げかけていた。

 吃音症は美しいか否か、と語るとするならば、恐らく人は吃音症を称賛するよりも嘲笑するだろう。いや、これもまた偏見なのかもしれないが、少なくとも三島由紀夫はその吃音の症状一つ取るに、青年僧の人生に降りかかる薄すらとした影の姿をまざまざと感知したのであった。そして、青年僧は自身が美という観念からはやや隔たった存在であることを自覚すると共に、美に対する拭い難い憎しみの存在を抱え続けることになるのである。――自身の美への憧れの象徴として、自身父親から長く「美しい」と語られていた金閣寺存在を、憧れと同時に、憎悪対象とし始めるのである。やがて、青年僧は最終的に犯行に及ぶ――金閣寺放火し、その美の象徴たる美しい建造物を、焼き払ってしまうのであった。

 美に対する憧れ、そして憎しみ、そのような薄すらとした影が、青年僧の人生には降り掛かっていた――これが、この金閣寺という小説を書くに至って、著者である三島由紀夫本人が青年僧に対して抱いていたイメージ重要な箇所であるだろう。そして、もはやこれは自明のことであるとは思うのが、その薄すらとした影――つまりは「美への反感、憎しみ」――とでも言うべき影は、三島由紀夫人生のものをも固く包み込んでいたのである

 三島由紀夫本名平岡公威(ひらおかきみたけ)は1925年に父、梓。母、倭文重(しずえ)の元に生を享ける。

 幼い頃は虚弱体質であった三島が、長じてからは肉体強化のトレーニングに励んでいたことは周知の事実であろう。

 三島心中いかに「美」に対する執着と、そして同時に反感とが存在していたか推して知れることである小説仮面の告白』においても語られていた通り、三島由紀夫心中には鬱々たるものがあった。そして同時に、そこには複雑な、文章によって表現することの憚られるような感情が幾つも幾つも存在していた。恐らく、彼はそのような歪な感情存在する理由を、人生において追究していたに違いないと思われる。

 でなければ誰があん小説を書こうとするであろうか?

 ともかく、三島由紀夫はその人生において複雑な美意識を持っていたし、同時に、その美意識に対する反感を抱き、自分自身感情を飼い慣らすことに苦労していた――そこには美に対する憧れと、同時に美に対する反感、そして美を中心とした地獄があった――これはおおよその三島由紀夫研究者が抱いている彼に対するイメージであろうと思う。三島由紀夫は彼の小説において、彼の人生のものを率直に表そうとしていた。彼の人生というものは、恐らくは彼の書いた小説以上にわかやすものだったのかもしれない。


 金閣寺の作中において、柏木という名の登場人物が現れる。この人物は跛足であり、つまりは歩行に困難を抱える身体障害者であった。

 そして、小説金閣寺』においては明確にこの人物が、当小説における極めて重要な部分を語る鍵となっているのである

 作中における柏木キャラクターについてはここでは敢えて詳細に語らないが、しかし彼が主人公青年僧に対して口にしていた、『金閣寺』という小説の根幹を成す極めて重要台詞について語ることにする。それは、以下のような台詞であった。

地獄の特色は、すみずみまで明晰に見えることだ。しかも暗黒の中で!」(文庫金閣寺、p.129)

 柏木というキャラクターはいわば「地獄」に関する伝道者としての役割果たしている。「地獄とは暗闇の中で一切が明晰に見えることである」。この言葉意味曖昧模糊としている。そこには、語るまでもなく明らかな矛盾がある。暗闇の中では一切が曖昧で、決して明晰になど見えはしないのだ。しかし、このような矛盾物語の後半において一挙に解消されることとなる。そう、ここにおいて柏木の語った一節は、当小説重要テーマである金閣寺の「美的側面」、ひいては、金閣寺の「地獄としての側面」に対して、判明な解答を与える重要キーワードであるのだった。


 飛んで、物語の後半。主人公青年僧は、ついにその目的を実行に移そうとしていた。

 彼の中にある美への憧れの根源――金閣寺存在のものを一挙に焼き払おうというのであるしかし、時刻は夜であった。そこは全くの暗闇であり、暗黒であった――。しかしそれでも主人公の目には、暗闇の中にある筈の金閣寺がまざまざと視認され始めるのである

 そう、正に「暗黒の中で」「すみずみまで明晰に」金閣寺が浮かび上がったのだ。

金閣寺は雨夜の闇におぼめいており、その輪郭は定かではなかった。(p.318)

が、私の美の思い出が強まるにつれ、この暗黒は恣まに幻を描くことのできる下地になった。(p.319)

ついには昼とも夜ともつかぬふしぎな時の光りの下に、金閣は徐々にはっきりと目に見えるものになった。これほど完全に細緻な姿で、金閣がその隈々まできらめいて、私の眼前に立ち現れたことはない。(同)

 そう、ここで暗闇の中で明晰に知覚できたのは、美の象徴として語られる金閣寺の姿そのものだったのである

 金閣寺はここにおいて、彼の記憶に根差した「美」の象徴として語られている。そして、同時に、かつて語られた柏木警句が浮かび上がらせるのは、金閣寺の「美」としての側面と同時に立ち上がってくる「地獄」としての側面だったのである


 小説金閣寺』は、青年僧の中に存在する「美」への屈折した感情を描き切った名作であった。そして彼はその「美」をも、「地獄」をもまた共に焼き払ったのであった。

 そこには、純粋な憧れと同時に、地獄としての大きな側面が描かれていたのである

2018-07-06

2010年08月当時の日記NODA MAP 「ザ・キャラクター観劇

東京芸術劇場ホール

宮沢りえ,古田新太,野田秀樹,橋爪功藤井隆

美波,池内博之,チョウソンハ,田中哲司

今回はせりふが聞き辛かったな。

途中から耳が慣れて聞こえるようになったけれど

野田さんや橋爪さんが聞きづらいなんて事なかったのに。

劇場問題なのかな。

で、肝心の舞台ですが 重いです。

途中から気持ち悪くなるくらい重い舞台でした。

なので ちょっとまじめに書こうと思う。

昨日からずっと考えてた事。

好き勝手に書くのでご容赦を。

野田作品によくある2つの世界交錯させながら表現してく手法

言葉遊びを絡ませながら話は進んでいきます

ギリシャ神話カルト集団の内部。

そしてカルト集団は あのオウムベース

街の書道教室で紙に文字を書いていたはずの集団

神を名乗り 狂信的で盲目的な信者が増えていき

やがて みなが知るあの事件と同様の狂気へと進んでいく。

リアルタイムでそれも東京にいた私たちにはつらい題材。

なぜ それをわざわざ触るのか?

といいたくなる題材。

でも、今 野田氏があえてこの題材を取り上げたのだから

きっと何か意味があるはず。

なんとはなしに感じてた事だけど

もちろんそうじゃない人も大勢いる事は大前提だし

十把一絡げ に書いて申し訳ないけど

今の若めの世代の人たちって ちょっと 危ういなって思う事がある。

知識はあるけど倫理感が希薄

視野が狭くて近眼的。

自分で考えて自分判断する力はあまりもっていない。

興味ないことへの興味のなさ度があからさま。

逆に興味があることへの 距離感が近すぎっぽい。

頭でっかち感。

現代の閉塞感のせいもあると思うけど。

「解った上で」って事がない人が多くなっている気がして怖い。

「解った上で」やっている人とそうでない人。

「解った上で」がわからない人々=大人ではない成人=幼さ

から、建前として「社会貢献」とか「使命感」とかの

オブラートうまい事包んで誘導する輩が出てきたら

「カチッ」と ハマってしまって

簡単カルト宗教軍国主義暴走していきそうな危機感って

あるんじゃないのかなって ちょっと思ったりする。

で、舞台の話。

なぜ今 この題材なのか。

野田さんもそういった今の危うさを感じていているからなんじゃないかなって思う。

あくまで私の感じたことだけど

あの事件から15年

幼子だった子も含めれば

知ってはいるけどリアルじゃない人たちが成人になっていく。

そしてその子達の大多数は

オウム当事者たちと同じように 幼い大人

から 今のタイミング舞台モチーフとして取り上げる事で

どうして そんな集団が出来てしまって

どうして 暴走していく事になったのか。

現実から逃れて 安易に答えを求めて

目の前にぶら下げられる都合のよい作り話を

自ら考える事をせずに信じて盲目的に掴んだ幼い大人

これらをみて 感じて「考えて」欲しい。

こういうものは 「カチッ」とハマっていい代物ではないんだ。

という事を再認識して欲しいんじゃないかな。

「忘れるために祈るのよ。でもね、忘れきれないものが残るでしょう。

そのことを忘れないために私は祈るしかない」

忘れてもいいのだ と、それが時間だし 人間から

でも忘れてはいけない事が残るはず。

その事すら忘れる事がないように私は祈る。

このせりふが それを物語っているのかな。

からこそ 高校生1000円という席を設けたんだろう。

若い世代に見て欲しいんだよね。きっと。

今の時代の危うさ、恐ろしさを 野田さんも危惧している。

日本の良き倫理観も哲学思想希薄になってしまった現代

この物語は 間違って突き進んだ愚かな人々のストーリーだけど

決して 他人事ではない。

渦中に立った時に あっち側の人間になる可能性が誰にでもある。

私にも。

そして、その可能性の濃度が濃くなっている

今の危うさに気づいて何かを感じて考えて欲しい。

そんな野田さんの祈りにも似た想いなのかもしれない。

そう私なりに感じて考えて解釈した舞台でした。

いや しかし 重かったなぁ。

ホントはもう一回見たいけど、お金チケットもない。

いつもは戯曲とか買わないけど

新潮掲載されてるみたいなんで買ってみようかな。

そういえば、観客にエライかい声で独り言を言ってる人がいました。

あいう人は始めてだったな~。

2018-05-31

anond:20180531165434

落陽の賦(1954年処女作1961年に「落陽」と改題)

地唄1956年本来長編『断弦』の一部)

処女連祷 三笠書房 1957 のち集英社文庫

まつしろけのけ 文藝春秋社 1957

断弦 大日本雄弁会講談社 1957 のち文春文庫

花のいのち 小説林芙美子 中央公論社 1958

ずいひつ 新制社 1958

美っつい庵主さん 新潮社 1958 のち文庫

げいしゃわるつ・いたりあの 中央公論社 1959

江口の里 中央公論社 1959 のち文庫

紀ノ川 中央公論社 1959 のち文庫角川文庫新潮文庫

こぶとりじいさん 伊東万燿絵 講談社 1959 (講談社絵本)

私は忘れない 中央公論社 1960 のち新潮文庫

祈祷 講談社 1960

新女大学 中央公論社 1960

有吉佐和子筑摩書房 1961 (新鋭文学叢書)

三婆 新潮社 1961 のち文庫、「地唄三婆講談社文芸文庫

ほむら 講談社 1961

弟子 中央公論社 1961

更紗夫人 集英社 1962 のち文庫

閉店時間 講談社 1962

雛の日記 文藝春秋新社 1962

脚光 講談社 1962

香華 中央公論社 1962 のち新潮文庫

若草の歌 集英社 1963

連舞 集英社 1963 のち文庫

左衛門四代記 文藝春秋新社 1963 のち新潮文庫

有田講談社 1963 のち角川文庫

仮縫 集英社 1963 のち文庫

つるの恩返し 講談社 1964 (講談社マザー絵本)

非色 中央公論社 1964 のち角川文庫

ぷえるとりこ日記 文藝春秋新社 1964 のち角川文庫岩波文庫

女館 講談社 1965

一の糸 新潮社 1965 のち文庫

日高川 文藝春秋新社 1966

ライオンめがね 熊田千佳慕講談社 1966 (講談社絵本)

乱舞 集英社 1967 のち文庫

華岡青洲の妻 新潮社 1967 のち文庫

地唄 新潮文庫 1967

不信のとき 新潮社 1968 のち文庫

海暗 文藝春秋 1968 のち新潮文庫

新潮日本文学 有吉佐和子新潮社 1968

かみながひめ 秋野不矩ポプラ社 1969 (むかしむかし絵本)

女二人のニューギニア 朝日新聞社 1969 のち文庫

出雲の阿国 中央公論社 1969-72 のち文庫

ふるあめりかに袖はぬらさじ 中央公論社 1970 のち文庫

芝桜 新潮社 1970 のち文庫

夕陽ヵ丘三号館 新潮社 1971 のち文春文庫

針女 新潮社 1971 のち文庫

恍惚の人 新潮社 1972 のち文庫

日本文学 阿川弘之庄野潤三有吉佐和子 中央公論社 1973

孟姜女考 新潮社 1973

木瓜の花 新潮社 1973 のち文庫

真砂屋お峰 中央公論社 1974 のち文庫

母子変容 講談社 1974 のち文庫

複合汚染 新潮社 1975 のち文庫

鬼怒川 新潮社 1975 のち文庫

筑摩現代文学大系 芝木好子有吉佐和子筑摩書房 1976

青い壷 文藝春秋 1977 のち文庫

複合汚染その後 潮出版社 1977

和宮様御留 講談社 1978 のち文庫

悪女について 新潮社 1978 のち文庫

有吉佐和子中国レポート 新潮社 1979 のち文庫

日本の島々、昔と今 集英社 1981 のち文庫中公文庫岩波文庫

開幕ベルは華やかに 新潮社 1982 のち文庫

すごい・・

2018-05-08

anond:20180508203912

東スポとかじゃなくて新潮か。

そう書いても名誉棄損で訴えられたりしないように証拠ちゃんと持ってるんだろうね。

ジャニーズ辞めたら後ろ盾無くなって色々出てくるんじゃね?ってのが本当になってきたな。

キスだけだと本気で思っていたり、ハニトラとか言ってたおバカさん達はこれで目が覚めるのかね。

それともそれも全部嘘だと思い込みたがるのかね。

2018-04-21

セクハラ罪と罰バランスに疑問がある

【前提】

セクハラは悪い

セクハラをした元次官は悪い

【疑問】

次官の受けている罰は、女性記者が受けた被害と比べて過大なのではないかと思っている。

したことは当然悪いことだが、世界中実名で晒され叩かれ、家族が後ろ指さされたりというのは、働いた罪の大きさにバランスしてるのか疑問がある。

もっと言うと、女性記者テレ朝上司報道することを訴えた、というのはペン暴力じゃないかと思える。

会社を通じて内々に抗議してくれ、ではなく、記事にして報じたいというのは、報じ方によっては人死にが出てもおかしくない。

いや、もちろんセクハラを受けて女性記者人格自尊心が傷ついたのは分かる。だから相応の罰を受けるべきだと思う。この相応というのが難しい。

罰は、罪を働いた元次官、それを許し続けた財務省と、放置したテレ朝が受けるべきだ。

ところが実際のところ、元次官家族まで罪人の妻みたいな十字架を背負わされ、痛めつけられる。今回は元次官子供がいないようなので、そこだけはよかった。

家族には罪がないのに元次官家族だと後ろ指を指して石をぶつけるのは醜悪だ。

報道の仕方として、相手実名割れにつながるような情報を避けて、セクハラをなくすための啓蒙を図るよう報じることはできるわけで、週刊新潮のように実名あげて「売らんかな」でセンセーショナルに報じる必要はあったのか。

女性記者がここまで相手やその周辺を痛めつけるために報じることを望んでいたのか、それはわからないが、新潮に持って行ったことで、そういう意図が一つもなかったとは言えなくなったと思う。元次官や彼の家族がめちゃくちゃに叩かれるのを見越した上で、ペン暴力自覚的に振るったんじゃないか

逆にそんな意図がなかったというなら、こんな風になることを意図してなかったというなら、想像力がなさすぎる。

一番悪いのは当然元次官。でも、だからといって、国民の敵のように報じ、この人相手ならどこまで叩いてもいいんだみたいに扇動するやり方はおかしい。

公的機関匿名セクハラ通報を受け付けて、行為者の名前世間には出さずに解決できるような仕組みは作れないのかな。

2018-04-19

anond:20180419231344

さすがに本気で福田を信じてる奴はおらんやろ。

・数日前は「記者相手にそんなこと言ってない」だったのが、今日になって「全体を見ればセクハラでない」(=言ったこ自体否定しない)に変わっている。

・その上「全体はどういう流れだったのか、なぜセクハラでないのか」は一切説明しない。

キャバクラを臭わせるだけ臭わせるが、あの発言キャバクラのものとは明言はしない。

新潮だけならまだしも、さすがに複数社が息を合わせて捏造するとは考えにくい。

テレ朝は自社の恥になることなのに発表している。

anond:20180419190641

事務次官の手元に記録がないからね。

新潮側が無編集音源を公開すれば良い話。

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